俺の男に手を出すな2-3


 

 共に寝室へ行った晶は、初めて入る佐伯の寝室のベッドへと腰掛ける。男二人でも十分間を取れる程のクイーンサイズのベッドはモノトーンの寝具で揃えら れ、綺麗に整えられている。いつもぐしゃぐしゃにしている晶の自宅ベッドとはだいぶ違う。ベッドのサイドテーブルには読みかけの医学書のような物が積んで あった。佐伯が寝る前に読んだりするのだろう。
 寝室は広いが空調が効いているので寒いという事は無く、佐伯にパジャマの下だけを借りて、上はTシャツのまま晶もベッドへと潜り込んだ。「俺は先に寝る ぞ」と一言言い残し、さっさと寝る体勢に入ってしまった佐伯の様子を寝たふりで窺っているとものの10分もしないうちに眠ってしまったようだった。

 佐伯が眠ったのを見届けてコッソリとベッドから抜け出して居間へと静かに足を向ける。抜け出す時に一度佐伯が寝返りを打ち、起こしたかと焦ったが、どうやらそうではないらしく晶も胸をなで下ろす。足音を立てないように細心の注意を払いながら寝室のドアをそっと閉じる。
居間の照明をつけると佐伯に気付かれる可能性があるので、仕方無くキッチンへと場所を変えて換気扇についている小さな照明だけを灯す。晶は持ってきた携帯を取り出すと電源を入れた。

 3台あるうちの一台は私用で、もう一台は仕事用、最後の一台は客との連絡用。今電源を入れたのは仕事用の携帯である。暫く待って起動すると、メールが3件届いていた。

――お、きてるきてる。

 晶は早速メールを確認する。一通目を見て小さく溜息をつき、二通目を見て肩を落とす。最後のメールをみて、晶はいよいよがっくりと項垂れ盛大な溜息をついた。最後のメールが届いた時刻を確認すると、まだ30分しか経過していない。
 晶は電話帳から、3通のメールの相手でもある後輩の信二を探しだし、通話ボタンを押した。数秒呼び出し音がなり、電話口へと信二が出る。

「もしもし?信二?今話しても平気か?」
『あれ?晶先輩、どうしたんっすか、こんな時間に。今日は電話に出ないって言ってたからさっきメール送っちゃいましたよ』
「あー、うん。今メールみて電話してるとこ、ごめんな、遅くに」
『全然いいっすよ、俺さっき帰宅したばっかなんで。ってか、今どこにいるんっすか?声凄く遠いってか小さいんだけど』
「ちょっと知り合いの家にいて、夜中だから声だせねーの。聞こえんだろ?これくらいでも」
『はい、全然大丈夫ですけど』
「メールの件だけどさ、何、やっぱ全滅?」
『そうなんですよ……。俺もちょいちょい空いた時間で凸ってみたんっすけどどこも一杯で……』
「そっか……。悪かったな。手間かけさせちゃって、今度飯おごるからさ」
『そんな、いいっすよ。いつも晶先輩にはよくしてもらってるし』
「お前、マジでいい奴すぎっしょ。ホント助かったわ」
『でもどうするんっすか?他にあては?』
「あぁ……。まぁ、大丈夫、かな。一軒だけ融通きくとこあるからさ、最終手段と思ってたけど、そこあたってみるわ」
『最終手段とか、どんだけそこ回避したかったんっすか。でも、空いてるといいっすね』
「うんうん、サンキュ」
『ところで晶先輩』
「ん?何?」
『誰と行くんっすか?客?それとも、まさか!彼女と?先輩彼女できたんですか!?』

 携帯から聞こえる信二の声が大きすぎて、晶は慌てて携帯を手で覆い周りを見渡す。信二とは普段からよく話していてプライベートでも飲みに行ったりしてい るので、晶が今現在彼女がいないという事も知っている。しかし佐伯と付き合っている事はまだ言っていないのだ。「俺、彼氏が出来たんだ」等と言おう物なら 大袈裟な信二に根掘り葉掘り聞かれてしまうのは目に見えている。なので今後も多分言う事はないと思いながら、晶は言葉を濁した。

「何で飛躍してんだよ。彼女とかいねーから、まぁなんだ。あれ、そう!知人と行くからさ」
『知人~?……怪しいなぁ……。飯おごってくれなくていいんで、今度店でじっくり問い詰めますから』
「何それ、怖いから。お前は俺の保護者かって」
『怖いとか傷つくな~。晶先輩のことは色々知りたいってだけっすよ』
「どーいう意味だよ、お前時々おかしな事言うよな。まぁ、いいや。とにかくメールの件はありがとな。んじゃ、また店で」
『了解っす。おやすみなさい』
「おう、おやすみ~」

 信二との電話を切って、そのままネットへと繋ぎ、晶はあるホームページを開いて一人で暫く考え、溜息とともに予め出していた画面をタッチした。とりあえず準備完了である。

 換気扇の照明を落とし、そっと寝室へ戻ると佐伯は先程と変わらない姿勢のまま眠っている様子だった。よっぽど疲れているのか、多少の物音では目を覚まさ なそうである。晶は反対側へ回って静かに元の位置へと潜り込むと、隣の佐伯の寝顔を改めて見ていた。こんなに近くでマジマジと佐伯を見てみるのは初めてで ある。目を閉じた佐伯があまりに静かで微動だにしないので、ちょっとだけ心配になり口元へ手をやってみると、どうやら呼吸はちゃんとしているらしい事が分 かり安心する。

「要……お疲れ……」

 小さく呟き、少しだけ佐伯の方へ身体を寄せると無意識なのか佐伯の腕が伸ばされ、身体を軽く引き寄せられる。いつも佐伯が寝ているベッドからは佐伯の匂いがする。自宅の自分のベッドとは違う匂い。
 いつも自宅で一人でベッドへ入っていると、一人である事を嫌でも自覚させられる。物音のしない静かな部屋の中ではより一層その気持ちが高まっていく。そ れが嫌で、電気も消さず、いつもすぐに目を閉じて眠るようにしているのだ。だけど、今夜は違う。手を伸ばせば触れられる場所に佐伯の存在が確かにある。
 隣にある体温を感じていると、徐々に自然な眠気に誘われていき、酷く安心している自分がはっきりとわかった。晶は佐伯の肩口へ頭を寄せると満足そうに目を閉じた。
 
 
 
 
 翌朝、佐伯と晶は遅めの朝食を取っていた。
 晶より早く起きていた佐伯が簡単な朝食を作ってくれたのでそれを二人で食べている最中である。晶の目の前にはトーストと珈琲、そしてサラダが添えられた目玉焼きの皿。しかし、最後の皿は晶にしか用意されていない。
 晶は熱い湯気の立つカップを片手に持ってあくびをした後、まだ眠そうに頬杖をついた。今朝は佐伯より早くに目を覚まして、寝起きの佐伯を観察しようと思っていたというのに、このざまだ。
 晶が起きた時にはもう既に寝室に佐伯の姿はなく、目を擦りながらダイニングへ向かうと、寝起きとはほど遠いいつもの佐伯がいたのだ。

――うぅ…………後1時間は寝ていたい……。

 寝癖を手で撫でつけながら、晶はぐったりとテーブルへと伏せる。本当に朝は苦手だ。顔だけを起こして、目の前の佐伯へと口を開く。

「要は朝はパンだけなんだ?」
「あぁ、俺は普段からちゃんとした食事を摂っているからな」
「俺だって、ちゃんと食ってるぜ?菓子パンとかさ、たまにおにぎりも食べたりするし」
「全部コンビニの物だろう?そういうのはちゃんとした食事とは言わん。野菜も残さず食えよ」
「……言われなくても食うけど-」

 佐伯は何社かの新聞をとっているらしく、横に重ねてある新聞を広げては黙って読んでいる。晶からみるとどの新聞もあまり違いがないように見えるが、そう ではないらしい。スポーツ新聞でもあれば、読んでみても良いが、どうやらその手の新聞はないらしい。先程の短い会話が終わった後は、ひたすら沈黙が流れて いる。

 晶は用意された朝食を全て食べ終えると、つまらなそうに机に指を立ててトントンと音を立てる。それでも佐伯は一切気にする事も無く新聞を読み続け、晶は佐伯が新聞を読む姿を暫く見ていた。

 元々癖が付きづらいのか、佐伯の長い髪はまっすぐに整っているし、眼鏡越しに覗く瞳にも眠気などは一切感じられない。佐伯の隙のなさを見ていると、医者 ではなくどこかのやり手証券マンのようでもある。そんな佐伯を観察していると、眼鏡がいつもと違う事を発見した。ほぼ同じデザインだが、普段佐伯がかけて いるのはつるの部分にシルバーの太めの枠がついていたはずだが、今かけているのは細いタイプである。同じような眼鏡をいくつも持っているのかと思うと何だ かおかしな想像をしてしまう。

 佐伯の書斎に並ぶ何十個もある同じデザインの眼鏡。見たわけでも無いのに晶はそれを想像してクスリと笑った。
 晶が自分をじっと見ているのに気付くと佐伯はバサッと新聞を閉じた。

「何だ?見とれてるのか?」
「は?朝っぱらから言ってくれるじゃん。でもハズレ~。ってかさ、要、その眼鏡普段と違くない?」
「これか?たまに院内でもかけてるが……」
「そうなん?俺は初めてみたけど。ってか何か違うの?いつものやつとほとんど変わらない気がするんだけど」
「レンズの度が違う。そこまでの視力を必要としない時はこちらをかけている。そういえば、お前は視力はいいのか?」
「俺は両方2.0。まぁ、随分昔にはかったから今は違うかもしんねーけどさ」
「ほう、随分視力がいいんだな」

 佐伯はそう言って感心した後、再び新聞を広げた。そのまま5分が経過し、10分が経過し、ついには30分が経過した。

――どうなのよ、この空気。

 晶は心の中で思う。佐伯がそんな性格ではない事はわかっていたけど、初めて迎える恋人同士の朝にしてはあまりに……、何というか甘さがないと思うのだ が、それは自分がおかしいのだろうか。過去に付き合ってきた経験を思い浮かべても、ここまでそっけない態度の恋人というのも珍しいと思う。それとも男同士 だとこれが普通なのか?次第に晶の悪戯心が騒ぎ出す。

 佐伯が新聞に目を落としながら、片手を煙草に伸ばすのを見て、その先にある煙草を晶はひょいと掴むと自分の方へ引き寄せた。あると思ってのばした佐伯の手は何もない感触におかしく思い、視線をテーブルへと移す。

「これの事探してる?」
「あぁ、何だそっちか、貸せ」
 佐伯が渡すように掌を向ける。
「なぁ、要。俺達、初めての朝だぜ?」
「そうだな」
「暇なんですけど……俺」

 苦笑した佐伯は新聞を今度こそ本当に閉じるとテーブルの脇へと寄せた。寝癖の付いた可愛い恋人のために少しつきあってやる気になったのだ。

「これでいいのか?それで?何をして欲しいんだ」

 佐伯はわざとらしく子供に言うように優しく言って苦笑している。

「別に何するとかじゃないけどさ。つーか、今まで誰かと付き合ってた時もそーしてたわけ?」
「まぁ、そうだな」
「…………最悪な彼氏だな。そりゃ」

 思わず晶も苦笑する。こんなに我が道を行く人間はあまりお目にかかれない気がする。しかし、佐伯は少し考えた後、徐に言葉を続けた。

「まぁ、だから呆れられていたのかもしれんな」

 佐伯は何でもないことのように言い放つ。『やっぱり!呆れられてたんじゃん』と心の中でツッコミをいれ、顔も知らぬ佐伯の過去の恋人達に同情する。佐伯 の中でそんな事はどうでもいいのだろうと晶は思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい、本当に気付いていないだけという可能性もあるにはある。

「今まではあまり気にした事はなかったが、少し改めてやってもいいぞ」
「お!何かいい感じ。そうそう、もっと愛想良くしねーとさ、うんうん」
「調子に乗るな」

 納得している晶の頭を笑いながら冗談で軽くはたくと、佐伯は食器を手に持って立ち上がった。

「今日は出かけるんだろう?片付けて、そろそろ用意するか」
「あ、うん、そうだな」

 晶も続いて自分の食器をシンクへと持って行き、佐伯に「ご馳走様」と告げる。その足で洗面所へ行き、身支度を調えた後居間へと戻ってくると、昨晩着てき ていたスーツはハンガーにかけて吊されているし、シャツは洗濯したてな事に気付いた。確か、どちらも適当に脱いで椅子にかけておいたはずである。
──いつのまに……。

「着替えないのか?」
「あ、いや着替えるけどさ。要、俺のシャツいつ洗濯した?」
「いつってお前が起きる前だ。夜に仕掛けて置いたから朝には出来ていたがな」

夜に洗濯機の予約をしていた事すら気付かなかった晶は、その完璧さに驚くばかりである。洗い立てのシャツは袖を通すとふわりと柔軟剤の香りがした。

「サンキュ、要って案外気が利くんだな」
「お前がだらしないだけだ。それと『案外』は余計だ」

 佐伯の知らない一面を見た気がして晶は嬉しくなって一人でにやけていると「気味の悪い奴だ」と一蹴される。それぞれ用意を済ませて、といっても身一つだ けで別に何かを用意したわけではない。準備が整うと佐伯の部屋を後にする。エレベーターで一気に地下の駐車場へと降りる。
 
 降りた目の前の駐車場にはめったにお目にかかれないような高級車がずらりと並んでいた。ベンツをはじめランボルギーニやフェラーリ等々、まるで何処ぞの 展示場かと錯覚しそうである。アスファルトに硬質な靴音を立てながら、晶が辺りを見渡しながら歩く。うっかりつまずいて小石でも飛ばして傷をつけたら大変 な事になりそうである。

「このマンションに住んでるやつって、みんな金持ちばっかかよ」
「そんな事はないだろう?車が趣味な奴が多いだけかもしれないぞ」
「いや……それないでしょ」

 周りの車を見て感心している晶に佐伯が車のキーを投げてよこす。咄嗟の事だったので慌ててそれをキャッチし晶は佐伯の車の前で足を止めた。

「今日はお前が運転しろ。免許くらいあるだろう?」
「ちょっと待てって、ぶつけたらどうすんだよ?俺、運転あんまうまくないぜ?」
「ぶつけたら、修理すればいいだけだ。まぁ、人にはぶつけるなよ。柱とかガードレールとか直せる物にしておけ」
「……要のそういう所、ほんとズレてるよな」

 佐伯のその考え方に晶は呆れながらも渋々キーを車へ向けてロックを解除する。思い返せば運転をするのは実に久しぶりである。ホストをやっていて車がない のは笑えないと皆に言われて仕方なく買ったはいいが、駐車場の飾りとなってしまっているのが現状である。都内は駐車場を探す事すら難しいし、時間を間違う と渋滞にはまるしで、車には全く利点がないように思えた。

 しかも、見た目が格好いいという理由だけで真っ赤なオープンカーにしたのが後になって大間違いだった事に気付く。とにかく目立ってしまうのだ。そんなに 運転する機会がないというのに、免許の書き換えはいつも2時間講習コース。スピード違反や一時停止無視等で切符をきられる事が多いからである。無違反で書 き換えを迎えた事は一度も無かった。地味な色の車だったら絶対もっと違反は目立たなくなるはず!というのが晶の持論である。
 なので、免許と車はあっても、それを利用することは希なのである。

 佐伯の車に乗り込んで座席を調整し、勝手の違う場所を確認してエンジンをかける。佐伯の車はハイブリッドなので、エンジン音も静かで走り出しも滑らかである。慣れない車に最初は少し緊張した晶もすぐに運転に慣れた。


 地下の駐車場から外へ出ると、一気に眩しい日差しが車内へも差し込んでくる。外は天気もよく晴れた空には雲一つない。
こんな天気のいい日に恋人とドライブなんて定番という気もするが晶は隣に座る佐伯をみて一人苦笑した。

──相手が定番……とは言いがたい。

「なぁ、何か音楽でもかけねぇ?」
「データが入ったままになっているから、再生すればいい」
「あ、そうなん?電源は……っと、あった、コレか」

 晶は赤信号でとまった交差点で電源をいれるとあらかじめ入っていたJazzが車内に流れ出した。全く詳しくないのでアーティスト名もさっぱりわからないが、無音よりは全然いい。音量を調整した後、晶はフロント硝子越しに辺りを少し見回していた。
平日なだけあって会社勤めのスーツ姿のサラリーマンが目につく。高速の入り口が見えてきた所で佐伯の携帯がなった。

「はい、佐伯です」

 晶は腕を伸ばして音楽のボリュームを下げて、佐伯の会話の邪魔にならないようにすると隣を窺う。病院からの電話だったのか、何やら処置の方法を語っているようだった。
 何語だかわからない医療用語を口にしながら佐伯が細かく指示を出している。内容はわからないが、どうやら少し深刻な話のようだ。暫くして話を終えた佐伯が携帯を切り、また何もなかったかのようにそれをしまう。

「病院から?平気なの?」
「あぁ」
「何か深刻そうだったみたいだけど」
「たいした事じゃない。俺が行った所で処置する方法は同じだからな」
「まぁ、俺はよくわかんねーけど。要がいいならいいけどさ」

 晶は高速のETCを通り過ぎ、徐々に加速しながら窓を半分程あけた。スピードが出ているせいで、開けた窓からは勢いよく風が入り込んでくる。少し寒くも あるが、悪戯に髪を揺らして吹き抜ける風は心地が良い。助手席の佐伯も細く窓を開け、煙草を取り出すとそれに火をつけた。吐き出した煙が瞬く間に後部座席 から外へと流れ出す。思い出したように佐伯が晶に問いかけた。

「そういえば、何処までいくつもりだ?」
晶はそれには答えず逆に佐伯に問いかける。
「明日さ、学会だって言ってたよな?それって何時から?」
「夕方からだが、何か関係あるのか?」
「んじゃ、今日はどっか泊まってもいいってわけだ」
「泊まるって宿もとっていないのに、どうするつもりだ」
「宿ならとってあるんだな~。これが!」
 驚く佐伯を見て晶は苦笑する。それはそうだろう、旅行に行く等とは一言も言っていないのだから。
「驚いたっしょ?」
「当然だろう。何も用意してきてないぞ」
「いいんじゃね?むこうには浴衣あるしさ。あと、パンツはコンビニで買えばいいし」
「そういう問題か?」
「そういう問題だって」

 こんな計画性のない旅行は初めてだといって佐伯は呆れていたが、「だめだ」とも「帰ろう」とも勿論言わず、この突然の旅行に異論はないようだった。異論があったとしても、もうこうして出発してしまっているのだから今更な話でもある。

 首都高を抜けて東名高速へ入った頃、辺りには都内とは違った景色が広がっていた。少しずつ多くなっていく緑が都心から離れていっているのを実感させる。道はとても空いて車が時速100キロをゆうに越していていても違和感がないほどに流れている。
 軽い感触のアクセルについついスピードメーターが上がっていくのに慌てて速度を緩めると晶は口を開く。

「このぶんだと予定より早くつくかも」
「予定なんてあるのか?」
「さっきたてたんだよ。俺が勝手にな」
「それはそれは、失礼」

 佐伯は目的地については何も聞かなかった。厚木インターがもうすぐに近づいているにも関わらず時速を落とす事のない車はインターぎりぎりで思い出したよ うにハンドルをきった。車は急に止まれないという標語はよく耳にするが、加速している車は急に曲がれないというのも足した方が良いのかもしれない。佐伯の 車は晶の急な運転により、急速にGがかかりタイヤが軋みをならす。前方へ激しく揺れる車内では佐伯のシートベルトが危険を察知して身体を強引に受け止めて いた。

「おっと、あっぶねー!降り損ねて御殿場まで行くとこだった。……って、あれ?要?」
 時速を落とし、隣の佐伯を見ると絞まったシートベルトを緩めて溜息をつく佐伯に睨まれる。
「……寿命が縮んだぞ、確実に3年はな」
「わりぃわりぃ、怒んなって。でも3年だけで良かったっしょ?まだ当分生きられるって」
「…………」

 佐伯は一度苦笑した後、長い足を窮屈そうに組み替えるとフとメーターへと目を配る。遠出する予定はなかったので、最初からガソリンをそんなに入れてきていない。ガソリンのメーターは完全に底を突いてはいない物のそろそろ給油をした方が良さそうだった。晶が当初予定していた時間より早くにインターを降りる事ができ、そのまま小田原厚木道路を抜けると、東京とは全く違う街へと車は降りていく。
 さすが観光地なだけはあり、道沿いの三軒に一軒は土産物の看板を掲げている。

「そこのガソリンスタンドで一度給油をしろ。もうガソリンがないぞ」
「あ、本当だ。じゃぁ、寄ってくか」

 晶がウィンカーを出し、少し先にあるガソリンスタンドへ向かう。運転技術は確かに上手いとはいいがたい晶だったが、ここまでの道のりをカーナビに頼るこ とは一切無く、インターチェンジを降りてからここまでも何の迷いもなしに運転してきている所には佐伯も感心していた。案外下調べに余念の無いタイプなの か?そんな事を考えている内に車はガソリンスタンド内へと停車した。

 佐伯のマンションを出てから、サービスエリアで休憩を挟むことなく走り続けてきたので少し身体が痛い。店員へ「ハイオク満タンで」とカードを渡し、その まま一度車外へ出る。自販機で晶と共に缶コーヒーを購入すると外に設置してあるくたびれた喫煙所に腰掛け一服する。あまり使われていないと思われるベンチ は足元がグラグラしていて、少しの衝撃で倒れそうだった。

「何か遠くまできたーって感じだな。ここから見える景色とかさ、いつもと全然違うし」
「ああ、そうだな」

 隣にある海産物を扱う土産屋から、試食で焼いている魚の干物の匂いが漂ってくる。煙草を吸い終わって、空き缶をゴミ箱へ捨てると丁度店員がこちらへ向 かって会計を済ませて歩いて来た所だった。それを受け取り、車へ戻ると窓硝子も綺麗に拭かれている。どちらへ出て行かれますか?という店員に晶が進行方向 を指定し車内へ乗り込む。特に出入りを止めずとも車はそんなに走っていなかったが、規則なのだろう。広い車道へ出た店員が大声でかけ声をかけ、最後に「有 難うございました」と頭を下げる。

 店員の姿が小さくなり、晶が何度か込み入った曲がり角を侵入して40分程車を走らせると目的地の熱海の周辺に辿り着いた。目の前には幾つかの大きな旅館 が見えている。温泉街の中でもこじんまりとした旅館も多いが、ここ一帯は昔からある老舗の旅館街なのか、一軒ごとの敷地がやたらに広い。晶はその前を何軒 か通り過ぎ、割と新しい店構えの和菓子屋の前に建つ一軒の旅館の中へ車を侵入させた。

 入口の車寄せへと向かう間、佐伯は目の前の旅館を見上げる。年季が入ってはいるものの、丁寧に修繕をしているのだろう、昔ながらの趣を崩さない絶妙なレ ベルで何棟かの建物が建っている。それぞれは渡り廊下を渡って進む仕組みなのだろう。敷地は広大で、高級旅館の貫禄を思わせた。こんな旅館が昨日の今日で 空き部屋があって予約をとれるとはにわかに信じがたい。

  何も用意してきていないので、身一つで車から降り、車はバレーサービスを利用したのでそのままキーを渡す。晶の後に続いてチェックインカウンターへと足を向けた。
時刻は現在、夕飯の時間には少し早い5時頃だった。

 ロビーの床は一部ガラス張りになっており、足元を錦鯉が優雅に泳いでいる姿を見ることが出来る。丁度ぐるりと中庭を囲む形に池が作られており、吹き抜けになっている中庭には整えられた見事な枯山水の庭園が築かれていた。

「枯山水か……風情があるな」
足を止めて庭園に見入っていると、晶が側に寄ってきて興味なさそうに庭園をチラリと見る。
「え?かれなに??」
「かれさんすい。日本庭園の様式の名前だ。知らないのか?」
「普通知らないでしょ、それって」
「水の流れや池を白川砂とかで表現した庭の事だ。一つ勉強になっただろう?」
「まぁね、要って色々知ってるんだな。俺こういうの昔っから興味ないからさ。たまにそこの砂利に足跡つけて怒られてたっけ」
「…………?何の話しだ?」

佐伯が不思議そうに晶を見ているのに気付き、晶は慌てて先を促す。

「よし、早く部屋いってゆっくりしようぜ。さすがに運転して疲れたしさ!」
「それにしてもよく急に予約が取れたな。こんな立派な旅館」
「平日だからだろ?偶然だって」

 晶はそう言ってやけに足早にカウンターへと向かう。旅館の受付係から鍵を受けとり、館内の案内パンフレットを手渡されると、それを一度も見ずにポケット へとしまい、すぐにカウンターから離れた。荷物があれば、それを部屋まで運びがてら案内をしてくれるのだが、晶はそれも断ったらしく急ぎ足で一人で戻って 来た。

「お待たせ、んじゃ行こうぜ」
「何をそんなに急いでいるんだ?」
「別に急いでねーよ?ほら、荷物もないしさ」

 先を歩く晶の後に着いて館内を進む。途中、浴衣姿の宿泊客と何度かすれ違う。その先を見るとどうやら露天風呂があるらしい。壁に大きくかかれた大浴場と いう案内を横目で見つつ、佐伯は久しぶりに出来た急な余暇を楽しむようにゆっくりと歩く。温泉などもう何年も訪れたことがない。そもそも日帰りも含めて、 プライベートで旅行へ行くという機会がなかった。

 誰かと二人で長い時間を過ごすのはあまり好きな方ではないし、気に入った場所があればいつも一人で行っている。その方が効率が良いし、楽だからである。今まではずっとそう思ってきたが、こうして急な遠出というのも良い物だと感じていた。

 館内の中央にあるエレベーターへ乗り込むと、旅館の全体が一望できるようになっている。
暗くなった外の景色の中、控えめなライトアップが静かに木々を彩っている。露天風呂のある方向には海も見えるらしい。日常と切り離された空間は、いつもよりゆっくりと時間が進んでいるようだ。
 こうして思い切って旅行にこれたのは晶の行動のおかげでもある。佐伯は隣に並ぶ晶の横顔をちらりと見て心の中で感謝の言葉を呟いた。