戀燈籠 第十八幕


 

 旅館へと戻つた御樹逹は部屋へと入るとふうと一息息をつく
態度には出してゐないつもりでも、やはり久しく長い時間を歩いたりしてゐないので
疲勞が少し現れてしまふ御樹を氣遣ふやうに咲坂が提案したのは
この後は部屋で二人でゆつくりと過ごさうといふものだつた
坂になつてゐた神社までの道のりは結構長く
朝に家を出たといふのにすつかり晝が過ぎてしまつてゐる
何も、旅先に來てまで部屋に籠もることもないのだが
咲坂はまるで自分が疲れきつたかのやうにかう云つた


「俺も若くないなあ こんな事で疲れてしまふんだからね」


そんな咲坂の氣遣ひを御樹は感じて返事をする


「何 云つてるんです?青人さんはまだ お若いでせう」
「少なくとも鈴音よりは歳がいつてゐるけどね」

しばらく疲れた足を解放して寛いでゐた咲坂が思ひ立つたやうに
部屋の隅によせてある荷物を引き寄せる
用意してきたといふ咲坂のそれがづつと氣になつてゐた御樹は
待ちきれない樣子で咲坂が風呂敷をとくのを見てゐた
中から何やらいびつな形の物が現れる


「鈴音 ちよつと目を閉ぢてゐてごらん」


はやる氣持ちを抑へて御樹は長い睫を咲坂に云はれた通りに伏せる


「はい もういいよ」


目を開けた御樹が驚いたやうに咲坂の顏を見る
咲坂の手元には以前、御樹が見てみたいと云つてゐたラヂオが置かれてゐたのだ
それはあの日にみた廣告と同じ形で竒妙なボタンが何箇所かについてゐる


「どうしたんですか?これ ラヂオぢやないですか」
「ああ 鈴音が前に欲しがつてゐただらう?だから買つておいたんだよ
 どうだい?驚いたかい?」
「ええ とても よく私が云つた事 覺えてゐてくれましたね」
「ああ あの時からね
 このラヂオといふのが賣りに出されたら鈴音に贈らうと思つてゐたからね」
「嬉しいです あの、觸つてみてもいいでせうか?」
「もちろん 俺はかういふのはてんで疎くてわからないから 鈴音におまかせするよ」


御樹はとても嬉しさうにラヂオを手元へと引き寄せると早速ついてゐるボタン等を押してみる
しかし、ラヂオからは何の反應もなくカチッと音がするだけである
咲坂も一緒に何箇所かいぢつてみたがやはりラヂオは音をたてる事はなかつた


「をかしいね……もしかして毀れてゐるんぢやあないだらうね」
「……いえ 毀れてゐるのではないと思ひますけど……」


さうして色々いぢつてゐるうちにボタンではなく
くるくると廻すつまみがあることに氣附いた御樹がそれを右へと捻つてみた
すると今まで靜かだつたラヂオから雜音のやうな音が流れ出し
そのままゆつくりと動かすと曲が流れ出してきた
蓄音器に似たその音色が部屋へと靜かに響く
御樹は眼を丸くしてラヂオを見てゐた
咲坂も何故この機械のやうなものから音が鳴るのか不思議で仕方がない


「鈴音 俺はこつちに移動しても平氣なのかい?」
「え?何です?」
「俺が動いたら聞こえなくなつたりはしないだらうか」
「どうでせう 多分大丈夫だとは思ひますけど?」


咲坂が恐る恐るラヂオから少し遠ざかる
しかし、ラヂオからは以前として變はらず曲が流れてをり
安心した樣子で咲坂はまたラヂオの側へと腰を下ろした
どうやら人の位置はあまり關係がないらしい事に氣附き二人は顏を見合はせて苦笑した
小さな箱から流れてゐる曲は「籠の鳥」といふ曲で去年に流行した映畫の主題歌でもある
御樹はちやうど帝國キネマ演藝が好きで、映畫も見た事があつたのだ


「青人さんは この曲をご存じですか?」
「去年の流行歌ぢやないのかい?」
「ええ さうです 澤 蘭子が主演で映畫もあつたのですよ
 一緒に見られれば良かつたですね…」
「ああ さうだね」


「籠の鳥」は女郎の戀物語の話しである
愛しい戀人のために怖さも世間も全てを捨て
會ひに行きたいのに自分は籠の中に捕らへられてをり
貴方に會ひにも行けないといふ切ない戀心を歌つたその歌詞は
以前の咲坂と少し重なるやうな氣がして御樹は覺えてゐる歌詞の一節を何氣なく呟いた


──あなたの呼ぶ聲
──わすれはせぬが
──出るに出られぬ籠の鳥


咲坂が優しい表情で御樹の膝へと手を伸ばす


「俺は この歌の主人公よりづつと幸せだよ 鈴音がゐてくれたからね……」
「青人さん……」


膝にのせられた咲坂の掌が暖かな温もりを御樹へと傳へる
その時であつた
御樹は苦しさうに眉を寄せると突然胸を押さへ、立ち上がると咲坂を避けるやうに體をはなす
口元に手をあて何度か咳き込みながら手洗ひの方へと向かつた
驚いた咲坂が慌てて後を追ふと手洗ひへ向かふ途中で御樹が蹲つてゐた
繰り返される發作のやうな濁つた咳が部屋へと響いてゐる
咲坂は隣に膝ををり、青ざめた表情の御樹の背中を必死でさすつてやる
しかし、苦しさうにしながらも御樹は力なく咲坂のその手を拂ひのけた



「ゴホッ……い……いけません 青…人さん こつちに……こないで……」


咲坂から逃れるようにもう一度、御樹は體を離す


「病が……うつります……だから お願ひですから……」



汗で額にかかつた髮の間から覗く御樹の眦に苦痛の泪が浮かんでゐる
それでも咲坂が近づくのを拒み續ける御樹は
咳の合間に 心配しないで下さい と儚い笑みまで浮かべて咲坂を拒絶する
一つ咳をする度に胸が破れるばかりの胸痛に御樹の意識までもが搖らぎ始め
胸元を握りしめてゐる御樹の指先が色を失ひ、うつすらと櫻色の脣も紫色へと變はつていく
咲坂は自分が何をすればいいのかさへわからず、ただ離れてくれと云ふ御樹に構はず
その細く震へる體を支へ續けた
拂ひのける力もなくなつたのか御樹は苦しむばかりで、咲坂は何も出來ない自分に脣を噛む
一際濁つた大きな咳が吐き出され
胸にこみ上げる熱い塊のやうな物が御樹の口の中に溢れた
同時に口元にあてた指の間から眞つ赤な鮮血が迸る
それはとても抑へきれる量ではなく 瞬く間に床へと零れていき
眞つ赤な血だまりが目の前で廣がつていつた


「──鈴音」


繰り返す咳が次の發作への引き金になる
咲坂はこんな時でも自分に病を移すのを危惧して身じろぐ御樹の
口元に當てた手を引き離すと自分の着物の袖で御樹の口を覆つた
どんどん溜まつていく血だまりが目に映るよりこの方が氣休めにでもなればと思つたのだ
眞つ赤に染まつていく袖を握りながら汗ばむ背中を強くさする
さつきまで御樹の中にあつた血はまだとても暖かい
噎せ返るやうな濃厚な血の匂ひが部屋を滿たし、少しして漸く御樹の咳が收まつた
ぜえぜえと胸から音が漏れてはゐるがさきほどより少し楽に息が出来るようではある
しかし、激しい寒気に襲われた御樹の體から傳はる震へは收まる所か餘計に酷くなつた
何かを云はうと口を動かす御樹に咲坂はそつとその口を手で塞ぐ


「喋つちやぁいけない、また咳がでてしまうよ 少しこのままでいやう」


咳がをさまつてからも咲坂は御樹の體を支へ續け
震へを宥めるやうに背中にあてた手を動かし續ける
血で汚れた着物を脱ぎ捨て綺麗な部分で御樹の口元を拭つてやるとぐつたりとしてゐる御樹をそつと壁へと寄りかからせた
御樹の顏色はもう眞つ白で、咲坂はその白さに恐怖を覺えた
どうにか咳はをさまつたものの、このまま御樹が死んでしまふのではないかと思つたのだ


「着替へて横になつたはうがひい 蒲團をひいてくるからこのまま待つてゐるんだよ」


急いで部屋へと戻ると蒲團を一組敷き
すぐに戻つて御樹を抱きかかへるやうにして横へと寢かせる
着てゐる服に手をかけようとした咲坂の腕を御樹がそつと掴んだ


「……大丈夫です……自分で着替へられますから……」


掠れた聲でさう云ふと御樹は何とか自分の手で着替へを濟ませた
咲坂が今、汲んできた湯飮みの水を口に含み少しだけ喉へと流し込む




「鈴音?落ち着いたかい?」
「…………驚かせてすみません……青人さん」
「そんな事は氣にしなくていいんだよ」
「青人さん……私は……勞咳に冒されてゐます……今まで云へなくて……」
「………鈴音……」
「……でも、私は……」

顏を上げ御樹が咲坂の瞳をまつすぐに見つめる
少し潤んだやうなその瞳には御樹の今日まで堪へてきた不安や悲しみが深く宿つてゐる
消えさうな聲で御樹はぽつりと呟いた





「……知らないでゐて欲しかつたんです……
 さうすれば……づつとこのままでゐられるやうな……そんな氣がして」





御樹は靜かにさう云ふとそのまま俯いてしまつた
掠れた聲は弱々しく、御樹は自分を責めるやうに、その横顏を咲坂から背ける
咲坂は微笑むと御樹に近づいて體を引き寄せた
俯いた御樹の頭を自分の胸へと押し當てる


「………………知つてゐたよ」
「──え……?」
「……鈴音が俺に心配をかけないやうに默つてゐた事もわかつてる」
「……青…人さん」
「……鈴音…俺はね」


咲坂は俯いた御樹の顏をそつと起こすと色を失つた御樹の脣へと自分の唇を重ねた
御樹が咲坂を押すやうに放さうとするがそれ以上の力で廻された腕は拂ふことが出來なかつた



「青人さん 駄目です……私は」



「いいんだよ 鈴音………いいんだ」



まだ少し血の匂ひのする脣が、逆に御樹が生きてゐる證據を咲坂へ確信させる
緩く重ねただけの優しい接吻は少しだけの間續ゐた
茫然としてゐる御樹の體をそのまま蒲團へと横たはらせると咲坂は目を細め穩やかに見つめた


「さあ 少し眠るといい 俺はづつとここにゐるからね……」


御樹は咲坂の顏を見ると寂しさうに微笑み目を閉ぢる
そのまま意識と共に眠りについた
寢顏は穩やかでさきほどの苦痛の色も伺へない
咲坂は眠る御樹の蒲團の上掛けをそつと引き上げると窓の外へと眼をむけた
今の時期の夕方は陽がおちるのがまだ結構早い
いつのまにか曇り空から橙色の空へと變はつたその景色を目に映しながら
咲坂は御樹の手を握つた



──鈴音……疲れたのなら……いつでも終はりしていいんだよ……
──俺は……もう十分だから……鈴音の楽なように…………
──………身を任せればいい……



咲坂の言葉は窓から入つてくる風にのり
そのまま櫻の中へと消えていつた