俺は先週から予定していた通り大学構内の音楽室へと向かっていた
普段用のない音楽室までの道のりは結構遠い
時間が時間なだけに、さすがに夜学の生徒もいない
尚が会社を終えてここにくるまでの少しの時間
窓から差し込む月の光に俺は目をむけていた
 
 
科学部の使用する実験室よりはマシだとしても
音楽室もかなり夜は静まりかえっていて不気味である
勝手にピアノが鳴りだしたり
そこにあるモーツアルトの彫像がこっちをじろりと見たり
そんなどっかの夏の恒例番組にありそうなベタなネタが思い浮かぶ
なるべくあたりを見渡さないようにしながら俺はピアノの椅子に腰を下ろした
俺が怖いなどといえばきっと尚は面白がって意地悪をしてくるに違いない
尚には平気な顔をしていよう
そう考えて情けない自分に俺は少し苦笑した
 
 
 


―メロディ―


 


 
部屋の中を照らす月の明かりは目がなれてくるとそれだけでもかなり明るく感じる
11月の今は少し寒いくらいで
スーツの袖を俺は少しだけ引っ張った
そして静かにピアノの蓋をあける
鍵盤の真っ白な部分が反射してあたりが一層明るくなった
人さし指で鍵盤をおしてみる
単音の響きが空気を静かに振動させ俺はその音色に少し緊張した
白と黒の奏でる音色
そっと触るピアノは俺を拒む事はなく
優しい音を産み出した
 
 
 
子供の頃ピアニカというピアノに似た楽器を音楽で習った事はあった気がする
しかし本物のピアノをこうしてちゃんと弾いてみたのは初めてだ
俺みたいに芸術とは無縁な手でも弾き出す音は柔らかで心地がいい
譜面に振ってあるカナを見ると少し情けない気もするが・・
何度も練習してきたこの曲は指が覚えていた
 
 
誰かに教えてもらったわけじゃないし、本当はペダルも適当に踏んでいるが
それでも曲にはなるもんなんだということがわかった
尚がくる前に少し練習でもしておこうと思い
俺は繰り返し一曲しか弾けない曲を弾く
 
 
慣れない指がぎこちなくて多少格好悪いかもしれないけど・・
初めてなんだから、こんなもんじゃないかと思う
俺がピアノを弾こという発想に尚は笑うだろうか
それとも喜んでくれるのか
それとも、いつもみたいにさらっと流されてしまうとか
ドキドキしてきた心音を誤魔化すように俺は深呼吸をしてまた鍵盤に指をおいた
 
 
俺は尚に贈りたい曲がある
「月の光」と言うこの曲は結構有名なクラシックの曲らしい
尚は一緒にいる時はよく洋楽を聴いているが
ちょっと前に、ドライブの途中でラジオからたまたま流れたこの曲をきいて言った
「クラシックもいいものですね」
それが「月の光」という曲だった
 
 
俺はそれから練習して一ヶ月かかってようやく形にする事ができた
俺にしては上出来じゃないかと思う
もしかして、いや 絶対にもう一生ピアノなんて物には手をださないと思う
それでも今、俺は満足している
 
 
 
 
 
形あるものを贈る事
 
形ないものを贈る事
 
何を贈っても尚は、俺からだというだけでいつも凄く喜んでくれるけど
尚に一番伝えたい物はなかなか難しい
 
 
 
 
 
そんな事を考えていると廊下を歩く足音が近付いてきた
俺はわずかに緊張した手を一度擦りあわせた
時計を見ると10時50分
約束の時間より10分早いけど歩き方からして尚に違いない
部屋の前で足音がとまり静かにドアがあいて尚が顔を覗かせた
 
 
「久しぶりに母校に来たんで、ここにくるのに迷っちゃいましたよ」
 
 
そう言って笑った尚が似合わないピアノの前に座っている俺の背中に近づいてくる
俺は咳払いをして一番前の席をさす
 
 
「尚はあっち、特等席を用意しておいてやったぞ」
「それは嬉しいですね。じゃぁお言葉に甘えて特等席に座りましょうか」
 
 
尚が一番前の席へと座る
ふと懐かしい気分になった
少し前まではこうして毎日、教室で尚に向かい合っていたのだ
その当時を尚も思い出したのか同じ事を口にする
 
 
「何だか昔を思い出しますね……」
「あぁ……、そうだな」
「でも先生が教えるのは音楽じゃなかったですけどね」
「俺は音楽は自慢じゃないけど、一番の苦手科目だったからな」
「そうなんですか?じゃぁ、今日は特別なんですね」
「スペシャル大サービスだ」
 
 
自慢げに言った俺を見て、尚がくすくすと笑った
今日は格好よく決めて尚に俺を見直させてやろうという計画だったのに
迂闊にもすでに俺はそのことをすっかり忘れてしまっていた
出だしを失敗した俺は少し焦ったけど
とりあえず思い直してちゃんとピアノの前に姿勢を正した
急にめちゃくちゃ緊張してきてしまう
尚しか聴いていないというのに、まるで発表会のように感じた
 
 
「じゃ……、じゃぁ いくぞ」
「はい」
 
 
本当はもっと洒落た言葉も考えてあった
「お前に贈りたい曲がある」とか「尚に捧げる曲だ」とか
なのに緊張のあまりそれらはどっかへ消えて「じゃぁ いくぞ」
などとつまらない言葉を言ってしまった
ここまで失敗が続いた以上
ピアノで失敗したらそれはもう笑うしかない
俺は深呼吸したあと横目でちらりと尚を見た
尚は優しい表情で俺を見つめていた
静かに鍵盤に手を置く
 
 
吸った息をゆっくり吐き出して曲を弾き始めた
練習してきた通り指を動かすと自然に最初の音がゆっくりと伝わってくる
俺は次々に指を辿らせる
一つ一つの音が重なっては消えて想いと交差する
 
 
部屋の中はピアノの音以外は総べてが止まっていた
多分今までで一番うまく弾けているのではないかと思うほど俺の指は確かな音色を紡いでいた
メロディの全てが尚に届くように俺は夢中で曲を弾き続けた
 
 
4小節前の最後の和音
静かに曲は終わる
最後の音を奏でた指を俺はいつまでも外せないでいた
どれくらいそうしていただろう
俺の隣に尚が立っていた
 
 
 
「月の光……、ですか」
 
 
 
そう言って俺の指が置いたままになっている鍵盤へと尚が手を重ねる
ひんやりとした細くて長い指が俺の手を包むように動く
 
 
 
 
「この曲だったよな? お前が好きな曲って……、その、……誕生日……、おめでとう。尚」
 
 
 
これが俺の一番伝えたかった事の全てだ
尚は笑わなかった
横にしゃがむと俺の唇へと自分のそれを重ねる
何度もついばむようにして浅く繰り返し口づけをする
ふと口づけが解かれたあと、尚が耳元でそっと呟く
 
 
「今までの誕生日で……、一番素敵なプレゼントでした。先生……、有り難うございます……」
「……尚?」
「見ちゃ駄目ですよ 格好悪いじゃないですか……」
 
 
尚は笑わなかったし 喜んでくれたけど
尚の声は涙声だった
格好悪いからと俺に顔を見せないように自分の胸へと俺の頭を抱き込んだまま
強く抱きしめられた
尚のYシャツから馴染みのある愛しい尚の匂いがする
俺はそのまま目を閉じた
 
 
 
 
「格好よかっただろ……」
 
「ええ、とっても格好よかったです」
 
「惚れ直したか?」
 
「はい。このまま抱きたいくらいに惚れ直しました」
 
 
 
 
 
尚が俺をそっと離した
俺はピアノの蓋をそっと閉じる
もう触れる事はなくても忘れる事のない旋律
月の光に照らされた俺達の影は漆黒のグランドピアノにはっきりと影を映り込ませ
モノクロームの空間を優しく包み込んだ
 
 
 
 
 

       *       *        *
 
 
 
 
 
 
大学を出て駅へ向かう途中で尚が思い出したように俺に話しかける
 
 
「あぁ、そういえば……、さっきの女性にピアノ教えてもらったんですか?」
「え?さっきの女性?」
「ええ」
「何の事だ?」
「え?違うんですか?僕が音楽室に入る前に部屋から出てきたので……、てっきりその女性に教わったのかと思っていたんですが……」
「…………」
「どうかしました?」
「や……、誰も……、いなかったけど……、多分……」
「…………。じゃぁ……、それって」
「わーー!!!待て!!尚、言うな!何も見ていなかった!な?そういう事にしよう」
「あれ?先生もしかして怖いんですか?」
「ばっか。そ、……そんなわけあるか!俺は怖くないぞ!そんな子供だましに怖がるわけないだろ」
 
 
せっかく今日はビシッときめたのに……
俺が怖がっている事はばればれで尚はいつものようにそんな俺を見て目を細めていた
きっとまた、「先生 可愛いです」とか言ってくるに違いない
そう思って尚を見上げると尚はにっこり笑ってこう言った
 
 
「じゃぁ、先生が僕を守って下さいね。頼りにしています」
「お……、おう。まかせろ」
 
 
本当は怖がっているのは絶対に俺のほうだけど
今日の尚はちょっぴり優しかった
そんな尚が俺は大好きで自分から腕を回した
と言っても身長差がかなりあるので結局は尚が腕を組み替えた
 
 
「よーし!今日は誕生日だからな。酒買って帰るぞ!祝杯だ」
「はい、そうしましょう」
 
 
俺達は多分一番世界で幸せな気がする
そう思ってるのは俺だけじゃない……と思う
嬉しそうな尚が俺の腕をぎゅっと引き寄せたので俺も少し力を込めた
俺達の奏でるメロディはたまに不協和音だけど でもとても優しい音色を奏でていた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
END