俺の男に手を出すな 3-13


 

 
 敬愛会総合病院へ救急車が到着するまでに30分程経過していた。
 大量の吐血をした場合、緊急胃内視鏡検査の必要があり、どこの病院施設でもやれるわけではない。敬愛会には技師は常駐していないが消化器専門医の佐伯がいるので、椎堂は救急車から佐伯へと連絡を入れ、受け入れの体勢を整えて貰えるようお願いした。受け入れ先を探すロスを省けただけでも希望はある。佐伯は夜勤ではないようだったが、論文のためにまだ病院内へと残っていたのが幸いだった。

 椎堂は救急車内で澪の手をずっときつく握り、様子を窺っている。打ち出す数値の全てがショック状態の前兆を感じさせる物で、椎堂は嫌な汗が止まらなかった。

――このまま意識が戻らず……玖珂くんは……。

 悪い方へとすぐに考えてしまう脳内は冷静な判断をする事が出来ずに居る。酸素吸入の管が装着されている澪を見て思うのは、生きていて欲しい。という事だけだった。進む時間の遅さに気持ちばかりが焦るが、とても救急車内で処置が出来る状態ではない。出血が止まらず、時々側臥位になっている澪の口から血が溢れる。肺への誤嚥を回避するために救急隊員がそれを吸引するのをただ見ている事しか出来ない自分に苛立ちは募る一方だった。
閉められたカーテンのせいで外を見ることは出来ないが、ちゃんと道を間違えず走ってくれているのか、そんな思いまで湧いてくる始末だ。

――早く!……。

 幾つかの赤信号を飛ばし、運転手から「もうすぐ到着する」という言葉を聞いて礼を言う。漸く敬愛会へ救急車が到着すると緊急受け入れのドアが開かれており、降りていくと佐伯がすでに待機していた。
 椎堂の血塗れの惨状に一瞬驚いたような表情をみせた佐伯は、すぐに澪の元へ寄り状態を確認する。ストレッチャーを押しながら、着いてくる椎堂に佐伯は忙しなく口を開いた。

「出血の箇所はお前が言っていた通り、多分一カ所じゃないだろうな」
「あぁ。最初は胃内部からだと思う。だけど、最後は鮮紅色だったから食道からの出血の可能性が高い……」
「輸血の準備は今手配している。間に合うはずだ」

 ガラガラと廊下に響くストレッチャーの車輪の音、緊迫した空気。澪はまるでもう死んでしまったかのように目を開けず、その顔色を見て椎堂は恐怖に駆られる。看護師が側に居るのも忘れ、震える声で佐伯に願う言葉が深夜の廊下に小さく響いた。

「……佐伯……、玖珂くんを助けてやってくれ……」
「最初からそのつもりだ」

 足取りの覚束ない疲れ切った椎堂に、佐伯は「邪魔だからどけ」と乱暴に追い払う素振りを見せたが、それは佐伯が『少し休んでいろ』という意味で言っているのがわかる。

 目の前で処置室のドアが閉まり、赤いランプが点灯する。椎堂はドアの前で呆然と立ち尽くしていた。「輸血の準備はまだか。早くしろ、それまでにリンゲル液急速投与」中から佐伯の声がはっきりと聞こえてくる。椎堂はドアの前の長椅子へと座り込むと俯いて目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、公園で澪を発見した時の澪の表情だった。すぐに冷たい態度に変わったが、確かに見た気がするのだ。椎堂を見て安心したような表情を浮かべていたのを……。
 
 
 
 
 
 永遠に続くかと感じるほど長い時間が経過したように思えるが、実際は佐伯の素早い処置で時間はそんなに経過していない。処置を終えてドアから出てきた佐伯をみつけ椎堂が慌てて立ち上がると、佐伯は一度だけ椎堂の肩に手を置いて軽く叩いた。
「一服してくる。後で説明するから待っていろ」そう一言だけ言って、廊下を歩いて行った。

 成功を伝えるわけでもなく、安心させるような慰めの言葉もない。それでも、余裕がない状態ならば煙草を吸いに行く事もないだろう。佐伯の冷静な態度を見て、その言葉に含まれる多くの事を理解すると同時に少しずつ冷静さを取り戻している自分に気付く。

 処置を終えた澪はそのままICUへと運ばれた。
 一服を終えて戻ってきた佐伯から、胃に溜まっていた血を抜いて止血をした旨の説明を一通り受ける。出血の箇所はやはり二カ所で、そのうち一カ所はクリップ法で完全に出血が止まったが、残りの一カ所は再度出血する可能性がないとは言い切れないらしい。循環動態が安定するまで目を離すなと言われ、椎堂は黙って頷く事しか出来なかった。発見が遅れていたら危険だったと言う佐伯の言葉通り、未だ澪の意識は戻らず、手放しで安心できる状態ではない。

 佐伯に礼を言い、椎堂はICUのベッドにいる澪の隣に行くと力なく腰を下ろした。少しでも目をそらしたら様態が急変するのではないかと思うと怖くて一時も目を離せない。部屋の中には機械音だけが継続的に音を鳴らしており、椎堂は微少に変動を繰り返すバイタルサインの数値をひたすら見つめていた。
 
 
 
 
 
 澪がいなくなったと聞いてすぐにタクシーに乗り込んだ椎堂は歌舞伎町でタクシーを降りた。ほとんど来た事のない歌舞伎町の街は週末だからか人がかなり多く、こんな中で澪を本当に見つける事が出来るのかと不安になった。それでも、椎堂は雑踏の中に進んで行った。

 まず最初に、検索して調べた澪の以前いた店へと行き尋ねてみる。ホストクラブに入ったのは初めてである。普段なら抵抗を感じるがあの時はそこまで気が回らなかったので何も感じなかった。
 澪の事を聞くと、「もうとっくに店を辞めてる」と言われ、店員に訝しげな目を向けられた。ホストクラブに男である自分が行って人捜しのような事を口にすれば当然怪しまれるだろう事はわかっていた。辞めているのを知らなかったふりをして「前に一度ここで澪を指名したので足を運んだだけ」と嘘をついた。

 店を出てから大通り、裏通り、と一本ずつ走りまわって探したが澪は何処にもいなかった。歌舞伎町は込み入った路地が多数存在しており、うっかりすると方向でさえわからなくなりそうだった。椎堂はそれでも諦めず、夜の街を走り回り、1時間以上経ってやっと澪を見つけたのだ。小さな公園の奥のベンチに澪を発見した時、一瞬時が止まったかのように感じた。

 あのままずっと澪を発見出来ていなかったら、あまりに短い澪の生涯は静かに幕を閉じていた所だった。そう考えただけで全身に寒気が襲ってくる。あの時、腕の中でだんだんと冷たくなっていく澪を抱き込みながら思った。自分から全てを奪ってくれて構わないからどうか、澪を連れて行かないでと……。無神論者の自分が神に縋った初めての瞬間だった。
 
 
 
 
 
 何本もの管が澪を取り巻くように設置されているのに目を向ける。閉じた瞼の上には澪の前髪が散らばって青白い肌に影を落としている。椎堂が指でその前髪を恐る恐る触れてみると、触れた前髪がこぼれ落ちる。
 倒れる直前、澪は最後に椎堂に少し微笑んだ。こんな自分を許してくれたのだろうか。

――……玖珂くん……。

 彼の名を心の中で呼び、握る手に力を込める。

「椎堂」

 先程椎堂への説明を終えてから姿が見えなかった佐伯が、いつのまにか部屋へと入ってきており、声をかけられた事で、椎堂は現実に引き戻され佐伯に振り向く。

「……佐伯」
「俺が代わりに見ているから、着替えて来たらどうだ」
「…………」

 ふと気付いて自分の姿を見ると悲惨な格好をしている事に気付く。血で汚れたコートは脱いできたが、シャツやジャケットにも血が付着している。

「…………。あぁ、そうだね」
 佐伯はバイタルサインに目線を投げて確認した後、澪の隣にあるもう一つの椅子に腰を降ろした。
「佐伯……今日は夜勤じゃないんだろう?」
 気遣って佐伯を見る椎堂に、佐伯は「……気にするな」と言ってまた澪の方を向いた。
「…………すまない。助かるよ」
 椎堂は立ち上がると澪の握っていた手をそっとベッドに戻した。座る佐伯の隣に立って澪を見下ろす。

「佐伯」
「何だ?」
 互いに目線を合わせないまま、口を開く。
「……玖珂くんは」
「ん?」
「玖珂くんは、僕に死にたくないって言ったんだ……。こんな僕でも……彼を救えるだろうか……」

 佐伯は澪の方を見たままで一度小さく溜息をつき、横に居る椎堂に振り向いた。

「お前が彼の未来を信じないでどうする」
「…………っ、……」
「彼はお前を信じて「死にたくない」って本音を言ったんじゃないのか……。お前はそれに答える義務がある。そうだろう?」
「…………佐伯」

 佐伯はふと立ち上がると俯く椎堂に腕を回し軽く抱きしめた。咄嗟の事で少し驚いたような椎堂が佐伯を見上げる。

「…………佐伯?……何して」
「これで最後だ……。お前にも、俺にも、大切な人間はもう別にいる。俺は自分の大切な人を守る。椎堂、お前も彼を守ってやれ」

 黙って一度頷いた椎堂は静かに佐伯の腕から離れた。こうして今まで何度、佐伯の腕の中で安堵と平静。そしてそれ以上の愛情を貰ってきたのだろう。別れた今でも佐伯はあの頃と何も変わらなかった。佐伯はいつだって自分を受け入れてくれていた、それに気付かなかったのは自分自身だ。そんな遠い過去をふと思い出す。

 そして、椎堂はそれがすっかり思い出として整理出来る事に安堵していた。過去の恋愛も、佐伯と過ごしていた時間も、決して無駄な時間だったわけではない。共に過ごした時間も含めて今の自分がいることを思い知る。そして、生きているからこそ、それが理解出来るようになったのだと改めて感じていた。

 自分は澪にこんな思いを与えてやる事が出来るだろうか。いつか、……そう、いつかでいいから……。澪が自分といる事で少しでも安らぎが得られるように。そう願わずにはいられなかった。
 もう何も話してこない佐伯の背中に、心の中で感謝しつつ、椎堂はICUを後にした。
 
 
 
 
     *     *     *
 
 
 
 
 椎堂が病室を出て行った後で、佐伯は再び眠る澪に視線を落とす。
 椎堂があんなにも誰かのために真剣になる姿は今までで初めて見た。椎堂は佐伯と付き合っている当時から、どこか『人を真剣に愛する』事を避けているのを感じていた。過去の出来事に原因があるらしいが、その事に関して椎堂は硬く口を閉ざしていて、未だに何があったのかは知る術がない。結局当時の自分では、椎堂を変えてやる事は出来なかったのだ。だから別れは訪れた。

 しかし、今となってはそれも過去の恋愛の一つにすぎない。もう一度椎堂が人を愛せるようになって良かったと思う。佐伯は眠る澪をみつめ、小さく呟く。

「お前が……、椎堂を変えたんだな……」

 佐伯は満足気に少し微笑む。その時、廊下から誰かの声が届いた。

「澪は、……弟は何処ですか……」
「今処置を終えて先生が診てくださっていますから」

 突然の声に驚き背後を振り向くと部屋の外で玖珂と看護師が話しているのが見えた。先程、澪が見つかって運び込まれた旨の連絡をいれたので駆けつけたのだろう。佐伯は腰をあげると静かに廊下に出る。玖珂は佐伯に気付くと一度頭を下げ、落ち着くように一度息を吐いたあと心配気に顔を歪めて口を開いた。

「先生……弟は……」
「大丈夫です。今は落ち着いていて、意識が戻るのを待っている状態です」

 心底安心したように玖珂は肩の力を抜いた。澪の自宅周辺を探しに行っていると看護師から聞いていたが、住所を聞くとここからはかなり距離があった。なので戻ってくるのに時間がかかったのだろう。佐伯は玖珂とは初対面だが、晶がよく話に出す慕っている玖珂先輩というのはこの男の事なのだろうと判断した。

「先生、本当に有難うございました。弟がご迷惑をおかけしてしまって……」
「いや、礼は私ではなく。椎堂先生に言ってあげて下さい。玖珂君を見つけたのは彼ですから」
「……はい」
 佐伯は玖珂をICUに案内し状況を説明した後、何かあったら呼ぶように伝えると自分は部屋を出た。
 
 
 
 
 玖珂は澪のベッドの側に腰掛けると手を握りしめる。
 ただ眠っているように見える澪の身体に数え切れないほどの管が挿管されて人工的な機械や薬剤へと繋がっている。あまりに痛々しい光景だった。
 いつもの生意気な口調で「また来たのかよ」と呆れ気味に玖珂へと向ける澪の視線も、今はもう感じることが出来ない。
 
 
 
 
 澪を探しに自宅マンションへ行き、管理人に事情を説明し鍵を借りて入ってみたが、澪の姿はなかった。中で倒れているのではと心配していたがそれは杞憂だったらしい。
 澪のマンションへ入った事はあまりなく、慣れない中で手がかりになりそうな物を探し続ける。食卓の上に市販の胃薬が何種類もあり、ほぼ飲みきった状態で放置されていた。玖珂はそれを手に取り、悔しい気持ちでそれを握りつぶした。

 一緒に住んでいるわけではないので、どれくらい前から澪が体調を崩していたのかはわからない。こんなに沢山の種類を試し、しかも飲みきるまで……。市販の薬で体を騙しながら店へ出ていたのだろう。今更悔やんでも仕方がないが、もっと早くに気付いてやれていたらと思わずにはいられなかった。

 その後、寝室に入ってみると、ベッドの脇に写真立てが伏せられているのを見つけた。手にとってみると、それは玖珂が居間へと飾っている物と同じ写真で、母親と自分と幼い澪が3人で写っている物だった。
 眠る前に見たりするのだろう……。澪は母親が死んでから思い出す限り、自ら母親の話題を出す事はなかった。人目のない寝室で、しかも伏せてある事で、澪がどんな気持ちでこれを見ていたか想像できる。玖珂はそっと写真立てを元のように伏せて置いておき静かに寝室のドアを閉じた。

 こうして改めて感じるのは、自分は澪の事をほとんど知らないという現実だった。

 その後、風呂場やトイレ等も確認したが、暫く使っていない様子で、自宅へ澪が戻ってきた痕跡はなかった。
 澪のマンションを出て、近くのコンビニや営業している店を片っ端から探したが澪はみつからず、途方に暮れている所に病院からの連絡で澪が見つかったとの連絡が入ったのだ。

 危険な状態だと完結に告げられ、頭が真っ白になった。すぐに病院へと向かおうとしたが、どうやって行けば良いのか一瞬交通手段でさえわからなくなり、玖珂は立ち止まると自身の動揺の深さに恐怖を感じた。「……兄貴」澪の声が聞こえて、背後を振り向いたが、そこには誰の姿もない。

――早く行かないと……。

 玖珂は通りに出て、タクシーを拾うと敬愛会総合病院の名を告げた。病院へと着くまでの間、様々な澪との思い出が浮かんでは消えていった。
 
 
 
 
 玖珂は澪の手をさすると自分の胸に押し当てる。

「こんなに管をいれられて……澪、苦しいだろう?……何故お前が、こんな思いをしなくちゃいけないんだろうな……。変わってやれなくて……、ごめんな……」
 玖珂は初めて澪の前で涙を一筋零した。
「澪……聞こえていないのか……?」

 返事を返さない澪を前に、何度今まで呼んだかしれない弟の名前を呼ぶ。その名前を呼ぶときは必ず側には澪がいたのだ。そんな当たり前の事が出来なくなる日が来るのかもしれない。玖珂は澪の手を握る手に力を込めた。

「澪……」
「……何で何も言わないんだ……。返事をしてくれないのか……」
「頼むよ……、澪。何か言ってくれ…………」

 頬を伝う涙を拭い、これ以上溢れぬように堪えていると、握りしめた澪の手が微かに動いた気がした。

「!?!?」

 玖珂は握る力を弱めて澪の指先をみつめ、必死で名前を呼び続ける。楽しい事があった時も悲しいことがあった時も、子供の頃から今までそうしてきたように繰り返し弟の名前を呼ぶ。
 澪の指先が玖珂の目の前で今度は確実に動いた。玖珂は息をのんで様子を見守る。澪の瞼が微かに動き、その後静かに開かれた。玖珂は腰を上げて澪の顔を覗き込む。そんな玖珂の姿を追うように澪の視線が動いた。

「………………あ……に、き……」

 それは声にはなっていなかったが口元をみればその声がちゃんと聞こえる。確かに玖珂には聞こえた。

「澪……俺がわかるのか?」
「……、……ん」

 澪は少しだけ頷く素振りをみせた。何かを話そうとするのだがそれは声にならず酸素マスクの中を白く曇らせるだけだった。挿管されている管が苦しいのか澪は少し首を振って無意識にそれを外そうとする。それをそっと止めると玖珂は澪の意識が戻った事を告げるためナースコールを押した。着替えを済ませた椎堂がすぐにICUへと入ってくる。互いに軽く挨拶をして、椎堂が診察しやすいように少し離れて脇に寄り様子を見守る。

 椎堂は様々な機器をチェックすると、澪の顔を覗き込むように窺った。

「玖珂くん、わかるかい?僕の声が聞こえていたら左手を少しで良いから動かしてみて」

 椎堂の声に反応して、澪は僅かに左の指先をまげた。その様子を見て、安堵に再び溢れそうになる涙を玖珂は耐えるように目を閉じた。同じように椎堂も心底安心したように震える息を長く吐き出す。

「苦しかったろう……、今管をとるからね……」

 椎堂は慎重に診察をした後、自発呼吸が出来ているのを確認し、もう必要ないと思われる機械から管を抜き取った。少し楽になったのか澪が静かに息を吐き出す様子がわかる。椎堂は、心配そうに見ている玖珂に向き直ると、「もう心配ありません」と一言告げる。

「……椎堂先生」
「……はい」
「弟を見つけて下さったのは椎堂先生だと聞きました。助けてくださって……何と御礼を申し上げたらいいか……」
「そんな……、礼には及びません……。それに……」
「?」
「玖珂くんに助けられたのは……僕の方なんです……」
「……え?」
「あぁ……いえ…………すみません……。何でもありません……」

 玖珂はこの時、椎堂の言った言葉の意味を考えた。そして、椎堂が澪を見る目が医者のそれでない事に気付く。自分が澪を見る目と同じか、それ以上に愛情の籠もった目で椎堂は澪をみつめていた。玖珂は全てを理解し、静かに後ろへ下がった。

 澪を見つけてくれたその時何かがあった事が伺い知れる。彼になら澪を任せても大丈夫だとそう思ったのだ。時計の針がもう3時を過ぎている。玖珂はゆっくり荷物を持つと、椎堂の前に頭を下げた。

「先生、いや…………椎堂さん……」
「……え?」
「……弟の事、宜しく頼みます」
「…………玖珂さん……。わかりました。意識も戻ったのでお兄様も安心してお休み下さい」
「有難うございます。宜しくお願いします。では……私はこれで……」
「はい、お疲れ様でした」

 玖珂は安心したように椎堂に微笑みかけると、そのまま静かに部屋を出ていった。椎堂は玖珂の出て行った後の扉に向かって目礼をした。玖珂は気付いているのだろう。そして自分を信じてくれたのだ。
 
 
 
 
 椎堂は穏やかな気持ちで澪の側に座る。意識が戻れば後は体力を回復するだけだ。いくらか赤みがさした澪の顔を安心したように眺める。椎堂の方へと伸ばした澪のその手をそっと握ると、澪が何かを伝えたいのか口を開く素振りを見せた。

「ん?何処か苦しい?」
「……ごめ、……ん」
「……??」

 何を謝るというのだろうか。椎堂は澪が何を言いたいのかわからず、澪の口元に耳を寄せる。途切れながらも椎堂へ伝えようとする澪の言葉がひとつずつ耳へと届く。

「…………こ、のま……え……」
「うん」
「先せ、いの事……医者…………っぽく、……ない……って」
「……あぁ」

 澪が言っているのは先日一緒に夜景を見た時の事らしい。澪が椎堂に「医者っぽくない」と言った、その事なのだろう。

「あ、れ……取……り消……す、から……」
「…………玖珂くん」
「だか、ら。……、医、者…………辞め……る、とか……言うな、……よ」

 必死で言葉を口にした澪が一番伝えたかったのはその事だったのだ。あれからずっと気にしていたのだろうか……。椎堂はそんな澪の優しさに胸がいっぱいになって言葉を詰まらせた。澪の手を胸に抱いてその体温を感じながら呟く。

「あぁ……、辞めないよ……。有難う……」

 澪は椎堂のその言葉を聞いて安心したように少しだけ微笑み、そしてまた静かに目を閉じた。澪の弱々しいが安らかな呼吸が部屋に静かに響く。椎堂は澪の手を握ったままその寝顔に優しく微笑みかけた。
 今やっと幕を上げた舞台の終演は自分達の手でこれから作るのだ。椎堂は心の中で静かに澪に誓った。

 この握った手をどんな事があってももう放す事がないように、そして自分の全てを彼に与えようと……。握っている澪の手がわずかに力をこめたような気がして、椎堂はその想いを胸に刻みつけた。