俺の言い訳彼の理由11


 

 渋谷を自宅前で降ろし、玖珂を乗せたTAXIは再び走り出す。突然の告白に渋谷は最初、驚いていた様子を見せたがTAXIを降りる頃にはいつもと変わら ない態度で接するようになっていた。自分がそういう目で渋谷を見ていると知り、嫌な事を思い出させてしまうのではないかと危惧していたが、渋谷が拒絶を表 すことはなかった。
 伏せた睫を僅かに震わせ、そのまま目を閉じた渋谷に玖珂は見惚れていた。雨に濡れた彼の薄い唇へ自分のそれを重ねた瞬間、その愛しさを確信する。
 渋谷にも告げたが、玖珂は答えを急く気は全くなかった。それが一年後でも、明日でも、渋谷が受け入れる気になるまでは今のままの関係で満足だった。ゆっくりとした過程で彼の心が解けていけばいい……。今もそう思っている。
玖珂はさっきまで隣にいた渋谷に想いを馳せて窓の外の景色に視線を移した。
 
 
 TAXIはそのまま方向を変え走り続け、玖珂が店の前に到着したのは丁度12時を回った所であった。
土曜の夜でもある今日は、一般的に明日が休みというだけあり普段より客足が多い。賑わいを見せる店内を覗いてから再び店を出て邪魔にならないように裏口か ら入り直す。ドアの前に置いてある傘立てに傘をさして一度空をみあげれば、雨はまだ当分止みそうになかった。渋谷との余韻に浸る暇もなく、玖珂は仕事の顔 へと切り替える。
 裏口から少し入った所で、指名待ちのホスト達が何やら小さな声でヒソヒソと話しており、入ってきた玖珂にやっと気付くと慌てて挨拶をしてくる。

「あ!オーナーお疲れ様です」
「あぁ、お疲れ様。どうしたんだ?そんな所でコソコソ話していて、何かあったのか?」
「あ…いえ……」

 玖珂に質問されたホストはまだ新入りで名は矢崎という。「どうする?」とでも言うように隣の仲間に目で合図をしている矢崎を見ながら、揉め事でも起きた のかと再度問うが、矢崎はどうにも要領を得ない。不思議に思っている所へフロアからもう一人のホストがこちらへ歩いてきた。玖珂がいるとは思わなかったの か、あからさまに不機嫌そうな顔をしたまま玖珂に気付かず待ち部屋へと入って行くのを見て玖珂が溜息をつく。

「オーナー、実は……」

 言いづらそうに話し出した矢崎の話しだと、今フロアにいる客の中の一人がどうやら問題になっているらしい。
玖珂がオーナーを務める【LISK DRUG】では指名制をとってはいるが、限度を超えた縛り指名はあまり歓迎していない。しかし、その客は一昨日の入店時から店が閉まるまでの間、一時も離 れず店のNO1でもある桐原を指名し、席を立とうとすると泣き出す始末だという。それが続いているというのだ。桐原は店でNo1を張るだけあり、指名本数 もそれに伴い多い。一人の客の卓へとずっとつく事は通常難しいのだ。
 変わりのホストが何人か宥めるために席についても、絶対に桐原でないとダメだと言って聞かないらしく、仕方無く現状桐原が席についているのだそうだ。し かしそうなると当然ながら、他の桐原を指名した客が怒って帰ってしまう。それが原因で店のホスト達の雰囲気が悪くなっているという事らしい。

「何話しかけても『桐原くん以外とは話したくない』って言っちゃって……俺も惨敗だったんですけど……」

 一度その客の席に着いた矢崎が疲れたように玖珂に愚痴る。先程戻ってきたホストもどうやらその客に同じ目に遭わされたらしい。矢崎のような入店して間も ないホストは不満だけで済むかもしれないが、No2やそれなりに固定客を持っているホストがこれをやられるとプライドがあるため、態度には出さなくても純 粋に客をもてなせなくなる事もある。

「そうか……事情はわかった。それで?今も桐原が席に着いているのか?」
「ええ、そうです……」
「……じゃぁ、悪いが桐原をここに呼んできてくれ」
「え?桐原をですか?」
「あぁ、お前達も、桐原がきたら一緒にきてくれるか」
「わかりました。じゃぁ、ちょっと俺、呼びに行ってきます」

 玖珂はそう言い残してオーナー室へと入る。備え付けの鏡で全身をチェックすると少し乱れた髪を後ろへと撫でつけた。
濡れたスーツをハンカチで軽く拭い、ロッカーを開くと何十本も並んでいるネクタイの中から、少し明るめの物を取り出し、今締めているネクタイと取り替える。
 デスクへと腰掛け、酒の在庫確認と仕入れの時期をタブレットで確認しながら一服する。暫くしてドアをノックする音が聞こえ桐原達が入ってきた。
玖珂はホスト達を大声で諫めたり、きつく叱ったりした事は一度もないが、やはり若手のホスト達からしてみればオーナーに呼ばれたとなれば緊張するのだろう。
ドアを後ろ手で閉めた桐原と矢崎達数人が落ち着き無く玖珂の顔色を窺っている様子がわかる。玖珂は吸っていた煙草を灰皿で揉み消し顔を上げる。

「だいぶ、ご執心のお客様がいるようだね。さっき矢崎からだいたいの話しは聞いたが」  
 
優しくそう言えば桐原はいくらか緊張を解き、事の成り行きを説明し出した。

「なるほど、ね」
「俺を指名してくれた客とかも怒っちゃって大変で……」
「3日も続いてるなら、もっと早く対策をとるべきだったな」
「すみません。最初は俺達でどうにか出来るって思ってて」
「いや、別に怒っているわけではないんだ。自分達で問題を解決しようとするのは大事な事だからね」
「……はい」
「ただ、その範囲をちゃんと見極められるようにならないといけないな」
「……はい」
「俺もここ最近は新店舗の件で、留守にしがちだったからな……早く気づけなくてすまなかった」
「いえ……そんな」

 桐原はホストとしてよくやっている。その仕事ぶりに文句はなかった。しかし、今はさすがに辟易しているのか、その表情は表で我慢している分、少し苛立っ た物になっていた。こういう雰囲気はすぐに伝染し、従業員にとどまらず店の空気までを悪くする原因となる事は明白である。
 客の悪口を口にしない事。その教えをきちんと守ってくれているホスト達が、珍しく客が悪いのだと漏らす姿を見ながら玖珂は腕を組んで少し考えを巡らせる。この手の揉め事は珍しいことではないし、過去にも同じような事は何度か経験している。玖珂は静かに口を開いた。

「桐原。お前、今はそのお客様以外に指名は入っているのか?」
「ええ、2人ほどかぶってます」
「じゃぁ、フォローした後そっちを回っていいよ」
「え?でも」
「そのお客様には、俺と矢崎で入ろう」

 突然名指しされた矢崎が驚いて玖珂を見る。玖珂が席へと着く事は特別な客の指名以外では滅多にある事ではない。自分があまり現場に出入りしては、他のホ スト達がやりづらいだろうと考える玖珂は、自分がホストを辞めてからは一歩引いたところで見守るようにしてきたのだ。そんな玖珂が席へと回るというので桐 原達は流石に慌てた様子で言葉を続けた。

「オーナーが?いや、そんな迷惑かけられないですよ」
「そうですよ!何もオーナーが出なくても俺もう一度挑戦してみますし!」
「まぁ、そう嫌わないでくれ」

玖珂は笑って冗談っぽくそう言った後、ゆっくり腰を上げ桐原達の前まで行って立ち止まる。

「この先、ずっとこんな事が続いたら困るというのもあるが……お前達に一つ言っておきたい事がある。厳しい事を言うようだが、そのお客様が桐原でないとダ メだと言ったのは、他のホスト達がそのお客様を満足させられなかったという結果だ。確かに少し難しいお客様なのかもしれないが、お客様を悪く言うのはよくないな。こちらに非があるんだ。わかるな?」

 玖珂にそう言われ、客のせいにして不満を言っていた桐原達はバツが悪そうに頷いて見せた。こうしてホスト達を育てる事を玖珂は大切にしている。自分がま だこの世界に入ったばかりの頃、当時のオーナーが非常によくしてくれた。一人前になった数年後、そのオーナーと飲んでいる時、「お世話になった恩返しがし たい」と言った玖珂に彼はこう言ったのだ。
「恩返しは俺にじゃなくて、これから先、店に入ってくるホスト達に返してやってくれ。いい店になるかどうかは中で働くホストの質だからな。いい後輩を育てろよ」
 今でもその言葉を時々懐かしく思い出す。上に立つ身となった今、その言葉の意味も解ってきた。
玖珂は矢崎の肩に手を置くと、微笑んで元気づけるように軽く叩いた。

「矢崎も、どんなお客様でも満足させられるようになってもらわないとな」
「……わかりました。じゃぁ、お願いします」
「桐原。俺の事は気にしなくていいから、待たせたお客様にサービスしてあげてくれ」
「はい、わかりました」

 先に出て行った桐原の後に玖珂と矢崎も続く。店内へ入ると、普段見かけない玖珂の姿にあちこちから視線が集まる。他のBOXの前を通る際、少し遅れて後に付いてきていた矢崎が駆け寄ってきて玖珂に耳打ちする。

「オーナー、後ろのお客様が、オーナーの事見て『指名出来るの?』って早速聞いてますよ」
「そう?それは光栄だね……。まぁ、ホストじゃないって後でうまく伝えておいてくれ」
「わかりました!」

 玖珂と二人で席に着く等、滅多にない経験にいつもより落ち着きのない矢崎は若干緊張を見せソワソワしている。玖珂はその緊張を解くように矢崎の背中に軽く手を当てる。

「一見の客につくのは俺も久しぶりだからな。矢崎が一緒で心強いよ。ヘルプ頼むぞ」

 矢崎も玖珂のその言葉に笑い「はい!頑張ります」と返事をする。

 問題の客の居るBOXへ着く。客は20代前半ぐらいの若い女性だった。不機嫌な表情でこちらを見る客に玖珂は優しく微笑んで会釈をする。

「お客様、お待たせして申し訳ありません。桐原の変わりにはならないかも知れませんが、隣へ同席させて頂いても宜しいでしょうか?」

 すっと屈み、片膝を折って目線を合わせそういう玖珂に、客は態度を軟化させ、満更でもないようにコクリと頷いた。許可をもらった礼を言い、客の隣に腰掛 ける。玖珂はすぐにグラスが空になっているのに気付き「水割りで宜しいですか?」と確認した後、自分の前にグラスを引き寄せ酒をつくる。軽くマドラーで割 り物と混ぜた後、水面が静かになるのを待って「どうぞ」と客の前へと差し出した。添える指先、グラスを差し出す角度、下に引くコースターの向きまで完璧で ある。

 作る間も笑顔を絶やさず、普通のホストが気付かないような細かい部分をみつけてさりげなく褒めれば、客の顔にも少しずつ笑顔が戻っていく。優雅な動作で行われたその一連の行動は、玖珂がホストとしての勘が鈍っていない事を証明する。
 矢崎も持ち前の明るさで話題を振り、最初は口数の少なかった客も次第に笑みを零し話し出す。大人しい女性なのか、それとも自分から話したい女性なのか、 会話を始める前までに瞬時に判別する。どうやら今回は後者のようだと判断した玖珂は自然と聞き役へシフトして行き、気持ちよく相手が話せる場を提供する。
 彼氏の愚痴、流行のブランドの話題、趣味で育てているというハーブの話しからファッションに至るまで、どの話しを振られても玖珂はそれに合わせた会話を し、その知識で出過ぎないように女性客を引き立てた。客は、数時間後に店を出る頃にはすっかり上機嫌になって帰って行った。

「またのお越しをお待ちしております」

 入口で客を見送った後、玖珂は矢崎へと振り向き「お疲れ様、助かったよ」と労う。玖珂のその手腕に矢崎達が憧れを抱くのは当然と言えた。
 
 
 
 店の閉店後、皆が帰った後に月末の売り上げ帳簿を手に玖珂は煙草を咥え、デスクに向かっていた。店の経営状態は今月も良く、特に問題はないようである。 任されていた新店舗の場所も何とかきまり、後は内装などの工事が終わるのを待つだけだ。今夜は特にやる事もないので、戸締まりをし店を出る。

 時刻は明け方の5時を回った所であった。
 予期せずフロアへ出る事になったのでいつもよりもだいぶ遅い時間だ。玖珂は帰宅するために通りへ出てTAXIを拾い乗り込んだ。雨はすでにあがってはい るが、遠くの空がうっすらと明るくなっている物の、今日もそんなに天気は良さそうではない。何とか月曜日には晴れると良いのだが……。出張に行くといって いた渋谷を思い玖珂は心の中でそう願う。
そして、昨晩会っていた渋谷の顔を思い浮かべた。濡れた黒髪を指に絡めた感触は今も指先に残っている気さえする。
玖珂は自分の指先を眺めて顔を上げフと思う。

「すみません。やっぱり初台ではなく目白に向かって下さい」

運転手に行き先の変更を告げると、玖珂は疲れた体をシートに預け、静かに目を閉じた。  
 
 
 
*           *              *
 
 
 
 
 暫くして目的の場所へと着くと玖珂はTAXIを降りた。
 目白は玖珂がバイトで講師をしていた塾があった場所でもあり、朝子との思い出の場所でもある。少し入り組んだ商店街を抜けた先にあるので、その手前で降ろしてもらった玖珂は、だいぶ変わってしまった町並みを前に足を止めた。
 10年以上も昔の記憶なのだから、変わっているのは当然なのだろう。玖珂は、バイトをやめてからは一度もこの場所へと足を運んだ事はなかった。
 最初は、朝子の事を思い出すからという理由で遠ざけていたのだが、次第に忙しさに忙殺されそういった想いを理由にする事も減っていった。用があるわけでもないので自然に来る事もなくなっていったのだ。
 ゆっくりと商店街に入っていくと、まだ早朝だからか店は全てシャッターを下ろしている。寂れたその光景は、通りに人が居ない事も輪を掛けて、あの日のま ま時を止めたようにも感じてしまう。当時あった店も何軒かは見つかり懐かしさがこみ上げ、記憶が鮮明に蘇る。商店街を抜け、塾のあった場所へ辿りついた が、その場所には玖珂がバイトをしていた塾は見当たらなかった。
 見間違いではないかと周りを少し歩いたがやはり場所は間違っていない。当時隣にあった煙草屋も今はコンビニエンスストアへと姿を変えていた。玖珂は隣の コンビニの中へと入りレジで煙草を買う。店員をちらっと見ると、結構な年配で、名札には店長と書いてある。彼なら何か知っているかもしれない。僅かな期待 を寄せ、会計の際に声を掛ける。

「ちょっとお聞きしたいんですが、隣りに昔あった塾はいつ頃なくなったかご存じですか?」
「塾?そんなのあったかな……あー、渋谷さんが昔やってたとこ?」
「ええ、そうです」

 店員は塾の事を漸く思い出したようで暫く考え込み、曖昧な記憶を確かめるように話し出す。

「いつだったかなぁ……もう相当前になるよ?前の奥さんが亡くなってすぐだったと思うけどね」
――……え?
――……亡くな……った?

 玖珂は店員の言った言葉に耳を疑った。驚いている玖珂に気付かず、店員は先を続ける。

「……んー、だから8年くらい前になるのかな。はっきりは覚えてないけどね」
「……8年前……ですか……」

 店員が差し出した釣り銭をとるのも忘れてそのまま言葉をなくしてる玖珂に店員が不思議そうに首をかしげる。

「お客さん?コレお釣り」
「あぁ……すみません」

声をかけられて我に返り、玖珂は渡された釣り銭を受け取り小銭入れへと仕舞う。

「あの……奥さんが亡くなられたというのは……」

 店員は地元の人間らしく、人づてに聞いた話だと付け加えると玖珂に話しだした。朝子は、玖珂がバイトをやめた2年後に事故で亡くなったらしい。そして、 塾長でもあった渋谷の父親は再婚をし、その後塾も閉めてしまったらしいというのが店員の話だった。引っ越して行ったから、そこまでしか知らないと告げられ る。
 昨日、渋谷に両親が元気かと聞いた時に渋谷が答えた両親というのは、再婚した母親をさしていたのだという事がわかる。暇なのか、まだ話したそうにしている店員に礼をいい店を出ると、玖珂は今は別のビルになっている隣のそれを見上げた。
 一階と二階が塾で、三、四階が住居だったはずだ。入口に沢山並んでいる子供達の自転車、二階へあがる階段には、朝子が育てている様々な花の植木が並べられていた。目の前にあるビルの飾り気のない外階段を目に移しながら、もうここにあの場所は失くなったのだと思い知る。

 当時の思い出が目の前に浮かんでは消えていく。朝子が亡くなっていたという事実は、考えもしなかった事であり、玖珂はさすがにその事実を前に呆然としていた。そんな事実を知りたくて足を運んだわけではない。
 ただ、渋谷に朝子との事を話す前に自分の中で整理をつけるためにここまで来てみただけなのだ。思いもよらない店員の告白に玖珂の中には様々な感情が押し寄せる。気を落ち着かせるため、買ったばかりの煙草の封を切る。僅かに震える指先が、その動揺を物語っていた。
 今となっては、もう懐かしい思い出にしか過ぎないとはいえ、玖珂にとって朝子は、今までで一番愛した人なのだ。生き写しのような渋谷の姿が朝子の顔と重なっては玖珂の中で沈んでいく。だけど、朝子の死を悲しむにはあまりに長い年月が経ちすぎていた。
 玖珂は紫煙をゆっくりと吐き出すと、目を伏せた。乾ききっていないアスファルトに出来た水たまりに自分の姿が映っている。玖珂は足先で水たまりに波紋を作ると心の中で問う。  

――朝子さん……貴方と一緒に見られなかった景色を……俺は彼と一緒に見てもいいですか……。

 最初の頃、朝子と渋谷を重ねてしまう事は何度かあった。しかし、今は違う。玖珂の中には思い出の中の愛しい人より、今側にいる渋谷を愛しく感じる自分がいる。朝子の影がすっと消えて渋谷の姿へと変わっていく。それはもう揺らぐことは無かった。

 もう来る事はないだろう思い出の場所に朝子の影を残したまま、玖珂はゆっくりとビルに背を向け歩き出した。