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 朝の気温はそう高くないが、日が昇るにつれて気温は上昇する。 
 しかし、日本と違い湿度が低いので空調を効かせなくても十分過ごす事が可能だ。澪はリビングの出窓を大きく開けて、玄関先のポーチを眺めた。 
 今日も良い天気だ。 
 深く息を吸い込めば、鼻先を夏の匂いが通り過ぎる。 
 短く刈り揃えられた青々とした芝生の端、どこからか飛んできた種が成長して小さな花を咲かせていた。一輪、少し離れてまた一輪、一つ一つはとても小さいけれど何カ所か咲いているだけで華やかさが増す。 
 綺麗に芝生が刈られているのは、椎堂や自分が手入れをしているわけではない。所謂社宅のような物なので管理人がやってくれるのだ。 
 
 澪はポーチから目を外し、大きく開けすぎた窓を半分閉めようと手を掛けた。その瞬間、強い風が入り込んでカーテンが翻る。 
――……あっ 
 椎堂を起こしてしまったかと慌てて振り向いたが、椎堂はまだ夢の中のようだ。 
 ダイニングの机に伏してうたた寝をしている椎堂の前髪が、風によってふわりと形を変えるのを穏やかな気分で見守る。 
 
 そろそろ昼飯の時間である。 
 今日の当番は自分なので、先程まで調理をしていたのだ。メニューはチキンスープに麺を入れたフォーのような物。 
 スープは大量に作って冷凍してあったので鍋に入れて解凍しただけだが、具になる胸肉をゆでて裂いたり、ほうれん草やゆで卵などのトッピングを用意したりと結果的にはそれなりに時間がかかってしまった。 
 もっと手際が良ければ時間を短縮できるのかも知れないが……。 
 十二時はとっくに過ぎており、もう一時近い。 
 
 澪は調理した時のエプロン姿のまま、椎堂の向かい側にそっと腰を下ろした。 
 本当はそろそろ起こした方がいいのだが、気持ちよさそうに眠っている椎堂の寝顔をもう少し見ていたい。それともうひとつ。ここ数日の椎堂の睡眠時間が少ないことも少し心配なのだ。 
 
 来週末、院内のレクリエーションで小児病棟の子供達を招待するちょっとしたパーティーが行われる。医師も看護師も、澪達ボランティアも全員参加である。 
 椎堂はそのパーティーをとても楽しみにしていて、日本式の紙芝居を作って見せることが決まっていた。 
 
 出し物を何にするか相談された際、よく歌を歌っているので「何曲か歌を披露したらいいんじゃない?」と提案してみたが、その答えは澪の予想に反して意外な物だった。 
――うーん。それはちょっと難しいかな……。 
 さすがの椎堂でも皆の前で自作の歌を披露するのはハードルが高いのかと納得しかけたが、理由はそうではなかった。 
 椎堂いわく、自分の作った歌は恋の歌が多いから大人向けなのだそうだ。「そう、なのか?」としか返せなかった。 
 君が大好き、一緒に居ると楽しいね。 
 いつも歌っているのはそんな内容の歌詞だったはずだ。嫉妬や重い愛をテーマにしたり、ましてや失恋の歌でもない。 
 今の子供達には十分通じると思ったが、本人が大人向けの歌だと言うからには何か深い意味があるのかもしれない。……と思っておくことにした。 
 
 最終的に紙芝居を見せることに決まったのは良いが、話を作って絵を描いてと、それなりにスキルが要求されるので、椎堂は睡眠を削っての制作に励んでいる。どんな些細な事でも全力で取り組む椎堂にとって、紙芝居とて例外ではない。 
 
 眠っている椎堂の横には、完成した数枚の画用紙が置かれていた。澪は手を伸ばしてそれを取ると、順番に並べて紙芝居に視線を落とした。 
 
 
 主人公はおでこに大きな痣があるキャラクターのようだ。 
 見た目は猫っぽいが二足歩行で服も着ている。変わった場所にある痣のせいで仲間にからかわれるので、主人公はいつも大きな樹の中にある薄暗い家に閉じこもっていた。 
 そんなある日、大きな嵐が来て樹が倒され、住む場所をなくした主人公は仕方なくあてもない旅に出ることになる。逃げるように旅立った最初は終始暗い表情で旅をしていた主人公。 
 しかし、旅を続けていくうちに親切な人間に優しくしてもらったり、初めて訪れた街で見た事の無い綺麗な景色を見たり、主人公は次第に明るく元気になっていく。 
 暫くして出会った種族の違う気のあう友人もでき、旅は一人旅から二人旅になった。 
 旅をして何年か経ち、すっかり大人になった主人公がある日自分が育った街が恋しくなりそこを目指すことになる。痣はそのままだが、成長した主人公はそれを隠すこともなく、堂々とした佇まいは最初と大きく印象が異なっていた。 
 
 
 紙芝居はそこで終わっている。 
 明るい色調で丁寧に色が塗られていて、それだけで子供達の目を引きそうだ。椎堂の絵は、特別上手というわけではないが、温かく優しい感じがして、描いた本人の人柄が滲み出ている。 
 多分、主人公は幸せなラストを迎えるのだろう。 
 
 紙芝居を元に戻し、隣にあったクレヨンやマジック、描きかけの続きが汚れないように軽く片付けて隅に寄せる。 
 澪はもう一度寝顔を見て椎堂の頬を軽くつついた。 
 
「誠二」 
 小声で名を呼ぶと、椎堂が「うぅ……ん」と逆方向を向く。 
「そろそろ飯食わないと。昼から買い物行くんだろ?」 
 
 漸く椎堂は夢の世界から戻ってきたようだ。一度目を擦ると、なんで澪が居るの!? とでも言わんばかりに目を丸くした。そしてすぐに状況に気づき、「あれ!? 僕、寝ちゃってたんだ……」と恥ずかしそうに頬を掻いた。 
 
「メシ、用意出来てるから」 
「あ、うん。有難う、澪」 
「寝起きだけど、すぐ食えるの?」 
「全然平気だよ。寧ろ目が覚めたら、今すごーくお腹空いてる」 
「寝てたのに?」 
「夢の中で冒険してたんだよ。動き回ってたからね」 
「ならいいけど。じゃぁ、用意する」 
 
 澪は苦笑しながらキッチンに戻って先程のスープにすぐ茹であがる麺をいれて沸騰させた。 
 
「ねぇ、澪。あのね」 
「なに?」 
 
 椎堂が眠っている間は部屋が静まりかえっていたが、目覚めた途端椎堂が色々な事を口にするので一気に賑やかになる。 
 今見ていた夢の話を聞かされた後、今度は鼻をクンクンさせて、作っているメニューを当てようとしてくる。いくつかの料理名を言う椎堂に、キッチンから「ハズレ」と返事をする。 
 三回ほど間違ったあと、椎堂は正解した。かなり早く当てられたと本人は満足げだ。楽しそうで何よりである。 
 
「今日もいい天気だよね。にしても雨、驚く程降らないね。この時期は滅多に降らないとは聞いてたけど……」 
「ああ、多分一ヶ月ぐらいまとまった雨降ってないんじゃない。でも、雨だと色々大変だって言ってただろ。嬉しいんじゃないの?」 
「うーん。そうなんだけど……。ここまで極端だと流石に雨が恋しくなってきちゃうよ」 
「ないものねだり」 
「そうだね」 
 
 椎堂がスプーンと箸を揃えて食卓に並べた所に、綺麗に盛り付けたスープボウルが澪によって置かれる。 
 熱々のヌードルからは美味しそうな食欲をそそる匂いと湯気が立ち上っていた。 
 
「わぁ、美味しそう! ゆで卵ものってるとか、今日のは澪スペシャルだね!? すごい豪華」 
「俺が食いたかったから、卵のせた」 
 
 手早く食前の薬を口に放り込んで用意したコップで飲み下し、手を合わせる。 
 
「いただきます」 
「うん! いただきます」 
 
 熱いから気をつけろと注意しようとしたら、椎堂はすでに口に入れており、あまりの熱さに涙目になっていた。その様子がおかしくて、吹き出すのを我慢するのに苦労する。 
 
「自分が猫舌なの、普通覚えておくだろ」 
 
 氷水の入ったコップを渡すと、椎堂は一気にそれを飲んでようやく落ち着いたようだ。 
 
「忘れてたわけじゃないよ」 
「でも、結構な確率で口の中火傷してるよな」 
「だって、出来たてを味わいたいんだ。熱いものは熱々で、冷たいものは冷え冷えで、その方が美味しいよね」 
「まぁ、わかるけど。でもそれで火傷するぐらいなら、少し冷ました方がいいだろ」 
「う、うん…………確かに」 
 
 苦笑する澪をみて、椎堂も笑う。 
 椎堂が一度掬い上げた麺を今度は火傷しないようにふぅーっと息を吹きかけて冷ましていると、澪が思い出したように顔を上げた。 
 
「あ、そういえば。さっきそこの紙芝居読んだ」 
「え? そうなんだ? 見てくれたんだね。どうかな?」 
「うん、いいと思う。面白かった。で、あれ最後結末はどうなるわけ?」 
「ポピーくんが生まれ故郷に辿り着いた後?」 
「そう」 
 
 あの主人公、一度も名前は出てきていなかったがポピーくんというらしい。 
 椎堂は何故か悪戯な笑みをうかべ「内緒」と小さく呟いた。 
 
「でも安心して良いよ。故郷に辿りついたら焼け野原だった。とかそういう悲しい展開にはならないからね!」 
「そりゃそうだろ。子供向けなんだし」 
「うん、だからね。すごく幸せで、みんなが楽しい気持ちになるラストなんだ。当日までのお楽しみ! 澪も絶対僕が紙芝居するとき見ててね」 
「わかった。椎堂先生渾身の作品、楽しみにしとく」 
 澪がそう言うと、椎堂は照れたように「へへ」と笑った。 
 
 椎堂の言うとっても幸せなラストも気になるが、今目の前でその事を楽しそうに話す椎堂の笑顔が幸せそうで……。 
 結末を見なくても、澪は今この瞬間、もう既に満たされた気持ちになっていた。 
 登場人物みんなが笑顔で幸せを迎える話。 
 健康に不安のある子供達が少しでも元気になってくれるように……、そう願いを込めた椎堂が書くのだから、きっと伝わるはずだ。かつての澪自身に届いたように。 
 
 
 淡い色の椎堂の髪が時々カーテンが揺れて射し込む光に照らされる。 
 椎堂が澪を見て、嬉しそうに微笑む。それをみて、澪も頬を緩めた。 
 柔らかな夏の午後。 
 何も特別な事は無いけれど、椎堂と共に過ごす一分一秒が愛しい。 
 
「今日はどこ買い物行こっか」 
「どこでもいいけど」 
「じゃぁ、澪の好きなパン屋さんが入ってるマーケットにしよう!」 
 
 椎堂が立ち上がって窓の方へ目を向ける。 
 「眩しい」といって大袈裟に目を細める椎堂をみつめて、澪は優しい笑みを浮かべた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
END 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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