俺の男に手を出すな 3-18


 

 
 澪の手術から1週間が経過した。
 術後の発熱期間を過ぎた頃には、身体を慣れさせる為になるべく動くように指示が出され、日常生活の最低限の事は何とか自分でするように仕向けられる。しかし、じっとしていても傷が痛むのに体を動かすとその痛みが増すのは当然で、傷を庇いながらの行動のせいで全身が筋肉痛という状態である。

 澪は、廊下の手摺りに掴まってしばし立ち止まり息を整える。何とかエレベーター前まで辿り着き、中へ乗り込むと一階のボタンを押してエレベーター内の壁に寄りかかって一息ついた。点滴スタンドが杖の代わりの役目も果たしている。

 一階へと到着し売店へと向かうと、暇つぶしに読む雑誌を数冊適当に選んで会計へ持って行く。ちょうど釣り銭を受け取っていると、聞き慣れた声が背後からかかった。少し焦りを滲ませたようなその声の主が早足で近づいてくる。澪は雑誌を入れて貰った袋をさげて声の方へと振り向くと、椎堂がさっと手を伸ばして雑誌の入った袋を澪から奪った。

「なんだよ」
「ダメだよ、こんな所まで歩いてきたら」

 動けと指示されたから、わざわざ気合いを入れてここまで来たというのに椎堂に注意され、納得いかない様子で澪は返事を返しながら来た道を歩き出す。

「体を動かせって言われたから言われた通りにしてるんだろ?何でダメなんだよ」
「いや、それは、歯磨きとかトイレとかそういう日常のちょっとした事は自分で動いてみようね、って意味だよ。こんな所まで一人で来て、重い物を持ったりして傷が開いたらどうするの」

 後ろから着いてくる椎堂があまりに心配そうな声色でそう言うものだから、何だか本当に悪いことをしているような気分になる。澪が乗り込んだエレベーターへ椎堂も乗り込んで、澪の顔を覗き込む。見上げるように覗き込んで心配そうな顔を見せる椎堂を見てしまうと強い言葉を返せなくなる。こんな時でもレンズ越しの椎堂の瞳は真っ直ぐで、思わず見つめ返すと離せなくなるのだ。澪は視線を無理に引きはがすと溜息をつき、口を開いた。

「……わかった。暫くは病室近辺だけにする」
「うん。何か買いたい物があれば僕に言ってくれれば買ってくるから、ね?」
「はいはい」

 結局椎堂は雑誌の袋を持ったまま澪の病室まで一緒に来て、それを渡してもう一度無理をしないように注意をして病室から出て行った。買ってきた雑誌でも読もうかと思ったが、もうすでに体が疲れている事に気付く。ほんの少し出歩いただけでこの有様である。やはりまだ動き回るのは無理があるらしい。
 手術後からまだ絶食が続いており、点滴だけで生きているような状態なのだから仕方がないとはいえ、ここ数ヶ月で急激に落ちた体力を思うと情けない気分と、焦る気持ちも僅かながらに湧いてくる。

 自分の体の中から胃がなくなっている事を実感する事はまだあまりない。澪はベッドへ腰掛けて、パジャマをそっとあげて視線を落とす。空洞になっているであろう腹に手を当ててみる。大きな傷跡が一直線にへそまで伸びていて、やはり手術をしたのは現実なんだと当然のことを改めて感じていた。
 
 
 
 そして三日後、手術から10日が経過し、ついに絶食が解かれる事になった。
 椎堂は「おめでとう」と喜んでいたが、いざ食事が始まってみると、それは澪にとって苦痛以外の何物でもなく、小刻みに何度も出される食事にうんざりしていた。見舞いに毎日来る玖珂や椎堂に心配を掛けないように不満を漏らす事はなかったが、食事の時間が来るとそれだけで現実逃避したくなる。

 食事が始まって4日目、澪は眉を寄せて今日何度目かの深い溜息をついていた。傷は無理な体勢をしなければ、激しく痛むこともなくなり、ついこの前と比べても行動は確実に短い時間で出来るようになっている。今の所、最大の問題はこの食事である。

 空腹感も感じないのに、一度に通常の量を食べる事が出来ないので、食事は5回に分けて出されるのだ。しかも、なるべくゆっくり食事をするようにとの指導で、流動食を何分もかけて食べる事になる。さっき漸く食事を終えて解放されたというのに、またしても澪の前にはトレイが置かれていた。
 夕方に玖珂が見舞いに来るまでの間は、自分で用意をするか、時間が有る時は椎堂がその手配をしてくれている。

「玖珂くん、食事の時間だよ」
 椎堂がぴったりの時間にトレイを持って病室へ入ってきたのが5分前。
「……それ、二時間前にも聞いたけど」
「それはそうだね、二時間前も食事の時間だったんだから」
「…………」

 まだ4日目の食事ではあるが、もうすでに澪は辟易していた。ここを乗り切らないと通常の生活に戻れないのは理解しているが、身体が勝手に拒絶を示しスプーンを手に取ろうという気力もない。澪は、それでも無理矢理スプーンを掴んで食器の中へすべりこませたが、そのまま暫く停止していた。

 悪戯に中をかき混ぜては見るが、口へ運ぶその動作をどうしても躊躇ってしまう。好き嫌いはそんなにないが、食事がこんなに苦痛だと感じたのは初めてだった。

「玖珂くん、どうかした?」
「……別に……どうもしないけど……」
「どうしても食べられないなら……」

 椎堂がそう口にして、一向に食事を始めない澪の顔を見て微笑む。

「僕が、食べさせてあげようか?」
「――は?」

 予想もしていなかった椎堂の言葉に思わず椎堂の顔を見る。椎堂は澪の手からスプーンをとってすくうと、澪の口元まで持ってくる。――どうしても食べられないなら――「無理しなくて良いよ」とでも続くのかと思ったが、そう甘くはないらしい。

「はい、じゃぁ、口を開けて」

 子供にするようにそんな事を言ってくる椎堂を、澪は軽く横目で睨んで気が抜けたように息を吐く。

「……わかった。食べるよ、食べればいいんだろ……」

 澪は零れないようにスプーンを椎堂から奪い返すと、口へと入れる。食事が体内を通るときの違和感も酷い。胃がなくなっているのだから当然と言えば当然ではあるが、何かが通る度に順番に内臓が引き攣るような感覚がして中々すっきり落ちていかないのだ。でもそれは仕方がない事なのはわかっている。澪は神妙な顔で、スプーンですくっては口に入れる作業を何も考えぬようにして続ける。

 それを見て椎堂がくすりと笑っているのを見て、何だか作戦にはまったようで少し腹立たしく思い、すぐに次の食器から別の物を乱暴にすくうと口に運んだ。

「そんなに早く食べたらダメだよ。一昨日みたいになったら大変だよ?ゆっくりゆっくり」
――確かに……。

 澪は思いなおして、食べるスピードを緩めながら、一昨日の失敗を思い出していた。
 
 
 
 絶食が解かれた二日目の最後の食事の時である。
 同じように何度も食事が出てきて途中で面倒になったので、多少なら平気かと思い時間をかけずに一気
に食事をとった事があった。
 椎堂は忙しくしていて、自分一人での食事だったのもあり、その事は黙っておくつもりでいたのだ。どうせ一気に食べた事などわかるはずもないと思っていた。しかし、その考えが甘かった事を思い知る結果になってしまったのだ。

 食事を終えてトレイを廊下へ戻しベッドに戻った直後、やけに動悸が激しくなってきて吐き気がしてきたのだ。冷や汗も浮かんできて急な体調の変化に戸惑いひとまずベッドに横になってみたものの、全く改善されず。寧ろ吐き気は徐々に酷くなってきて、ベッドから降りてトイレに着くと今度は酷い貧血で立っていることも出来なくなった。
 個室トイレの便器の前に座り込んでそのまま食べた物は全て嘔吐してしまい、吐き気が治まった頃には指先や舌の体温がどんどん冷たくなってきて、意識がうっすらと遠ざかっていくような感覚に陥っていた。

――この状態はやばいな……。

 とどこか他人事のように思いつつも動く事も出来ず。トイレの壁にもたれてぐったりしている所を通りかかった看護師に発見されたのだ。すぐに椎堂が呼ばれてかけつけ、処置を施され、暫くしたら体調は元通りに戻った。そして、椎堂に倒れる前にとった行動を聞かれ、結局一気に食事をとった事がバレてしまったのだ。

 こんな事になるとは思っていなかったので、澪自身も驚くしかなかったわけではあるが。それと同時にたかがあれだけの事で急激に変化をきたす身体に、一抹の不安が残った。椎堂が言うには、澪は元々他の人より貧血の傾向が強いらしい。

 その後、椎堂にこんこんと言い聞かせられ、もう前とは違うんだという事を実感させられた。命と引き替えに失った物は、まだ実感がわかないが相当な代償である事は確かだった。
 
 
 
 あんな思いは確かにもう味わいたくない。
 澪はゆっくりとスプーンを口に運んで、苦々しい思いでその食事を喉へと通す。我慢して、あと5回ほどこの動作を終えれば、食事は完了である。色々と考えないようにしながら澪は黙々と作業のようにその行動を続ける。

「玖珂くん、……今後の治療の事だけどね」

 食事をとっている澪に視線を向け、椎堂が話を切り出す。

「うん、何?」
「今服用しているTS-1って抗癌剤は、まだずっと服用しないといけないんだけど……、明後日からそれと平行して点滴での抗癌剤も5日間やる事になってるんだ」

 手術前にしていた抗癌剤の苦痛が蘇り、思わず確認する言葉が口をつく。

「……前のと同じ?」
「……いや、薬の種類は違うけど……、前と同じ症状が副作用で出る可能性は結構高くて……」

 言いづらそうにそう言ってくる椎堂もまた、以前の澪の状況を勿論知っているのだ。苦痛を伴う事がわかっている物を勧めるのは気が重いのは当然である。しかし、今回は以前とは違う。何も知らずに不安の中で受けた抗癌剤と違い、今回は全て理解して、かつ今後の未来のために行う治療なのである。俯く椎堂が気に病むのを少しでも和らげたくて、澪はわざと気にしていないようにあっさりと返事を返した。

「そうなんだ」
「でもね、TS-1との併用で効果がとてもあがるって症例が、今は沢山あってね。大切な治療だから……。だからちょっと辛くなるだろうけど、」

 椎堂が心配そうに眉をさげて話すのを遮って、澪は一度スプーンを置くと椎堂の顔を見つめた。

「大丈夫だよ。そんな心配そうな顔するなって」
「……玖珂くん」
「ここまできて、諦めるわけないだろ……。効果があるって証明されてるなら、尚更な」

 澪はそう言って少し微笑むと、ベッドから腕を伸ばして椎堂の頭を撫でる。誰もいない病室で椎堂の頬が僅かに赤く染まり、安心したように笑みをこぼす。

「僕も、投薬が始まったら、ちゃんと支えるから。一緒に頑張ろう……」
「あぁ。先生に借りてるお守りもちゃんと持ってるし」

 ベッドの脇に設置されているテレビ棚の側には、椎堂から預かったチューリップのマスコットがいつも目に入るように立てかけてある。椎堂がそれを見て頷く。

「……うん、そうだね」

 澪は残り少なくなった食事の最後のひとさじをすくうと口に入れて、漸く終えた食事に蓋をした。

「俺はそれより、今のこの食事回数の方が結構堪えてるんだけど」

 話題を変えるようにそう言い、時計を見ると現在時刻11時。少し休憩があって、2時頃にはまた次の食事の時間である。

「それは……仕方がないかな、頑張って」
「先生さ、結構厳しいよな」

 澪が冗談っぽくそう言って苦笑すると、椎堂は「こんなに優しいのに酷いな」と不満そうに言って笑う。本当は澪が一番わかっている。こんなに優しい医者が滅多にいないという事も。時々ふとした瞬間に恋人の顔に戻る椎堂は、自分でその事に気付いているのだろうか。それを口にすれば椎堂が慌てるのがわかっているので、澪は心の中にその言葉をしまっておいた。

「……ちょっと疲れたから休もうかな」
「うん、そうだね。一気に無理しちゃダメだから安静にしてて」
「あぁ」

 澪が体勢を変える為に後ろを一度振り向くと、胸から腹にかけてできた大きな傷が捻れてズキリと痛んだ。思わず前屈みになってさする澪に、椎堂が慌てて腕を伸ばす。

「傷があるのつい忘れちゃうな……」
「ゆっくり動かないと、傷口から内臓が出たら大変だよ」
「……怖いこと言うなよ」

 椎堂いわく、術後に傷口が裂けて、腸が出た患者が本当にいるらしい。どれだけ激しく動いたんだ……。澪は想像してみたが途中でやめた。傷は最初はとても痛くて眠れないほどだったが、今はそうでもなくなってきており、だから余計にフとした瞬間に忘れてしまうのだ。腸が出てくるのだけはご免なので、澪は気をつけようと心の中で思う。

 食事をした後は必ず酷い倦怠感に苛まれる。それは暫くは仕方がない事なのだそうだ。
 今度はゆっくり起こしたままのベッドへ横向きに横たわると、椎堂がそっと上掛けを腰までかけてくれる。

「じゃぁ、また来るね」

 椎堂がトレイを持って静かに部屋を出て行く、本当はまだ眠ってはいなかったが澪は眠っているふりをして目を閉じていた。椎堂が部屋を出て行く時に見せる寂しそうな顔を見たくないからである。見てしまうと、声をかけて引き留めたくなる……。もっと傍にいろと腕を伸ばしたくなる。だから、見ないふりをするしかなかった。澪は一人になった病室で少しして浅い眠りについた。 
 
 
 
 
 
 数日後、予定通り椎堂の言っていた点滴での抗癌剤併用の治療が始まった。
 投薬が始まったその夜から、予想通りの副作用がやはり表面化し、漸く順調に進んでいた食事もままならなくなり輸液のみで過ごす日が続いていた。以前の抗癌剤の際にはさほど顕著に現れることのなかった貧血の症状が強く出ているのは、胃を切除した事によるものと、前の抗癌剤治療によりダメージを重ねた骨髄の機能低下が徐々に積み重なっているせいである。

 何とか起き上がれる日もあるが、息苦しさと目眩が常につきまとい自分の足で歩くことも難しかった。
――永遠に続くわけじゃない……。
 何度も繰り返しそう言い聞かせ、澪は目を閉じてひたすら時間が過ぎるのを待っていた。

 日に何度も椎堂が訪れては、時間の許す限り介抱してくれる。夜になって、眠るか起きるか、ただそれを繰り返していると、自分が今起きているのか、夢を見ているのか、そんな事すら曖昧になってくる。だけど、椎堂の声が聞こえている間だけは、それが現実なんだとわかる。

 つきまとって離れない吐き気に、体を少し起こして堪えていると、うっすら開けた視界に白衣が映り込んだ。
 椎堂がそこにいるのがわかるが、顔をあげる動作が重くて咄嗟にうまく動けない。椎堂は黙って澪の足先をマッサージして血流を促し、少しでも感覚異常の症状が和らぐようにしてくれる。背中にそっとあてられた椎堂の手から、冷たい澪の体へ体温がじわりと伝わってくる。薬のせいで味覚も嗅覚もいつもと変化していたが、傍にいる椎堂の匂いは何故かちゃんとわかった。
 愛しい感情がそうさせているのかはわからないが、甘いようなその匂い立つ薫りに安堵する。

「今日はね、昼に玖珂くんと同じ名前の患者さんが外来に来たんだよ」

 椎堂は背中をさすりながら、そんな事を話し出す。気を紛らわせてくれようとしているのがわかり、澪も俯いたまま口を開く。

「……へぇ」
「凄く可愛い子だったな~。あ、女の子だったんだよ。澪ちゃんって言う名前。『澪』って名前は結構女の子も多いのかな?」
「さぁ……どうだろう」
「僕の名前は、女の子にはいないけどね」

 それはそうだろう。澪は当然のことを言う椎堂に少し苦笑する。

「……先生」
「――ん?」
「名前だけは、……男らしい、もんな……」

 冗談でそう返すと、背中をする手が少し強くなり、「名前だけって、どういう意味かな」と非難めいた口調で返される。澪はそれには返事を返さず、ベッドの脇へと腰掛ける椎堂に体を寄りかからせる。椎堂の真っ白な白衣を間近に視界に映し、その存在を確認するように白衣を掴むと、幾らか気分が良くなる気がする。或いは、こうして素直に甘えられる事が精神的に体を楽にさせているのかもしれない。

「寒くないかい?体が冷えると症状にも響くからちゃんと言うんだよ?」
「……平気、寒くないから」

 澪の冷たい指先を温めるように椎堂が掌でぎゅっと握る。俯いたまま寄りかかる澪の視線の先にふいに真っ赤な滴がぽたりと落ちる。あれ?と思う間もなく、二滴三滴と落下してシーツの端を赤く染める。

「……玖珂くん?」
 ツンと痛くなった鼻に指を伸ばすと、濡れた感覚が伝わり指がたちまち血で濡れる。
「……何、これ……?」

 澪の掠れた声に、椎堂がはっとして肩を掴む。

「玖珂くん、ちょっと顔を上げて」

 肩を掴まれたまま、鼻を手で覆ってゆっくり顔を上げるとドッと溢れた血が澪の指の間から流れて真っ赤な筋を作っていた。椎堂は澪の手をとって顔から離すとすぐに横にあるティッシュを何枚か取り出して鼻へと当てる。

「前屈みになれるかな?僕に寄りかかってていいから、下を向いて」

 椎堂は血を拭った後、止血箇所を強く指で圧迫する。抗癌剤のせいで出血しやすくなっているため中々止まらず、止血で指を当てる椎堂の腕にも血が伝う。肘から滴り落ちる血を気にもとめず、椎堂は澪の体を支えたまま腕を回した。
「大丈夫、すぐ止まるからね」
 上体をおこして、血が喉へ流れないようにしないと吐き気が誘発されるのだ。椎堂は澪を抱きながら、前の抗癌剤での治療の時に澪の病室を訪れた時のことを思い出していた。

 あの時もこうして、腕の中で澪を抱きしめていた。拒絶をはかる澪の冷たい視線に耐えきれず、視線を合わす事が出来ずにいた。意識が薄らいで倒れ込んだ澪が自分に体を預けてきたのをおずおずと抱きしめる事しか出来なかった。

 だけど、あの時とは違う。澪は今安心したように椎堂へと体を寄せ、腕の中に居る。あの時より副作用が軽いとは到底言えない今の状況でも、澪は抗癌剤の治療が始まってから一度も辛いと弱音を洩らす事もなかった。日々積み重なっていくだけの苦痛を受け入れ、耐える姿は澪の意志の強さを窺い知ることが出来る。

 10分ほどして漸く鼻血が止まり、そっと止血していた指を放すと、澪が傍にあったタオルを椎堂の腕へと伸ばし血をぬぐい取る。

「ごめん……。汚しちゃって」
「そんな事……」

 自分の事より先に、椎堂を気遣う澪にかぶりをふり、椎堂は澪の手からタオルを取り部屋にある洗面で濡らしてきて澪の血を一通り拭ってやる。

「急に鼻血でるとか、びっくりさせたな……。悪い……」
「……澪」

 思わず約束を破って名前を呼び、澪の唇へ一度だけそっと口付ける。数秒の出来事、澪の唇に伝った血のせいで口付けは僅かに血の味がする。澪は優しく微笑んで椎堂の唇へと冷たい人差し指を伸ばしてあてた。

「……俺だって、我慢してるのに。抜け駆けかよ」
「……ごめん……、だって……。ううん、有難う……」

 うまく返事が返せない椎堂に澪は力なく少し笑ってみせる。青ざめた表情のまま、澪は疲れ切ったように俯く。

「辛いだろうけど、少し眠れそうなら横になって」
「……うん、そうしようかな」

 完全に横になると吐き気が酷くなるので、ベッドを起こしたまま澪は背中を預けるように寄りかかる。半分瞼をふせたまま澪が椎堂の腕を掴んだ。

「先生、ちょっと耳貸して」
「うん?」
 澪に顔を近づけて耳を傍に寄せると、澪が椎堂の耳へと口付けをして囁く。
「有難う、先生のおかげで楽になった」
「玖珂くん……」
「……おやすみ。誠二、……愛してるよ」
「……っ」

 耳元で囁かれた言葉に、椎堂は急激に頬が熱くなるのを感じて掌をあてる。目を閉じて眠る恋人に視線を落とし、目を細めた。

「僕も、愛してるよ。……澪」

 誰にも聞こえないような小さな声でそう呟いて、椎堂はベッドから腰をあげた。
 澪と二人でいられるのは、この病室だけだった。出会ってからずっと共に過ごしてきた病院での日々が脳裏を駆ける。澪を支えるつもりが、支えられているのは自分である事にも気付いている。澪の存在が、傍にある事が当たり前になっている日常。自分は、この先澪のいない場所で生きていけるのだろうか。椎堂は胸ポケットの中にある封筒に手を当ててその場所をぎゅっと握り、もう一度澪の寝顔に目を移す。

――僕の我が儘を、聞いてくれるかい?……澪。

 静かに響く澪の浅い呼吸を耳にしながら、椎堂はその額にかかる前髪を優しく指で梳いた。