──RIFF 10
ステージ袖に到着すると、すでに観客の沸き立つ声が聞こえてきた。
ニール達がそれぞれ自分達の楽器の最終確認をしていると、RIPのメンバーが「今日は宜しくお願いします」と軽く挨拶をして前に並んだ。パンクバンドなだけあって、その容姿はかなり尖っている。トミーが「イかしてるぜ」と声をかけると、嬉しそうな笑みを浮かべているのを見ると、可愛いところもあるようだ。
大きな時計が秒針を重たそうに押し上げ、ライブ開演を告げる。暗いステージの中スタンバイするRIPのメンバーが位置に着いたところで照明が一気にステージを照らした。
RIPの曲を大音量で聴きながら、ニールは一度客席を覗きクリスの隣へと並んだ。
「今夜も満員だな」
「うん、今夜のチケットは即完売で、手に入りづらかったってさっき聞いたよ」
「どうりで客が多いわけだ。ここまで熱気が伝わって来やがる。どうだクリス、少しは落ち着いたか?」
「ああ、うん。でもまたちょっと緊張してきたかも。さっきのとは意味が違うけど」
「それは緊張じゃねぇ、昂揚って言うんだろ。楽しもうぜ、相棒」
ニールに背中をパシッと叩かれてクリスは苦笑した。加減をしてくれているのはわかっているけれど、少し痛い。
RIPのメンバーが演奏し終えて袖に戻ってくるのはあっという間だった。
一度照明が落とされローディーが急いでニール達のステージの準備をする。「準備OKです!」と内線の放送が入りいよいよSADCRUEの出番だ。
「よし、行くか」
一言だけニールがそう言ってメンバーが続く。
暗転しているとしても、客席から目をこらせば人影は見えているはずだ。
メンバーがそれぞれの位置に着くと、それだけで歓声が沸き起こった。
繋がっているギターをまばらに軽く鳴らし、音を確認する。
数分後一気に音が止むと、マイクを通さないメンバー同士がふざけ合う笑い声が幾度か響いた。
いまかいまかとざわめく客席からの期待感。
いよいよ”RockShow”の始まりである。全員がトミーの方へ視線を向けた。
トミーは一度自慢のヒゲを触ると、スティックを高く掲げた。
リハーサル通りの合図だ。
刻まれるカウントが三つを数えた瞬間、ステージは眩い程の青いスポットライトで照らされ別時空へ瞬間移動したかのようだった。同時に巻き起こる大歓声は、先程の比ではない。
腹の底に響くスティーブンのベース音から入るイントロ部分、重なるニールとクリスのギターは力強いリフを刻む。手数の多さで圧倒的なスピードを引率するのはトミーの叩き出すドラムの音だ。
ムービングライトがメンバーを一人ずつ追った後ボーカルの位置で止まる。ブラスがマイクスタンドを握りながらステージ前のモニタースピーカーに片足を掛けた。
「SADCRUEのロックステージへようこそ。一曲目は、お前達の足下と頭の上にある物だ。俺なら迷わず天国を選ぶ。お前達はどうする?」
一曲目のタイトルに掛けた台詞に繋げ、息の続く限りの長いシャウトが始まる。徐々に音程を半音ずつあげ、ニールのギターがその場にいる全員を言葉通りの”天国”へ送る。
サビに向かう部分が転調を繰り返すテクニカルな一曲目は、客席をその一曲で虜にした。
出だしは完璧だった。
すでにテンションがマックスの前列にいるファンがメロイックサインを突き出し我先にと押し掛ける。ブラスは端から端までを歌いながら歩いて、客席を煽るようにマイクを向けた。
この感覚は、練習スタジオでは味わえない。目を焼くほどのスポットライト、アンプから聞こえる音が足下を揺らす気さえする。震えるほどの非現実感。
クリスのモニターはニールの音を強く返すようにリハーサル時に設定してあるので、ライブ中でも少し離れているニールのギター音が手に取るようにわかる。なめらかなフィンガリング、リズムを正確に捉えるためにオルタネイトピッキングを愛用するニールのギターは、寸分の迷いも挟まず空間を裂くようにうねる。
その音を時には追い、重ね、シンクロしていくクリスのギターの音。まるで一つの楽器になったように、その息はぴったりだった。
三曲目までを息つく間もなく走らせる。
演奏が終わると、ステージ前の床に設置されたコンカッションが派手な爆発音を響かせた。
「Thank you!」
歌い終わったブラスが、シャツを脱いで後ろへと放る。
まだ三曲しかやっていないのに、自分も含めメンバーは全員汗だくである。
クリスが袖で額の汗を拭いながら視線をステージへ戻した。緊張するとかしないとか、いつのまにかそういう事すら失念するほどに集中していて、もう感覚だけで指を動かしていた気さえする。
濡れた長い髪をかき上げ、ニールがアンプの近くにあったミネラルウォーターを手に取るのが見えた。
「今日は、SADCRUEのライブに来てくれてThank you! まだRockShowは始まったばかりだ、箱の温度、ガンガンあげていってくれよな。次の曲に行く前に……」
ブラスがMCでそう言ったあと、側に来たニールにマイクを渡した。MCは基本ブラスがするが、時々ニールも加わったりする。
マイクを受け取ったニールは、余裕の表情で持っていたペットボトルに口を付け、喉を鳴らしてごくごくと飲み干した。そのあとペットボトルで客席を指す。
「今夜は、やけに美人だらけじゃねぇか。どこのミスコンかと思ったぜ。ここがライブハウスだって事、うっかり忘れちまいそうだな」
やや乱れた息遣いを混ぜながらニールが笑ってそう言うと、観客の女性ファンから一斉に歓声が起こる。
前列の熱烈なファンに至っては、下着のような格好で「ニール、愛してる!」と叫びまくり、その度にニールは「I love you too」と返していた。
確かにライブ中のニールは酷くセクシーだ。クリスはそんな事を思いながらニールへ視線を向けていた。
「野郎達も負けてねぇで、今夜は熱くなってくれよ? 準備はいいか?」
ニールが客席にマイクを向けるとファンが「OK」と返す。
「何だ、聞こえねぇな。もっと腹から声出せ。もう一回行くぞ。――お前ら、準備はいいか?」
今度はもう絶叫に近い声が返ってきて、ニールは苦笑して肩を竦め「合格だ」と楽しそうに笑った。
「あー、今日は一つだけ報告がある。ボーカルのブラスが、今夜のライブでバンドを抜ける。このメンバーでのライブは今夜が最後だ。忘れられない夜にしてやるから、お前らブラスの声を耳に刻んでおけよ」
先程決まったばかりのことだ。勿論観客は初めて聞いたわけで、驚きの声が上がっていた。ブラスのファンの中には突然の発表に泣き出している子も何人か居た。
最前列の男から「マットはどうしたんだ?」という声がかかる。
ニールはニヤリとすると、マイクを持ったままクリスの方へ近づいた。
「マットか? アイツは今、宇宙までトゥィンキーを買いに行ってて暫く帰ってこれねぇんだ。今夜はマットの代わりに、ここに居るクリスが最高のギターを聴かせてくれる」
そんなにハードルを上げられても困るが、冗談で返す余裕はさすがにない。
クリスはニールを横目で見た後、曖昧な笑みを浮かべた。
ブラスへとマイクが戻され、ニールはアコースティックギターへと持ち替える。この後は、アンプラグドのバラードをやる事になっているからだ。
それぞれが続きの準備を済ませ、静かにニールのギターのイントロが流れる。
この曲では、ほとんど自分は参加する箇所はない。半分観客になったような感じで、クリスはニールのギターの音を聴いていた。
曲が終盤にさしかかり、何気なく客席を見渡したクリスが何かを見つけ目を瞠った。
――……どうしてここに……。
ライブハウスの入り口に立っていたのは、バンドから脱退したはずのマットだったのだ。
思わず驚きに息を呑む。
ステージ上に目を向けてみたが、今の所マットの存在に気付いているメンバーは一人も居ないようだ。もう一度客席を見てみると、もうそこにはマットの姿はなかった。
見間違えだろうか。しかし、直感で本人であると確信している自分がいる。
代わりにステージに立っている自分を冷やかしに? ……それとも……、最初から見に来る予定で皆知っているのか? しかし、マットが抜けた時の様子を聞く限り、応援でライブに駆けつけるような雰囲気では無かったはずだ。
だったら、どんな理由で……。
僅かな胸騒ぎを覚えつつも、クリスは頭を振った。今はライブに集中しなくてはいけない。強引に頭を切り替えつつ願う。ニールがマットに気付かないで居てくれることを。
バラードが終わり、セットリストが順番に進む。再びブラスのMCが挟まれる頃には、ライブは過去最高に盛り上がっていた。
* * *
残す曲は”Truth”のみ。
しかし、予定していた時間を現在若干おしていた。というのも、ニールの計らいで一曲曲を増やしたからだ。ラストライブとして、ブラスの作った曲を急遽演奏することになったのだ。
客席にいるクローディアを思って作ったというその曲は、SADCRUEの曲の中では一番静かな曲である。
これで最後なのだ。
ブラスもそう思ったのだろう。皆の前でその曲を最後に歌わせてくれたニールへ、客席にいる恋人へ、そして、生まれてくる新しい命へ。
サビの部分になりファンが一緒に歌を歌うと、ブラスは一度だけ感極まったように声を詰まらせた。
少し切なくて、だけど最後は前向きなその曲はブラスが今まで一緒に歩んできたバンドとの時間そのものだったのかもしれない。
曲が終わった後、ブラスは皆に頭を下げて心からの感謝を口にした。
「みんな有難う。それじゃ、……最後の曲。”Truth”」
ブラスが静かに告げると同時に、曲のイントロが始まる。ミドルテンポの曲調に合わせて、ブルーの光は明るさを控えて静けさを演出する。先日、ニールの歌を聴いた夜のような色だ。
クリスはイントロのリズムを正確に刻みながら、ニールの方へ一瞬だけ視線を向けた。この曲を聴くと、どうしても思いだしてしまう。
――真実は変えられないって意味だ。
その意味の半分も自分は理解できていないと思うけれど、歌詞を聴いているだけでニールの心が軋んで泣いているのではないかと胸が痛くなる。
”Truth”のサビの後に入るギターソロ部分は、ニールの真骨頂でもある身を切るほどに激しさのある、噎び泣くギターだ。誰もがニールのそのギターソロを聴きたくて、期待の眼差しを向けている。
しかし、サビに入る前、クリスは気付いた。
「……?」
モニターから聞こえてくるはずのニールのギターの音が聞こえないことに。
――……ニール?
身体中の血液が一気に足下に落ちていき、ニールが言っていた台詞が脳裏をよぎる。
――クリスは、ジンクスって信じるか?
――この曲をライブの最後にやる事で、これからもやっていけるって、そう思いたいんだ。……願掛けってやつだな。
クリスの指が弦の上で震えた。ブラスの歌はあと数秒でサビにさしかかる。
ピックを持つ方の手もじっとりとした汗が滲み何度も滑り落ちそうになった。
普段ジンクスなんか気にしたこともない自分が必死で神を探していることに気付いた瞬間、クリスはニールのいる場所へ足を向けていた。
トミー達もニールの異変に気付いていて、スティーブンがベースソロをいれ、うまくサビに入る前の部分を繋いでいる。
目の前の光景がコマ送りのようにぎこちなく途切れる感覚、唾を飲みこむ事も叶わないような強烈な不安感。
すぐそこにニールがいるのに、その指は音を奏でていない。それがどういう事を指しているのか。ニールは明らかに様子がおかしかった。
「ニール、どうしたの」
近づいて声をかけてもニールは反応しなかった。
だらりと垂れ下がった腕の先、ピックを挟んだままのニールの指先が揺れている。
ニールの視線の先を追うと、そこには先程見つけたマットと、見た事の無い男が並んでいた。
ニールが熱に浮かされたように「……アンディ」と一言呟く。マットの隣にいる男の名前なのだろうか。クリスは唇を噛んだ。
”Truth”は……、ニールの為にも、そして自分の為にも。この曲だけは絶対に最後まで演奏しなければいけない。”Truth”が途切れることの意味を知っているのだから。
クリスは一度目をギュッと閉じ、覚悟を決めてそっと目を開けた。
本番前に、ニールが言ってくれた。
何かあったら必ず助けると。それならば、自分も同じだと。
「ニール、俺を……。俺を信じてくれ」
クリスは素早くニールのギターからシールドを抜き取ると、自分のギターへと繋いだ。電源を入れたままの強引な行動を非難するように、アンプからは一度耳障りな音が鳴り響いた。もうニールのギターからの音がステージに聞こえることはない。
ニールを後ろへ押し込むと、クリスはピックを力強く挟み直して皆の方へ顔を向けて一度頷いた。
ブラスのサビが終わる。客席もニールに何かあったことに気付きだしている。
クリスはステージの前へ足を進め、ニールの姿を隠す位置で足を止めた。
ニールのギターソロは何度も聴いている。ずっと憧れ続けていたその音は身体に沁みこんでいるはずだ。
ギターソロに入る合図の音が耳に届くと、クリスの脳内には鮮明なバンドスコアが浮かび上がった。
クリスは深く息を吸うと、ストラトキャスターをハイポジションに構えた。
繋がれたニールのアンプから洪水のようなメロディが溢れ出す。クローズドリムショットでクリスのギターを支えているトミーが、驚いたように視線を向けていた。
ニールと遜色ない間の取り方、うねりは流麗で力強く、胸を抉るような切なさを持って音を紡ぎ上げていく。ざわめいていた客席もクリスのギターに魅せられ一気に静まりかえっていた。
ニールの魂が乗り移ったかのようなクリスの姿は、トミー達を圧倒し続けた。
――……ニール、きこえてる?
クリスは心の中でニールへと声をかけ続けた。自分がニールに出来る事がこれぐらいしかない事が、こんなにも悔しいなんて知らなかった。
クリスの咄嗟のアレンジのおかげで曲は無事に進み、”Truth”が終わる。
ニールの指先がゆっくりと開く。
縋る場所をなくしたピックは、ニールの指から離れ、音もなくステージに落下した。