客が完全に引けた後、LISKDRUG内には店のホストがほぼ全員顔を揃えていた。裏から静かに入ってきた玖珂の姿を見つけると、皆が玖珂の周りに集まってくる。
今日は給料日なのだ。一号店のオーナーの時もたまにあるが、最近は総括している玖珂がこの役を担っている場合が多い。毎月こうして給料が配られる時には、特別な用がない限り全員が揃う。
「みんな、揃っているかな?」
玖珂がまるで授業でも始めるように、穏やかな笑みを浮かべて周囲を見渡す。
今のご時世、口座への振り込みではなく手渡しな所はかなり減ったが、それでもこの業界ではそこまで珍しくない。完全歩合制のホスト業界では、最低額は決まっているので、指名本数がゼロであっても基本の給料は貰える。ただ、当然だが額はそれなりだ。
客が店で使用した額から決まった%がホストにバックマージンされるので、人気の高いホストはその額も跳ね上がるという仕組みである。
毎月人気の順位がこうして発表されるのは、互いの競争心を煽る目的もあるし、その封筒の厚みを目の当たりにしてNo1を目指すホストも少なくないからだ。
「今月は先月より売り上げがだいぶ良かった。みんなよく頑張ってくれたな。有難う。それじゃ、名前を呼ぶから順番に受け取りに来てくれ」
まずは新人から名前を呼ばれ、その後は売り上げが低い順から呼ばれることになる。半分以上が給料を受け取った後、中々名前を呼ばれない信二が、晶の隣で不安そうに呟いた。
「あれ……、俺忘れられてるような……。売り上げそんなにやばかったのかな……」
呼ばれずに残っているという事は、逆に売り上げが良かったと考えられるのに、信二の中ではその考えは浮かばないらしい。晶は小さく笑うと、信二の背中を軽くはたく。
「逆なんじゃねーの? もっと胸張ってろって」
「え? そ、そうっすかね……」
次々に名前を呼ばれ、もう残りはTOP5を残すだけである。確かにいつもならとっくに信二の名前は呼ばれているはずである。五人目が呼ばれ、そして次、漸く信二の名前が呼ばれた。
信二は「え……」と一言漏らし、信じられないと言った様子である。無言で玖珂の前に歩み出た信二は、動揺しているのかすぐ目の前の段差で見事に躓き、照れたように頬をかいた。それをみて思わず晶が苦笑する。
「よく頑張ったな。今月はNo4だ、おめでとう。この調子でこれからも頼んだぞ」
「はい。あ、有難うございます」
封筒を手にして元の場所に戻ってきた信二は小声で「やった!」と喜んでいる。晶が「おめでとう」と声を掛けると信二が振り向いて「晶先輩のおかげっすね」と、笑顔を見せた。
まだNo1ではなかった頃の自分と今の信二を重ねて晶は懐かしく当時を思い出していた。貰う給料だけでは中々やっていけず、節約するために、貰ったタクシー代を使わず相当な距離を歩いて自宅まで帰ったこともある。
二着のスーツを交互に着回していた晶に、衣装代という名目にしてはとても多い額をポケットマネーで何の躊躇いもなく出してくれた玖珂。「こんな額受け取れません」と返した晶に、玖珂は言った。
「これは別に小遣いじゃない。この金で十分な物を揃えて、自分を磨く足しにするんだ。晶が魅力的になれば、もっと上質な夢を客に与えられる。ホストはそれが仕事だからね」と。
受け取った金の重み以上に、気を遣わせず受け取らせようとしてくれた玖珂の優しさに心から感動した。
「早く一人前になって恩返ししたい」と強く思い、より一層接客に力を入れたものだ。一人前になるまで、ずっと見守って支えてくれた玖珂がいたからこそ、今の自分がある。信二にとっての自分もそうであったらどんなに嬉しいだろうと思う。
信二が入店して新人の頃から育てたのは晶である。自分の育てたホストがこうして上り詰めていく様を嬉しく感じるのは、自分がもうそういう時期にさしかかっているからだ。人の上に立って指導する立場、それを実感する事はあまりなかったが、今は少しわかる気がする。
今後新宿店でオーナーになった後は、玖珂のいる立場に自分が立つ事になる。責任感という重い不安ばかりよぎってしまうが、きっとこうして嬉しい事も沢山あるはずだと晶は改めて思っていた。
その後、先月とNo2とNo3が入れ替わってはいた物のお馴染みの顔ぶれが上位を占め、最後に晶の名前が呼ばれる。
ポケットから手を出して玖珂の前へ進むと、玖珂は厚みのある札束で封を閉じられずにいる給料袋を晶へと差し出した。
「今月も文句なしのNo1だな、晶。おめでとう。よく頑張ってくれた」
「いえ、有難うございます」
軽く頭を下げてそれを受け取る。もうNo1になってからかなりの年数が経つが、この瞬間は何度経験しても嬉しい。働きを認められた満足感が受け取った封筒に詰まっている気がするからだ。胸ポケットにしまわずに手に持ったまま輪の中へ戻ると、玖珂が「さて……」と、話を切り出した。
「わかっていると思うが、今月はクリスマス等のイベントもあって通常より忙しくなる。他店との競争も含め、トラブルも起きやすい時期だ。そうならないように気を引き締めて接客に当たってくれ。特別なイベントの際にこそ、日頃の感謝を客に示すいい機会だからな。うちの店を選んで貴重な時間を使ってくれているという事を常に忘れないように」
皆がそれぞれ「はい」と返事する。玖珂は説教めいた事を多くは語らないが、それは従業員皆を信頼しているからなのだろう。何かあった場合の責任を玖珂が全てを負う事の意味を、皆だって理解している。なので、ここ最近は早々揉め事も起こっていなかった。
玖珂が話を一度切って、手にしていた書類を背後のテーブルへと置いて振り向く。
「――今日は皆にもうひとつ報告があるんだ。少し時間をくれるかな。――晶、こっちへ」
給料を渡した後に、晶が店を移動する旨を話すと玖珂から前もって聞いていたので、晶は脇のテーブルへ給料袋を置いて玖珂の隣に並んだ。
「知ってる人もいると思うが、今度歌舞伎町にLISKDRUGの三号店を出すことになっていてね。その店舗のオーナーを晶に任せる事が決まった。No1を引き抜いてしまって申し訳ないが、玲二や翼を中心に、ここに残る皆で一号店の方も盛り上げて欲しい」
名を出されたNo2とNo3のホストが驚きながらも「わかりました」と口にする中、信二だけがショックを隠しきれない様子で壇上の晶と玖珂を呆然とみつめていた。
正式にこうして発表するまでは内密に進めていたので、信二も当然この事を知らない。信二からしてみれば、突然聞かされたも同然なのだ。
玖珂から促され、晶は一度頷くと口を開く。
「えっと、そういう事なんで。新宿店でオーナーとしてやらせて頂く事になりました。皆知ってると思うけど、俺こんなだからさ、オーナー業とか務まるか自分でもちょーっと心配なんだけどな」
そう言って苦笑する晶に、周囲もつられて小さな笑いが起こる。
「だけど、引き受けたからには。こうしてチャンスをくれた玖珂先輩や、今まで俺をフォローしてくれた皆の事を思いだして、これからも頑張ってみようと思ってます。正直、この店を離れるのは寂しいけど、また遊びに来るからさ」
周りから、「晶先輩……」や「……寂しくなるな」等の言葉が呟かれ、突然の発表に店内がざわめく。No1がいなくなれば、自動的にNo1になれるであろう翼まで晶が店を去ることを惜しむ言葉を口にしている。
そんなざわめきの中、信二の思い詰めたような声が周囲へと響いた。
「いつまで……、いつまでここにいられるんっすか……」
晶はクスリと笑うと信二に笑顔を向ける。この事も秘密にしていたのだがもうひとつ発表があるのである。
「新店舗の準備が整うまでだから、まだ少しの間はいます! あと、みんなにもう一個お知らせな。新店舗で全員新米ホストってわけにもいかねーから、二号店からも数名移動する事が決まってるんだけど、うちからは信二を連れていく事にしました」
「――え??」
突然の指名に再び驚いた信二がポカンとしている。
「そういう訳だから、俺と信二が抜けた後、店のこと宜しくお願いします」
深々と頭を下げた晶に、拍手が起こる。信二だけは拍手をする事も忘れ立ち尽くしていた。
報告も終わり晶が元の場所へ戻ると、玖珂が締めの挨拶をして解散となった。これから引き続き二号店へも顔を出すという玖珂は「忙しなくてすまないな」と苦笑しつつ店を出て行った。
解散になった後、周囲のホスト達と会話しながら信二の方へ視線をチラッと向けると、だいぶ時間が経っているというのに、まだ事態が飲み込めていないような表情をしている。
会話の区切りがついた所で、輪からぬけて信二の隣へいくと信二が神妙な顔で側のテーブルへと腰掛け煙草を取り出した。
「信二、さっきの話ナイショにしててごめんな? 勝手に指名しちゃったけど、問題あるなら考え直すからさ、遠慮なく言えよ?」
「…………」
顔を覗き込むようにして晶がそう言うと、信二が火を灯した自分の煙草を晶へとすっと差し出した。
「ん? なにこれ……?」
「その煙草、俺の掌で消して貰ってもいいっすか?」
信二がそういって真顔で大きな掌を晶へと差し出す。
「はい!?」
「遠慮なくやって下さい」
何を言い出すかと思えば、とんでもない事を口にする信二に晶は驚いて近くの灰皿でギュッと煙草をもみ消した。
「お前、何言ってんの。根性焼きして下さいって掌差し出す馬鹿がいるかよ。どこの体育会系だっつーの」
「……だって」
「とりあえず、落ち着けって。急な移動通告で動揺してるんだろうけどさ」
やはり店に愛着もあるだろうし、信二を指名したのを内緒にしていた事に申し訳ない気持ちになってくる。晶が一言謝ろうと口を開こうとした所で信二が先に晶の手をぎゅっと握りしめてきた。
「夢、じゃないですよね?」
「え?」
「晶先輩が、全人類の中から俺を指名してくれたのって」
「全人類って……、まぁ間違ってはねーけど……」
大袈裟な信二らしい言い回しに思わず苦笑していると、信二が抱きついてきた。
――あれ? こんな事この前もあったような……。
信二に抱きつかれ、否、抱き締められながら、つい先日もこうして同じ状態になった事があるのを思い出す。しかし、この前とは逆だった。先日と違い今は信二が半泣きである。
「晶先輩っ!!! さっき先輩が店からいなくなるって聞いてすげぇショックだったけど、俺を指名してくれるなんて……、また一緒にいれるとか夢みたいで。今猛烈に感激してます!」
「そ、そんなに喜んでくれて俺も嬉しーんだけど……あのさ、信二。その……みんな見てっからな?」
泣いて抱きついている信二に、近場にいたホストが冷やかしを飛ばす。
「また始まってるし。信二の晶先輩大好きモード! こんな所見られたら客にドン引きされるぞ」
信二が晶を慕っていることはもう知れ渡ってはいるので、冷やかしているホストもからかい半分で面白がっているだけではあるが、いつまでも離れない信二にさすがの晶も困り果てていた。
「信二、お前の気持ちは十分伝わったからさ、そろそろ放してくれね?」
晶が笑ってそう言うと、信二が漸く晶から腕を放した。
鼻をぐずぐず言わせたまま目を擦り、信二が嬉しそうに微笑む。
「新しい店でも、晶先輩を見習ってめっちゃ頑張ります!」
「お、おう。サンキュ、頼もしいな」
玖珂からオーナーの件を引き受けた時に、店から一人一緒に頑張っていける仲間を連れて行っていいと言われていたのだ。即戦力としてみるなら玲二や翼になるが、そこを引き抜くと店への影響が大きすぎる。かといって全くの新人である真人を連れて行っても、オープン当初で多忙な時期にちゃんと指導までしてやれる時間も取れないだろう。
それを考慮すると、気の知れた仲でもあり、もう晶がフォローをしなくてもやっていける信二が適任だと言う結論に落ち着いたのだ。
信二ならきっと何処へ行っても持ち前の明るさで怖じ気づくこともなく、他のホストとも渡って行けるだろう。晶はそう信じていた。
信二と周りのホストがふざけて会話をする中、晶は一人立ち上がるとその場から少し離れたカウンター席へ腰掛け、椅子をフロアに向けて煙草を咥えた。
ホストになってから今日まで、何年も過ごしてきたこの場所。
見慣れた店のインテリア。ヘルプだった頃玖珂と共に学んできたホストのあるべき姿。初めて指名が入った時についた席。未熟だった自分が泣かせてしまった客の顔。祝って貰った盛大な誕生日会。自分を指名してくれる客全員の笑顔と楽しそうな笑い声。
幾つもの記憶が浮かんでは消えていく。数え切れない想い出の全てが、ここで起こった事だった。柄にもなく少し感傷的になり、晶は咥えた煙草を深く吸い込むと、紫煙と一緒にその気持ちを店内へと吐き出し、前髪をかき上げる。
新天地へ出向くのは佐伯だけじゃない。距離にしたらここから新宿なんて目と鼻の先ではあるが、新たな環境。そして与えられる立場。自分の環境だってこれから何が待ち受けているかわからないのだ。
楽しいだけではやっていけない事もあるだろうし、経営に携わる以上今よりもっと店全体の流れを把握していかなければいけないだろう。責任のある職に就くことで一歩前へ進む事になるのだから。
晶は全てを懐かしむように一通り眺め、穏やかな笑みを浮かべた。
――十二月二十三日
目の前の信号が青になり、交差点を人が行き交う。晶は横断歩道を渡りきった後で足を止め、街の空を見上げて、白くなった息をそっと吐き出した。冷たい空気がマフラーの届かない耳に吹き付け、じんとした痛みを感じさせる。
薄手のジャケットの上に羽織っているコートが強い風でひらりと舞い、晶は一瞬体を震わせた。
かじかむ指先に、真っ白な吐息、どう考えても寒い気候であるにも関わらず、それでも、暖かく感じるのはいったい何故なのだろうか。とりとめもなくそう考えては、自分でもわかっている答えをわざと焦らして晶は一人苦笑し、ゆっくりと歩き出した。
十月の終わりに同じように歩いた並木通りは、すっかり冬の様相を見せており、昨日降った雪が所々溶けきらずに固まって店舗の看板や街路樹に積もり白い光を放っている。
枝から時々落ちる雪の塊の音を聞きながら、晶は店のドアをあけた。
落ち着いた雰囲気の店内に、入店を知らせる鈴の音が軽く響く。いらっしゃいませという声がかかり、店員と視線が合うと互いに軽く会釈をして、晶はカウンターへと進んだ。
今日は以前に頼んでおいた佐伯へのクリスマスプレゼントを引き取りにきたのである。
「コレ、受け取りにきたんですけど」
くしゃくしゃになった引換証をのばして、カウンターの上へと広げる。
「畏まりました。少々お待ち下さいませ」
穏やかそうな店員は晶へと微笑み、引換証を持つと奥へ消えていく。
そういえば、この前来店した時の店員も確か同じ人物だった気がする。晶は、長いようであっという間だったここ二ヶ月を思い出しながら、変わらない店内に視線を向けた。
あの日、ここでプレゼントを選び『佐伯は喜んでくれるだろうか』と考えながら渡す日の事を想像していたのだ。変わらない日々が続いていくはずで……、こんな事になるなんて何も考えていなかった。
つい昨日の出来事のように感じるのに、状況は驚く程変化してしまった。佐伯は大阪へ行くのを決め、今日の夜には東京を離れてしまう。慌ただしく時間が過ぎていく中で、引っ越しの準備や病院内での引き継ぎで大忙しの佐伯とは中々時間も合わず、ちゃんとしたデートもほとんどしないまま今日になってしまった。
先日、多忙の合間を縫って一度だけ飲みに行った帰りに佐伯からマンションの合い鍵を渡された。
留守中いつでも使っていいと言われたが本人のいない自宅なんて、寂しさが増すだけだと思うので行く機会はあまりなさそうである。
しかし、完全に引き払って行ってしまうと言うのはもっと寂しいので、これはこれで有難いのかもしれない。
今だってフとした瞬間に思ってしまう。――もうこれからは、すぐには会えないのか、と。
近くにいた佐伯の存在が離れることで、今までどんなにその存在が大きい物であったのかを思い知る。晶はカウンターに片手をつくと、はぁと所在なげにため息を吐いて顔を伏せた。
「お客様?」
「え? ――あ、すみません」
すっかり考え込んでしまっていた晶に、微笑んだ店員から、出来上がった品物が目の前へ差し出される。
カウンターで頬杖をついていた晶は、慌てて姿勢を正し、店員の差し出した品物を受け取った。
「中身をご確認下さいませ」
どうぞという声に促されて、まっさらな煙草ケースとお揃いのオイルライターを箱から取り出す。
品物は、やはりこれにして良かったなと思える出来映えで、晶はこれを使う佐伯を思い浮かべて満更でもなさそうに頷いた。裏を返して佐伯の名前が刻まれているのを確認し、その名前を指でなぞる。シルバーを削ってあるその部分は冷んやりとしており、晶の指先の温度を僅かに下げる。
「大丈夫です。これで」
「そうですか。では、プレゼント用にお包みしますので暫くお待ち下さい」
「お願いします」
皮の部分の焦げ茶色と同じ色の包装紙が広げられ、見ている前で綺麗にラッピングされていく。仕上げにベージュのリボンをかけられたそれは、華美ではないものの、とても輝いて見えた。
「それでは、品物はこちらだけで宜しかったでしょうか?」
「はい」
「またのご来店をお待ちしております」
頭を下げる店員に、どうもと一言返し、晶はプレゼントが入った真新しい手提げ袋を受け取ると店を出た。
耳に届くジングルベルの軽快なリズムが否応なしにクリスマスを盛り上げている。
――先のことは、今考える事じゃないよな……。
心の中でそう呟き、プレゼントの入っているそれを握りしめる。腕時計を見るために袖をめくり、晶はその時刻に驚きつつ小さく声をあげた。
「やばい! ……十五分過ぎてる!」
まだまだ時間があると思って悠長にしていた晶は、佐伯との待ち合わせに遅れていることに漸く気付いて慌てて駆けだした。
以前二十分ちょっと遅れた時に、佐伯が帰ってしまった事があるのだ。それは付き合いだした当時で、今はもう少し待っていてくれるとは思うが確信はない。
店のある現在地から西口の改札までは距離が結構あり、すぐに到着できるわけではない。
途中の信号が丁度赤になったのに舌打ちし、晶は歩道橋を走って改札口へと急いだ。
走りながら佐伯の携帯へ電話をかけてみたがサイレントにでもしているのか呼び出し音が数回鳴っては留守電になってしまう。
――まさかもう、行きの電車の中とか!?
しかし、待ち合わせは出発の時間より二時間も早く決めてあったのでそれはないだろうと思い直す。離れていく佐伯の後ろ姿がすぐに浮かび、晶の気持ちを焦らせる。
漸く見えてきた改札の周りを、晶は息を切らしながら見渡した。
手荷物はどんな大きさの鞄なのか、見つける目安に聞いておくべきだった事を後悔する。
――要? ……どこ?
人混みにまぎれていても、いつもならわかるはずの佐伯の姿が中々見つからない。暫くうろうろと改札の前を行き来していた晶だったが、姿の見つからない佐伯への焦りがピークに達した頃、背後から聞き慣れた低い声が届いた。
「随分と今日は斬新な髪型だな。晶」
――……え?
咄嗟に頭に手をやり、走ってきたことで崩れたヘアスタイルを整える。晶がまだ治まりきらない息を吐きながら振り返ると、笑いを堪える佐伯が立っていた。
「要!? 何だよ、行っちゃったかと思ったし」
佐伯の姿をみた途端、日頃走っていない体が一気に疲れを訴えかけ、晶は安堵と共に苦笑した。
周りの景色がぼんやりと滲んで佐伯だけが見えるようなそんないつもの不思議な感覚は、付き合ってから幾度となく経験してきた晶にとって馴染みのある感覚である。
抱きつきたい衝動を堪えて、晶は佐伯の腕を悪戯に掴んで体重をかけた。
「……ハァ……マジ、疲れた~」
「……どこから走ってきたんだ?」
「え? ……いや、結構向こう。わりぃ、遅くなっちゃって」
佐伯は一度口元を歪めると、乱れた晶の前髪を指で弾く。そして、ゆっくり歩き出しながらぽつりと呟いた。
「三十分までは待ってやる」
「――え?」
「待ち合わせの時間だ」
先を行く佐伯に回り込むようにして晶が顔を覗き込む。
「マジで? ってか、それを早く教えろよっ。こんなに走らなくても済んだのに」
「馬鹿言え。最初から教えれば、お前はもっと遅れるだろう? 新幹線に乗り遅れたらどうする気だ」
図星をさされて晶は口を尖らせる。
「遅れないって、今日はたまたま! ……だってさ……」
「――?」
「少しでも長く会ってたいし……な~んてね……」
照れ隠しでそう言ったあと、晶はニッと笑って前を向いた。
そんな晶に佐伯は苦笑すると再び歩き出し、晶もそれに続いて小走りで後に続く。
新幹線の発着駅である東京駅方面へ向かう駅の階段で、晶は手荷物と共に佐伯の手に握られている小さな紙袋に気が付いた。
クリスマスのプレゼントを渡すと前もって言ってあったので、佐伯側の用意したものがそれの可能性は高い。
そうは思う物の、紙袋はどうみてもプレゼントらしからぬただの手提げであり、ちらっと覗き込んだ中に見える物もラッピングなどは施されていないようである。中身を聞くなど、無粋なマネはしないが気にならないと言えば嘘になる。
あれこれと頭の中で想像を巡らせながら、晶は佐伯との距離を少し縮めて口を開いた。
「そう言えばさ。俺、この前、新店舗のオーナーになる件、正式に発表したんだ」
「ほう、そうか。いよいよだな。しかし……お前が店のオーナーとはな……」
「不安しかないって思ってる?」
「他にあるのか?」
「相変わらずひでぇな、ってか言った事なかったかもしれねーけど、俺、これでも一応経済学部卒だからな?」
「…………!?」
佐伯は滅多な事で驚いたりしない。それなのに、かつてないほどに驚いた様子で隣にいる晶に「信じられん」とでも言うような視線を向けた。
「はいはい、わかってる。言うとそういう反応されんのわかってたから、あんま言わねーようにしてんだよな。まぁ、留年ギリギリだったし? 成績は中の下だけどさ」
「……お前ほど見た目を裏切る人間を、俺は知らん。流石だな」
「いや、そこ感心されても嬉しくねぇし……」
「それなら、多少は安心か……。経営学も少しは勉強したんだろう?」
「まぁ……一応ね。もう、あんま覚えてねーけど」
そんな事を話していると、山手線のホームアナウンスが流れ、すぐに電車がホームへ滑り込んできた。
周りの人波に押されて乗り込んだ佐伯達は、東京駅へ着くまでは一言も話さなかった。混み合った車両の中、背後にいる佐伯の手が、見えない位置で晶の手をぎゅっと握る。
それがあまりに冷たくて、晶は暗くなってきている車窓に視線を向けたまま握る手に少し力をこめた。佐伯から伝わる体温を忘れることがないように……。
電車が駅へと到着し、ようやく人混みから解放されると、晶は大阪についての話題を佐伯に色々と切り出した。
美味しい店があるという情報、昔同じ店で働いていたホスト仲間がやっているホストクラブの話。どれも、内容はどうでもよかったのだ。話に耳を傾けながら、時々相槌をいれる佐伯もまた、何かを言いたそうに見えるのは、きっと気のせいなんかじゃない。
ただ、何か別の話題を口にしていないと余計な言葉を言ってしまいそうな自分が怖くて、晶は間を開けずに話題を提供し続けた。
「それから、後さ……。えっと、ほら……」
――それから、……それから……。もっと何か他の話題を……。
だけど、もう話す事なんて何も無かった。
佐伯が少しだけ困ったように微笑んで、「わかっている」と宥めるように頷く。多分口にしない言葉も気持ちも全部、佐伯には伝わっているのだ。そしてその気持ちは多分自分と一緒で……。
――そうだよな……。
晶は安心したようにそっと小さく息を吐き出す。珍しく穏やかな表情で佐伯がレンズ越しの目を細め晶の視線を捉えた。
「……晶」
「……何?」
「そろそろ時間だから、……ホームへ移動するか」
「あ、……うん」
新幹線の発車時刻が近づき、佐伯達はホームへと足を向けた。前にも後ろにも人は沢山いて、同じ階段を上っている。周りの人々も新大阪行きの同じ列車に乗るのだろう。
「座席さ、どこ? 窓際?」
「さぁな。むこうが送って寄越したから俺も知らん」
「そっか……ホラ、窓際だとさ、富士山見えるとか言うじゃん」
「こんな暗いと見えないと思うが」
「そ、そう……だよな」
佐伯は、苦笑するとホームの一番端、人気のない場所まで歩き、手に持っていた紙袋と旅行鞄を地面へと置いた。
風が強く吹き付け、佐伯の結んでいない長い髪を揺らす。夜になって気温はますます下がっているのか、互いに吐き出す息が視界を白く染め上げていた。寒さを凌ぐためにすぐに車内へ入ってしまうため、ホーム端に立っているのは晶達だけになっている。
晶は佐伯の腕を掴むと、手に持っていたクリスマスプレゼントを差し出した。もう、時間があまりない。
「これ、俺からのクリスマスプレゼント。開けてみて」
「ほう……。ここで開けてもいいのか?」
「うん。まぁ、要が気に入るかは保障できないけどさ」
佐伯は受け取った手提げ袋から綺麗に包装された包みを取り出すと、細い指先で包装を開いていく。
中から出てきた煙草ケースとオイルライターを眺めた後、オイルライターを取り出すとキンと音を立てて上蓋を押し上げて着火した。
佐伯の指先が、着火した炎で橙色に色づく。風で揺らめく炎はその小さな周囲を明るく照らした。
「……どう? 使えそう?」
心配そうに尋ねる晶に佐伯は微笑むと、自分の胸ポケットに入っていたライターを取り出す。佐伯の名前が刻まれている、以前晶が見たあのライターである。
佐伯はそのライターを晶の方へと手渡した。
「帰りにでも、処分しておけ」
「え? ……別に捨てなくてもいーんじゃねぇの?」
晶の言う台詞には耳を貸さず、佐伯は貰ったオイルライターと煙草ケースを大事そうにポケットへしまうと、晶へ振り向いてくしゃっと髪の中に手を滑らせた。
「大事な物は、一つしか持たない主義なんでな」
そう言って、有難うと小さく呟く。
ホームにアナウンスが流れ、発車時刻が二十分後に迫っている事を告げる。
背後から走ってきて慌てて乗り込んだ会社員は、今から出張にでも行くのだろうか、車内に入ると座席を探すような素振りで奥へ消えていった。晶は佐伯のスーツの端を引き寄せて顔を上げる。
一瞬だけ躊躇った後、言葉を続けた。
「一緒に大阪に来いって……一回くらいは、言ってくれるかと思ってた……」
「……フッ……。よく言うな。俺が言った所で、着いて来るような奴じゃない事ぐらいは、わかっているつもりだが?」
「まぁ、そうだけど……」
晶は苦笑して手を離し、ホームのずっと先の夜の景色に何かを探すように視線を彷徨わせ、そのまま呟いた。
「俺、東京好きだし……」
「そんなに魅力的な街か? お前にとってのここは」
「うん、……。眩しいくらい華やかで騒がしい場所なのに、フと気付くとすげぇ静かでさ……放っておけない魅力があるんだよな。んで、そんな場所で生きていくのが……俺らしいかなとか、思ってる」
晶の視線の先では、灯りだしたネオンが夜の時間を始めようとしている。この街で自分は生きてきて、この街で佐伯と出会ったのだ。
小さく見えるネオンのひとつひとつの中に存在する様々な人の想い。それは灯りが消えても、決して消えてしまうわけではなくて……。
佐伯も同じように遠くをみながら、晶へと言葉を続ける。
「東京だから好きな訳ではなく……お前の生き様が、そういう街と重なる部分があるから、惹かれるんだろう」
「そう……なのかな。俺も、よくわかんねぇんだけどさ」
晶のそう言った横顔が、佐伯の瞳に寂しく映り込む。佐伯は腕を伸ばすと晶の腰を引き寄せた。
ちょうど柱の影になる位置で、佐伯と晶の影が重なって長く伸びている。長くなった晶の髪を掻き上げると、佐伯はその耳元に囁いた。
「たまには違う街もいいぞ……」
吐息と共に届いたその台詞に晶が唾を飲み込む音が微かに響く。佐伯は地面に置いていた小さな紙袋から何かの封筒を取り出すと、晶のスーツの上着に差し込んだ。
──え? ……なに? ……手紙?
晶がそれを確認する前に、佐伯の唇が晶に重なる。巧に差し込まれた舌に歯列を割られ、狂おしいほどの愛しさが込み上げる。それでも、残った理性が飛ぶ前に、晶は腕の中で身を少し捩って腕から逃れようとした。
「ちょっ、……要、……んなとこでっ、まずいって」
佐伯はニヤリと笑うと、抵抗する晶の体を抱く腕に力を込める。長身の佐伯と錆び付いた柱に挟まれて見えないとはいえやはり恥ずかしい。一度離れた唇が、吹く風で一瞬にして冷たくなった。
「問題ない。俺はもうすぐ車内だからな……」
「なっ! ……待てよっ、俺が恥ずかしいだろ!? 一人で帰る時……、」
濡れた佐伯の舌がその台詞の返事のように差し込まれ、上顎をゆっくりと辿りながら動く。
──ダメだ……。
周りの目も、そして何より自分の体も、佐伯の口付けしかわからなくなる。甘美な誘惑は理性をいつも何処かへ飛ばし、その代わりに極上の愉悦を惜しみなく与えてくる。
晶は抵抗する力を失うと、きつく目を瞑った。
佐伯の薄い唇にあわせて自然に自らの唇を開く。晶も舌を返すと、佐伯の中を味わうようにゆっくり蠢かした。
──あと……少しだけ……。
最終アナウンスを耳で聞きながら、言葉にはしない想いを口付けに変えて晶は饒舌に語る。痺れるような熱が冷めないまま、佐伯は静かに口付けを解いて柱の陰から体を離した。
ようやく深く吸えるようになった酸素を求めて、晶はひとつ大きく息を吸う。濡れた唇がまだ熱を孕んで疼いている。
無意識に今佐伯が差し入れた胸ポケットの封筒に手をやり、取り出して開いてみると、中には東京大阪間の新幹線の回数券が何組か入っていた。
「……これ……」
「俺からの、クリスマスプレゼントだ」
佐伯は微笑むと、晶の唇へ自分の指先をそっとあてて悪戯に滑らす。
「……キスの余韻が消える前に、……会いに来い」
「……要……」
指定席の有効期限が三ヶ月しかないらしく、一気に大量には購入出来なかったのだと言って佐伯は少し不満そうに眉を寄せた。
いつでもすぐに会えるように……。
晶の気持ちを汲み取るようなそれに、晶は見透かされたようで恥ずかしい気持ちになる。しかし、渡された封筒の重みは、これから先の自分にとっては何よりも大切な物には違いなかった。
晶は礼を言うと封筒を嬉しそうに指で挟み、わざと大きな溜め息を吐いてヒラヒラと振って見せた。
「キスするのも一苦労……、ってやつ」
「悪くないだろう?」
「いいんじゃない? 回数券ならぬキスチケット」
「……フッ……」
発車のベルが鳴り響き、佐伯も手荷物を拾い上げる。後ろを振り向いた瞬間、風に乗って佐伯の髪から懐かしい匂いが届く。
「じゃぁな。お前も頑張れよ」
「うん……。要もな……体には気をつけて」
何かもう一言ぐらい、しかしそれを口にするまでの時間は残されていなかった。佐伯が乗り込むとすぐに晶の目の前でドアが音を立てて閉まる。
もう声は届かなかった。
閉まったドアにはめ込まれた硝子は、結露した細かい水滴で曇っている。その部分に佐伯が指を滑らせて文字を書くのを晶の視線が追う。
――Merry Christmas
筆記体で書かれたその文字を最後まで晶が読む前に、新幹線はゆっくりと発車し出した。どんどん遠ざかる佐伯を乗せた車両が見えなくなるまで、晶はホームに立ってその姿を見つめ続けた。
電車が去ったホーム。
何処かのビルの屋上で点滅するイルミネーションが晶の視界に入る。流れるような電飾は赤から緑へと変化し最後に金色に輝いて、また最初に戻った。
先程佐伯が指で書いたメリークリスマスという文字を再現しているそれを見ながら一度空を仰ぐ。
「……メリークリスマス」
晶は小さく呟くと肩の力を抜き、冷えた手をポケットに差し込む。佐伯の成功と、自分達の未来を願いながらホームを振り返らずにゆっくり歩き出した。
――耳に届く都会の喧噪と忙しなく行きかう人々の群れ。
――どんな時でも、時間は流れ続けている。
――だから、俺達の時間も、止まることは決してない。
――真夜中のステージの主役は、いつだって自分自身なのだから。
後書き
『俺の男に手を出すな04』を最後までお読み頂き有難うございました。
01の頃と比べると、少しは佐伯と晶の絆も強くなったのではないかなと思います。
やや危なっかしいCPですが、今後も変わらず喧嘩したり騒いだり落ち込んだり(主に晶が(笑))しながらも続いていくと思います。
連載中、佐伯や晶は勿論、脇役の玖珂や信二にまで時々声をかけてくださったりと、嬉しい事も沢山ありました。
まだ、終わるつもりはありません。いつかまたふと佐伯と晶の続きを書く事があるかもしれません。
その時はまた二人のことどうぞ宜しくお願いします。
読後、ご感想等があれば聞かせて頂けると幸いです。
2017/04/08 聖樹 紫音