俺の男に手を出すな2-4


 

5人乗ればもう窮屈になりそうなエレベーターの箱内で、目的階に到着したのを知らせる音声が鳴る。
 先に降りようとして一歩進んだ佐伯を全力で通せんぼしているのは勿論、晶である。

「待った。俺が先に降りっから」

 まるで、降りた先に敵が待ち構えているようなその素振りに、さすがの佐伯も違和感を口にする。

「……誰か会うと困る奴でもいるのか?」

 訝しげに眉を寄せ、晶の背中越しにそう言っては見るが、当の本人は廊下へ顔だけを出してその長い廊下を一通り見渡している。晶は誰もいないのを確認するとクルリと振り返ってほっとした表情を見せ、いつもの笑顔に戻って佐伯の手を引いた。

「そんな奴なんていないって、考えすぎ」
「……そうか?お前さっきから様子が変だぞ」
「え?んなことねーよ?俺はいつも通りだし、いや、ホントに……」

 明らかに様子が変ではあるが、今この時点で口を割る気は無いらしい晶に佐伯はいくつかの推測を頭で巡らせていた。
 7階の702号室は渡り廊下を渡った先にあるらしい。館内はとても広く途中にある案内板を見ないと迷う人間もいそうなほどである。にもかかわらず、不思議な事に晶は一度も迷わず一発で部屋へと辿り着いた。
勿論、案内板を見ていたわけでも無い。くしゃっとポケットにねじ込まれているパンフレットだって、受け取ってから取り出してもいない。

 7階の廊下は椿の花を描いた柔らかな絨毯が敷き詰められており、佐伯達の足音を吸収する。チェックインをするには現在は些か遅い時間でもある。部屋での 食事が始まっているのか、それとも先程の露天風呂の方を満喫しているのか、廊下は静まりかえっており、部屋に辿り着くまでに会った客は老夫婦一組だけで あった。
 色々考えながら歩いていた佐伯は晶より少し遅れて後を着いていっている。

「あれ?要どうかした?」
702号室のドアに鍵をさしながら晶が振り向く。
「晶、前にここに泊まった事があるのか?随分と詳しいみたいだが」
「いや、泊まった事は……、ないかな。うん。まぁ、いいじゃん。な?入ろ入ろ」

 推測として、以前客と来た事があるという可能性が頭に浮かぶ。客ではなく当時の恋人ときたのかもしれない。あまり詮索するのも好きではないので、佐伯はそれ以上は問うこともなく、晶の後に続いて部屋へと足を踏み入れた。
 スリッパを脱いで部屋へと入ると目の前には広い和室が広がっていた。

「ほう……だいぶいい客室だな」

 入り口を抜けてまずある和室はかなり広く、その隣にはもう一つ和室がある。緑の茂っている方へ向くベランダ側には籐で作られたテーブルセットが置かれて おり卓上には季節の生け花が綺麗に生けられている。反対側、丁度海を見下ろせる眺めの良い方角には専用の大理石の露天風呂が惜しげもなく湯を溢れさせてい た。佐伯は海側のそこへと足を向け、窓の引き戸を開ける。

 窓を開けて見渡せる景色は遮る物は何もなく海を一望できるオーシャンビューになっていた。
今はもう暗くて遠くまでは見渡すことは出来ないが、波の音と微かな潮の香りが風にのって届く。
 どうやら部屋は、特別室らしい。この旅館の規模からいって最上階の7階は全てが特別室であると考えるのが妥当である。こんなに急に、予約がとれたという事に佐伯はますます疑問が残った。

「無駄に広いな~この部屋は」
 隣にきた晶は目の前の景色に驚いている風でもなく、そんな文句を言った。
「いい部屋じゃないか」
「まぁ、要が気に入ったならいっか」

 意味深な言い方をする晶はこの部屋の何処が気に入らないのだろうか。
晶は部屋にもどると着ていたスーツを脱いで早速浴衣を手に取っている。浴衣は何色か用意されているようだが、晶は選ぶ様子もなく一番上の物を引っ張り出して手にとった。矢柄の入った濃紺の浴衣は色の白い晶の肌によく映える。
しかし、背の高い晶には男物の浴衣も少し袖が短く腕がかなり出てしまっていた。晶でそうなるのだから、晶より身長のある佐伯はもっと短くなるのかもしれない。晶もそこが気になるのか、袖を引っ張りながら佐伯へと振り向く。

「要は?着替えねぇの?」
「そうだな、俺も着替えるか」

 晶の着た濃紺の他に何色があるのかを確認し、佐伯は濃いグレーの物に手を伸ばした。最近の浴衣は男でも華やかな物を好む層が多いのか、黄色や深紅の物まである。
着ていた服をハンガーにかけて浴衣を羽織る。案の定袖は短かったがそれでも着丈の長さはそれなりにあり、気にするほどでもない。帯を腰で結び、佐伯は晶を呼ぶ。

「ほら、お前のも貸せ」
「え?なに?」
「スーツだ。床に脱ぎ捨てておくつもりか?」
「あぁ、スーツか宜しく~」

 佐伯は晶のスーツを受け取るとハンガーにかける。その様子を眺めていた晶が一人納得したように頷いていた。何だかこうして世話を焼かれるというのが少し嬉しいようなくすぐったいような気分になる。

「何だ?」
「ううん、なんでもねー。要、浴衣似合ってるな、どっかの家元みたい。ほら、テレビでよくやってるお茶を選別したりする人みたいな」

 お茶を選別する人は別に家元でもなんでもない。晶の中ではきっと『師匠』『家元』『和菓子職人』そういう和風なグループを一緒くたに捉えているらしい。実に大雑把なくくりに佐伯も苦笑いが浮かぶ。

「何だその家元っていうのは。まぁ、お前もそれなりに似合ってるぞ」
「マジで?サンキュ」
「花火大会にきた今時の大学生って感じだな」
「……それって俺、喜んでいーの?」

 苦笑している佐伯をみて晶も笑う。普段と違う和装というだけで、今この時間が特別な時間に思えてくるから不思議である。二人で和室へと腰を下ろしたその時、控えめに部屋をノックする音が聞こえてきた。晶は渋い顔で立ち上がりドアに向かう。

「何だよ……誰も来なくていいって言っておいたのに」

 そう言いながらドアのレンズを覗く。「うわ!」と小さく漏らし、同時に3歩ほど後ずさった晶は佐伯の元にくると佐伯の肩を両手でがしっと掴んだ。

「俺はいないって言っておいて!頼んだぜ」

 真顔でそう言い残して、素早く露天風呂のある方へと身を隠した。その行動があまりに素早くて呆気にとられているともう一度部屋にノック音が響く。
「…………??」
 何が何だか分からずに佐伯は晶がベランダに出たのを見届けて代わりにドアを開けた。
ドアの前には女将なのだろうか、上品に着物を着こなした女性が立っていた。薄紅の着物がよく似合っている色白の大層美人な女性である。

「ようこそお越しくださいました。こちらの旅館で女将をやっております、志乃と申します。今お時間大丈夫でいらっしゃいますか?」
「ええ、大丈夫です」

 佐伯も軽く頭をさげて挨拶をする。部屋の担当をする仲居が挨拶に来る事はよくあるが、女将が直々に挨拶に来るとは今時珍しい旅館である。

「失礼しても宜しいでしょうか?」
「どうぞ」

 女将は失礼致しますと部屋の中に入ると座卓の前の座布団を避けて静かに腰を降ろした。手慣れた所作で卓上にあったお茶のセットの蓋をあけると佐伯へと天気の話をしながらお茶を淹れて「どうぞ」とにっこり微笑んだ。
 差し出されたお茶は濃い中にも微かな甘みがあり、佐伯の好む所である。

「良かったらお茶請けにこちらも召し上がってみて下さい。甘い物が大丈夫でしたら」
 和紙に包まれた和菓子を一緒に出されたが、佐伯はそれには手をつけず、もう一口茶をすすった。
「お連れ様はどちらへ?」

佐伯が一人なのを確認して柔らかな笑みでそう尋ねる女将に、佐伯は一瞬言葉を詰まらせる。「そこに隠れています」とは言えず、適当な理由を口にする。

「あぁ……、ちょっと館内を見てくると出ています」
「さようですか、では」

 女将は佐伯へと淹れた分だけで、残りの茶葉を茶こぼしへと移しその蓋を閉じた。
 佐伯はベランダにいる晶の、会いたくない人物が何故この女性なのか考えていた。考えられる要因としては、やはり恋愛絡みなのだろうか。昔に付き合ってい たという事も考えられなくはないが、それにしては晶とは少し歳が離れているように思える。頭の中でそんな事を考えている佐伯に、女将は笑みを絶やさず話を 続ける。

「こちらへは初めてでいらっしゃいますか?」
「ええ、そうです。少し急な旅行でして」
「さようですか。道中お疲れになったでしょう。今の季節は露天風呂につかっても外気が冷たいですから気持ちいいんですよ。そちらのプライベートな露天だけでなく、4階の大浴場の方へも、お時間有りましたら足を運んでみて下さいませ。疲労回復の効果もありますので」

 そう言ってにっこり笑う姿、今までの立ち振る舞い、それらは上品ではあるが、どことなく可愛らしさもあり女将の素顔が垣間見れた気がする。

「佐伯様」
「……はい、……?」

 突然『お客様』から『佐伯様』と呼び方を変えられた事を不思議に思っていると、その答えはすぐにわかる事となった。

「晶がいつもお世話になっているそうで、母親の私からもお礼を言わせて下さいませ。有難うございます」
 一瞬、何を言っているのか把握するのに佐伯は目の前の女将を前に時間を要した。

───……母親…………だと?

 そう言われてからみれば、女将は晶に確かに似ている。濡れたような瞳も色素の薄そうな色白の肌や、すっと通った鼻梁も、親子だと思って見てみればなるほ どよく似ていた。晶の先程の行動にも納得がいく。母親に会うのを避けたいが為にあんなに不審な行動を取っていたのだ。佐伯はチラリとベランダにいる晶へ視 線を向け、心の中で溜息をつく。

「……そんな。こちらこそ三上くんには世話になっております」

 一応無難にかえしておく。晶が佐伯との関係をどのように伝えているのかわからないので他に言いようがない。
──まさか……恋人だとは言ってはいないのだろうが。

「ちょっと失礼致します」

 女将は佐伯の目の前でゆっくりと立ち上がると片手で裾の乱れを直し、まっすぐに晶の隠れているベランダに向かった。先程一瞬ベランダへと視線を向けた佐 伯に気付いたわけではない。だとしたら先程部屋で交わした会話が聞こえていた?それとも母親の勘という方が正しいのだろうか。制止する間もなく、がらっと 扉をあけると一言言い放った。

「そんな所に隠れていないで、出てきなさいな。晶」

 その声に、何かぶつぶつ文句をいいながら晶が仕方なく顔を出す。佐伯はその光景がおかしくて思わず笑いそうになるのを堪えて咳払いをした。渋々と部屋に 入った晶は案の定ふてくされた表情をしており、佐伯と目が合うとバツが悪そうに頭を掻いている。佐伯の向かい側へと腰を下ろし、晶は肩を落とすとわざとら しく溜息をついた。晶の先程までの行動が水泡に帰した瞬間である。

「俺には茶はねーのかよ」
「あら、貴方も飲むの?じゃぁ、淹れますよ。一応お客様ですからね」

 『一応』の部分を強調してくすくすと笑いながらも晶にもお茶を煎れる女将は晶よりやはり一枚上手のようだ。熱いから気を付けなさいと注意をして湯飲みを差し出すその姿に、やはり母親だなと感心していると女将が佐伯に向き直り愚痴をこぼす。

「佐伯様は、大学時代の先輩と伺っております。こうしてお友達を連れて来たのが初めてなんですよ。この子、2年近く顔を見せなくてね。近くにいるのに生きているのか死んでるのかわからないくらいで」

 呆れた口調でそう零す女将に佐伯も苦笑するしかない。大学時代の先輩という設定がわかり少し安心すると同時に、先輩と二人で温泉旅行へ行くというのが一般的に普通なのかどうなのか、佐伯の中にいくつか疑問符が残る。

「……2年、それはまた」

 女将に合わせてそこまで言った佐伯の言葉を遮るようにして晶が口を挟む。

「いいから、もうどっかいけって。だからここ以外の旅館に泊まりたかったんだよっ」
「しょうがないでしょう。昨日の今日でうちしか空いていなかったんですからね。あんな時間に急に部屋を用意しておけなんてメールが来たらこうなるのわかっていたでしょう」
「あーもう、わかったわかった。そこは感謝してるってば」

 話しを聞く限りでは、晶はどうやら他の旅館もあたっていたらしい。何処も満室で母親にでも何処かないか聞いた結果が今この現状なのだろう。
 佐伯はぐるりと部屋を見渡すと女将に話しかけた。

「とても素敵な部屋で、三上君に先程礼を言っていた所です」
「まぁ!お褒め頂き有難うございます」

 女将はとても嬉しそうにはしゃいだ様子を見せて手を合わせた。実際の年齢は知らないが、そんな表情はかなり若く見え晶の姉と言っても通用しそうな程である。

「まだゆっくりと拝見していない所もありますので、後で三上君に案内して頂こうと思っています」
「そうですか。是非、お楽しみ下さいませ」
 女将は晶に向き直ると、「ちゃんと案内してさしあげてね」と念をおしてから、静かに立ち上がる。
見送りに立つ佐伯の後ろで、晶は座ったまま「はいはい」と適当な返事を返した。

「何かご用がありましたらいつでもお声をおかけ下さいませ。ごゆっくりお過ごし下さい」
佐伯へと丁寧にお辞儀をしそう言うと部屋を出て行った。

 ドアがしまって女将の足音が遠くなる。佐伯がドアへと鍵を掛け部屋へ戻ると、晶が少し恥ずかしそうに佐伯を見あげた。

「なんつーか……まぁ、そういう事だからさ」
「お前がここの息子とはな……。最初から言えば良かっただろう」
「嫌だよ。だってさ、要、ここが俺の実家だなんて言ったら気遣うだろ?そういうのはやっぱ嫌だ。折角ゆっくりしにきたのにさ」

 佐伯に気を遣わせない為に隠していたという晶の行動はわからなくもない。思い遣りのある晶ならそう考えるのが自然なのだろう。俯いて納得いかない様子の晶に近寄り、佐伯はクイと顎を掴む。

「本当に可愛い奴だな、お前」

 そのまま覆い被さるように口付けをする。佐伯の軽い口付けだけですぐに身体が反応してしまう晶は、佐伯の浴衣の襟を掴むと佐伯を遠ざけた。

「……ちょっ……要っ」
 口付けをといた後、佐伯は晶から身を離した。
「今日は何もしない。安心しろ」
 そう言って佐伯はぬるくなった茶を一気に飲み干した。

 このまま押し倒されていきなりというのも困るのだが、こうもあっさりひかれるとそれも少しガッカリなような。 晶は複雑な気持ちで佐伯をチラリとみたが、佐伯はそれには気付いていないようだった。

 晶も先程母親に淹れてもらった茶を飲み、卓上に二つある和菓子の包みを開いて一口で口に入れた。求肥の中に包まれた柚あんの甘い味が口いっぱいに広が る。そういえば子供の頃、この菓子を気に入ってよく買ってきて貰っていたのを思い出す。先日電話で聞いた幼馴染みが跡を継いだ向かいの和菓子屋の物であ る。自分が泊まる事を知って用意してくれたのかもしれない。
そう思うと、さっきは少し言いすぎたかも知れないとちょっとだけ反省し、甘い物が苦手な佐伯が手をつけていないもう一つも口に放り込んだ。

「晶」
「ん?」
「折角だから館内を案内してくれ。夕食の時間まではまだ少しあるだろう」
「え?さっきの本気だったんだ?」
「あぁ」
「……ま、いっか。どうせもうバレちゃったしな」

 それから二人で部屋を出ると、再び先程のロビーへ戻り一通り館内を散策する事になった。隠し事がなくなったせいか、晶は時々、昔の話しを交えて説明す る。老舗旅館の一人息子なせいで従業員から「お坊ちゃん」と呼ばれるのが嫌だった事。よく館内に悪戯をしてはこっぴどく怒られていた事。両親が夜遅くまで 帰宅しないので、飼っているラッキーと一緒にいつも寝ていた事。当時からどうやらやんちゃだったらしい晶の話を聞きながら、佐伯は不思議な感覚にとらわれ ていた。

 何十年か前のこの同じ場所に晶がいて、今の晶は佐伯と一緒にこの場所にいる。晶の長い人生の中に自分の存在が交わっている事を嬉しく思う気持ちが確かにあった。そして、そんな気持ちになったのは初めてだった。
 途中、土産物を揃えている一階の売店で、「夕飯が食えなくなるぞ」という佐伯の忠告に「へーきへーき」と言いながら晶は一通り試食をつまみ、その後みた 全く可愛くないゆるキャラの謎の手拭いに二人で苦笑する。館内は結構客がおり、中までは入らないが4階の大浴場の休憩室を覗けば、賑わう様子が見れた。
 明日の朝に大浴場へ入浴し、今夜は部屋付の露天へ入ろうと提案する晶に佐伯も同意する。流石息子なだけはあり、晶の館内案内は完璧だった。
部屋へと戻る事にしたのはそれから一時間後。7時には部屋へ夕食が運ばれてくる事になっているのだ。

「腹減ったな~」

 菓子やら試食を食べていたにも関わらず、晶はそういって部屋のドアノブに手を伸ばした。