俺の男に手を出すな 3-2


 

 慌ただしい一日をやっと終え、佐伯が帰宅したのは夜の11時近くになってからであった。
 昼に結局連絡の取れなかった椎堂に途中で連絡をしようとは思ってはいた物の、そんな時間もとれずまだ連絡するに至っていない。
 佐伯はスーツを脱いで着替えると、冷蔵庫からビールを取り出しプルトップをあけてそのまま口をつける。部屋の壁にかけてある自宅電話の子機を取りあげて持つと、ソファへと腰掛けた。

「……ん?」

 飲み慣れない味に気付きビールのラベルを改めて見てみると、普段佐伯が好んで飲んでいる銘柄とは別の方を取り出している事に気付く。今飲んでいるビールは晶の好きな方の銘柄だ。
 常にどちらの種類も常備してあるのだが、手前にあったのは逆だったらしい。

 晶と付き合うようになってから、少しずつ家の中に晶の物が増えていっている。テーブルに置いてあるマッチも、よく物を無くす晶が外したアクセサリーを入れておく小物入れも、歯ブラシや箸も。
 本人がいない時でも、それらが目に入ると自然に晶の事を思い出す。

――「要、元気ねぇな~何かあった?」――態度には表しているつもりはなくても、すぐに気付き心配げな顔を見せる晶が振り返ったらそこにいそうな気さえする。

 佐伯は誰もいない空間に視線を向けた。目の前の晶の心配げな顔が徐々に青ざめ、どうしたんだと問おうとすると、晶はいつの間にか車椅子にのっていた。腕にいくつもの点滴をさし、自分へとゆっくり顔を上げる。「要、俺のこと……助けてくれるよな……?」縋るような瞳で伸ばされる晶の腕。その腕を掴もうと自分の腕を僅かにあげた瞬間、佐伯はフと息を吐き自嘲するように口元を歪めた。

「……、馬鹿げた妄想だ……」

 誰もいない空間は真っ暗で、車椅子に乗った晶などいるはずがない。
 昼に診察した澪が晶と重なっておかしな妄想をしただけだ。少しぬるくなった缶ビールを一気に飲み干すと、佐伯は片手で缶を握りつぶしてテーブルへと置いた。代わりに煙草を抜き出し一本咥える。火を点けて肺の奥深くまで吸い込んでゆっくりと吐き出せば、その煙の分だけ部屋が重くなった気がした。
 
 
 
 煙草を咥えたまま電話の子機を握り、昼間から何度となく見た椎堂のメモをとりだす。オレンジ色に点滅するボタンを指で押し、椎堂の自宅へと呼び出し音を響かせた。
 必要であれば院内の内線電話で用事は済ます事が出来るので、こうして椎堂に自宅から電話を入れる事自体が久々である。何度目かのコールで電話口に椎堂が出た。

『……はい』

 看護師が何度電話しても出ないと言っていたので、体調不良で寝込んでいるのかとも考えたがそれはどうやら思い過ごしだったらしい。

「佐伯だ。椎堂か?」
『……佐伯?あぁ……、そうか。連絡くれって伝言したんだったね……』
「こっちも少し聞きたい事があってな……」
『久しぶりだな……佐伯から電話がかかってくるなんて……』
「あぁ、そうだな。……それより今日の無断欠勤何かあったのか?看護師達が騒いでたぞ」
『……うん。別に……何もないよ。何?説教でもするっていうのかい?』
「いや、そういう訳じゃないが……。お前らしくないな」
『そうだね。こんな最悪な欠勤をしたのは生まれて初めてだよ……、本当に最低だ……』

 自嘲したように笑いそう返す椎堂の声は少し掠れいて、いつもとは様子が違った。

「お前、もしかして酔ってるのか?」
『僕が酔ってたら、おかしい?』
「……………………」

 噛み合わない会話に佐伯は小さく舌打ちをする。自分から用件があると伝言してきたくせに、その用件は何なのかも話そうとしない。佐伯は苛立ちを感じていた。
 この苛立ちはゆるゆると要領を得ない椎堂の物言いにではなく、普段の椎堂と何かが違うことを敏感に感じてしまっている自分自身に向けての物であった。こうなる事はわかってはいたが、優しい言葉をかける理由はもう、今は見つからない。

「話しにならんな、切るぞ」

 佐伯が諦めて受話器を耳から離した時だった。受話口から椎堂の声が届く。

『佐伯……、僕は医者を辞めるよ……』

 疲れ切ったように吐き出されたその言葉は離していた受話器からでもはっきりと聞こえた。佐伯は再び受話器を耳へと戻し聞こえるように大袈裟に溜息をついた。

「……何を言ってる。酔っぱらいの戯れ言に付き合うほど俺は暇じゃない」
『酔ってなどいないさ。知ってるだろう?僕が酒に強いこと……。いっそ酔えたらって思うよ……』

 佐伯は受話器を逆の手に持ち替えると目を閉じる。

「……俺に何を求めてる。慰めか?それとも辞めるなと引き留めて欲しいのか?」

 椎堂が微かに苦笑する声が届く。

『相変わらず冷たいな……佐伯』
「椎堂……、一応聞いてやる。医者を辞めたい理由は何だ」
『全てだよ。何もかも僕には向いてなかった。今更気付くなんて馬鹿だけど……。でももう耐えられないんだ』

 吐き捨てるようにそういう椎堂の声は震えていて、呼吸も浅いのが伝わる。酔ってはいないにせよ、相当量の酒を飲んで精神的に不安定になっている様が手に取るようにわかった。佐伯は感情を殺して冷たく言い放つ。

「……だったら仕方ないな。辞めたければ辞めろ。俺は止めないぞ」
『……そう、だね。そう言うと思ってたよ。ただ、佐伯には言っておこうと思っただけだから。変な話しを聞かせて悪かった……』
「…………」
『心配しなくても、明日からはちゃんと出勤はするよ。辞めるまではちゃんとしようとは思ってるから……』
「……そうか」

 気紛れでこんな事をいう人間でない事は佐伯が一番良く知っている。しかし、だからといって自分がしてやれる事は何もないのだ。
 佐伯は受話器を握ったまま、遠い昔恋人でもあった椎堂の言葉を聞く事しか出来なかった。

『ところで、さっき言ってた佐伯の聞きたい事って?』
「明日、会ってからでいい。時間があいたら医局を覗いてみてくれ」
『仕事の話ってわけか……。わかった。じゃぁ、明日』
「……あぁ」

 ぎこちなく会話を終わらせたまま、佐伯は通話を終えると付き合っていた頃の椎堂を思い出していた。
 
 
 
 まだ医大生だった頃の話だ。学生の時も研修医だった時も椎堂の医療にかける情熱は熱く、その性分のためか佐伯と衝突する事も多かった。何でもそつなくこなし世の中をうまく渡るだけの処世術を身につけていた佐伯と、何にでもまっすぐで生真面目すぎるほど不器用な椎堂とは性格が真逆だったのだ。

 それでも椎堂とはうまく付き合ってきたし、互いに尊敬するライバルとして認め合ってきた。それは今でも変わらない。

 情熱的な反面、かなり脆い部分も持ち合わせている椎堂を幾度となく支えてきたのも佐伯であった。恋人だった当時はそんな椎堂を守ってやりたいとも思っていたし愛しく思っていた。
 しかし、いつかこの関係は終わるだろう。と付き合いだした時から何処かで互いにわかっていたような気がしたのも確かだ。卒業してから別れ、暫くしてから佐伯は美佐子と付き合うようになっていたが、椎堂とは別れてからも友人として付き合っていた。

 それはもう、以前のような関係ではなく。話す事と言えば仕事の話で互いのプライベートには一切干渉をしないようになっていた。椎堂はその間に何度か深い仲になった恋人がいたようだが、詳しい事を佐伯は知らない。

 最後に個人的に連絡をして飲みにいったのはもう随分昔の出来事だった。現在は、院内で顔を合わせることは多々あるが事務的な会話以外で話すことはなく、こうして電話をするなどという事も勿論なかった。
 
 
 
 それだけに椎堂から連絡を欲しいと伝言があった時は驚くと同時によほど何かあるのだろうと思っていたが……。
 まさか、椎堂が医者を辞めるなどと言い出したのには佐伯も予想外だった。

 絞り出すように『もう、耐えられない』と言っていた先程の椎堂の言葉を思い出し、佐伯の中で様々な感情が蠢く。そこまで椎堂を追いつめた物は何なのか気にならないと言えば嘘になる。医者として認めているし、まだ友人だと思っている。だけど、その理由がわかった所で差し伸べる手はもう佐伯には残っていなかった。

 椎堂に会ったら聞こうと思っている今日内視鏡をした例の患者の事も、このぶんだと椎堂はそれどころではなさそうである。


 佐伯は子機を元に戻し、立てかけてある鞄を持って書斎へと移動した。

 机の上のランプをつけると暗い部屋が暖かな橙に染まる。壁にある書棚から数冊の書籍を取り出しゆっくりと椅子へ腰掛けた。

 静かな部屋に卓上の時計の秒針が進む音だけが響く中、佐伯は持ち帰った術式の資料を鞄から取り出し、書籍と共に卓上へと広げる。晶とどこか雰囲気が重なる澪の事を思い浮かべ、ページをめくった。

 自分の中で幾度となく昼から繰り返しているオペのシミュレーションを再現するように指先を動かしてみる。肺に転移が見られた場合、リンパ節への転移が予想より範囲が広かった場合、周辺の臓器への転移が認められた場合、ありとあらゆる場面を想定してみる。

 何度繰り返してみても、確かに成功率が高いとは言い切れなかった。照らされた指先に己の可能性の全てを重ね、佐伯はその指をぎゅっと握りしめた。  
 
 
 
    *    *    *
 
 
 
 
 その頃、晶は店の最後の客を送り出した所であった。
 一階まで彼女たちを見送り、そのあと店への階段を再び上る。途中、他のホストが同じく見送りに行くのとすれ違い、その女性にも愛想良く挨拶を交わす。店内へ戻ると、今の客でラストだったようで、残ったホスト達が気を抜いてそれぞれ談笑している。中にはソファへと横になっている者までいる始末だ。
 とてもじゃないが客に見せられる姿じゃないな。晶は苦笑しながらカウンターへと腰を下ろす。

「お疲れさん、今日はもう営業終了か?」
「うん、今日はおしまい。まぁ、まだ帰らないっすけどね」
「だろうな」

 坂下が「それは知ってる」とでも言うように、温和そうに眉を下げて笑う。残っているのは自分を含めて6人。カウンターの中でグラスを磨く坂下に灰皿をひとつかりて、ポケットから煙草を取り出す。それを咥えながら晶は携帯を取り出す。プライベート用の携帯の電源を入れてメールをチェックする為だ。

――新着メールはありません。

 もしかして佐伯から連絡が来ている可能性に期待したが、今夜も当然その期待は外れていた。返信はちゃんとくれるが、佐伯から用事もなくメールが来ることは滅多にない。意地になって佐伯からメールが来るまで自分からはしないという子供じみた行動を実行してみた事もあるが、たった3日で我慢できず。3日目の夜にどうでもいい用事にかこつけて自分からメールをしてしまったのを思い出す。

 そのメールの返信に『3日でもう禁断症状か?』と書かれていて、佐伯は超能力者なのかと思ったくらいだ。悔しいけど、自分が寂しがりな性格なのは直せないので仕方がない。

「それじゃ、俺はそろそろ帰るとするか。最後頼んだぞ、晶」
「お疲れっす。あぁ、そうだマネージャー」
「ん?」
「これ、奥さんとでも行ってきなよ。俺行く時間ないからさ」

 先程画廊に勤めている客から買った美術館の鑑賞券を坂下へと手渡す。ノルマがあって捌ききれないと困っていたので30枚程買い取った物である。

「いいのか?これ、今話題になってる画家の個展のチケットじゃないか」
「いいのいいの。まだいっぱい持ってるし、マネージャー、絵とか好きなんじゃなかったっけ?」
「よく覚えてたな。さすがの記憶力だな……。じゃぁ、遠慮なく貰っておくよ。休みになったら家内と足を運んでみよう」

 坂下はもう一度晶へと礼を言って、帰り支度をした後引きあげて行った。
 晶は携帯を再び胸ポケットへとしまい込むと腕を少しめくって時計を見る。今夜は予定もないし、まだ時間もそう遅くはない。

 そういえば最近後輩達と飲みに行ってないなとふと思いたつ。店では話しづらい愚痴を時には聞いてやる必要がある。良い機会かもしれないと思い、晶はカウンターの椅子をくるりと店内へ向け、真面目に灰皿を片付けている信二に声をかけた。

「なぁ、信二。今日これからちょっと飲みに行かね?」
「これからっすか?いいっすね!」
「今日は俺が奢ってやるから皆にも声かけてこいよ。翼とかも裏にいんだろ?」
「先輩の奢りっすか!?ラッキー!あ、でも翼さん、確かこの後彼女の家に行くとか行ってましたよ?」
「あ、そうなん?じゃぁ、邪魔しちゃ悪いし、他の奴らだけでいいんじゃね」
「ですね、みんなに声かけてきますね」
「おう」

 晶に誘われた信二は喜んだ様子で立ち上がり、集めていた灰皿を一度流しへと運んだあと、他のホスト達に声をかけにいく。こうして皆で飲みに行くことはホスト同士仲が良い『LISK DRUG』では珍しい事ではないが、そのうち半分は晶はアフター等で参加出来ない事が多い。

 信二が店の入り口脇を通ろうとした所で、タイミングよく店のドアが開かれた。
 クローズした後に店内へ入ってくる客はあまりいないので、信二も驚いて足を止める。扉を開いて入ってきたのは、二号店オーナーの玖珂だったのだ。

「あれ!玖珂先輩!?どうしたんっすか?珍しいですね」
「信二君か。お疲れさん、元気そうで何よりだね。えっと、晶って今日まだいるかな?」
「玖珂先輩もお疲れ様っす!晶先輩ですか?いますよ。呼んできましょうか?」
「あぁ、お願いできるかな」

 玖珂は慣れた様子でパーテーションを抜けて店内に入り、一番近い席に腰掛けると胸ポケットから煙草を取り出した。
一本抜きだして口に咥えたまま片手でライターを捜していると、目の前に火を灯したマッチがすっと差し出された。顔をあげると信二が呼んできてくれたのだろう、晶が立っていた。

「ん?あぁ、悪いな。晶」
「いえ、お久しぶりです。今信二から玖珂先輩が来てるって聞いて」
「突然押しかけてすまないな」

 晶から火を貰い一度吸い込み吐き出した玖珂は、少し疲れているように見えた。隣の席に晶が腰掛けると玖珂が少し店内を見渡す。
 晶に向き直ると声を落として話しかけた。

「晶、ちょっと話があるんだが……。場所を変えないか?ここでは少し話しづらい事なんだ」
「……え?何かマジな話しみたいですね……わかりました。あぁ、でもちょっと待っててもらっていいっすか?今からあいつらと飲みに行く事になってたんで」
「そうなのか?それは、悪かったな……。もしあれだったら日を改めるが」
「いや、いいっすよ。俺達はいつでも飲みにいけるし。んじゃ、ちょっと言ってきますね」
「あぁ、頼む」

 何の話かはわからないが、いつもの玖珂と少し様子が違うのを感じながら晶は席を立つ。裏に集まっていた後輩達に事情を説明すると、皆、がっかりしたような顔をした物の、また今度と言うことで納得してくれたようだった。

「マジ、ごめんな~。今度別の日にまた誘うからさ。あ!そうだ、おい信二」
「はい?」
「コレ……な?楽しんでこいって」
「え!?でも、そんないいですって。晶先輩参加しないのに」
「な~に、遠慮してんだよ。言い出したの俺なんだしさ。たまには息抜きも勉強になるっしょ?足出たぶんは自分達で出せよ」
「晶先輩……。それじゃ遠慮なく頂きます!もし間に合ったら、俺達いる店メールしとくんで顔出してくださいね!」
「多分間にあわねーけど、行けたらな」
「はい!」

 財布から万札を何枚か抜き出した晶は遠慮する信二にそれを掴ませ、飲み代の足しにするように言うと自分は玖珂の元に戻った。少しすると帰り支度を済ませた信二達が裏から出てくる。まるで何処かのサークルの集まりのようにふざけあっている信二達をみて晶は苦笑する。
 口々に礼をいいながら店から帰る後輩達を玖珂と一緒に見送ると、玖珂と二人きりになった店内は静まりかえっていた。
賑わう時間とのギャップが余計に店内を静かに感じさせる。

「先輩になったんだな、……晶も」

 玖珂が優しい笑みを浮かべて晶を見ている。

「え!?いや、今回はたまたまですって、何でかあいつら、いっつも金ないんっすよね。使いすぎだろって感じで」
「まぁ、若い頃は色々欲しい物も多いだろうからな」
「年寄りみたいな事言わないで下さいよ」

 苦笑する晶を見て玖珂は満足そうに目を細めた。

「あぁ、じゃぁ、俺達も出ます?」
「いや、二人きりなら、別にここでも構わない。折角だからゆっくりしていくか……」
「そうですか?んじゃ、俺酒持ってきますね」
「そうだな。宜しく」

 晶がボトルを持ってきて目の前で酒を作る指先を玖珂が見つめている。慣れた手つきで音をたてないようにスマートに酒を作り、指でワンクッション置いてからガラステーブルにグラスを置くその仕草は晶がもう一流のホストになったという事を証明する物でもある。玖珂は晶を育てた親心のような物を感じ、一人前に成長を遂げた晶を誇りに思っていた。

「玖珂先輩はダブルのロックでよかったでしたっけ?」
「ん?あぁ。よく覚えてたな」

 晶は出来上がった酒をコースターに乗せると玖珂の前に差しだした。長い足を組んでいたのを解くと玖珂はグラスを手にとる。大きな手でロックグラスを傾けると、氷がウィスキーの色に交わって溶け込んでいく。

 落ち着いた雰囲気の玖珂は、女でなくともその身を預けたくなるくらい男の色気がある。晶は玖珂の一挙一動に『やはり自分はまだまだ叶わないな』と心の中で思い、憧れの念を抱かずにはいられなかった。7年後、玖珂と同じ年齢になった自分は果たして同じようになれるのか……。
 玖珂は晶の視線に気付くと柔らかな笑みをこぼした。

「No1を独り占めしているなんて、嫉妬されそうだ。帰り道には気をつけないといけないな」
「またっ!そんな事言って~」
「……いや、今のは冗談だが、でもな、晶。立派にホストとしてやっているのを見るのは結構感慨深い物があるもんだよ。それだけ晶が頑張った証拠だからな」
「そんな……、玖珂先輩あっての今の俺ですから」
「俺は、ほんの少し最初の手助けをしただけだと思うぞ?」

 そう言って笑った玖珂は思いだしたように書類袋のようなものを後ろから抜き出すとテーブルにそっと置いた。

「晶、早速だけど、話というのはこれの事なんだが。中を見てみてくれないか」
「何ですか?この書類は」

 晶は封筒から何枚かの書類を取り出すとぱらぱらと目を通した。途中に挟んであった一枚が晶の指から滑り、はらりとテーブルへ落下する。店舗の内装デザインのラフのようなそれに晶はハッと気付いて顔を上げる。

「……玖珂先輩。……これって……」
「あぁ、そうだ。どうだ、やってみないか?」
「……でも」

 玖珂が持ってきた書類は3号店のOPENを知らせる物であり、その3号店のオーナーを晶にまかせたいという事らしい。場所は新宿で1号店2号店とは少し離れている。店舗の詳細な立地自体はまだ決まっていない段階という事だった。晶は落ちた一枚を拾い上げて戻すと、最初からもう一度目を通す。

 ホストの身の振り方として、自身で店を持つか、こうしてオーナーや経営側となるか。他にもあるだろうが、大方このどちらかに進む場合が多いのは知っている。No1ホストとして永遠にやっていく事が出来ないのはわかっている。年齢が上がるに連れて、世代交代がいつかくる事も……。

「晶、お前になら任せられる。そう判断したのは間違っていないという事を証明してくれないか?」
「…………俺なんかで出来るのかな……」
「大丈夫。皆、最初は不安なものだよ。まぁ、返事は今すぐにというわけじゃないから、こういう話があるという事だけ気に留めてくれていたらそれでいいんだ。ゆっくり考えてみて、結論が出たら聞かせてくれ」
「わかりました。この書類、俺が持ってていいんっすか?」
「勿論、時間がある時にでもしっかり読んでおいてくれればいいから」
「はい。じゃぁ、貰っておきます」

 封筒に書類を仕舞い込んだのを見届けて、玖珂が徐に切り出す。

「さてと……、この話は、じゃぁ、終わりにしよう。晶、ひとつ今日は相談があってね……。個人的な話しなんだが、聞いてくれるかな?」
「ええ、勿論。俺で良ければ……。何か、あったんっすか?」

 玖珂は少し言いづらそうに天井を見上げた後、後ろに流した髪を掻き上げふぅと一度息を吐いた。グラスを手に取り、喉を湿らせるとそっとテーブルへとグラスを戻す。

 晶も一度酒に口をつけ、玖珂へ視線を向ける。最初に玖珂を見た時、少し疲れているように見えたが、それと今から聞く話が何か関係があるのだろうか。玖珂は、もう一度小さく息を漏らすと口を開いた。

「……俺には弟が一人いるんだが、その事は話した事があったよな?」
「確か、俺と同じくらいとか言ってましたよね?」
「あぁ。晶より一つ下になるが……」

 玖珂は今まで晶に見せた事のないような、とても寂しそうな表情でテーブルに置かれているグラスに視線を落とした。晶の胸にも玖珂の感情が侵食してくるようで、次に来る言葉を想像して緊張が走る。

「弟さんが……何か、あったんですか……?」

 恐る恐る訪ねる晶の声に、玖珂は一度顔を上げる。煙草を取り出す玖珂の指先が小さく震えている。それを見てしまった事で晶の胸がズキリと痛んだ。マッチをすって玖珂の咥えた煙草の先へと火を持って行く。
 玖珂は黙ったまま火を受け取るとゆっくりと紫煙を吐き出した。