俺の言い訳彼の理由3


 

同日

 3号店の開店を前に玖珂は忙しい日々を送っていた。
 弟が入院していた年明けから3月まで、弟と共に過ごす時間にほとんどを割いていたせいでもある。すっかり元通りの体とはまだいかないかもしれないが、それでも日常生活を送る分には問題ない程度に回復した。しかし、その弟は今は日本にいない。
 主治医でもあり恋人でもある彼と今頃は楽しく過ごしているのだろう。あまり連絡を寄越さないのが心配でもあるが、それは元気にやっている証拠でもある、と思う事にしている。
 玖珂は弟の顔をフと思い浮かべると、小さく笑みを零した。空港で見送った背中は、自分が思っていたよりも遙に大人で、いつまでも子供だと思っていたのに…と感慨深く思った物だ。
あれからもう4ヶ月もたったのだと思うと、時間の流れの早さに驚くばかりである。

 新店舗に関しては、上からの指示で場所だけが新宿と決まっている以外は、玖珂に一任されていた。ここ数週間は求人誌からの募集で集まった従業員の面接を 始め、既存の店舗からの人員補充、内装等のデザイナーとの打ち合わせ等、着々とOPENに向けて進めており、今日は昼からずっと不動産屋を巡り、現地に足 を運んでいくつかの物件を絞り込んでいた。

 駅から少しだけ離れた場所にホストクラブ激戦区がある。その中に店を構えるとなると否応にも客の取り合いになる可能性があった。だからといって、そこを避けて辺鄙な場所に店舗を構えれば極端に客足は遠のいてしまう。
 この業界はある程度地盤が出来上がっていて地元の結束も固いので余計に慎重にならざるを得ない。
 麻布と六本木に店舗がある「LISK DRUG」は業界では有名ではあるが、新宿への進出に関しては新参者という事になる。玖珂の選ぶ店舗次第で従業員のホスト達が仕事をしやすいかどうかが決まってしまうのだ。

 セントラルロードから一本入った所で、玖珂は不動産屋から渡されたコピーを取り出し、通りを歩きながら眺めていた。五つほどに絞り込んだ空き店舗の周りの環境を調べるにはこうして自分で足を運ぶのが一番手っ取り早い。
 歌舞伎町一番街から少し脇にそれただけで人の通りがだいぶ違う。入り口の狭い細長いペンシルビルの隙間に目を向ければ、どこまでも続いているような淀んだ空気が満ちていた。
 華やかである表の顔と対照的なそれに玖珂はフと軽くため息を吐いた。

 駐車場をいちいち探すのも面倒なので久々に電車で来たのだが、昼過ぎからずっと歩き通しでさすがに足も疲れてきた。少し休憩でもしようかと適当な喫茶店がないかをざっと見渡し、一番近くにある店が空いていそうだったのでその店で休憩を取ることにした。
 昔からある店なのだろうか。ディスプレイのメニューは古臭く、食品サンプルにいたっては今時ナポリタンにフォークが刺さったまま宙に浮いていた。店内を見ると、禁煙ではないらしい事に安心し、玖珂はドアをあけた。ドアにつけてある錆びた鈴が軽く音を鳴らす。
 案の定、店の中はそんなに人もおらず、ききすぎた冷房の中、香ばしい珈琲豆の香りだけが漂っていた。一瞬にして汗が引き、すっかり外の暑さを忘れそうになる。奥から顔を覗かせたウェイトレスが「お好きな席へどうぞ」と一言残し忙しなく空いている席の食器を片付けている。
 玖珂が席を探すため店内を見渡すと聞き覚えのある声が店内から響いた。

「あれ?もしかして玖珂か?」

──ん?誰だ?

 こんな場所で名前を呼ばれるとは思ってもいなかったので驚いて声のする方へと向いてみる。窓際の席によく知っている顔が座っていた。

「榎本じゃないか、偶然だな。久しぶり」
「おう、久しぶり!こっち座れよ」

 榎本は玖珂がホスト時代に一緒の店で同期で入った仲間だ。最近は頻繁に会う事はなくなったが、それでも年に数回は一緒に飲みに行ったりはしている。榎本が一人なのを確認すると、玖珂も向かいの席に腰を降ろした。
 その様子を窺っていたウェイトレスが、注文をとりにくる。「アイスティーで」メニューを開かずに注文すると玖珂は胸元から煙草を取りだして口に咥えた。

「紅茶?なにお前そんなの飲むわけ?」

 注文したのが玖珂らしくない紅茶だったので榎本がすかさずそこに触れる。

「朝から珈琲は何杯も飲んだからな。さすがに飽きてる」

 苦笑してそう言う玖珂に納得すると榎本も煙草を取りだして火を付けた。思わぬ懐かしい再会に、ここに入って良かったと玖珂は思っていた。昔からの馴染み の顔が目の前にいるだけで、何処かほっとする。暫く近況を報告し合っていたが、突然榎本は灰皿で灰を二、三度落とすと、心配そうな顔を向けた。

「そうそう。澪、大丈夫なのか?あれから連絡寄越さないから、こっちもかけづらくてよ」

 前に会った時に丁度弟が手術をするという話しをしたのを思い出し、慌てて言葉を返す。

「あぁ、すまない。近い内に連絡しようと思っていたんだがちょっと忙しくてな……澪は3月に退院したんだ。気に掛けてくれて有難う」
「おぉ、そっか。いや、元気になったならなによりだよ」
「あぁ、俺もほっとしている所なんだ」
「うんうん、あ、じゃぁまたホストやってんだ?」

 榎本にはよく弟の事も話していたし、何度か顔も会わせた事もあるので、当然弟がホストをやっている事も知っている。玖珂は一瞬返事を躊躇ったが、榎本になら話してもいいかと思い直し口を開く。

「ホストには戻らずに、今はアメリカに行ってる」
「は?アメリカ?また何でアメリカなんかに??」
「あぁ、実は……」

 玖珂は当たり障りのないように、弟の恋人が男だと言うことはとりあえず伏せて大筋を話した。
うんうんと頷きながら聞いていた榎本は感心したように言葉を吐いた。

「へぇ~。何かドラマチックな出会いだな。医者と患者とか澪もなかなかやるな。やっぱり血は争えないって事か?」
「うん?何だ、その血は争えないって言うのは」
「お前だって行く先々で相当モテてたって事、そういう意味」
「馬鹿言え、お前の方こそいったい何人の女を泣かせたと思ってるんだ?」
「……お互い様ってやつか」

 榎本と玖珂は同時に吹き出した。まだ二人ともホストをしていた頃の話しだ。
 二人で何軒もはしご酒をし、必ず帰りには女から貰った名刺でポケットが一杯になっていたのだ。当時は枚数を競ったりした事もある。
 しかしその勝負は、いつも互いに勝ったり負けたりで勝敗はいっこうに決まらなかった。玖珂はそんな10年も前の自分達を思いだして苦笑いした。当時金髪 に近い色に染めていた榎本も、今は落ち着いた髪色に戻している。髪色だけではなく所帯を持った後は、雰囲気もだいぶ柔らかくなっていた。それだけ互いにも う落ち着いたという事なのだろう。
 榎本はホストの多くがそうであるように、結婚した後、自分の店を持っていた。小さなバーで、数人の従業員を雇っている。

──そうか、榎本にも色々教えてもらうか…。

 玖珂は思い立って、今、この新宿で店舗を探している事を榎本に話した。自分の店を開いている榎本なら、同じように店舗の場所等を思案した事があると思ったからである。榎本は真剣に相談に乗ってくれ、少し考えた後話し出した。
「それって駅近がいいの?それともそんなにこだわってないのか?」
「まだ何とも決めかねているんだが、例の激戦区は出来れば避けた方が無難かとは思ってる」
「やっぱ、そうだよなぁ」

 榎本の話によると、一ヶ月ほど前にそれなりに有名なホストクラブが新宿の激戦区内に店舗を新たに構えようとし、一悶着あったらしい。結局その店舗は新宿を避けて池袋へと場所を移したという話しだが、そういう騒動に巻き込まれるのは玖珂は避けたかった。
 玖珂の見せた5店舗の場所の書類を見ながら暫く考え込んでいた榎本は、一枚を抜き出して玖珂に示した。

「この五つなら、ここがいいんじゃない?場所もいいし、客足も悪くないと思うけど」
「ん?どれどれ」

 榎本が示した物件はまだ回っていない二件のうちの一件だった。場所は西武新宿駅から近い場所で、激戦区からは外れているが立地条件としては悪くない。見 て回って来た三物件がいまいちだった事もあり、玖珂は残り二件に少し期待していたので後で早速足を運ぼうと思い、メモに小さく印を付けた。

「まだここは見に行ってないんだが、参考にさせてもらうよ。どうも一人だと決めかねてな」
「だよなー。場所って一番重要だし、また何かいい情報あったら連絡するよ」
「あぁ、助かる。ところでお前何でこんな店で一人でいるんだ?誰かと待ち合わせか?」

 自分自身もたまたまこの店を選んだが、近辺に適当な休める場所がなかっただけだし、特別にこの店を選んでくるような雰囲気の店には到底見えない。だとすると榎本がどうしてここにいたのか、フと疑問に思ったのだ。
 玖珂がそう言った所でちょうど喫茶店の入り口が開き、赤ん坊を抱いた女性が玖珂達に微笑みながら歩いてきた。知り合いなのだろうかと思った瞬間、玖珂の頭の中のある女性と一致した。その女性は榎本の妻で、玖珂は結婚式に会って以来になる。

「何だ、かみさんと待ち合わせだったのか」
「そういう事。近所で何だかアクセサリーの店のフェアがあったらしくてさ、付き合うのも面倒だから俺はここで時間潰してたんだよ」
「一緒に行って見てあげれば良かったじゃないか」

 そう言いながら玖珂が振り向くと、はにかんだような笑顔で榎本の妻は会釈をした。今は榎本と結婚しているが、以前は客として榎本を指名してきていたホステスだったのを思い出す。当時から美人だとは思っていたが、こうして改めてみると、また前とは違う美しさを持っていた。
 母親になったからなのだろうか、華やかだった昔のホステス時代には見られなかった優しい雰囲気があり、とても綺麗に見えた。それだけ幸せにやっているのだと思うと微笑ましい気分にもなる。

「久しぶり、恵子さん」
「お久しぶりです。びっくりしちゃった。玖珂さんが一緒にいるから」
「お邪魔しちゃってごめんね、ちょうど店で榎本と会ったもんだから」
「ううん、そうじゃないのよ。玖珂さんがいるってわかってたら、もっとお洒落してきたのになって」

 ふざけてそう言って笑う恵子に榎本が冗談で玖珂を睨み付ける。

「人のかみさん、誘惑すんなよな」
「何、馬鹿なこと言ってるんだ」

 ふざけあっている所に目を覚ました赤ん坊が急に泣き出した。慌てた様子もなく恵子が抱き起こすようにしてあやすと、赤ん坊は安心したように少しずつ泣きやんだ。慣れた物だなと感心しつつ、丁度向かい側に座った恵子の腕の中に目を向ける。
 榎本に目元が似ている男の子で玖珂はそっと赤ん坊の頭を手を伸ばして撫でた。するとまだ潤んだ目で玖珂を見あげ赤ん坊が嬉しそうに笑うのを見て、玖珂は目を細めた。

──可愛い

 自分の今の生活が嫌いなわけでは決してなかったが、元から子供好きな性格もあり、こうして家族を持って守るべき小さな命があるという生活が羨ましく思えたのは事実だ。

「寝起きはいっつもこうなのよ。誰かさんと一緒でね」
「うるせぇ」

 そんな夫婦のやりとりに玖珂は笑いながら腕時計を見る。懐かしさもあり、少しだけ休憩をいれるはずが随分長居してしまっていた。

「それじゃ、そろそろ俺は行くよ」

 そういって立ち上がった玖珂に、榎本は不満そうに口を開く。

「何だよ、折角だから飯一緒に食べにいこうぜ」
「いや、せっかくのデートを邪魔するわけにはいかないから遠慮しておくよ」
「えぇ?私も久しぶりに玖珂さんともっとお話ししたいわ」
「……恵子さんまで」

 一度は断ったものの、滅多に3人で会う事などないんだからという二人に説得され、玖珂も結局一緒に夕飯に付き合う事になった。喫茶店を3人で出た後に榎 本の後ろを歩く。どうやら行くレストランは恵子のリクエストであらかじめ決めていたらしい。場所は歌舞伎町のはずれのイタリアンダイニングだそうだ。
 いつも面倒がって連れて行ってくれないからと玖珂に不満そうに愚痴を漏らした恵子は、だから外食は久しぶりなのと嬉しそうに言う。その言葉を受けて玖珂が榎本をつついた。

「榎本聞いてたか?たまには息抜きに外食くらい連れて行ってあげろよ」
「へいへい」

 榎本はあまり取り合わずに笑いながら先を歩く。昼間よりは日も落ちて涼しくはなったが、やはり湿気のある夏はそれでも暑い。榎本が羽織っていたジャケットを脱ぎ、手に持つと思い出したように玖珂に振り向いた。

「あぁ、そうそう。さっきの店舗、店に行く前に通るから教えるよ」
「そうなのか?」
「まだ時間がそんなに遅くないからわかりやすいと思うぜ」
「そうか、頼むよ」

 空き店舗を探している最中で相談に乗って貰った件を恵子に伝え、その事について話しながら歩く。榎本の言っていた通り、喫茶店を出てから10分程で、例の空き店舗の場所があった。
 玖珂達はとりあえず少しだけ周りを見渡してどういう物件なのかをざっと調べる。
 思っていたより込み入った場所ではあったが、それ以外は榎本の言うとおり中々良さそうな物件であった。近辺には同業のホストクラブはなく、静かな佇まいのバーや美容室等が多く、客足も悪くなさそうではある。
 帰りにもう一度一人で足を運んで見ようと玖珂は思い、その場はそれで通り過ぎた。
 
 
 
 
*         *           *
 
 
 
 
 早めに榎本達と夕食を済ませたので8時頃には店を出ることになった。恵子のおすすめの店は、味も良く、静かな店内でひとしきり昔話に花を咲かせ、数時間 があっという間に過ぎた。玖珂は、帰りにもう一度先程の店舗を見に行く事にしていたので、TAXIで帰るという榎本達とは店を出た所で互いに別れた。
 独り身の玖珂にとっては久々に楽しい食事を済ませ、足取りも軽くなる。

 玖珂は榎本を見送った後、辺りを見渡し昼に辿った道を逆方向に進んだ。何度か角を曲がったのは覚えていたので記憶を頼りに足を速める。外灯に照らされた道を幾度となく曲がった所でフと足を止めた。
 遠くに見覚えのない寂れた商店街がある。こんな場所は通った覚えがない。
行きは榎本についてきたのでハッキリとはわからないが、どうやら引き戻る際に道を間違えてしまったらしい。

──新宿でまさか迷子になるなんて俺も、もう歳か

 行きには見かけなかった店の前で玖珂は一人で苦笑した。仕方が無いのでわかる場所に引き返そうとまた来た道を戻る。今度は間違いの無いようにスマホのGPS機能を立ち上げながら暫く歩いていると、進む方向の裏路地の突き当たりに人が座り込んでいるのが視界に入った。

──酔っぱらいか?

 新宿でこういう光景を見かけることは別に珍しい事ではない。終電がすぎて2時間もすれば路上に転がっている酔っ払い等簡単にみつける事が出来る。
 しかし、玖珂は何故かこの時酷く気になった。少し近寄って見てみると酔っぱらって泥酔しているというよりは
具合が悪そうにも見えたからというのもあるのかもしれない。
 玖珂はその座り込んでいる男の側まで足を運んでみた。

──………これは………。