新宿の街にはそう詳しくない信二が康生に連れて行かれたのは、奥の奥のさらに奥。
怪しい店しか集まっていないような裏通り。そこを抜けると、口紅を象ったネオンサインに重ねて『lipstick』という店の名前が輝いていた。
――口紅アピール半端ないな
と、ツッコミをいれつつ、ドアをあけた康生に続くと、想像していたのとそう違わない声が店内に響いた。
「いらっしゃ~い」
黒のエナメルピンヒールのサイズは多分28cm。
迫力がありすぎる女性(仮)に席に通され、信二と康生は一番奥のテーブルへと腰を下ろした。入り口は背を屈めないと窮屈なほど狭かったのに、店内は結構広い。何か重要な話があるっぽいというのに、連れてこられた場所はオカマバーである。何故この店を選んだのか。康生の行動がよく分からなかった。
「康生ちゃん、ひさしぶりじゃな~い! もう~! 寂しかった~!」
「俺も忙しいんだって。ママ、元気にしてる?」
「元気よ~。ほら、あ・そ・こ」
美鈴というネームを付けたホステスが嬉しそうに少し離れた席を指さす。そこには着物をきた凛とした女性がいかにも金持ちそうな紳士の接客をしていた。ママともなると本当に男なのが信じられない程の美人で、信二はその美貌に驚いて思わず二度見した。結い上げた髪の毛から零れる後れ毛がなんとも色気がある。
「ママの本命?」
康生がコートを脱ぎながら、笑って美鈴へ問いかける。
「そうなの。素敵よね~。私もあぁいう紳士的な方の接客がしたいわ~」
「へいへい、悪かったね。全く紳士じゃない俺で。あ、こいつ、俺の同期で、今は同じ店のホストしてんだけど。信二って言うんだよ」
適当な感じで突然紹介され、苦笑しつつ信二も名刺を取り出して美鈴へと挨拶する。
「初めまして、信二です。宜しく」
「信二君って言うのね~! 私は美鈴、宜しくね」と笑顔で返した後、ふと考え込むように首を傾げた。
「ねぇ? 信二君ってもしかして……麻布店に、前に居たことあったりする~?」
「え? 何で知ってるんっすか? 俺、ここ来る前、ずっと麻布店だったんっすよ。新宿は来たばっかで」
「あらやだっ! じゃぁ、茜の事も知ってたりするの?」
「茜さん!? 知ってるも何も、俺、結構世話になってたんっすよ。丁度同じビルの階数違いだったんで。お知り合いですか?」
美鈴が大袈裟に驚いた後、嬉しそうに握手を求めてくる。腕を掴まれ強引な流れで美鈴と握手をしていると康生がそれを見て笑い声を上げた。
美鈴の話によると、茜とは古い付き合いで姉妹みたいにしているという事だった。そこはやはり「兄弟」とは言わないんだなと納得していると、美鈴は茜から晶や自分の事をよく聞かされていたと付け加えた。麻布店が開店の時に、店にも一度来てくれたそうだ。
「そうだったんだ。世の中、マジ狭いっすね~」
「ホントね~! 茜も寂しがってたわ、たまにはあっちにも顔出してあげてよぉ」
「ですね。俺も久々に茜さんにも会いたいし、今度、晶先輩誘って顔見に行くって、伝えておいて下さい」
そう言って笑みを浮かべると、美鈴は何故か信二の隣に詰め寄って横から遠慮無い視線を送ってきた。横を向くとうっかりキスしそうなほどの距離である。そうなるわけにもいかず、信二は視線だけを美鈴に向けた。
「よく見ると、信二君って可愛いわ~。お肌もすべすべっ! 今お幾つなの?? 聞いてもいいかしら?」
「あ、全然いいっすよ。俺は二十三です」
「えぇ? 康生ちゃんとほぼ一緒じゃないの」
「一歳違うだけっすね」
「うんうん、でも、そこのゴリラとは大違いね。私気に入っちゃったかも……」
「ゴリラで悪かったな」
体格だけはゴリラにも遜色ないので、美鈴の康生への例えに思わず笑ってしまう。
しかし、美鈴はそう言うが、康生のように如何にも男らしいのが好きな女性客も結構いるのだ。野性味のある端正な顔とラグビー部で鍛えた体、豪快な飲みっぷりも含めて、どちらかというと若い子よりは年上のお姉様達に人気だ。
そんな事を考えていると美鈴の指がすっと伸びてきた。頬を撫でられながら目を細められ、可愛い柄の名刺を胸ポケットへと入れられる。
「これ、名刺ね。今度は一人で飲みにいらして~」
「有難うございます~。じゃぁ、今度来たら美鈴さんを指名しよっかな」
「ホント!? いやん、楽しみにしてるわ~」
かなりグイグイくるタイプではあるが好意を持ってくれていると思うと可愛く見えてくるから不思議である。美鈴に火を点けてもらい煙草を吸い出すと、康生がストップをかけるように美鈴の肩を叩いた。
「美鈴ちゃんさー、悪いんだけど。今日俺、こいつとちょっとマジな話があんだよ。誰も卓に着かなくて良いって言っといて。こっちは適当にやるからさ」
「あらぁ、残念。そうなのね? うん、わかったわ。何かあったら声掛けて頂戴ね。私、信二君には何でもしてあげちゃうから」
「はいはい」
ボトルとグラスや新しい灰皿を用意した後、美鈴は「ゆっくりしていってね」とウィンクをして奥へ入っていった。
「お前、自分で作る?」
「ああ、うん」
二人でそれぞれ自分で水割りを作る。美鈴が去った後、康生がこの店を選んだ理由がわかった。他の店舗より卓同士の間仕切りが高く。個室ではないがそれに近い物がある。慣れた店なので、人払いをすればこうして聞かれたくない話をするにはもってこいの場所なのだろう。
「飲みに行くって言うから、居酒屋かと思ってた」
「居酒屋だとうるせーじゃん。周りがさ。それにここ、俺の一番の行きつけだから」
「みたいだな。仲良さそうだったし」
「ママとは、付き合い長いからな~俺」
「へぇ、そうなん?」
「ああ、俺がまだ十代だった時、新宿に遊びに来ててさ。ナンパしたらここのママだったんだよ」
「マジかよ……。ってか、ママすげぇ美人だけどさ。普通十代であの年齢の女性ナンパするか? 勇者すぎだろ」
「まぁな。俺もガキだったから、なーんも考えてなかったっていうかさ」
「今だって、何も考えてねーじゃん?」
そう言って笑うと、康生がふざけて殴る真似をしてくる。
「うるせーな。それよりさ、信二。お前美鈴ちゃんに気に入られて良かったな。あいつ怒るとすんげー怖いから注意な」
「いや、注意って。怒らせるようなコトしねぇよ」
「まぁ、そっか。だな」
怖い物知らずの康生が「怖い」というぐらいなのだから、余程なのだろう。信二はこの時、美鈴だけは怒らせないようにしようと固く心に誓った。
今夜もすでに結構飲んでいるので、作る水割りは薄めにしつつ喉を湿らせる。康生が入れているボトルは、もう半分以下になっていて、この店が彼にとって一番の行きつけだという言葉を裏付けていた。
ジリジリと口元にのぼってくる火種に視線を向けたまま、中々本題を切り出さない康生に少し焦れていると、二本目の煙草を吸い出した康生が手にしていたグラスを置き、徐に顔を向けた。
「……お前さ、蒼先輩の、昔のこと知ってる?」
「昔って? CUBEにいて、そこのNo1だった事は知ってっけど?」
「いや、もっと昔」
もっと昔? 楠原の過去で知っているのは今言った事のみだった。
「いや、知らない。なに、康生は知ってんの?」
「ああ。俺の姉貴、キャバ嬢なの知ってんだろ?」
「うん」
「その姉貴から聞いた話なんだけどさ。蒼先輩、CUBEの前に横浜にあるホストクラブにいたらしいんだよ」
「……へぇ」
「まぁ、昔の話だからあれだけど……。結構えげつないやり方で客から金取ってたみたいでさ。当時は陰で、クズハラなんて揶揄ってる奴もいたらしい」
「……蒼、先輩が? 同じ名前の人違いだろ……?」
「疑ってる? でもマジだぜ。姉貴が前に居た店で、当時の蒼先輩から散々金搾り取られたホステスがいてさ。その子は、破産前に手を引いたから良かったけど。蒼先輩を指名してた他の客の中には、何人か売り掛け溜まって泡に沈んだって話」
信じられない言葉が、耳の中で木霊する。あんなに女性に対して紳士的な今の楠原が、過去にそんなホストだったなんて信じたくなかった。
綺麗事だけではないのはわかっている。
自分も新人の頃に売り掛けを残して客が飛び、晶が全額を肩代わりして出した事もあった。あの時、晶が肩代わりしてくれなかったら別の方法でその女性客からなんとしてでも金を支払って貰うか、もしくは自分が全額を借金するしかなかったのだ。
経験は無いが、その場合支払いが滞った客に性風俗を紹介し体で金を作らせ、その金を売り掛けの代金として徴収するという仕組みがある。所謂、泡に沈めるという方法だ。
そんなやくざまがいの事を楠原がしていた。
康生が嘘をついていないこともわかるのに、俄に受け入れられない自分がいる。
「信二、聞いてるか?」
「……。……聞いてるよ。でも……正直ちょっと信じらんないっつーか……」
「まぁ、俺も最初聞いたときは、嘘だろ? って思ったしな。でもさ、この話には先があって……。普通そんな思いさせられたら、女の方も目が覚めるだろ? ああ、自分は金のために使われてたんだって」
「……まぁな」
「ところが、そう言う目に遭っても、まだ蒼先輩のことが忘れられなくて、自ら体売り出す客も大勢居たらしい」
「…………」
ある意味、楠原がそれだけの事をしてでも手に入れる価値がある男だと、思われていた証拠である。
体を売らせてまで搾取するその方法が正しいとは全く思えないが、間違っていると断言できるほどの行為でもない。
ホストだって仕事なのだから、それ相応の金が支払われないとやっていけない。その場合やはり、自分の資金力の限界を顧みず、ホストに入れ込んだ客側に非があるという事になる。
だけど、その限界は接客していればわかるもので、こちらもそうならないように気をつけてあげていれば普通は問題が起こらないはずなのだ。
「その事が本当なら、ショックだけどな……」
「ああ。今の話はかなり昔の話でさ。CUBEに移ってからは人が変わったみたいにすっかり真面目になったらしいけどな」
「そっか……。じゃぁ、今の蒼先輩は、CUBEの時からは変わってないって事か……」
「だな。まっ、蒼先輩の黒歴史みたいなもんなんだろうけどさ」
「うん……。でも、そんなに人間って変われるもんかな。 CUBEで、何かあったとしたら……わかんねーけど」
正義感が人一倍強い信二の事だ。酷いホストだった楠原の過去を聞いて、もっと引くと思っていたが、その過去を含めたまま受け入れて心配げに呟いた言葉に康生は眉を顰めた。
「おい、お前その反応おかしくないか?」
「何でだよ」
「普通こんな話し聞いたら、もう蒼先輩に関わるの控えようかなとか思うだろ? 何、その心配げな感じ」
信二は少し慌てたように、目の前のグラスを煽った。
「俺だって、最低だなって思ってるよ。今もそのままだったら、流石に引くし。だけど、随分昔の話なんだろ? 誰だって、過去に間違いの一つや二つあると思うし。まぁ……蒼先輩のは規模がでかいけど……」
「そうだけどさ。……あのさ、信二」
「……?」
「お前……、最近あんま晶先輩にべったりじゃなくなったじゃん?」
「そ、そうか? そんな事ないけどな。あ、ほら。晶先輩やっぱ忙しくて店に居ないとき多いじゃん? だからっていうか……」
「それならいいんだけどさ。……その分、最近よく蒼先輩と話してるから……」
「それは……、幹事とか二人で任されてるから業務連絡とか色々あんだよ」
康生がいつになく真面目な顔で、信二の空になったグラスにウィスキーを注ぐ。少しの沈黙の間、他の客の聞き取れないほどの話し声とBGM、グラスの中で溶け出した氷がカランと音を立てるのが響いた。
「……あんま、あの人には関わらない方がいいんじゃねぇかなって。余計な世話かもしんねーけど、お前、お人好しだからさ。友達として忠告してやってんだよ……」
「…………」
「先輩として慕ってるうちに、イロコイで毒飲まされて、墜ちるのは客だけじゃねーぞ……」
康生の言葉に反論したいのに、何も言葉が出てこなかった。
今までどんなプライベートのことを話しても、そんなに深く踏み込んでくることはなかった康生が、ここまで言ってくる。その意味だけでも十分伝わる。
ホストになりたての頃、二人で玖珂に説教されたことも。互いに初指名をもらった時にあげた祝杯も。その頃からずっと付き合ってきた。康生がいい奴なのもよく知っているし、親友でもあると思っている。だから、あえてこうして教えてくれているのだ。
真っ直ぐに進みすぎて周りが見えなくなる自分の性格をよく知っているから。
だけど、もう手遅れなのかも知れない。
康生が言うその毒は、音もなく、いつのまにか体に入り込んできて、気付けばその毒すらもう自分の一部だ。そして、解毒剤が今目の前にあったとしても、それを手に取ることはないと、そう思った。
「わかってる……。有難う、心配してくれて」
康生も多分、自分がこう言った所で受け入れるかどうかはわからないという事も理解しているだろう。少し眉を顰めたままグラスの酒を飲み干すと、空になったグラスの氷を指先でクルリと回した。
人は、確信のない出来事を話す時、声が小さくなる。
「……俺、見ちゃったんだよな……」
そう言った康生の声はやはり小さくて、信二は先の言葉を誘導するように答えた。
「見ちゃったって、……何をだよ」
「この前、酒をネクタイにこぼしちゃってさ。厨房でちょっと濯ごうと思って行ったら……蒼先輩がいてさ」
「……うん」
信二の鼓動が早くなる。それを誤魔化すように素早く煙草を取り出すと火を点けた。
「……何か薬? みてぇの飲んでたんだよ……。俺が行ったらすぐにそれ隠してさ。入れ替わるように出て行ったんだけど。あれ……まさか、ヤバ――」
「――やめろよ」
康生の言葉を遮るようにして否定し、信二はその先を強引に止めて視線を落とした。驚いたように康生が目を丸くする。
「何だよ、急に」
「いや……」と、声が震えていないかを短い言葉で確認し、感情が出ないように抑えつけて先を続ける。
「お前が、変な事言おうとすっから……。蒼先輩、風邪引いてんだよ。大したことないらしいけど、中々治らないって昨日も言ってて、咳が出ると客に失礼だから、咳止め飲んでるって言ってたし。多分、その薬だと思う。俺も何回か見たから」
――おかしくないよな? 咄嗟に康生についた嘘に矛盾がないかを考える。
「なんだ、……そっか。んじゃ、きっとその薬かもな。わりぃわりぃ。いやほら、さっきの話姉貴に聞いた後だったし、CUBEの事件もあるしさ。これは、俺の早とちりだった」
「CUBEの件は、蒼先輩も辛かっただろうしさ。そういう疑うような事は、さすがにやめようぜ……。店でぎくしゃくすんのもやりづらいし」
「そう、だな……。俺が悪かった。すまん」
素直に反省する康生の言葉に、胸がチクリとする。元々嘘をつくのは得意じゃない。まして、親友相手にこの手の嘘をつくなんて……。そう思うけれど、こう言う他に方法がなかった。
胸が痛むのは嘘をついたことだけでなく、康生が言おうとしていたその先……。それと同じ事を、昨夜、一瞬自分でも考えてしまったからだ。
CUBEの覚醒剤絡みの事件、店がなくなった直後から半年間行方を眩ませていた楠原。昨晩一緒にいた時におこした体調不良は、覚醒剤に関係するフラッシュバックなのではないかと……。腹が立った。楠原を思って信じているはずの自分がそんな事を考えている事に。康生を諫める資格なんて本当は、これっぽっちもありはしない。
認めたくないけれど、出揃ったピースをはめ込んだ先、辿り着く先は多分皆同じで。だけど、康生にはまだピースがひとつ足りない。
薬を飲んでいる所しかみておらず、あの発作が楠原におこる事を知らない。だからこそ、今こうしてうまく誤魔化せたのだ。どうしても知られるわけにはいかない。
本人に必要ないと思われても、それでもいい。ただ、楠原を守りたかった。
* * *
あの日、楠原に助けは要らないと拒否されたのを境に、楠原とはちゃんと話す機会を持てずにいる。
少しずつ距離を縮めていたはずが、気付いたら知り合った時と同じ距離まで離されている。寧ろその当時より酷いかも知れない。
今まで何も考えずに話しかけていた筈なのに、今となってはそれすら出来ないのだから。
相変わらず指名が多い楠原とは空いている時間が合わない。その理由を自分の中で何度も積み上げて「だから自然にそうなっただけ」と言い聞かせる。――たった一度拒否されただけなのに……こんなに自分が臆病だなんて、知りたくなかった。
現に今だって、先ほど店に入ってきた楠原が少し調子が悪そうだと気付いているのに、「大丈夫ですか?」の一言でさえ掛けることが出来ずにいる。交わす会話は仕事絡みの事だけだ。
上滑りの挨拶をしながら、飲みこんでいく言葉が胸に詰まっていく。
信二は壁により掛かると、煙草を咥え、紫煙と一緒にうまくいかない気持ちを悔しげに吐き出した。
ここ数日の楠原は、店には毎日出ているものの明らかに調子が悪そうな日がある。多分これは自分が気になって観察しすぎているせいで、客や他のホストにはわからない程度なのかも知れないが……。
そんな日はきまって、楠原が客の入れ替えで卓を離れる度に心配で堪らなくなり、何度もその背中を視線だけで追ってしまう。追いかけそうになる足を踏み留める時の気持ちは、経験の無い物だった。
客のいない裏の廊下で眼鏡を外し、疲れたように目を隠して立ち止まっているのを見た時、健康体だなんて本当は嘘なのではないか、そう思った。
自分の知らない場所で全てが良くない方向へ進んでいき、こうしているうちに何もかも失ってしまうのでは……。そんな言い表せないような不安が襲ってくる。
そしてもう一つ、気がかりなことがある。
偶然街で楠原を見かけたのだが、それが二回ともあの歩道橋だったことだ。一度目は夕方の店が開く少し前。自分は客と同伴だったのでその姿を遠くから見ただけではあるが、あれは確かに楠原だった。楠原は、あの発作が起きたのと丁度同じ、歩道橋の上で何か考え込むように街を見ていた。
二度目に見かけたのは、昨日店が終わってから。後輩と一緒に駅前のタクシー乗り場まで向かっている時だった。楠原はやはり同じ場所に立っていて、あの日の少女のように行き交う車道をずっと眺めていたのだ。信号が何度も赤から青に変わり……寒い風が吹いてもずっと、まるで周りが見えていないかのように。
ただの偶然なのか、それともあの場所に意味があるのか、何も分からない……。
「信二さん? どうかしたんですか??」
後輩に声をかけられてはっと気付くまで、楠原を見続けていた自分に気付く。少し先に行って、不思議そうに自分を見る後輩に曖昧な笑みを浮かべ、「野暮用を思いだしたから、先に帰ってくれ」と告げる。
その後、暫く一人で様子を見ていたのだが、結局楠原はあの場所から一歩も動かなかった。
見かけたのはその二回だけだが、もしかしたら頻繁にあの場所に行っているのかも知れない。
知らない事が多すぎて、何も出来ないまま時間だけが過ぎていく。
信二は吸い終わった煙草を指で挟んでカウンター内に入っていくと、水の入っているアルミ缶の中にそれを落とした。煙草の巻紙が水を吸って沈んでいく。僅かに残っていた茶色の葉が、緩くなった巻紙から溢れて音もなく広がっていった。
今日は楠原と二人で先日きめた店での親睦会の日である。
全員が集合して行くわけでは無く、参加者には場所を伝えてあるので現地で集合という事になっているが、店の後輩や晶とは、行く前に店で待ち合わせているのだ。信二は、カウンターから出ると、晶の側へと寄った。
「これで、全員じゃないっすか?」
最後に入ってきた康生で揃ったはずだ。
「ん? あー、そうみたいだな、よしっ!」
晶が添乗員のように一人、二人と指をさして確認する。信二も同じように見渡してみたが、大丈夫そうである。
「みんないるっぽいっすね」
「だな、んじゃ~、行くか! あ、俺、最後に店の鍵閉めっから、先にお前ら出てていいぞ」
「了解っす」
ぞろぞろと全員で店を出た所で、晶を待つ間エレベーター前で待機する。薄暗いビルの廊下は窓も遠く、蛍光灯が不健康そうな灯りで照らしているだけだ。
「蒼さん」
階数表示の横にもたれかかって皆の様子を見ていると、側にいる楠原に後輩が声をかけている。しかし、楠原はまるで聞こえていないように反応を返さず、後輩が不思議そうにもう一度顔を覗き込んで声をかけた。
「蒼さん?」
「え? ……ああ、すみません。どうかしましたか?」
「いや、今日の店って蒼さん達が決めたんですよね? 何の店かなって思って」
「ああ、最初に行く店は、中華料理のお店ですよ。大皿が多いので大人数だと丁度いいと、信二君と話して決めたんです」
チラッと信二の方を見た楠原は、すぐに視線を外した。信二は話に乱入するフリをして、わざと楠原の隣に行く。
「そうそう、一人で中華とかあんま行かないしさ。お前、中華食えるよな?」
「はい! 中華料理大好きです。オレ、もう腹減ってきました」
「早すぎだろっ」
信二が後輩の言葉に苦笑していると、楠原も小さく笑う。そうこうしているうちに晶も店から出て来て、全員でエレベーターへと乗り込んだ。定員数には達していない物の、一気に全員で乗り込むとかなり窮屈である。
幅を取っている康生をふざけて肘で押すと、康生が「先生、信二君がパワハラしてくるんですけど」とおおよそ似つかわしくない発言をして皆を笑わせる。
「パワハラはまずいっしょ。んじゃ、信二君は放課後、体育倉庫の裏な」
「晶先輩、それ、先生じゃなくてただのヤンキーっすよね」
しかし、問題はそこではないらしい。一番背後にいた後輩がさらりと言う。
「あ、体育倉庫の裏とか屋上とか、鎖あったり鍵かかってて入れないですよ。オレの時はそうでした」
晶が、「これがジェネレーションギャップなのか……」と言いながらがっくり肩を落とす。
確かにそれもあるだろうが、十歳近く年上の上司である晶に平気でそういう事を言えてしまう後輩の方にビックリした。康生も同じ事を思ったのか、後輩の頭を勢いよくはたくと「んなもん、鎖乗り越えて行くに決まってんだろーが」とドスをきかせた声で言い後輩を睨む。勿論冗談ではあるが。
晶は甘すぎるし、康生はやりすぎ。後輩は「いてて」と康生にはたかれた後頭部をさすっていて、結果的には和やかなムードなのでこれでいいのかもしれない。
一階に到着してビルを出た途端、晶が「あー」と空を仰いだ。
「どうしたんっすか?」
「いや。俺、もう腹減ってきたんだけど」
後輩と全く同じ事を言いだす晶に、思わず全員が吹き出す。
「何だよ、みんなで笑うとか、俺そんなにおかしい事いったか?」
「さっき、オレが同じ事言って、信二さんに「早すぎだろ」って言われたばっかなんですよ」
「マジで? でも、仕方ねぇよな。本当に腹減ってるんだから。今日は昼メシも食いそびれたしな~」
「また、店に泊まったんっすか? ダメだって言ってるのに。後、メシはちゃんと食って下さい。倒れたらどうするんっすか」
多忙なのはわかるが、晶は自分の私生活には案外無頓着なのでいつか体を壊すのではと心配になる。つい小言めいた事をいつものように口にすると、「お前は俺のオカンかよ」と笑って突っ込まれた。
後輩と意気投合して笑い合う晶から少し遅れて楠原がいる。
現地集合なので、最終的にはこの倍になる人数が集まるわけだが、すでに信二達は異様に目立っていた。それぞれが私服ではあるが、晶と楠原は特にオーラが違う。二人ともほぼ黒一色な所など、共通点は多いが、纏う雰囲気は晶が動で楠原が静といった感じで対極だ。
晶は後輩との会話の区切りが付いたほんの一瞬、楠原の方を見ると、何かに気付いたようにそのままゆっくりと歩くスピードを落とした。前にいる康生達と後輩は、中華料理では何が好きかを話している。
康生が「お前ら、嫌いな物あったら全部俺が食ってやるから、遠慮なく言えよ」と言っているが、嫌いな物ではなくても分け前以上に食べるのは目に見えている。いい大人が何を話しているんだか、その会話に思わず小さく吹き出しそうになった。
今日は全員オフなので、やはりどことなく緩んだ気分なのだろう。だけど、全員揃ってのオフなんて多分もうこの先ないだろうし、たまにはこういうのもいいのかもしれない。何せ『親睦会』なのだから。
微笑ましい気分でその様子を眺めていると、楠原に並んだ晶が小声で話しかけているのが耳に届いた。
「幹事、お疲れさん。楠原も忙しいのに、全部丸投げで悪かったな」
「いえ、信二君も一緒だったのですぐに決まりましたから。それに、オーナーよりは時間がありますよ。昨夜も店へ泊まってらしたのですか? 先程、信二君も言っていましたが……」
「あーうん。そうなんだよ。まっ! でも四時間は寝たからへーきへーき。幹事、お前らに任せて良かったわ。康生とかに任せたら、量がすげぇってだけの店選びそうだしな」
晶が冗談を言って楠原が「そんな事はないとは思いますが」と笑みを浮かべる。
その後、暫く間を開けた後、晶が心配そうに口を開いた。
「楠原」
「はい……?」
「調子、……悪そうだけど、大丈夫か?」
「……え」
流石に晶は鋭い。信二以外誰も気付いていないと思ったのに、先程一瞬楠原を見ただけで気付いたのだろう。咄嗟に言葉を返せなかった楠原が、隠すように「いえ」と切り出す。
「オーナーと同じで少し寝不足なだけです。調子が悪いと言うほどの事ではありません」
「そう? んじゃ、いいけどさ。お前この一週間、同伴とアフター連続だろ」
他の業務でも忙しい晶は、それでも全員のスケジュールを把握しているらしい。従業員の様々なケアもオーナーの仕事なのだから当然なのかも知れないが、ふざけているようでやることはやっている晶に益々尊敬の念を抱いた。
「たまたま、重なった日が連続しただけです」
「そっか。稼いでくれんのは、店としては有難いんだけど、あんま、無理すんじゃねぇぞ? 健康第一! ってどっかの誰かも言ってるしなっ」
「有難うございます。でも、本当に大丈夫ですから」
「幹事の仕事とかさ、今日は信二に任せとけばOKだし、楽にしとけ。あいつそういうテンション高い役得意だから」
そう言って信二にニッと笑ってみせる晶に信二も小さく笑う。
「一応、聞こえてるんっすけど」
「あれ? 聞こえてた?? 信二が最近ホストとして素晴らしい働きをしているな! って楠原と褒め称えてたんだけど」
「どんだけ、嘘盛り込むんっすか。蒼先輩も、何かフォローして下さいよ」
「フォロー? 信二君が如何に素晴らしいホストかを説明すればいいんですか?」
「そうじゃないでしょ!? 何なんっすか、二人とも」
二人の顔を見てがっくりと肩を落とすと、晶と楠原がその様子を見て笑う。こうして二人きりじゃなければ、楠原との会話もいつも通りである。どこかほっとした気分で、信二は晶の隣へと並んだ。
「そういえば、晶先輩の歌聴くのめっちゃ久々っすよね。レパートリー増えました?」
ギクッとしたような晶が、信二を軽く睨む。
「お前、痛いところ突いてくるよな。俺に新曲の練習してる暇とかあるわけねーだろ。同じ歌歌うに決まってるっしょ」
「いや、別にそれがダメとか言ってないじゃないっすか。ラスソンのテンションでお願いします!!」
「おう、任せとけ! ――……あ、フと思ったんだけどさ、楠原の歌聴くの俺初めてかも」
「いや、俺も蒼先輩の歌聴いたことないっすよ?」
ラストソングも選曲のみなので、どんな曲を歌うのかも全く分からなかった。晶と二人で楠原の方へ振り向くと、楠原がおかしそうにくすりと笑う。
「もしかして、期待されているのでしょうか? 困りましたね」
「楠原がカラオケしてるのとか、ちょっと想像できねーからさ。興味あるわ~」
「楽しみっすよね!」
うんうんと頷いていると、楠原は涼しい顔で言ってのける。
「歌える曲は新旧併せて三十曲はありますよ。週に三回は、一人でカラオケに行って練習していますので」
――マジで!?
――マジっすか!?
あまりの驚きに晶と声が揃ってしまう。信二はともかく晶まですっかり信じて驚いている様子に、楠原はほんの少し困惑気味に笑った。
「あの、……冗談ですよ……? お二人とも、真に受けないで下さい」
晶が急に自分は騙されたわけではないというように咳払いをする。
「俺は、ちゃんとジョークだってわかってたけどな」
「数十秒前に『マジで?!』とか言ってたのは幻だったんっすかね?」
「空耳じゃね? 信二、お前すーぐ人の言うこと信じるからな~。そのうち誰かに騙されても知らねーぞ」
「確かに……。僕も、少し心配ですね」
「蒼先輩はいいっすけど、晶先輩には言われたくないっす!」
ズルい晶に信二が苦笑する。やはり晶との会話は楽しい。返ってくる答えも、相手がどう受け取ってくれるかも、わかっているから。何年もこうして話してきた経験による心地よさは、きっと他の相手ではうまくいかない。自分にとっての晶は、やはり永遠の憧れの先輩なのだ。
信二は笑みを浮かべている楠原へ視線を送る。
それに気付いた楠原がゆっくりと信二へと振り向いた。
笑みを浮かべるようにかたどった唇。透き通るような白い肌は、体調のせいか白さを増し、睫の影さえも色濃くうつす。深いオリーブがかったその双眸の奥には冷たい静寂があって、信二にはそれが救いを求めているように揺らいで見えた。
先日、康生が言っていた楠原の過去を思い出す。
過去を変える事なんて、誰にも出来やしないのだから……。
信二は「……俺は」と一言小さく呟くとポケットに手を入れ、大きく足を踏み出して振り返った。
「自分が信じてる相手になら……、騙されてもいいっすよ。俺は、俺のやり方しか出来ないんで」
「え?」というように首を傾げる晶に悪戯な笑みで微笑むと、信二は前を歩く康生達に追いつくように、足を速めた。
信二の言葉を聞いて、楠原が辛そうに眉を顰めて俯く。しかし、その様子に気付いた者は誰も居なかった。