「先日の検査結果ですが、悪い物ではなさそうなので……。安心して大丈夫ですよ」

 心配そうに顔を曇らせている男性に向かって、椎堂はにっこりと微笑んだ。

「本当ですか!良かった……。結果が出るまでどうにも落ち着かなくて」

 午前中の外来の診察は、この患者で最後である。先日X線撮影で肺に影が写っていたので、再検査になったのだ。再度の撮影と、CT検査を受けてもらい、結果が出たのが今日。
 40代後半のその男性の膝に乗っている少女が、父親であるその男を見上げてにっこり笑う。まだ小学校にも上がっていない年齢の愛らしいその少女は、穏やかそうな父親に目元がよく似ていた。

 椎堂をチラリとみてから再び父親を見上げ小声で声を掛けているのが視界にうつる。椎堂はその少女にも出来るだけ安心を与えるように穏やかな笑みを浮かべた。何せ、白衣を着ているだけで怯えて大泣きする子供もいるくらいなのである。
 小児科にいた頃は、そういう子供の前では白衣を脱いで診察していたな……、等と遠い昔のことをふと懐かしく思い出しながら隣の会話を聞いていた。

「ねぇ、パパ。病気なの?」
「いや、大丈夫だよ。先生が何でもないって言ってくれたからね」
「そうなんだ。良かったね!パパ」

 この前の診察の時にも、同じように娘と共に診察室へ来たのを思い出し、椎堂はカルテに記載する手を止めると少しだけ体を患者側へと向けた。

「パパと仲良しなんだね」

 椎堂がそう言って少女と視線を合わせると、少女は恥ずかしそうに父親の顔を見上げてシャツに顔を埋める。からかうように父親が顔を覗き込むと、怒ったように小さな掌で父親の胸を押し返していた。

「いつもは妻にベッタリなんですが、どうやら椎堂先生のことが気に入っているみたいで、ここに来るって言うと一緒に来たがってしまって、……困った物です」
「え?それは嬉しいですね」

 椎堂が喜んでみせると、父親が促すように少女に声を掛ける。

「ほら、もう今日で最後だぞ?お咳がでるから、椎堂先生に診てもらうんじゃなかったのか?」
「娘さん、咳が出てるんですか?」
「ええ。まぁ、たいした事じゃないと思うんですが、どうも幼稚園で風邪をもらってきたみたいで」
「なるほど……、じゃぁ、ちょっと診てみましょうか」
「すみません。真似事だけで納得すると思うんで、診てやってくれますか」
「勿論、構いませんよ」

 椎堂が聴診器を耳にさして父親の膝で俯いている少女にそっと手を伸ばす。オレンジの花模様がプリントされたシャツのボタンは幼い子供でも脱ぎ着出来るようにホックになっている。椎堂は上から順番にそれを外すと聴診器を掌で温めた。

「ちょっとだけ胸の音を聞かせて貰うね。はい、じゃぁ息を吸って……。そう、上手だね。次はゆっくり吐いて……」

 少女の真っ白な胸に聴診器をあてて、目を閉じる。小さな体の中でもしっかりと刻まれる心音と呼吸の音。胸に続いて背中側からも聴診器をあててみたが、問題はなさそうだった。

「はい、もうお洋服を着ていいよ。じゃぁ、次はお口を大きく開けてくれるかな」

 念の為に喉を診てみると、風邪の初期症状が少し見てとることが出来た。

「咳以外に、鼻水や、食欲の有無などは変わりないですか?」
「はい、咳だけみたいなんですが」
「そうですか。やはり風邪の引き始めですね。炎症もさほどないので、暖かくして栄養のある物を食べていれば大丈夫でしょう」
「有難うございます。ほら、澪。先生に有難うってお礼を言わないとな?」


――澪?

 椎堂は父親のカルテの続きに走らせていたペンをピタリと止めた。
 思わず視線を奪われ、恋人と同じ名前の少女を見つめてしまう。


「お名前、……澪ちゃんって言うの?」
「うん、そうだよ。みんなはね、澪の事、みーちゃんって呼ぶの」
「そうなんだ、素敵なお名前だね。澪ちゃんにぴったりだ」

 椎堂が目を細めると、小さな声で「澪恥ずかしい……」と父親に抱きついている。窓から差し込む午前中の光が、少女の髪を照らし、くるりと跳ねた毛先を明るく染めている。中性的な名前だから、女の子で『澪』というのも実は少なくないのかも知れない。ちょっとした偶然に、椎堂は驚きつつもどこか嬉しさを感じていた。目の前の少女を見ていると、澪がこの少女と同じくらいだった頃もきっと可愛かったのだろうなと容易に想像できる。

「良かったな、澪。それじゃ、先生も忙しいから、パパ達もそろそろおうちへ帰ろうか」
「……うん」
「澪ちゃんのカルテは今回作っていないので、また、もし熱が出たりするようであればいつでも受診して下さい。その時は、新しくカルテを作る手続きをして頂く事になりますが」
「わかりました。有難うございます」

 椅子から立ち上がった父親に抱かれて足をバタバタさせながら少女が椎堂へ顔を向ける。

「しどうせんせー」
「うん?どうしたのかな?」
「せんせーのお背中にはどうして羽があるの?」
「……え?」

 『羽??』首を傾げて不思議そうにそう言った少女に、椎堂はなんと言葉を返して良いか迷っていた。何の事を言っているのかさっぱりわからないが、子供は時々驚くような事を言うので真面目に返すのも躊躇われる。
 少し考えていると父親が慌てたように会話を遮った。

「こら、澪。変な事言って先生、困ってるだろう。……すみません、絵本でそんなような話を昨日読んだばかりで……」
「いえ……、全然、気にしないで下さい」

 少女には何かが見えたのは多分本当なのだろう。
 大人の目には見えない何かが。不服そうにその話題を遮られた少女が椎堂をじっとみつめて「……キラキラしてて真っ白。天使さまみたい」と言い笑顔を向ける。

「有難う。澪ちゃんにそう言って貰えて先生も嬉しいな」
「うん!また遊びに来るね。しどうせんせー、バイバイ」
「うん、またね。バイバイ、澪ちゃん」

 軽くお辞儀をして父親と少女が診察室を出て行く後ろ姿を見送る。愛らしい笑顔を思い出して、椎堂は一人でくすりと笑みをこぼした。
 午前の外来が終わったので今から昼休みだが、今日の夜は当直もあるのでそれまでに色々と済ませておきたい用事があった。
 澪は現在手術後の抗癌剤の投与中で副作用に苦しむ日々を送っている。時間に空きが出来たら病室へ足を向けるようにしているが、夜まではそれも難しそうだった。
 椎堂は医局へと戻る足を速めながら、澪を想い浮かべる。


――夜に病室へ行ったら、今日の事を話そうかな。

――君と同じ名前の可愛い女の子が診察来たよって。


 もし自分が、少女の言うように天使の力があるのだとしたら、全ての羽を失う代わりに、澪を苦しさから開放してあげられるのだろうか。そんなありもしない夢物語を考えつつ、椎堂は首を振った。自分はただの人間で……非力でしかない。だけど、そんな自分にもまだしてあげられる事は沢山あるのだから人間も捨てたもんじゃ無いと思う。
 医局の自分のデスクへ戻って荷物を置くと、再び医局を後にする。


 誰もいなくなった昼下がりの医局の部屋の中。

 椎堂が出て行ったデスクの椅子に、――――真っ白な羽がひらりと舞い落ちた。

 

 

 


~Fin~

 

 

 

 

 

 


このお話は、本編の scene18 の終盤で椎堂が澪の病室に訪れて介抱するシーンで話した内容を掘り下げた、椎堂視点のお話になっています。NAO様からいただいた絵を見て、インスピレーションを得て執筆した物です。
物語が浮かんでくるような素晴らしい絵を贈って下さって有難うございました。
椎堂の魅力が少しでも表現できていたら嬉しいです。読んで下さった方も、有難うございました。

2017/3/19 聖樹 紫音