ロサンゼルス国際空港から一時間半ほどタクシーに乗って、自宅へと到着した。 
 
 タクシーから見ていた限りでは近くに大型スーパーらしき物もあり、緑も多くて生活しやすそうな住宅街である。何軒か同じような作りの住宅がUの字に並んでいる中の一軒が椎堂達が暮らす新居である。まるで日本と違うその景色に改めて遠くまで来た事を実感する。住居の手配は椎堂の勤務する病院に紹介して貰っただけはあり、新居は二人で生活するというよりは家族で住めそうな大きさであった。 
 
 緑の芝生が敷かれた自宅前の通りは手入れされて青々としており、家の前には可愛らしい小さめのポストがある。塗り替えられたのであろう薄い水色の家の壁面と緑のコントラストがとても綺麗である。洋画の中でよく見るような玄関横のポーチには白いベンチが置かれていた。 
 
 タクシーから降り立った椎堂が、家の前で足を止めて家屋を見上げている。澪も続いて降りて隣へと並んだ。 
 
「随分大きな家だな……。家族向きって感じ?」 
「うん……。ホントだね……。ねぇ、澪」 
「――ん?」 
「ここで澪と生活するんだよね……、僕」 
「急にどうしたんだよ」 
「何か………、ちょっと夢みたいだなって」 
「……そう?」 
 
 澪は小さく笑って、そんな椎堂の腕を引っ張って玄関へと向かう。あらかじめ送られてきていた鍵を椎堂が玄関へ差し込むとドアがひらいた。既にリフォームされて暮らせるようになっている室内を見渡す。家具は備え付けなので、まるで前から住んでいるかのような光景だった。 
 
 二人で中へと入ると、澪が今入ってきたばかりのドアへ鍵をかける。 
「あ!荷物がもう届いてるね。良かった」 
 
 部屋の中へと行こうとする椎堂の腕を掴んで澪は自分の方へぐいと引き寄せた。突然強い力で引き寄せられた椎堂は玄関のドアへ逆戻りし、背を預けて澪を見上げる。 
 ドアに片手をついて椎堂を目の前に見下ろし、澪は椎堂の顔にかかった髪を指で梳いてその奥にある眼鏡を外した。 
 
「……澪?」 
「夢かどうか……少しだけ、確かめてみようか?」 
「…………え?」 
 
 外した椎堂の眼鏡を胸ポケットへとしまうと、見上げた椎堂の顎を指でクイと持ち上げ、澪が被さるように口付けをした。隙間を塞ぐように角度を変えて甘い口づけを幾度も落とされ、椎堂は睫をそっと伏せた。 
「……っん、……み……お……」 
「もっと……、口開けろって……」 
 
 澪の舌が椎堂の唇を舐めて内側へとゆっくり侵入していく。椎堂も躊躇いがちに舌を返しながら、その濡れた感覚に切なげな吐息を漏らす。 
 
 開かれた唇に重なる瞬間互いの歯がかすかに音を立てる。歯列を割って侵入してくる舌を絡ませると、どちらの熱の熱さかもわからなくなるほど混ざり合っていった。――息が上がる。口付けに応えるほど足りなくなる酸素に思考が途切れ、酩酊感が椎堂を支配していく。 
 息継ぎができないほど濃厚になっていく口付けに、椎堂が唇を僅かにずらし潤む瞳で澪を見つめた。小さな喘ぎと共に澪の名を口にする。 
 
「……っふぁ、……っ…苦し……って……澪……」 
 
 離れた椎堂の唇を追うように澪の唇が重なる。そしてその唇が少し離れれば途端に名残惜しくなり、息苦しいのを忘れ澪の唇の熱をもっと感じたくて椎堂の唇が後を追う。繰り返される甘美な誘惑は、しばし時の流れを止める。 
 
 澪の口付けは驚くほど巧みで、椎堂は溢れる唾液にゴクリと喉を鳴らし僅かに出来た合間に息を吸う。翻弄されていく身体の熱は高まる一方で、思わず握っていた鍵が力の抜けた掌から落下した。落ちた鍵が音を立て床へと転がり、それが合図のように椎堂の膝から力が失われていく。崩れ落ちそうな椎堂を片手で抱きとめ、漸く澪が口付けを解いた。 
 
「……ハァ……っ、……っ、澪……」 
 
 薄く開いたぼやける視界の中で澪の瞳に自分が映り込んでいるのがわかる。澪が、ポケットにしまっていた眼鏡を椎堂にかけさせ、軽く腕を回し抱きしめたまま耳元で囁く。 
 
「これでも……、まだ、夢みたい?」 
 
 椎堂は腕の中で黙って静かに首を振った。それは夢よりもっと甘くて、そして熱くて……。眼鏡をかけるとやっと視界が鮮明になる。鼻が触れそうなくらい近づいた澪の顔を真っすぐに見れなくて、椎堂は脱力した体を澪から離す。少し背伸びをして澪の頬へと軽く口付けた。 
 
「……一緒にきてくれて……有難う。これからは、ずっと一緒だね……」 
「……ああ」 
 
 その後、耳を赤く染めたままぎこちない動きで澪にくるりと背を向け、後ろを向いたまま椎堂は呟いた。 
「えっと……に、荷物……。片付けちゃわないとね……」 
「今日は、使う物だけでいいんじゃない。明日も時間はいっぱいあるし」 
「うん、そうだね」 
 
 ひとまず手荷物をリビングへと置いて、積まれたダンボールの山の中から、『日用品』と書かれた箱だけを脇へとよけて頑丈に貼ってあるガムテープを剥がす。中には洗面用具や最低限の食器、その他のこまごまとした雑貨である。中に手を入れて、それらを取り出すとハンカチに包まれた四角い物が入っていた。 
 
 澪は隣で仕分けをしている椎堂の横で、ハンカチをそっと開いてみる。出てきたのは写真立てである。中には入院している時に、病室で二人で撮った写真が飾られていた。元々写真を撮られるのがあまり好きではないし、パジャマ姿なのが余計に恥ずかしいのもあって澪は視線をそらしていて、椎堂だけがカメラ目線という、写真としてどうなのかと思う物である。写っている病室は数ヶ月前まで自分がいた場所で……、そして椎堂と出会った場所でもある。ネームプレートの主治医の欄には椎堂の名前が書かれているのが小さく写り込んでいた。 
 
「これ、日用品じゃなくない?」 
 
 澪が写真立てを片手で持って腰を屈める。椎堂は澪の手に写真立てがあるのをみて慌てた様子で手を伸ばした。 
 
「い、いいの……。僕が大切にしてる物なんだから」 
 
 澪の手から写真立てを取り上げると、椎堂は「だって、これしか澪の写真持ってないから……」と小さく付け加える。確かに二人で撮った写真はこれしかない。 
 
「どうせなら、もっといい写りの写真にしろよ。俺こっちみてないし、これ」 
「だって、澪、写真撮るの嫌がるから……それとも、また撮ってくれるの?」 
「……いつまでもその写真飾られてるのも何だから、そのうちな」 
「ほんと!?」 
 
 椎堂が嬉しそうに澪の顔を見上げる。たかが写真でそんなに喜んでくれるなら、まぁいいかという気分になるのは、自分の考え方が変わったのだろうか。椎堂はそれでも、その写真を大事そうに抱えてリビングにある木製の飾り棚の真ん中へ置くとにっこり微笑んだ。 
 
「でも、これもやっぱり飾っておこうかな。新しく撮ったらまた写真立てを買うよ」 
「まぁ、いいけど」 
「うん」 
 
 椎堂はその後も、細々とした物を洗面や浴室、キッチンへと運び、澪はとりあえず邪魔にならない場所へ他の段ボールを移動させて積み上げる。今夜はこれで過ごせるはずだからと、片付けは早々に終了した。 
 
 家の中を一通り見て回りながら澪は洗面所のドアを開いてその足を止めた。大きな鏡がはめ込まれた洗面台の前に、先程椎堂が置きに来た歯ブラシがコップに二本さしてある。青と黄色のお揃いの真新しい歯ブラシは椎堂が買ってきた物だ。コップの横には苺味の歯磨き粉が一つだけ置かれている。どうやら、澪もこれからはその歯磨き粉を使うと決まっているらしい。 
 
 兄弟で一緒に暮らしていた時以来、誰かとこうして一緒に住むのは初めてだった。日常の様々な物が二つずつ揃っている光景は新鮮で、どこか懐かしい。家族に憧れている等考えた事も無かったが、椎堂となら家族になってもいいなと考えている自分がいる。揃いの歯ブラシが向かい合っている様はまるで自分と椎堂のようで、澪は鏡に写る歯ブラシを優しげな表情で見つめていた。 
 
「あれ?……澪どこにいるの?寝室に着替え置きに行くよ?」 
 
 ドアを隔てた少し遠くから椎堂が呼ぶ声がする。 
 
「――今行く」 
 
 少し声を張って返事を返し、椎堂がいるリビングへと戻る。椎堂はパジャマやらタオルを一度に抱えて顔も見えない状態で澪を待っていた。危ういバランスで積まれているそれらは、うっかりすると崩れてきそうである。 
 
「そんなに一気に持って、階段で躓いたらどうすんだよ……。ほら、貸せって」 
 
 椎堂の持っている物を半分取ろうとした今も、もう崩れかかっている。澪は一度全部椎堂から取り上げると、近くの若草色のソファの上に置いて整え、半分を椎堂へと渡し、自分も残りを抱えた。 
 
「有難う。澪は優しいね」 
「……別に。そういうんじゃないけど……。誠二が転んだら、俺も巻き添え食らうだろ」 
 
 先を行く澪の背中に、椎堂が楽しそうに声を掛ける。 
 
「澪はホント素直じゃないな~」 
「…………うるせーな……。俺、先行くから」 
 
 澪が二階にある寝室へと向かう。二階は互いの寝室とゲストルームの3つの部屋がある。階段を上る澪に、椎堂が後からついて行く。階段を上りきった所で澪がふと振り向き、椎堂もその足を止めた。階段の途中にある窓から逆光が澪を照らし、その表情はよくは見えなかったのだけれど……。 
 
「……俺も、誠二と一緒に来られて……良かったよ」 
「――うん」 
 
 椎堂は、すぐに背を向けた澪の背中を見て目を細める。二人の陰が窓から差し込む光にのびて廊下に影を寄り添わせる。 
 
始まりは例えばこんな一日で……。 
 
椎堂と澪はゆっくりと階段を昇り、新しい生活の最初の一音を奏でた。 
 
 
 
 
 
 
 
Fin