LB-1025 
 飛行機のチケットに記載されている座席番号を見ながら椎堂達は席を見つけて通路を歩いていた。窓際から二つの席をとってあるが、列は三人席なので隣に誰かが先に来ている事も考えられる。先に進む椎堂が小さな声で「あそこじゃないかな?」と澪へと振り向く。 
 
 一番後ろの席は残りの一席にも乗客は来ていないようで一列空いている。最後の方に入ってきたので、他の乗客は着席しているか、荷物を棚へ上げるために立っているかで、それぞれが座席に到着しているようだ。 
 狭い通路を人を避けるようにして進み一番後ろの座席まで行く。 
 
 大きな荷物は先に現地へと送っているし、スーツケースは空港の荷物チェックで預けているので、今持っているのは本当に必要な物が入っている小さな鞄のみだった。先に到着した椎堂が通路側にある棚をあけて荷物を乗せようと少しだけ踵を浮かす。特に気にせず横向きのままの鞄を上に上げた瞬間、ちゃんと閉めていなかった鞄の中身がずれて飛び出してきた。パスポートが足下へばさりと落下したが、拾う事も出来ず、椎堂は慌てて他の物が落ちてこないように鞄の蓋を閉じようと腕を伸ばす。しかし、今度は後ろのポケットから筆記具がまたしても落下しようとしていた。 
 
――あっ、落ちる! 
 
 そう思った瞬間後ろから伸びてきた長い腕がそれらが落下するのを支えた。 
 
「何やってんだよ。ほら、貸してみな」 
 
 澪がやれやれといった感じで苦笑いを浮かべる。椎堂が視線だけ動かすと椎堂の肩に片手を置いた澪が荷物を椎堂からひょいと取り上げた。 
 椎堂はパスポートを拾い上げて澪の持っている鞄にいれ、今度はきちんと蓋をして恥ずかしそうに頬を掻く。背伸びなどせずとも棚の上段にまで楽々と手が届く澪を見上げて椎堂も嬉しそうに微笑んだ。 
 
「……有難う、澪」 
 
 男同士の11センチの身長差はやはり大きい。自分たちは端から見れば仲の良い友人同士に見えているのだろうか。地味な雰囲気の椎堂と比べて見栄えのするルックスの持ち主でもある澪は機内に入った瞬間からあたりの視線を集めていた。 
 
 女子学生らしきグループの横を通った時に「あの人、芸能人かな?」と囁いているのを耳にし、椎堂はふと思い出していた。――こんな光景が前にもあったな……と。澪が入院してきた日にも看護師達が同じような事を言っていたのだ。 
 
 こんなに格好良い彼が、現在自分の恋人だなんて未だに信じられない思いである。「どうかした?」と少し腰を屈めて視線を合わせてくる澪の顔が、椎堂の胸をキュッと疼かせる。「ううん」と何でも無い振りをするので精一杯だった。 
 これからはずっと一緒にいられるのにこんな些細な事でドキドキしてしまう自分は、これからの生活、はたしてやっていけるのか。椎堂は紅潮しているであろう顔を隠すようにつま先に視線を流した。 
 


 

―DateLine―

 




「えっと……、どうする?澪が窓際に座る?」 
「俺はどっちでもいいけど……。誠二はどっちがいいの?」 
「うーん……、窓際はちょっと……」 
「じゃ、俺が窓際にするよ」 
 
 結局、窓から下が見えるのが何となく怖いという椎堂の代わりに澪が窓際へと座ることになった。澪が奥の席へ腰を下ろし椎堂も隣へ座ろうとした所で、椎堂の隣で一つ空いていた座席に乗客がやってきた。よく見ると空席だったのではなく、先に来ていたようで小さなリュックが足下に置かれている。トイレにでも行っていたのだろう。やってきたのは小学生くらいの少年である。旅慣れているのか近くに両親らしき人物も見当たらない。 
 
 多分一人で乗っているのだろう……。こんなに小さいのに凄いなと感心しつつ、椎堂は「こんにちは」と微笑んで声を掛けた。 
 座ってすぐにリュックから漫画雑誌を出して読み始めた少年は、椎堂の挨拶に小さく「……こんにちは」と返しただけですぐに視線を元の位置へと落とした。 
 
 
 ほぼ全員が着席した頃、機内に英語と日本語のアナウンスが交互に流れ出す。 
 客室乗務員が新聞や雑誌などを配り歩く中、椎堂は落ち着かない様子で自分の周りにあるヘッドフォンの差込口や目の前のポケットを探っていた。 
 少しして流れ出した機内安全ビデオの上映を観る目は真剣で、その後口頭での説明と実演をしている客室乗務員の一挙一動も見逃さないようにしている。 
 初めて乗る飛行機にやはり不安なのか、ついには各座席に用意されている安全のしおりを椎堂は開いて熟読し始めた。 
 
 澪は海外へ行くのも初めてではないし、飛行機も何度も乗っている。なので、注意事項を軽んじているわけではないにせよ、いちいちそんな物を読む事はしなかった。もしかしたら、初めて飛行機の乗った時は見たのかも知れないが、どうだったかはよく覚えていない。ふと椎堂の腰の辺りに視線を落とすと、既にしっかりと安全シートベルトも装着済みのようだ。 
 澪は安全のしおりを読んでいる椎堂の方を向き、首を傾げて覗き込んだ。 
 
「何か面白い事でもかいてあんの?」 
 澪の声で視線をあげた椎堂が少し肩を竦める。 
「そういうわけじゃないんだけど……。もしものために……、覚えておこうかなって」 
「もし墜落しそうになったら、そんなの全然ためにならないと思うけど」 
「……え……そうかな?」 
「多分、ね。それどころじゃないんじゃない?」 
「……………」 
 
 自分の不安を見破られたように、澪にあっさりそんな事を言われて椎堂は軽く動揺し視線を泳がせた。 
 
「そんな事言って……、僕の事、怖がらせようとしてるんだろう?」 
 
 澪に抗議するようなその言い草に、澪は「……まさか」と言って軽く笑っただけだった。何に対しても真っ直ぐ受け止めてしまう椎堂は澪からみれば本当に可愛く、拗ねたようなその仕草にも愛しさが募る。ついついからかうような事を言ってしまうのは、椎堂のそんな反応が見たいからだ。 
 
 しかし、今回はその冗談が半分通じていないようである。椎堂は澪の「墜落しそうになったらそれどころじゃない」発言に対して本気で不安に駆られたらしく、口をぎゅっと結んで安全のしおりを穴が開きそうな勢いで見つめていた。まだ離陸もしていないのにこの有様では些か心配にもなってくる。 
 澪は椎堂から安全のしおりを取り上げると、元の座席ポケットへとしまい込んだ。 
 
「もうこれ見るのはやめとけって。余計に不安になるから。それより、機内食のメニューでも見てれば?」 
 安全のしおりの代わりに澪が探して取り出したのは機内食のメニューである。椎堂はメニューを手に取り、今度はそれを開いた 
。澪の言うとおり見れば見るほど何だか不安になってくるのも事実なのでこれが正解なのかも知れない。 
 そんな椎堂達のやりとりを隣にいる少年が見ているのに気付き、椎堂がにっこり笑い返したがそれは無視されたようで、少年は慌てた様子でまた漫画雑誌の方へ俯いた。 
 
――人見知りする子なのかな……。 
 
 以前小児科勤務時代にも人見知りをする子供は沢山いたので何となくそれと重ねてしまう。椎堂は気にせずまたメニューへと目を向けた。 
 
「機内食なんて、まぁ……美味しくはないけどさ」 
 
 そう言って椎堂の見ているメニューのデザートの部分を指さして澪が言う。一応、二種類から選べるようになっているらしい機内食のメニューは肉と魚で分かれている他、特別にベジタリアン向けの食事も声を掛ければ用意して貰えるらしい。その他にはソフトドリンクやアルコールも載っている。離乳食まで用意されているのを見て、椎堂はそのサービスの凄さに一人感心していた。 
 
 料理の名前を見る限りでは、それなりにちゃんとした物が出てきそうにも思えたが……、メインディッシュが洋食なのに対してデザートが白玉ぜんざいなのが少しだけ気になった。日本人客を意識しているのだろうが、そのメニューのアンバランスさに咄嗟に給食を思い出したのだ。椎堂が子供の頃の給食も、ご飯であろうがパンであろうが構わず牛乳がついてきていたし、味噌汁とロールパンが出た時もあったように思う。 
「何だか、給食を思い出すね。これ」 
「うん、そうだな」 
 
 そんな話をしているうちに機内に響くモーター音が大きくなり、離陸の体制に入った事をアナウンスが告げた。離陸の時には客室乗務員も一度着席し、一時期機内の照明も落とされる。椎堂も、見ていたメニューを前の座席のポケットに戻すとシートベルトをもう一度確認した。先程客室乗務員から説明があった緊急時の酸素マスクの装着も一度確認したいくらいではあるが、非常時にのみ飛び出してくる仕組みなので、今試してみることは出来なさそうである。 
 
 隣の澪を見てみると、澪は窓の外を眺めており、当然だが全く怖がっている様子がない。自分ばかりそわそわしているのが急に恥ずかしくなり、こっそり小さく息を吐くとなるべく態度には現さないようにゆっくり深呼吸をしてみた。 
 
 滑車が滑る速度が速くなり体にGがかかって座席に沈むような感じがする。ガタガタと小刻みに揺れて、いよいよ機体が浮かび上がる瞬間。窓の外を見たままの澪の腕が伸ばされ、膝で拳を作っていた椎堂の手をポンと軽く叩いてその後ぎゅっと強く握った。 
 
――……澪……。 
 
 言葉がなくてもわかってくれる澪の気遣いに椎堂は握られた手にもう片方の手を重ね少し力を入れて握り返した。滑走路が終わりを告げ飛行機はついに離陸した。澪の握ってくれている手から体温が伝わり、その力強さが安心を与えてくれる。ふわっと浮かび上がる感じがして、身体の緊張が少し解け、椎堂は詰めていた息をやっと吐いた。 
 
「平気だったろ?」 
 優しい声で椎堂の顔を覗き込む澪に「……うん」と微笑んでみせる。 
 
 機体が安定するまでの時間、機内は静かだった。少ししてシートベルト着用のランプが消え、落ち着いてくるとすぐに客室乗務員が立ち上がる。同時に辺りの空気も少しざわめいてきた。 
 澪が再び窓に目をむけると眼下にはもうかなり小さくなった町の夜景が綺麗に映っていた。――あぁ……。本当に俺達行くんだな……。今更ながらに景色を見ながら澪はそんな事を考えていた。 
 
 椎堂と出会う前は、勿論日本を離れるなんて事は考えた事も無かったし、病気にならなければ今夜もきっとホストとして夜の街に身を置いていただろう事は容易に想像がつく。空から見ればひとつの点にしか見えない小さな街は澪にとっては懐かしさはあれど、戻りたいと思う場所でも無かった。 
 椎堂は窓の外を見ている澪から視線をはずし、隣の少年に何気なく視線を移す。 
 
──……あれ? 
 
 そしてこの時、様子が少しだけおかしいのに椎堂は気付いたのだ。先程から開いている漫画雑誌はページがそのままだし、雑誌を押さえていない方の左手は凄い力を入れて握りしめられている。――もしかして、この子も飛行機が初めてで怖い……とか?――あからさまに視線を向けるのもおかしいので椎堂はさりげなく通路を振り返るふりをしてその子供の顔を見る。 
 
 暗くてよくはわからないがあまり顔色がよくない気がした。緊張でそうなっているのかもしれないが、だとしたら、初めてなのに親がいきなり海外に一人で行かせたりする物だろうか……。 
 
「誠二、どうかした?」 
 何やら考えに耽っている椎堂を不思議に思い澪が声を掛けた。 
「え?あぁ、いや……。別にどうもしないよ」 
「そう?」 
 
 職業柄こういう時に何となく気になって観察してしまうのは悪い癖である。今はただの旅行者なのだからと椎堂はとりあえずあまり気にしないでいようと思い、澪の方を向いて微笑んだ。 
 
「何でも無いよ」 
「それなら、いいけど」 
 
 機内のアナウンスで現地の天候は快晴である事が告げられ、座席の一番前のスクリーンに飛行場の様子が映し出されていた。その後、空路の説明があり一通りのアナウンスが終わる。どの空路を通っていくか等、説明されても操縦士でもない一般人にはあまり関係がない。そのアナウンスのせいでモニターで観ていた番組が中断された事に前の席の乗客が隣の乗客と小声で文句を言っているのが聞こえ、椎堂は少し苦笑した。 
 
 
 
 
 飛び立ってから三十分ほど経過し、安定した機内では客室乗務員がおしぼりを運んでいる最中だった。食事の準備に入ったらしく、周りの乗客も前方にあるモニター下のテーブルを出し始める。椎堂と澪の所にもおしぼりが運ばれてきて、手を拭いたあと皆と同じようにテーブルをセットした。そのテーブルに頬杖をついて澪が椎堂へと振り向く。 
 
「あのさ、誠二って実家はどこにあるの?」 
「あれ?言った事なかったかな」 
「聞いてないけど」 
「僕は北海道だよ」 
 
 なるほど色が白いのはそのせいなのかもと澪は妙に納得してしまった。しかし、北海道が実家というなら飛行機に乗って帰省したりはしないのだろうかという疑問がすぐに湧いてくる。――まさか夜行バス……とか?――澪は不思議に思い椎堂にその続きを促す。 
 
「じゃぁ、帰省する時は飛行機だろ?」 
「ううん。寝台列車とかバスを乗り継いで帰ってるんだ。まぁ……、でもここ何年も帰省してないから、ずっと前の話しだけどね」 
「電車とバス!?それって時間どんだけかかるんだよ……」 
「……飛行機なら海外には軽く行っちゃうかもね……。寝台特急だと半日以上は余裕でかかるから」 
「ありえないだろ……それ。あぁ、でも、今度からはもう飛行機で帰省できるよな。こうして一回経験済みだし」 
「うーん……どうかな?……また、澪が一緒に乗ってくれるなら平気かも……」 
 
 そう言って椎堂は少しはにかんだ笑みを浮かべた。椎堂が甘え体質だという事は付き合いだしてすぐに気付いていた。ちょっと世間擦れしていないせいか驚くような事もあるけれど、それは澪にとっては些細な事にすぎなかった。 
 
 澪が今までに付き合ってきた恋人達は、よく思い返すと全員年上ばかりで、椎堂のように自分に甘えてくるような恋人とはあまり付き合った事がない。そこまで考えて、澪は気付く。――椎堂も年上なんだった……。――と。 
 澪はらしくない椎堂をちらりとみて苦笑した。兄である玖珂と二つしか違わない椎堂は、それでもまるで自分より年下のような存在であるからだ。 
 
「ねぇ、澪」 
「んー?」 
「澪の実家は……」 
 
 何気なくそこまで言って、椎堂は言ってはいけない事を言ってしまった事にハッとし、咄嗟に口を噤んだ。澪は、両親とは早くに別れていて実家等ないのだ。玖珂からその話しを聞いて知っていたのにうっかり口にしてしまい後悔が滲む。もしかして、澪に辛い事を思い出させたのではないかと心配になり、椎堂はすぐに謝りの言葉を口にした。 
 
「……ごめん、余計な事聞いちゃって……」 
「別にいいよ。もう、昔の話しだから。気にしてないし」 
「……でも」 
「今は実家はないけど……、母親の実家が横浜だったから。兄貴が小学生の時ぐらいまではそこに住んでたらしいよ。俺はまだ小さかったから良くは覚えてないけどな」 
「……そう、なんだ。じゃぁ、澪はずっと都会育ちだね」 
「都会かな?」 
「だと思うよ?僕なんて街からも凄い遠い田舎だったから、こっちに初めてきた時は何処に行っても迷っちゃって大変だったんだよ」 
「……そんな感じする。誠二って、今もすぐ迷子とかなりそうだもんな」 
「えっ!ひどいな。僕はそんなに方向音痴じゃないよ?」 
「へぇ……ホントかよ?」 
「ホントだよ。この前だって初めて行った駅も迷わずちゃんと出口にでられたし」 
 
 ちょっと得意気にそう言ってくる椎堂は、本当に子供みたいである。思わず「偉い偉い」と言いそうになってしまうが、言えば多分拗ねるので言わないでおく。澪はふざけながらも椎堂の子供の頃を想像していた。 
 きっと大人しい子供時代だったのだろうと予測する。椎堂と出会ってからまだ少ししか経ってないし、過去の椎堂の事はほとんど知らない。なので、椎堂の子供の頃の写真を見てみたいと思った。 
 
「今度さ、誠二の子供の頃の写真見せてよ」 
「え!?それは……駄目」 
「何でだよ。そう言われるとますます見たくなるんだけど」 
「……だって」 
「だって、何?」 
「きっと笑うから……嫌なんだ」 
「笑わないって。約束する」 
「……本当に?」 
「あぁ」 
「うーん……じゃぁ、……今度ね。……アルバムも引っ越しの時詰めてあったと思うから」 
「わかった。楽しみにしとく」 
 
 笑ってしまうような写真がどういう物なのか非常に気になるが、それは見てからのお楽しみにしようと澪は思っていた。 
 少しして配膳のカートが目の前へとやってきて椎堂と澪はそれぞれ違うメニューの料理を選んだ。先程二人で給食のようだと言った通り、トレイに一つにまとめられたそれは見るからに給食のようであった。 
 そして、澪が何より驚いたことが一つあった。食前酒で貰った日本酒を椎堂は軽く飲み干してすぐに空にしていたことだ。椎堂は見かけに寄らずかなり酒に強いらしく、「誠二って酒に強いの?」と聞いた澪に何でもない事のように言い放った。 
 
「そうでもないよ?日本酒なら五合くらいならどうってことないけど」 
 
 日本酒を五合と言ったらそれなりの量である。普通の人なら、結構酔うはずだ。今は薬を飲んでいるので酒が飲めないが、ホストをしていた時の自分よりも、もしかしたら酒に強いかもしれない。 
 椎堂の知らない一面を見て、見た目じゃわからないものだなと澪はつくづく感じていた。澪は汲まれたお茶に口を付け、意外なところで逞しい椎堂を見て苦笑する。 
 
 メニューの通りの料理がはめ込まれたトレイの蓋を開け、食べられない物が入っていないかざっと確認する。抗癌剤服用中は、ちょっとした事で体調に影響が出るのでそれらを見極めるのも重要な事の一つである。嫌いなわけではないが、何故か食べると調子が悪くなる物が以前より増えたのだ。うっかり食べて機内で体調が悪くなるのだけは避けたい。しかし、そのような物は今回の食事には特に見当たらなかった。箸を割って手を付けようとした所で、思い出したように椎堂が澪の顔を覗き込んだ。 
 
「澪、薬は?ちゃんと飲んだかい?」 
「あ……、忘れてた……。今飲むよ」 
「駄目だよ、ちゃんと飲まないと。治療が完全に終わったわけじゃないんだからね」 
「ごめん、わかってる」 
 
 退院してからも補助化学療法である抗癌剤を決められた一定期間のクールで一年は飲み続けなければいけない事になっている。日によって体調が芳しくない時は副作用が強く出る日もあるが、普段は咳が出るのと疲れやすいぐらいで気になるほどでもない。 食前に一種類、食後に例の抗癌剤を含めた三種類。しかも錠剤と散剤が混じっている。入院していた時は病院側で薬も一緒に出されるので忘れることはなかったが、退院して自分で管理するとなると、食後はともかく食前の薬はついつい忘れてしまいがちである。 
 
 椎堂はさすが医者といった所か、こういう所では厳しくて、一緒に居る時は薬の事を忘れる事は一度も無かった。こんな時はすっかり主治医だった頃の椎堂に逆戻りで少し懐かしい気持ちになる。 
 
 薬を飲み終え、そんなに量の多くないおかずに箸をつける。椎堂の隣にいる少年もどちらかわからないが選んだらしくトレイをテーブルへと置いているのが見えたが、それらには一切手をつけずに俯いたままでいるのが澪もこの時僅かに気になっていた。 
 
 機内食の味はというと、思っていたよりも悪くないと椎堂は思っていた。澪が最初に美味しい物ではないと言っていたが自分の味覚では普通だったからだ。あまり食に関してはこだわりのない方なのでそう感じるのかもしれない。椎堂も澪と同じ事を考えており、気になって再び少年の方を窺っていた。 
 
 椎堂達が食事を終え、回収に来た客室乗務員にトレイを渡す際にも見てみたが、結局少年は何も手をつけないままでトレイごと返している。椎堂は思い切ってその少年に話しかけてみる事にした。 
 
「ご飯は食べないのかい?どこか具合が悪いのかな?」 
「…………」 
 
 何も答えない代わりに、急に声を掛けられた事で少し驚いたように少年が顔をあげた。椎堂が改めて顔を覗き込むと、最初に見た時よりも明らかに顔色が悪い。澪も異変に気付き、椎堂の話しかける様子を見て心配そうに問いかけた。 
 
「……どうかしたの?」 
「うん……。彼が具合が悪そうだから、ちょっと心配になっちゃって……」 
「あぁ……。うん。少し顔色も悪いよな。飛行機に酔ったんじゃないのか?」 
 
 最初から緊張しているようにも見えたので、澪の指摘するとおり乗り物酔いをした可能性もある。椎堂も最初にそれを思ったのだ。椎堂は少年の警戒を緩めるために優しく微笑むと続けて質問をした。 
 
「飛行機に酔っちゃったのかな?」 
「…………うん」 
 
 少年は一度頷いて、椎堂を見上げた。少年の視線に笑みを浮かべて見返すと、最初は警戒していたものの椎堂の優しい雰囲気に心を許したのか。今まで一人で心細かったのか……、少年は明らかに先程とは違う視線を向けてきた。 
 
「そっか……。しんどかったね……。じゃぁ、今気持ち悪いかな?」 
「……少し」 
「戻したいならそうしたほうがいいけど、そこまでじゃなかったら少し楽な姿勢にしてゆっくりしてみようか」 
 
 少年はそこまで吐き気が強いわけではないらしいので、椎堂は座席の後ろを倒して横にならせる事にした。乗り物に酔った時は、本来なら外の空気をいれて換気をしたり、一度停車してリラックス出来る場所に移動したりするのがいいのだが、さすがに飛行機では窓を開けられるはずもなく、勿論降りることも出来ない。この場所で不快感を和らげる以外は方法がなかった。 
 
 丁度椎堂達の座席は一番後ろで座席を倒す事で誰かに迷惑がかかることはないので、その点だけは助かったとも言える。 
 客室乗務員にブランケットをもらって体にかけ少年のズボンのウエストを緩める。それだけでいくらか楽になったのか少年は安心したように息を吐いた。誰かに気付いて欲しかったのかも知れないが、言い出せなかったのだろう。 
 
 椎堂が少年の頭をそっと撫でて「何かあったら遠慮しないで声を掛けてね」と告げると、少年は「うん」と小さく頷いた。横向きになって目を閉じる少年を見ながら、椎堂は少し嫌な予感を感じていた。 
 
 ズボンを緩めたやった際に、少年の肌に触れたのだが、子供である事を除いても体温が高い気がしたのだ。機内の気圧の関係も多少はあるかもしれないが、それだけとは言い切れない。最初から風邪気味である可能性も含め今は様子を見るしかなさそうである。 
 
「どう?……大丈夫そう?」 
 様子をみていた澪が小さな声で椎堂に言う。 
「うん……。少し気になる所もあるけど、今は何とも言えないから……。様子をみたほうがいいかもしれない」 
「そうなんだ」 
 
 その後、客室乗務員が事態に気付き酔い止めの薬を持ってきたが、椎堂は一つ思う所があったので薬を服用させるのを断り様子を見る事を告げた。最初、自分が医師である事を告げるか迷ったが、薬について指示を出す等の医療行為には医師である事を証明しなくてはならないので、仕方なく医師免許を見せるに至ってしまった。 
 客室乗務員も、椎堂が医者だとわかって納得したようにその場を去った。