俺の男に手を出すな 3-1


 

 ――敬愛会総合病院の入院棟と外来棟を繋ぐ3階の渡り廊下にて。

 佐伯は、いつもより数段早めた歩行速度で医局へ向かっていた。その後ろを製薬会社のMRが小走りで着いていく。
 丁度駅からこちらへ向かう途中に見つかってしまい、そこから病院内、エレベーター、そして廊下とずっとこの調子なのだ。

「佐伯先生、ではせめてパンフレットだけでもどうでしょう?他社の製品と比べて副作用の症例も少ないですし、コストの方も悪くないかと。こちらの消化器外科で採用されたとなれば、我々もより一層消化器系の研究に力を入れさせて頂こうと思っておりまして」

 朝からテンション高く付きまとわれているせいで、逆にこちらのテンションは下がる一方である。仕事絡みではない相手なら、嫌みの一つでも言ってバッサリ追い払う所だが、そうもいかず……。
 佐伯は只管耐えて話を右から左へと聞き流していた。

「知名度をあげたいなら、私よりもっと他の有名どころのドクターに掛け合った方がいいんじゃないか?」

 振り返らずにそう返してはみるが、相手は引く気配もない。まだ新人なのだろう、よく言えば初々しいスーツ姿に若さ故の謎の押しの強さ。ノルマもあるだろうし、そう簡単には引くなとでも上に教育されているのは予想がつく。もう少しベテランのMRの場合は融通が利いて、所構わず押しては来ない物である

「いえいえ、そんな滅相もないです。佐伯先生の目覚ましい活躍は我々の耳にも届いておりまして、ここはひとつ是非佐伯先生にとお願いさせて頂きたく」

 そろそろ医局へ着いてしまう。
 食い下がる相手に佐伯は観念したように一度足を止めた。何を言っても時間の無駄である。相手も仕事なのだからとわかってはいる物の、週に何度もこうして売り込みに来られるとそう相手もしていられない。
 社交辞令で寄せられる大袈裟な賞賛も、もう聞き飽きていた。受け取らない限り帰ってくれそうもないので、佐伯は聞こえないように小さく溜息をつき、仕方なく手を差し出した。

「……何かあれば此方から連絡します」

――だからもう来るなよ。という語尾は口にはしない。

「良かった!では、これをお持ち下さい。お忙しいのにお時間とらせてしまい申し訳ありませんでした。ご不明な点があれば、またお伺いしてご説明させて頂きますので!是非宜しくお願いします」

 受け取ったパンフレットは一冊ではなく、製薬会社の名が大きく印刷されたマチのある封筒に3冊ほど入っているようで思っていたより重い。佐伯は渋々それを受け取ると脇に抱え、医局のドアノブに手をかけた。




――今日は朝からついてない。

 今朝は人身事故があり、乗車していた電車が遅延したのでいつもより少し遅めの出勤である。遅刻ではないが、余裕を持って準備をしたい佐伯にとっては相当な時間ロスには違いない。しかも、急いでいる今朝に限って運悪くさっきのMRにつかまってしまうというおまけ付きである。

 医局へ入ると、やはり他の医師はもう先に来ており、珍しく遅い出勤の佐伯に視線が集まる。

「おはようございます~。珍しいですね。佐伯先生がこんな時間」
「おはようございます。ええ、電車が人身事故で遅延していたので」
「それは災難でしたね……。あ!その封筒、また例のMRにつかまりましたか?」

 読みかけの新聞を畳み、苦笑してそう言ってくる医師に佐伯も苦笑いを返す。

「彼、最近は佐伯先生にご執心みたいですからね。僕も一昨日昼休みに会ったんですけどね、その時も「佐伯先生は今どちらに?」って、聞かれましたよ。人気者だな~佐伯先生は」

 嫌みを含む言い方をする相手には言い返すのも面倒である。MRは正直だ。影響力が低い医師には全く態度が違う。しつこくつきまとわれるというのは、逆を返せば、それだけ有望だと思われているという証拠なのである。それを見極める目と情報網だけは彼らの右に出る物はいない。そう言っていたのも、確か目の前にいる男だったはずだ。

 まだしつこく何かを言ってきたら話を折ろうかと思っていたが、他の医師と先程のMRのしつこさについての愚痴で盛り上がりはじめた為、佐伯は返事を返さずロッカーへと移動した。
 ロッカーの中へ上着を掛けて、手を洗った後白衣を手に取り戻ると、話題はまだ続いていた。
 緊張感のない医局内の空気は、まぁ、平和な証拠である。



 佐伯が自分のデスクへと先程の封筒を置こうとすると、卓上には何枚かのメモが貼られていた。その中の数枚は、これまた他の製薬会社からのセールスである。それらはざっと見て脇へと避け、途中に挟まれていた一枚をみて佐伯はあからさまに眉根を寄せた。

──椎堂……。

 連絡をくれという伝言が添えられたそのメモだけをポケットに入れる。昨夜帰る際にはなかったので、深夜に当直だった時に書き置きしたようである。

 椎堂 誠二(シドウ セイジ)同じ敬愛会総合病院の内科医であり大学時代からの佐伯と美佐子の同期でもある。佐伯はメモの事は一度忘れ、何もなかったかのようにデスク上のPCを立ち上げてカルテのフォルダを開いた。

 今の時点で佐伯の担当している患者はかなりの数にのぼっている。医師の人手不足は敬愛会でも深刻で、各々の負担もそれに比例して重い。
 佐伯はオペのスケジュールに目を移し、夕方から入っている膵頭十二指腸切除の患者の詳細を確認するために引き出しから過去の資料を取り出した。

 ペンをカチッとクリックしては戻すという、すでに癖になっている動作を無意識に繰り返しながら念入りに資料を見ていく。十分ほど前に午前に手術予定がある医師や外来担当の医師が出て行ったばかりなので医局には大谷という研修医と佐伯しか残っていない。やっと静かになった事で落ち着いた時間が戻る。

 午前中は、何もなければ書きかけの論文を推敲して、資料の整理に時間を割く予定だった。わずかに空いた時間に片付けてしまわないと、次はいつ取りかかれるかわからない……。
 とりあえず朝一で済ませる予定の医療器具の発注書を大谷へと回し、細 かく指示を出していると院内放送で佐伯の名前が呼ばれた。

「第一外科・佐伯先生、佐伯先生、至急内科3番までお越し下さい」

――……外来?

 内科3番は外来の診察を行っているはずである。外科外来や救急外来からの呼び出しは頻繁にあるが、内科外来からの呼び出しは滅多にない。どうやら今日も資料の整理に割く時間はとれなさそうで佐伯は肩を落とした。

「じゃぁ、発注は今言った通りで。何かわからない事があったら戻ってきてから言ってくれ」
「わかりました。やっておきます。呼び出し……どうしたんでしょうね?」
「さぁな、とりあえず私は行くから後は頼んだぞ」

 大谷に書類を渡し、聴診器を引き出しから取り出して首へとかけると佐伯は医局を出て外来へと足を向けた。
 職員用のエレベーターで2階まで降りて、一般外来まで行く間、白衣のボタンがひとつ取れかかっている事に気付く。所々綻びも見られるのでそろそろ新調した方がいいのかもしれない。そんな事を考えながら歩き、内科外来が視界へ入ると、佐伯は眉を顰めた。

 あきらかに様子がおかしい。敬愛会総合病院は、他の医院からの紹介状で来訪するか、緊急外来で来訪したその後等の患者しか受け入れていない。しかも、全ての時間で予約制なのだ。
 だというのに、待合室には診療時間が始まったばかりとは思えないほどの人数が待っていたのである。
 3番の診察室の入り口を抜ける所で「いつまで待たせるんだ」と看護師に怒っている患者までいる始末だ。その横を通り抜け、手近にいる看護師に声をかける。

「おい、君。どういう事なんだ?この患者の数は……」
「あ!佐伯先生、良かった。来て下さったんですね。実は……」
「ん?」

 看護師が処置室の裏手へと佐伯を連れて行く。佐伯は後について入り後ろ手でドアを閉めると「それで?」と看護師に向き直った。

「それが……、今日の外来担当の椎堂先生がまだいらっしゃらないんです。何度もご自宅へ電話を入れたんですが出て下さらなくて……」

 椎堂の名前が出たことで、佐伯は朝に見たメモの事を咄嗟に思い出した。メモの件と今の状況はどうやら関係がありそうである。

「椎堂先生が?だったら、他の内科の先生はどうしたんだ」
「あの……それが、香坂先生以外は今日は学会に出てまして誰もいなくて……。今日は元から患者数が多い日だったんですけど……」
「……、そうか」

 看護師の言葉を聞いて佐伯は思い出した。
 今日はアメリカから来日している著名な医者の公開手術を兼ねた学会が大々的に都内の某大学病院で行われているのであった。佐伯は去年参加したので今年は参加を見送ったのである。椎堂もまた佐伯と同じく去年参加したはずで、今日は無関係なはずだが、看護師の話を聞くに無断欠勤をしているらしい。どうりで患者が捌けていないはずである。

「……状況はわかった。じゃぁ、椎堂先生が診察する予定だったカルテを全部渡してくれ。診察室は4番に入るから準備が出来次第、患者を呼んでくれて構わない」
「本当に助かります!宜しくお願いします」
「あぁ……それと君。……椎堂先生から、もし連絡が入ったら私に教えてくれないか」
「はい、わかりました」

 佐伯が診察室に入って間もなくすると患者が呼ばれて診察が始まった。一時間もすると、待合室の患者は半数に減り、午前の診療時間が終わる時刻を過ぎた頃には漸く予定通り全ての患者を診終えることが出来た。

 佐伯の手際の良さに看護師は礼を言い、午後からは連絡の取れた何人かの先生が戻ってきてくれる旨の説明をする。

「佐伯先生、本当に有難うございました」
「私もたまたま午前中は空いていたからな。問題ない。この後、検査の患者が何人かいるようだったが、そっちは大丈夫なのか?」
「急を要する患者さんの検査だけは、香坂先生にお願いしてあります。でも午後の診察までに間に合うかどうか……」
「まだ少し時間があるから、何人か受け持っても構わないが」
「本当ですか?では一人だけ宜しいでしょうか。入院されている患者さんで、予定外なのですが、昨晩嘔吐された際に出血が見られまして、内視鏡の検査をする事になっているんです」
「一人なら問題ない。すぐに手配出来るのか?」
「はい」
「じゃぁ、その患者のカルテをコピーしてきてくれ。検査は1時からだったな……。昼を済ませたら検査室へ向かうようにしよう」

 看護師は一度佐伯の元を離れ、コピーをした書類を持って戻ってきた。手渡されたそれをめくって見ながら、佐伯はその手を一瞬止めた。

「……本人は知っているのか?」
「……いえ、まだ……。ご家族の方にだけお話してあります」
「……そうか」

 患者は胃癌で入院している25歳の青年だった。患者本人には家族の意向でまだ癌を告知はしていないらしい。歳が若いが手術が難しい箇所への転移があり、明日から抗ガン剤投与を中心に治療を開始する旨が記載されている。現在は症状を緩和させる処置を行っているらしい。

──25歳か……。

 佐伯はふと晶と同じ年頃なのだと思い当たり複雑な心境になる。外来を出て、時計を見ると午後の検査の時間まではもう一時間もない。  
 
 
 
 
 急いで一度医局へ戻り、昼食をとるために職員用の食堂にいくと食券売り場にはすでに列が出来ていた。
 他の医局の研修医と若手の看護師達が楽しそうに何やら話す姿を見ていると、ここが大学のような錯覚に陥る。昔は自分も椎堂や美佐子と同じように学食で集まり、くだらない話から今後の医療の事など、様々な話をしていたのを思い出す。
 懐かしいというよりは、若かったなとただ思うだけで特別に感慨深いわけではなかったが、当時を思い出すと苦い思い出も蘇る。

 佐伯は僅かな時間過去を振り返り、すぐに現実へと戻った。
 列に並んでいる時間はないので同じく食堂で売っている弁当を買うと窓際の席に腰を下ろす。

 たいして食べたいような物も入っていないが、体力を保つためには栄養補給は欠かせない。長時間の手術でも乗り切れるだけの体力は常になくてはならないからだ。弁当を箸でつまみながら佐伯は先程の患者のカルテのコピーを眺めていた。
 手術が難しいという判断を下したのは佐伯の上司でもある外科医長のようだ。判断が間違っているとは思わないが、他に方法はない物なのか……。頭の中で手術のシミュレーションをしながら考えを巡らせる。
 器用に魚の骨を箸で取り除いていると、頭上から声がかかった。

「佐伯先生」
「ん?」

 突然名を呼ばれ、箸を置いて顔をあげると先程医局内で発注を頼んでおいた研修医の大谷がカップをもって立っていた。

「あの……同席しても宜しいでしょうか?」
「どうぞ」

 別に話す事もないが断る理由もなく、佐伯は向かいの席を指した。前の席に座った大谷は日陰になっているせいとも言い切れない顔色の悪さをしている。朝に見た時は普通だったはずだが何かあったのだろうか。

「私に何か用事か?」
「あ……いえ。特に用事ではないです」
 何か言いたそうだが要領を得ない大谷の態度を疑問に思っていると、少しして大谷は徐に口を開いた。
「あの……佐伯先生。先生は何故外科を選ばれたのですか?」
「え?」
「あぁ、いえ。ちょっと先生の意見をお聞きしたくて」
「私のそんな理由を聞いてどうするんだ?」
「俺、いや。僕は、もうすぐ臨床研修期間が終わるので最終的に何処を希望するか迷っていて……。佐伯先生の意見を聞かせて頂ければと思いまして……」
「そうか……」

 もうそんな時期になるのかと、時の流れの速さに驚きつつ大谷からの質問への答えを少し考える。物心ついた時から両親ともに医師だった事もあり、自分もそうなるのが当然のように教育を受けてきた。数ある科から外科を選んだのは自分の腕次第で結果が出せると思ったからではあるが、他の科を考えたこともないので迷って決めたわけではなかった。

「……私は最初から外科医になる事しか考えていなかったからな。外科は良くも悪くも己の腕次第だという部分が選んだ理由といえば、そうかもしれん。君も自分がやりたい所にいけばいいだろう。何か迷う必要があるのか?」
「……そうですよね。すみません、おかしな事を聞いてしまって……」
「それは別に構わないが……、他人の意見は参考程度にして、本当に自分でやりたい所に行かないと後で後悔するぞ」
「……。はい、もう一度自分で考えてみます」

 もっと親身に励ましてやった方が良かったのだろうか、大谷はひどく緊張した面もちでカップを口に運んだ。青ざめて覇気のない大谷を見ていると、どちらが患者なのかわからなくなりそうな程である。

「……昼は食べないのか?」

 そう聞いた佐伯に、さっきまで手術を見ていてとてもじゃないが食欲がないのだと少し恥ずかしそうに大谷は言った。

「まぁ、そのうち慣れる」
「……そうだといいんですけど」

 顔色が悪いと思ったのもそのせいなのだろう。佐伯は研修医の頃はもちろんだが学生の授業の時から、別段手術を見たからと言って気分が悪くなる事もなかったので大谷の気持ちは理解しかねた。
 ふと時計を見るとあと少しで午後の検査の時間である。佐伯は残りの弁当を平らげると、汲んできていた水を飲んで席を立った。

「私はもう行くが、飯はちゃんと食っておかないともたないぞ。研修医は特に体力勝負だからな、頑張れよ」

 行こうとする佐伯を呼び止めるようにして大谷が声をかける。

「佐伯先生」
「……ん?」
「僕、先生に憧れて医者になろうと思ったんです。また……お話きかせて下さい」
「……私で話せる事ならいつでも。それじゃ、お先に」

 片手をあげると佐伯は食堂をあとにした。自分に憧れて医者になろうと思ったという大谷の言葉をきいて佐伯はふと考える。前にも会った事があったのか、大学で?それともこの病院に来てからか?少し考えてみたが全く記憶になかった。――そのうち話す機会があれば聞いてみるか――そう思いながらエレベーターへと乗り込む。
 時間より少し早かったが、佐伯はそのまま検査室へと足を向けた。  
 
 
 
 
 内視鏡検査室では準備を済ませた看護師が既に待機していた。入室した佐伯に気付くと前準備をしていた看護師が振り向いて口を開く。

「佐伯先生、お昼はもうお済みになられたんでしょうか?」
「ええ、食堂で」
「そうですか。急だったので休憩する時間もなかったんじゃありません?あぁ、患者さん、今こちらに向かっていますから」

 内視鏡検査室の今日の看護師はベテランの看護師のようだ。消泡剤を紙コップへ移しながら佐伯へもにこやかに言葉をかけ、テキパキと機器の周りを片付けている。

 佐伯は「わかりました」と一言言って、脇にあるデスク上のPCに電子カルテを表示させた。先程見ていたコピーと同じ物がすぐに画面に表示される。検査の履歴を一通り見て、入院の際に行った一度目の内視鏡の画像データを隣のPC画面へと固定し、腰を下ろした。

 玖珂 澪(クガ ミオ)25歳。胃体部の右端と、噴門部に病巣が確認できる。ステージはⅢAで、隣接しているリンパ節への転移は一カ所。外科手術が行える範囲はステージⅢまで、佐伯は病巣部をじっと観察し、考え込むように腕を組んだ。

 間も無くして、車椅子に乗せられた患者が検査室へと入ってきた。佐伯は振り返り、入室してきた青年の背中に視線を向けた。前準備があるので、処置室へと先へと通されることになっているのだ。

 がっちりとした体格は車椅子の中で窮屈そうに見える。立ち上がれば180以上はあるのだろう。端整な顔立ちに明るい茶色の髪が薄く影を落としている。パジャマ姿のその青年は、こんな場所だからというのもあるだろうが表情は硬く、暗かった。

「はい、じゃぁ、玖珂さん。これをまずお飲みになって下さい」

 看護師から消泡剤を渡され、それを呑み込むとそのまずさに渋い顔をしている。その後も指示通り、前準備を済ませた青年は、再び検査室へと戻ってきた。

「今日検査を担当する佐伯です。玖珂澪さんで間違いないですね?」

 車椅子に乗せられた澪は黙って一度頷いて見せた。目の前の佐伯に不機嫌な顔を隠そうともせずに向き合う。

「……早くしてくれよな。こうしてんのも凄いだるいんだけど」

 初めて会った時の晶と同じような口調でそう言い放つ目の前の澪と晶が一瞬重なって見えた。
見た目は勿論全然違うが、どこか雰囲気が似ている気がする。そう思うと佐伯は背筋が冷たくなるのを感じた。もしこの若者が晶だったとしたら自分はこんな風に落ち着いていられるのだろうか。そんな事が一瞬頭をよぎってしまう。

「佐伯先生?どうされました?」

 看護師が何かあったのかと不思議そうに話しかけた言葉で佐伯は我に返った。

「あぁ……、すまない。じゃぁ、始めよう」

 左を下にしてベッドへと寝て貰い、ファイバーを嚥下時の疝痛の為に喉へともう一度キシロカインをスプレーして麻酔をする。送気と吸引のチェックを済ませた佐伯はマウスピースを咥えさせた。

「はい、じゃぁ、入れるから力を抜いて」

 喉にファイバーをゆっくり滑り込ませる。嘔吐反射のある箇所を素早く抜けさせると食道を観察しながら胃の方へと落としていく。
 胃カメラの検査の苦痛の度合いは医者の腕に大きく左右される。その点佐伯に検査をしてもらう澪は運がいいとも言えた。すぐに胃まで辿り着いた内視鏡を適確に少しずつ動かしながら所々で撮影をしモニターをチェックする。

 昨夜の嘔吐の際に混じっていたという血は噴門部の病巣からの出血のようだ。このまま内視鏡で止血処置を施すほどの出血ではないが、萎縮した粘膜には未だに若干血が滲んでいる。胃体部の方の腫瘍は先程確認した画像と進展はなさそうである。
 ファイバーを抜く際に食道の方ももう一度確認し一通りチェックを済ませると佐伯はゆっくりとファイバーを引き抜いた。

「もう楽にして構いませんよ」

 さっきまでは全くそんな素振りを見せていなかった澪も、今は不安そうに表情を変えている。発熱で僅かに潤んでいる瞳が佐伯に救いを求めているように見えた。
 表情には出さず、落ち着いた口調で検査の結果を口にする。

「以前検査の時に見つかった箇所から出血が見られましたが、そんなに心配される事はありません」
「どう言う事?血吐いたのに心配ないですって言われても、信じられるわけないだろ。……はっきり言えよ」
「何もはっきり言うような所見はありません」
「……俺、やばいのか?教えてくれよ……」
「……不安になるのはわかりますが、私の言葉を信じて頂くしかありませんね」
「……っ、……」

 澪は一度首を振って呆れたように溜息をついたあと、もうそれ以上は何も聞いてこなくなった。家族の意向で告知をしていない以上、詳しい事を今話すわけにはいかなかった。


 看護師に連れられて病室に戻る後ろ姿を見送った後、佐伯は今やった検査の画像と詳細をカルテに打ち込む。
 すでにわかっている転移はリンパ節への転移が一カ所。しかし、腫瘍は粘膜の奥の漿膜にかろうじて到達していないだけで、それも時間の問題だろう。手術をするなら、本当に今しかない状態の瀬戸際だった。

 どうにかして、手術に持ち込めれば……。佐伯は画面に表示されている担当医の欄に目を移し、椎堂の名を確認すると白衣のポケットへと手を入れた。
 朝にデスクにあった椎堂からのメモを取り出し広げてみる。院内ではたまに話すこともあるが、個人的に連絡を取るのは一年ぶりになる。

『連絡を下さい 椎堂』

繊細な性格を表すようなその筆跡は、佐伯にはもう見慣れた物であった。