俺だって、やれば出来るんだ。 
 子供の頃から、自分の行動を褒めて貰うために色々と頑張っていた気がする。周囲の子供がまだ作ることが出来なかった犬小屋を自分で作った時、周りの大人は「器用ね」とか「将来は立派な大工さんになれる」とか「リズの事本当に可愛がってるのね」とか、沢山の言葉を掛けてくれた。 
 リズっていうのは、飼っていた犬の名前だ。 
 
 大工になるつもりなんてなかったし、別に器用だとも思っていない。 
 ペンキ塗りの部分なんて酷いもんだったよ。まるでバケツをひっくり返しただけのような雑さだった。しかも、ペンキが足りなくて三分の一ほどは塗れていない状態だった。そう、完成した犬小屋の出来じゃない。”子供である自分が大人の手を借りずに作り上げた”その事が、周りには「凄い」ことだったんだ。 
 皆が褒めてくれたからそれだけで酷くいい気分だった。 
 単純だよ。俺なんて。そんな性格だから、友達もあまりいない。 
 そんな俺でも、ニールは特別なダチだった。 
 
 だから俺は、凄くショックだったんだ。 

 

 
 
 ニールとは、まだ童貞だった頃からの付き合いだ。今はこんな大人になっているけれど、俺だって天使の時期はあったんだよ。信じるか信じないかは任せるけれど。 
 で、なんだっけ。そう。俺がショックを受けた話。 
 ニールは俺の自慢のダチで、憧れてもいたんだ。ギターの腕前は勿論、周りに媚びないあいつが羨ましくて仕方なかった。 
 ニールはどんなに上手くギターを弾けても、歌がうまくても、常に自分はもっと練習して上を目指すような男だった。もし俺がニールぐらいギターが上手くて歌も歌えたら、誰かに自慢したくて学校の教室でアカペラで授業中に歌い出すぐらいのことはしたかもしれない。 
 そんな憧れていたニールと、うまくいかなくなったのは多分だけど俺が依存しすぎていたからだ。 
 
 
 話はだいぶ飛ぶけれど、デビュー目前にして起きたあの事故の頃の事を話す。あの事故は本当に最悪だった。 
 最悪なクソみたいな出来事を幾つも経験したきたけれど、その中でも一番最悪だと言っても良い。最悪だったのは、事故当日って言うより、その後だけど。 
 ニールは、あの事故が自分の所為だと自身を追い詰めていた。俺は何度もそうじゃないって言ったけど、ニールは聞く耳を持たなかったんだ。 
 
 日が経つにつれどんどん病んでいって、しまいにはアル中になった。 
 ニールならいつもみたいにクールに乗り切ってみせると思っていたから、坂道を転げ落ちるように人生のレールから脱落していくニールの姿が本当に凄くショックだった。 
 怖かったんだ。 
 
 ニールはもしかして覚えていないかも知れないけど、ある晩深夜にニールから電話が掛かってきた事があった。三時過ぎ頃、俺は当然眠っていて寝ぼけ半分で携帯を手繰り寄せた。 
 電話口で声を発するニールが聞いたことの無いような切羽詰まった声で話すもんだから。俺の眠気は一気に天井までぶっとんだ。 
 ニールが言うには、大きな犬(ニール曰くライオンほどらしい。ありえないだろ?)が目の前に何匹もいて今にも襲ってきそうだって言うんだ。酒の量だって世間が考えられる一定の量を超せば幻覚を見る程度のトリップは簡単だ。 
 ニールは相当酔っているらしかった。 
 俺は言ってやったんだ。「目を閉じて五秒したらきっと消えてる」って、ニールがそれを実行したかはわからないけれど、途中で電話は切れてしまい。次に会った時にニールは、深夜、俺に電話をした事すら覚えていないみたいだった。 
 こんな怖い話、そうそうないよ。 
 
 一切音楽を遮断して、ただ飲んだくれているニールに、なんとか昔に戻って欲しくて、しょっちゅう奴のアパートメントを訪ねてはバンドをまたやろうと誘った。 
 俺の欲しい物を全て持っているニールが、どんなに欲しくても手に入れられない才能を持っているニールが、その全てを捨てようとしている事に苛々したんだ。 
 同じ歳の同じ男だっていうのに、俺にとってニールは絶対的な存在として揺るぎなかったからだ。 
 捨てる物さえ持っていない俺は、じゃぁ、一体何のために生きているのかとか。ただの八つ当たりだ。そんな事を考えていた。だけどそれと同じぐらい、本当にもう一度ニールとバンドがやりたかったんだ。 
 
 でも、いくら説得しても、ニールが元に戻ることは無くて、俺はついに諦めた。 
 諦めたことは二つだ。 
 ニールと一緒にバンドをやること、と、ニールに期待すること、をだ。 
 
 知り合ってから初めて、ニールのいない日常を経験した。最初は別にどうってことはなかった。それは心の何処かで、きっとそのうち連絡をくれるって信じていたからかも知れない。 
 予想は見事にはずれ、ニールからの連絡がないまま、数ヶ月か経った。 
 愛想を尽かしたのは俺なのに「ニールに俺はもう要らない存在なんだ」と捨てられた気分になった。依存していたからこそだ。その時そう思った。 
 
 後からニールが話してくれたけど、その数ヶ月の間はニールなりにアル中から脱却しようともがいていた時期だったらしい。 
 だけど、それを知る前に、俺はニールと音楽への依存や自分の幼さから目を背けたいために、女との遊びににハマるようになっていた。 
 元々、セックスは大好きだった。している時は、気持ちいいし嫌な事も忘れられる。よく通っていたライブハウスでナンパをしては、その晩限りや数日だけの関係で女と付き合った。その頃、バンドをやっていなかったけれど、知り合った女には「バンドマン」だと嘘をついていた。 
 その方が、着いてくる女が多かったんだ。何だかかっこわるい話だけど。 
 
 ある晩、そんな軽い気持ちで知り合った女とセックスをしていて、妙な気分になった。まるで自分とセックスしているような感覚だ。 
 マスをかいているのとは違う。本当に俺が俺を抱いている感じ。 
 話していてその正体はすぐにわかった。 
 女の言う事、考え方、どうでもいいけど好きなジャムの味まで俺と一緒だったんだ。彼女はあっという間に俺に依存するようになり、俺も彼女に依存するようになった。傷の舐め合いみたいな、将来のない関係性だ。それでも、愛していると思っていた。 
 
 恋愛なんて、錯覚や同情から始まることもあるし、さほど不思議な事でも無い。彼女はヤク中だった。マリファナを吸っていた時期はあるけれど、コカインや、ましてヘロインなどに手を出したことは無かった。 
 だけど、彼女自身が麻薬みたいな物だったのかも知れない。一緒にクスリをやって、セックスをして、またクスリをやって。バイトが休みの日はほとんどをそうやって過ごした。何も考えず、その時だけ気分がいい方法を選択する。服さえ着ないので、俺も彼女も常に裸で部屋中を歩いていた。 
 
 そのうち、クスリが切れて何もする気が起きない日にバイトがあると、無断でさぼるようにもなり、バイト先はいくつもクビになった。その度にコレはまずいなってほんのちょっとは我に返ったけれど、薬代は彼女が払っていたし、バンドもやっていないので使う金もそんなに必要なかったから、暫くそんな毎日を続けていられたんだ。 
 
 そんな中、突然ニールから電話があった。 
 
 待ち合わせには彼女も連れて行って、ニールもこの快楽の世界に入ってくればいいと真剣に思っていた。 
 だって、最後に見たニールは、酒のせいで、もうすっかり廃人寸前だったからだ。こっちの世界に来て楽しませれば元気になって喜ぶかもと考えていたんだ。親切のつもりで。 
 
 事実、俺が付き合っている連中は皆幸せそうに見えていた。今思えばそれがもう幻覚だったわけだけど。 
 でも、俺の思っていた展開にはならなかった。待ち合わせに現れたニールはすっかり元のニールに戻っていたからだ。本当に驚いた。そして、ニールはクスリを受け取らなかった。 
 
 俺は、奇妙な安堵感を覚えた。 
 ニールが拒否した事への安堵と、やっぱり自分とは違うなという不思議な気持ちと、現実逃避している自分に、自らが蔑まれているような感覚と、あと急に不安感が押し寄せて心臓が破裂しそうになってパニック発作のようになった。 
 ほんの数分前までのハッピーな気分が急に落ち込み、制御できなくて、いい大人なのに大泣きした。 
 情緒不安定の最たる物で、これはクスリのせいだけじゃないってわかってる。 
 
 新しい彼女を依存先に変更できたつもりだったのに、根っこはまだニールへの依存の方が強いんだと思い知った。 
 これは友情でも恋愛感情でもなく、甘えと憧れと嫉妬と肉親に感じる愛情にも似た物と、そんな物がどろどろに溶け合った汚泥のような物だ。道路に吐き捨てられた、噛んだあとのガムと同じようなもの。はっきり言って自分でもどう説明していいかわからない。 
 
 あんなに楽しいと思っていた先程までの毎日が、途端にくだらない日々に思えた。 
 よく考えれば、なんにも幸せな事なんてなかったと気付く。 
 次々にクビになる仕事、ギターもずっと触ってない。音楽も特に聴いていないし、心から友人と呼べる友もいない。 
 彼女のことだって、最初ほど愛しいとも思わなくなって惰性で付き合っている。惨めすぎて首をつりたくなる惨状しかない。 
 
 俺は急にそれに気付いて焦った。何もかもがうまくいっていない毎日をニールに訴えながら、俺はニールに全力で縋った。ハイスクール時代、まだ今よりまともだった自分を知るニールなら戻してくれる、確信もないのに何故かそう信じていた。 
 だから、ニールがもう一度一緒にバンドをやろうと誘ってくれたときは、本当に嬉しかったんだ。 
 朝になったらクスリもやめて、まともに生きる。 
 心の底からそう考えていたし、本当にそうするつもりだった。 
 
 
 ニールと別れた次の日の朝、目を覚ますと、彼女と、もう一人知らない男が一緒に寝ていた。誰だよと眉を顰めた俺は名前を思い出そうとするが、名前を知らないらしい。どうりで思い出せないわけだ。 
 俺は歯も磨かず、獣のようにベッドから唸って這いずりだし、裸のままでクスリを使っていた。そうしなければいけないと思った。たった数時間でこんな状態になるなんて、意志の弱さに驚くが、そうしないと、あの時は死ぬと思ったんだ。 
 
 また数日後、ニールに会って彼女からクスリを貰っている事と、すぐにはクスリはやめられないと本心を話した。ニールは怒らなかったし、今できる一歩から始めればいいといって、一緒にこの悪夢の世界から抜け出す方法を真剣に考えてくれた。 
 まずは彼女と別れた。これはそんなに辛い事では無かった。愛していると思っていたのは最初だけで、そうじゃなかったみたいだ。すでに彼女は、俺と出会った当時と同じようにまた別の男を誘ってはクスリを与えて快楽を楽しんでいたし、その男と寝るようになってから、香水を変えた。 
 俺は昔から鼻がききすぎるところがあって、嫌いな匂いは嗅ぐだけで吐き気がする。彼女の変えた香水は妙に甘ったるくて、それを嗅ぐ度に部屋がグルグルと回って見えたし、食事が不味くなった。 
 
 彼女と別れれば当然クスリはなくなる。 
 
 ニールは、残っている分は、どうしても辛い時だけ使うようにして、なくなったらそれでもうクスリをやめるようにと言ってきた。俺はその通りだと思ったから素直に同意した。 
 残されたクスリは、いざという時だけ使うとしても一ヶ月かそこらでなくなってしまう量だった。 
 彼女と別れてからすぐに、バンドメンバーの募集に二人でむかい、バンド活動を再開した。だけど、やっぱりうまくいかなかったんだ。 
 気があわない奴もいたし、俺がクスリをやっている事に気付いて逃げていく奴らもいた。音楽性の違いからやりたい曲で言い争うこともあった。だけど、主な原因はそんな表面上の問題だけでなく、俺自身の中にあった。 
 
 クスリを抜くのは、禁煙とは訳が違う。 
 バンド練習時にぶったおれたり、一言も口をきかない日や、妙に喋りまくる日があったり。スタジオでギターを弾きながらゲロを吐いたこともあった。 
 そりゃ、うまくいかないはずだよなと俺自身思っていた。最初からどこかで諦めていたんだ。 
 辛抱強く何個もバンドを渡り歩き、見捨てずに付き合ってくれているニールが、徐々に疲弊してきているのも見ていてわかった。 
 クスリをやると、人間じゃ無くなる。見た目は人間だけど、中身はもう人間じゃない。だから人間じゃないナニカと共に過ごす事は本当に難しいのだ。 
 
 
 ついに、だましだまし使っていた残りのクスリが底をつき、禁断症状が日に日に酷くなった俺は、ベッドから起き上がることも出来ないぐらい毎日具合が悪かった。 
 疲れ切っているのにまる二日間興奮して眠れず、目は充血してさながらゾンビのような時もあった。 
 かと思えば仮死状態のように延々と眠ったり、起き上がるのは用を足すときとゲロを吐くときだけ。食事も勿論喉を通らない。風呂にも入っていないので自分の身体が汗臭くてその匂いで吐いたりと、今思い返せば、笑えるぐらいの地獄のような状態だった。 
 
 ニールが様子を見にくる回数は、少しずつ減っていき、五日に一度生存確認に来る程度。 
 そんなある日、ニールに無理矢理シャワールームに放り込まれ、一週間ぶりに身体を洗った。シャワーから出た時、久々に動いたから目が回って、思いっきり横転し頭をぶつけた。 
 グラグラとした頭を手で押さえて話を聞いていた俺に、ニールが言った。 
「このままじゃ、俺たちはもう終わっちまう。街を出てLAに行こう」と。 
 
 LAは憧れていたロックの聖地でもあり、昔からずっと行ってみたいと思っていた。何かを変化させなければいけないと感じていたし、俺は二つ返事でその提案を歓迎した。 
 少しずつ普通の食事も摂れるようになり、日中ベッドに居る時間が減り、かろうじて普通の生活が出来るまでになっていた俺は、動ける日に荷物を纏めLAへ移住する準備を整えた。 
 
 
 
 LAに来てから、まずは職を探し、俺は冷蔵庫の部品を作る工場のバイトを見つけてそこで働く事になった。同じ形の部品が延々と流れてきて、それを組み合わせて次の工程へ流す単純作業だ。まるで刑務作業でもしている気分だったが、案外こういう仕事もいいなと思っていた。 
 何故なら、すぐ隣に人がいても話さずに済むからだ。シフトで入っている時間中、部品を検閲し組み合わせる。1000個に一個ぐらい、形がおかしなまま流れてくる部品があって、それを見つけて弾くのも仕事だが、俺は一度しか発見できたことは無かった。 
 
 そんな仕事をしながら、ニールがバイトしているライブハウスで知り合ったトミーというドラマーとバンドを組むことになった。 
 トミーは凄くいい奴でドラミングのテクニックは過去に組んでいたどのバンドのドラマーと比べても秀でていた。ニールとも気があうようだったし、話しやすくて俺もすぐに違和感なく話せるようになった。 
 
 工場での仕事と三人でスタジオに入りながらのメンバー募集。すぐにベースとボーカルのスティーブンとブラスが加入し。バンドはSADCRUEという名前を付けて軌道に乗っていった。 
 俺は相変わらず女遊びはしていたけど、それに関してはメンバーは特に何も言わず、練習にも真面目に参加していた。何度かライブも経験し、そこそこ名の知れたバンドになった。 
 
 まるで生き返ったみたいだ。 
 
 俺はそう感じていた。暫くはその幸せな時間を堪能していた。ニールは巷でカリスマギタリストと呼ばれるぐらい一目置かれていた。俺は今度こそ「バンドマンだ」と堂々と言えるようになり、SADCRUEの名前を知っている女達からちやほやされて有頂天になっていた。 
 クスリをやるのは、人生に行き詰まって現実から逃げたくてやる場合と、もう一つ。人生が楽しくて満たされている時にやる場合がある。 
 所謂セックスドラッグなどが後者にあてはまる。 
 女をとっかえひっかえして性欲を満たしながら、もっと気持ちよくなりたくて、俺は軽い気持ちで二度もヘブンスに手を出した。一度目にメンバーにばれた時には二度とやらないと誓い、本当にすぐにやめられた。だけど二度目はそうはいかなかった。 
 
 俺の住んでいるアパートメントの周辺は物騒な場所で、売人なんて探さなくてもゴロゴロいた。誘惑はそこら中にあったって事だ。 
 真っ赤な鉄のドアの下の方にある傷、ドアの色は違っても、独特の形をしたその傷があるドアは売人達のアジトの印だった。 
 俺はまた、週に一度ほど、そのドアを潜るようになった。 
 
 違法薬物ではないし、時々使うぐらいなら高校生のガキだってやっているような程度のドラッグだから、またやめようと思えばすぐにやめられると俺は考えていた。 
 本当に軽い気持ちだったんだ。 
 嘘なんかじゃない。 
 何も学んでいない馬鹿丸出しの俺が再び中毒になるのは人間が息をするのと同じぐらい自然な事だったのに、自分では気付かなかった。 
 
 砕いたヘブンスを鼻から一気に吸い込みセックスをする。ヘブンスは持続性に難があって数時間できれてしまうが、使用した瞬間の上がり方は凄かった。 
 何度イってもペニスは萎えなかったし何人もの女とやりまくって悦ばせることが出来る。 
 そのうち鼻から吸うだけでは刺激が足りず、御法度とされている注射器での整脈注射に移行した。 
 体内の血管に焼けるようなそれでいて氷のような鋭い冷たさが注入されると数秒で世界が変わる。 
 サイケデリックな絵画の中に放り込まれたように原色の眩い光があちこちで輝いていて、天国みたいだった。感覚は研ぎ澄まされ、ちょっとした刺激でも快感が起こり、変な話、ティッシュを食べてもとびっきりジューシーなハンバーガーを頬張っているような味がした。 
 
 それでも、バンドの練習はちゃんと参加していたし、バイトもクビにならず続けていられた。 
 しかし、それも時間の問題だった。 
 コットンフィーバーを起こしている注射の痕は赤く膨れあがり、それを隠すために暑い日も長袖を着た。バンドの練習だけはちゃんと行かないとと頭ではわかっているのに時間になっても寝過ごしてしまったり。サボる回数が増えていく。 
 
 ニールはまだクスリの所為だと知らなくて(いや、もしかしたらうっすら気付いていたのかも知れないけど、俺にはわからない)とにかく。女遊びと怠惰な生活のせいで練習をサボっていると思っていたようだ。 
 俺は、かなりしつこく説教をされる日が増えた。 
 ライブ当日に開演前に迎えにきたニールがまだ寝ていた俺を殴ったこともある。 
 俺はだんだん説教されることに嫌気が差していた。ヘブンスは犯罪じゃないし、ニールへの依存もこの頃は薄れていて、どうして俺がお前に説教されなくてはいけないのかと不満を持つようになっていた。 
 
 そんなこんなで何度も口喧嘩になり、ニールとはあまり口をきかなくなった。バンドのメンバーも呆れているようで、あまり関わってこなくなる。 
 俺はバンド内で孤立していった。それでもバンドをクビにならなかったのは、ニールがメンバーに俺の代わりに謝っていたからだ。こんな情けない男は中々いない。自分でもそう思う。 
 
 だけどある日、フと気付いたんだ。 
 
 その日の朝は気分が良くて、朝からベーコンエッグを作っていた。包丁は面倒なので手で千切ったベーコンを熱々のフライパンにいれる。ジュッと肉の焼けるいい匂いがして食欲をそそった。 
 窓を開け、空気を入れ換え、部屋の掃除もした。自分で作った朝食を食べ終えた後ギターの手入れをした。その時に、俺は気付いたんだ。 
 バンドの練習で使っていたギターの弦が一本切れていることに。 
 
 俺は暫く呆然としてそのギターを見つめていた。 
 
 いつ弦を張り替えたか覚えてもいない。しかも弦が切れているのに気付かないまま自宅で練習したりしていたのだ。ずっとだ。ぶらんと垂れ下がった弦がそこにあるのに。なんてことだ……。 
 これじゃ、前と一緒だ。そう思った。 
 普通にバイトにも行って、時々サボっていたけどバンド練習に参加して、ちゃんと生活していると疑っていなかった。ヘブンスに依存なんかしていないとその日までは思っていた。 
 
 ところがどうだ? 
 
 弦が切れていることに気づきもしないまま練習をしている事が、もう異常じゃないか。俺は、焦って他のギターを全てチェックした。なんと、所持している六本のギター中四本も弦が切れたままだった。 
 俺は頭を抱えて蹲った。声にならない声を上げて一人で呻いた。 
 そういえば、ニールに弦を張り直せと言われた気もしてくるが、それがいつだったかも思い出せない。 
 ニールや他のメンバーが愛想を尽かすのも当然の結果だった。そう理解すると急に怖くなったんだ。 
 
 このままだとバンドに必要の無い存在だと切り捨てられるのではと。ニールと一緒にLAへ来て、好きな音楽をやり、工場の仕事も満更嫌いでもなく、贅沢をしなければ充分楽しい日々を送れる。それはバンドが根底にあったからだ。バンドを抜けたらそこにはなにもない。 
 
 俺は、まだ間に合うと思った。 
 
 前の自分とは違う。自ら気付いて、自分の意思でクスリをやめようと思ったのだから。 
 腕をまくり、醜く腫れた痕に俺は爪を立てた。この傷が消えて無くなるには相当な時間が掛かると思う。だけど、その頃にはちゃんとまともな人間に戻って、メンバー全員をびっくりさせてやる。心にそう決めた。 
 俺はあの頃と変わっていない。ガキの頃、”褒めて貰うための下手くそな犬小屋”を作った時のように。 
 
 それから数日、俺は自分でも感心するほどにきっぱりとクスリを断っていた。注射器をはじめ吸引器具も全て捨てたし、残っている未開封のヘブンスは手を出さないまま、わざといつも見える場所へと置いた。何故それを処分しなかったかというと。 
 クスリがないからやらない。のではなく、クスリがすぐそこにあってもやらない。という事が重要だったからだ。俺が自分で与えた試練のような物だった。 
 まだ連絡はしていないが、ドラッグ中毒から抜け出すために一度カウンセリングを受ける事も考えていた。 
 
 だけど日々は相変わらずだった。急に仲間を突き放すこともできず、ドラッグパーティーがいつも通り自宅で行われていた。LAに来てヘブンスを買うようになってからつるむようになった連中だ。男も女も数人いて、この面子でキめセックスをするのが日課だった。 
 悪い奴らじゃない。ついこの前までの自分と同じで、今の自分の立っている足下が砕けていることに気付いていないだけだ。「今夜はやらないの?」とヘブンスをキめた視点のあっていない目でペニスを握ってくる彼女達になんとか理由を見繕ってごまかす。ヘブンスのない乱交は、驚く程苦痛だった。 
 
 セックスをやりすぎて疲れ果て眠ってしまっていると、誰かに乱暴に蹴られて目が覚めた。 
 誰だよ、痛ぇなと視線を向けると、明らかに怒っているニールが立っていた。一瞬夢を見ているのかと思ったが、すぐにそうじゃないと気付く。部屋の時計を確認するとバンドの練習時間を過ぎている。今日はバン練の日だったのかとぼんやり思い出していた。これじゃ、クスリをやっていなくても同じだ。 
 
 すぐに用意しろというニールに急かされ、支度も途中のままギターだけを持って外で待っているニールを追いかけた。 
 色々言い訳をしてみたけれど取り合ってもらえず、ニールはほとんど口を開かなかった。 
 そのでっかくて不機嫌な背中が視界に入ると頭痛が酷くなる。クスリをやめたと胸を張って言えるほど日数が経っていない。たった数日だ。 
 歩いていたら、予兆もなく急激に脱力感が襲い、気分が悪くなってくる。軽い禁断症状だった。 
 スタジオの階段を下りて、全く歓迎されていないスタジオに入る。 
 すぐに再開された練習にはついていくのがやっとで、もつれた指が何度も同じフレーズを弾き損じた。気分の悪さを自分で茶化すように口を開くと、ぶち切れたトミーが俺の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけてきた。 
 あの温厚なトミーが、そんな行動に出るほど俺の様子はイカれていたのだろう。 
 
 本当は今辛くて、もう少し時間が欲しい。 
 ちゃんと今後は頑張るからと説明したかったが、それにはまたクスリをやっていた事実を話さなければいけない。あんなに必死でクスリから足を洗わせてくれたニールにも、こんな俺を二度も信じて一緒にバンドを組んでくれているトミーにも、そんな事を言えるわけが無かった。 
 うまくいかない練習のせいでメンバーが出て行き、スタジオには俺とニールだけになった。気まずい空気の原因は俺で、もうどうしようもない。 
 ニールが近づいてきて強い力で壁に押さえつけられ、袖をまくられた。終わりだ……。俺はその時、覚悟を決めた。ニールにばれた。 
 
 ニールは呆れを通り越して、もう失望したとでも言うように二三言葉を話し、その後、信じられない言葉を告げてきた。 
 確かに売り言葉に買い言葉で反論はした。だけど、初めてだった。 
 ニールに「お前はもう要らない」と言われたのは。 
 俺はもうその場で死にたいほどの衝撃を受けていた。 
 クスリは数日前から本当にやめていると何度も言おうと思ったけど、この状況でそれを信じる人間はいない。禁断症状で震える手を抑えつけているような男、俺だって信じないと思う。だから俺は言わなかったんだ。 
 ちゃんと胸を張ってクスリをやめたと言い切れる日まで、言わないって決めた。自分に腹が立って、俺は捨て台詞を残してスタジオを飛び出た。 
 
 それからも、俺は変わらない日々を過ごしていた。ドラッグ仲間とのパーティーもそろそろ限界だった。クスリを断っている俺の前で楽しそうにキめられると、うっかりまた手を出しそうになる。なんとか我慢しているが、こんな日が続けばいつか精神が二つに裂けてもおかしくない。 
 毎日続く酷い頭痛をタイレノールで騙しながら、俺は工場のバイトだけは休まずに続けた。 
 俺はバイトを一つ増やした。とにかく今は何かをして気を紛らわせていないといけないと焦っていたからだ。 
 
 
 そんなある日、街で偶然アンディに会った。 
 昔組んでいたバンドの仲間で、あの事故以来会っていなかった男だ。車椅子だったアンディに色々な想いが込み上げてきて、柄にもなく少し話せないかとアンディを誘った。 
 近くのカフェに入り、今のアンディの状況やどうしてLAにいるのかなど様々な話をした。アンディはギターの講師をしていると誇らしげに言って、その満足そうな笑顔をみれば幸せな人生を謳歌している最中だと俺にもわかった。 
 
 もしかしたら、俺はあの時ただ誰かに話を聞いて欲しかっただけなのかも知れない。懐かしさのせいもあって、俺はクスリのことを話した。 
 ニールにはまだ言えていない、未来の話を含めてだ。 
 アンディはクスリに手を出したという事には悲しそうな表情を見せたが、それを断って、今度カウンセリングも受けようと思っていると話すと嬉しそうに励ましてくれた。マット、お前なら必ず大丈夫だ、と言ってくれた。 
 俺はすごく救われた気がして、久し振りに落ち着いた気分になった。 
 
 最後に、近々ある自分達の……。といっても今はクビになっているからニール達のと言えば良いのかな。 
 とにかくSADCRUEのライブにアンディを誘ったんだ。 
 何故かというと、アンディとニールは事故の後、和解していないと知ったからだ。互いにもう連絡先が変わっており、探す手段も無かったらしい。アンディは何度も繰り返すようにニールのせいじゃないと、あの事故は運が悪かっただけと話していた。 
 あの事故のことをニールと話すことは一切無いけれど、ニールが今でもその件を引きずっている事は薄々感じていた。だから、俺は、いいきっかけになればいいと思ったんだ。 
 
 余計な口出しをする気はないけど、迷惑ばかり掛けている俺がニールの為になにかできることが、あの時は嬉しかった。スタジオで喧嘩になった時はクソバンドだなんて言ったけれど、SADCRUEは最高のバンドだ。クビになった今だからこそわかったのかもしれない。 
 
 
 ライブ当日は、アンディと一緒に客席からニール達の音楽を聴いた。昔ニールと二人でよく観ていたロックスターのライブビデオ、まさにそんなステージだ。途中まで観た後、クビになった俺がいると気まずいと思い、アンディを残して先に帰宅した。 
 理由はちゃんとある。 
 アンディには言ってあるけれど、今夜は自宅でパーティーなんだ。 
 
 今夜のパーティーで皆に『俺はこれを最後に、もう抜ける』って話す予定だ。 
 もしかしたら、皆に罵られるかも知れないけど、それでももう終わりにすると決めた。帰路につく俺の足取りは軽やかだった。 
 明日の朝、未開封のヘブンスを処分して、それで全て終わる。ちゃんとまともな生活が出来るようになったら、まずは弦を買い直してギターの練習をしようと思う。そして、メンバーに謝って、もう一度バンドに入れて貰う。ちゃんとした彼女を作って、一緒に暮らすのもいい。 
 
 そういえば、俺とニールは友人だけど、ニールが俺の事を親友だと言ってくれたことは一度も無い。まっとうな人間に戻れたら「親友」って言えよって、一度ぐらいは言ってみたい気もする。 
 
 そろそろ、自宅に着きそうだ。 
 最後のパーティーが始まる。 
 
 
 
 
 
END 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後書き 
WILDLUCK本編に登場したマットの独白系式の短編でBLではありません。彼が経験してきた孤独と、ニールとの関係性をえがいています。 
本編と全てリンクしていますので、本編を未読だと意味が分からないと思います。 
本編最後のライブでニールが言う「親友」という言葉。 
きっとマットに届いたでしょう。