俺の男に手を出すな2-6


 

 晶を自宅へ送り届け、帰宅して着替えを済ませるとすぐにまた家を出る。佐伯は、学会の会場に向かっていた。時間には余裕を持って現地へと到着したかったが、初めて降り立つ駅から会場は結構距離が有り、着いたのは開演10分前だった。
 会場になっている区の多目的ホールには既に人が集まっている。入口すぐの場所にある、協賛している企業の医療機器展示のコーナーには、早くに到着していた来客が新型の内視鏡の説明を社員から熱心に聞いていた。

 その脇を人を避けるようにすり抜けながら、佐伯は先程の事をフと思い出して僅かに口元を緩めた。帰りの車内で佐伯がバツ一子持ちだという事を言った時の晶の驚いた顔。あの後晶は1人でボソボソと「まぁ、そういう事もあるよな。うん。人生は色々あるものだし」等と、まるで自分に言い聞かせるように幾度か呟いていたのが思い出される。
 思い返せば、佐伯は自分の事をあまり晶に話した覚えがない。隠しているわけではないが、聞かれなければそう自分の事を話す必要もないと思っているので、普段の会話の8割は晶の話を聞く側になっている。

 晶の方はと言うと、元々話し好きなのもあり、コンビニの新商品の感想から過去に付き合っていた彼女がどうだったと言う話しまで、おおよそ恋人に聞かせるような話ではない事まで話す始末ではあったが、流石はホストと言った所か、晶の話は飽きることがない。
 とはいえ、なんと返答して良いか困る場合もある事は確かだ。自分は確かに独占欲が強い方だという自覚はある。しかし、女達を相手にする職業の晶に対して嫉妬していてはきりがない。なので、その手の話題にも普通に返しているのだ。それが気に入らないのか、時々「要はそれでいーのかよ」と自分から振った話題のくせに拗ねる晶を見るのが実に愉快であり佐伯の密かな楽しみでもあった。そんな晶の話に佐伯はいつも苦笑しながら耳を傾けていた。


 佐伯がそんな事を考えながら座席へと着くと、隣りの座席に座っていた先客が顔を上げて驚いたように佐伯を見上げた。七三にぴったりと分けた黒髪にひょろりとした細い体躯。すぐに笑みを浮かべ口を開く目の前の男に見覚えはなかった。

「あれ?もしかして、佐伯先生ですか?」
「はい、佐伯ですが……。何か?」
「あぁ、やっぱりそうだ。ご無沙汰しています。茗渓大の鈴川です。いやぁ、まさか席が隣とは偶然ですね」
「あぁ……、どうもご無沙汰しております」

 我ながら適当だなと思いつつ挨拶を返し、記憶の中から急いで隣の男の顔を探す。いつ会ったのかもすっかり忘れてしまったが、茗渓大は大阪にある消化器外科で有名な大学病院で、その権威は1.2位を争うと言われている。暫く記憶を辿っていると、ぼんやりとだが記憶に重なった人物が確かにいた。以前も何度か学会で顔を合わせたはずだ。鈴川は確か講師だったか……、しかし確信が持てないのでそこは触れない方がいいのだろう。

 気さくな感じで話しかけてきた笑顔に一瞬親しみやすさを感じるが、その瞳の奥にある野心が透けて見える。腕がたつとの評判も噂通りなのだろう。大病院でそれなりの地位にいる鈴川は、見た目の華奢なイメージを覆す貫禄を備えていた。

「佐伯先生は、今回の肝葉切除術の外側区域切除の新しい術式について、目を通されましたか?」
「ええ、一応」

 資料にはざっと事前に目を通していたのでそう答えると、鈴川が満足そうに頷く。

「そうですか、その発表はうちの若いのがする事になってましてね。是非、厳しい意見を後日教えて頂きたいものですな」
「私の意見等が参考になるとは思えませんが。発表はきちんと拝聴させて頂きます」
「いやぁ、ご謙遜が過ぎますぞ。先生」

 一応少しの愛想笑いを返し、佐伯は心の中で「やれやれ」と溜息をつく。はっきり言ってこの手の人間はあまり得意ではない。うちの若いのと言ってはいるが、佐伯がすぐに指摘をする程の問題点を鈴川が発表前に見逃しているはずがない。佐伯が鈴川が手に持つ資料に視線を向けると、そこには助教授と書かれている鈴川の名前が見えた。講師だと思っていたがどうやら出世したらしい。

 余計な事を言わずに正解だったな。と思っていると丁度会場が暗転して学会が始まった。壇上に設置されたスクリーンに大々的にCGで作られた第54回日本消化器外科学会と文字が浮かび、会場から拍手がおこる。
 佐伯も二三度形だけ小さく拍手をして、すぐにその手を止めた。会長の挨拶から始まり、教育セミナー、珍しい症例ごとの手術動画等が続く。その後休憩を挟み先程鈴川が言っていた肝葉切除術の新しい術式が発表された。興味深い題目ではあるが、目新しい事を言っているわけでもない。佐伯は手元の資料を眺めつつ、頭の中で新しい術式をシミュレーションしてみる。先程『意見を聞きたい』と言われた事を真に受けているわけではない。社交辞令の一部である事はわかっているし、会場を離れれば、鈴川だって忘れてしまうに違いないからだ。

 座っている腰が鈍く疲れを訴えた頃、漸く学会は終了した。
 幾つか気になる症例があったので、詳しい資料を担当者へと貰ってから帰ろうと佐伯が席を立つと、すかさず鈴川が話しかけてきた。

「佐伯先生は、この後、懇親会へは顔を出されないんですか?」
「そのつもりですが」
「馴れ合いは苦手ですかな?」

 冗談っぽくそういって笑った鈴川だが、是非紹介したい人がいると強引に誘われ、結局断れず少しだけ懇親会へも顔を出す事になってしまった。懇親会と言うのは名ばかりで、所詮は互いを褒めあいつつ牽制する飲み会である。非常に面倒な事には違いないが、正直な所、最先端の技術と名高い茗渓大の消化器外科自体には興味がある。紹介したい人物が誰なのかは知らないが、有用な情報が聞けるかもしれない。――軽く挨拶をして、抜ければいいだろう――佐伯はそう考えつつ、鈴川を振り返った。

「少し用事があるのでお先に失礼します。また後ほど……」
「あぁ、うんうん。会場で待ってるから。声掛けて下さいよ」
「わかりました。では……」

 佐伯は周りの荷物を手に持つとコートを羽織り、座席から離れた。

――煙草が吸いたい……。

 ホール内にに喫煙所がないか探してみたが、どうやらそのような場所はないようだ。佐伯は心の中で舌打ちをし、腕時計を見る。懇親会までは少し時間がある。どこか店にでも入って一服するかと一度会場を出た所で、胸元のサイレントモードにしていた携帯が佐伯の身体に振動を伝えた。鮮やかに点滅を繰り返すそれを取り出して相手を見ると、昼に別れたばかりの晶である。
 佐伯は通話ボタンを押すと晶の着信に応答した。

「晶か、どうしたんだ?」
『要、学会終わった?』
「あぁ、丁度今外へ出た所だが」
『そかそか、結構長いんだな~学会って。もう夜じゃん』
「まぁな」
『あのさ、悪いんだけど、俺、どうもピアスを要の家に忘れてきたみたいなんだよな。後で取りに行っていい?』
「構わないが……。どうするんだ?俺はこの後、懇親会にも顔を出すはめになったから、帰るまでに少し時間がかかるぞ?」
『あ、そっか……。んじゃ……、先に行って待ってるかな』
「9時までには戻ると思うが」
『それまで適当にぶらぶらしてるよ』
「そうか。じゃぁ、駅に着いたら連絡を入れる」
『OK~。待ってる』

 さっきまで一緒にいて別れたばかりだと言うのに、またこうしてハプニングで会える事を佐伯は少なからず喜んでいた。
 晶との会話を終えた携帯を再びしまい、佐伯は会場近くの喫茶店へと入ると喫煙席に向かい煙草を取り出した。先程の学会から流れてきたのか同じ資料を手にしている人間が数人近くに見える。

 佐伯は学会の資料をめくり、最初からもう一度目を通す。鈴川の言っていた件の資料で指をふと止め、思案した。うまくまとまっている事は認めるが、若干現実味に欠ける内容でもある。発表した医師は研究をメインとしているのだろう。論文を書くことも、読むのも好むが、卓上で繰り広げられる説は、現場では誰しもが実行に移せるわけではない。出血量の多くなる肝臓周りの手術に関しては余計に慎重にならざるを得ないし、新しい術式を完璧に遂行するにはそれなりの手腕が必要である。
 果たしてどれだけの外科医がこの新しい術式をこなす事が出来るのか疑問が残る。

 何本か煙草を吸い終えた所で、時計を見ると、そろそろ懇親会の会場へと移動した方がよさそうである。佐伯は立ち上がるとコーヒーカップをカウンターへと戻し、店を後にした。  
 
 
 
    *   *   *  
 
 
 
 佐伯が自宅最寄りの駅へと着いたのは、予想より少し早く8時を過ぎた頃だった。早々に懇親会を抜けられたので思っていたより早めに帰る事が出来たのである。駅に着いた事でドッと流れる人混みに混ざり、ホームへと降りた所でポケットから携帯を取りだしてみる。晶へと連絡を入れようと画面を見ると、いつのまにか数件の着信があった。相手を確認してみると、住んでいるマンションの管理人からである。

 入居の際、連絡先として勤務先と自宅そして携帯の番号を書類に書いたが管理人から携帯へと電話が来た事は今まで一度も無い。何かあったのか気になるが、もうすでに自宅へと向かっているので帰宅してから電話をいれる事にし、佐伯は履歴から晶へと連絡を入れた。

 しかし、何度コールを鳴らしても晶は電話に出なかった。気が変わって来るのをやめたのかと思いつつ、携帯を耳に当てながら改札を出た所で、横の切符売り場から聞き慣れた声がかかる。

「おかえり!」
「……ん?」

 佐伯が振り向くと、改札でずっと待っていたのか、晶が立っていた。

「何だ、駅で待っていたのか。電話に出ないから、どこへ行っているのかと思ったぞ」
「あぁ、ごめん!俺もさっき来たとこだからさ」

 そう言った後、佐伯に近寄ると小声で「なぁ、何か恋人みたいじゃね?こうして改札とかで待ってるのって」と囁く。「実際そうなんじゃないのか?」と返し、歩き出す佐伯の前に回り込むようにして晶が話を続ける。晶は昼に別れた時のスーツ姿ではなく、細身の黒のボトムに同じく黒のシャツという出で立ちだったが、それでも十分に華がある。少し踵のあるブーツを合わせているせいか今は佐伯とほぼ同じくらいの上背になっていた。

「まぁ、そうなんだけどさ。こう何て言うの?ラブラブです、みたいな」
「……フッ……」
「何その笑い、俺の事「馬鹿な奴だ」とか思ってるだろ」
「よくわかってるじゃないか」

 隣の晶が、何か文句を言っているのを耳にしながら、「可愛い奴だ」とも思っている事を心の中で付け加えておく。目の前の信号が点滅しているので少し足を早めると晶も同じように歩くスピードを合わせてくる。先程の管理人からの連絡が気になりいつもより歩幅が大きい佐伯に気付き、晶が不思議そうに口を開いた。

「なぁ、何か急いでる?」
「あぁ、……ちょっとな。さっき、マンションの管理人から数回連絡が入っていたんでな」
「え?何それ。どーいう事?」
「さぁ、知らん。……戻ったら連絡を入れてみるが」
「何だろうな?空き巣に入られたとか?」
「それだったら警察からも連絡があるだろう」

 晶は空き巣の他にも、上階からの水漏れや鍵の取り替え等のベタな予想を一通り言って、最後に自信ありげに言う。

「わかった!じゃぁ、床が抜けたとか!?」

 今時どんな古いアパートにグランドピアノを置いたとしても、床が抜けるという事はないだろうし耳にしたこともない。その突飛な想像のどこにそんなに自信が持てるのか、本当に不思議である。佐伯は呆れたように首を振ると、「本当だったら、とんだ安普請だな」と一言返した。

 佐伯のマンションは駅からそんなに距離はない。住宅街に入ってすぐのコンビニを曲がるともうマンションが視界に入ってきた。明々と光を漏らすエントランスに目を向けると、人影が見える。早足で先に行った晶は、視力がいいのでその人物をはっきり捉えたらしい。少し距離を置いてぴたりと足を止めると、背後の佐伯に振り向いた。

「あれ、もしかして管理人さんじゃね?」

 はっきりは見えないが近づきながら目を細めてみると、確かに晶の言うとおりエントランスにいるのはマンションの管理人のようだ。先程の連絡の事もあり、佐伯を待っている可能性は高い。一体何があったのか、さっぱりわからないまま佐伯がエントランスに足を踏み入れると、佐伯が声を掛けるより先に気付いた管理人が、困った様子で近寄ってきた。

「あぁ、良かった!佐伯さん。先程連絡を入れたんですよ。お電話に出てくださらないので困ってましたよ」 
 ただ事ではない様子の管理人に佐伯は頭を軽く下げる。
「すみません。帰宅したらすぐ連絡を入れようと……、何かありましたか?」

 様子を見ている晶が、その瞬間「あれ?」と小さく声を洩らす。目の前の管理人が少し脇へと移動すると背後に隠れていたのか小さな子供が立っていた。佐伯の中で嫌な予感がよぎるのと同時に、その予感は見事に的中してしまう事となる。

「困りますよ、こういう事は。事情はよく知りませんけど……、こんな小さな子供を預けられましても」
「…………??」

 意味がわからない佐伯に、管理人が説明を始める。2時間ほど前に、佐伯のマンションの鍵を貸して欲しいと女性から連絡があったそうだ。「ご本人の許可がないと、そういう事は出来ない」と断るとその女性は非常に困った様子で、「子供がいるので、子供だけでも佐伯の自宅へと入れて欲しい」と言ってきたらしい。佐伯は元妻でもある美佐子を思い浮かべ、僅かに眉を寄せる。自宅の電話は教えてあるが、携帯までは教えていない。多分職場にも連絡したのだろうが、生憎佐伯は昨日から休みなのだ。最終的にここへ直接来てこの騒動になったのだろう。

「ご迷惑をおかけして申し訳ない」
「今後こんな事がまたあったら困りますよ」

 頭を下げる佐伯にチクリと釘を刺すと、管理人がしゃがんで後ろに隠れ気味の子供の手を引き微笑んだ。

「良かったわね。佐伯さんが帰ってきて、おばちゃんはもう行くわね」

 そう言って立ち上がると、横にいる晶をチラリとみて怪訝な顔をしながらエントランスから出て行った。晶と一緒にいる所を見られたのは別にどうとでも思ってくれて構わないが、そんな事より今のこの状況である。
 残された子供は佐伯と晶を交互に見ると、泣きそうな顔で俯いた。

「拓也……、なのか?」

 尋ねる佐伯に一度小さく頷き、怯えた様子で上目で佐伯を窺うと「……はい」と呟く。
隣の晶も驚いた様子を隠しきれないようで、「どうなってんの?」と目を丸くしている。突然の出来事に言葉をかけるのも忘れて見下ろす佐伯におずおずと近寄ると、消え入るような声で拓也が口を開いた。

「あの……、これ……、おじさんに渡すように言われました」

 まるで大人のような口調で喋る目の前の子供は、佐伯の一人息子の拓也である。赤ん坊の頃に会ったきり、一度も会った事が無いのだ。頭では理解しているものの、まるで実感が湧かない。
 黙って手紙を受け取った佐伯が手紙を開封し目を通す間、エントランスでは微妙な空気が流れた。ざっと読み終えた佐伯が再び拓也を見下ろし呆然としていると、拓也の様子に一足先に我に返った晶が佐伯をぐいと脇へと押して拓也の前へとしゃがみこんだ。腕を伸ばしそっと頭を撫でた後、拓也の手を安心させるように自分の手で包んで、優しい笑顔で話しかける晶に明らかに拓也がホッとした様子が伝わってくる。

「拓也君っていうんだ?はじめまして。俺はおじさんのお友達で、晶っていうんだよ、宜しくな」
「……、はじめまして。あきら……さん?」
「さんとかつけなくていいって、俺も拓也って呼んでもいい?」
「……はい」
「よし、じゃぁ決まりな」
 晶がひょいと拓也を抱き上げて、隣の佐伯を見る。
「おじさん、とりあえず部屋いかね?」
声をかけられた事で、佐伯も我に返った。
「あぁ……、そうだな……」

 エントランスの暗証番号を押し、自動ドアを開くと中へと進みエレベーターへと乗り込む。狭いエレベーター内で、晶が抱いているせいで拓也の視線が同じ位置にある。佐伯と目が合うと、拓也はすぐに逸らして晶の襟元をぎゅっと掴んだ。何か言葉をかけた方がいいのはわかっているが、何を言って良いのかわからない。晶がいなければ、まだエントランスで拓也と二人で途方に暮れていた事だけは容易に想像出来た。

「なぁ、拓也。おじさんちょっと怖い顔だけど、別に怒ってるわけじゃねーからさ。安心していーからな」
「……はい」
「本当はめっちゃ優しいんだぜ?こんなだけど」

 そう言って佐伯の足を軽く蹴って合図する晶に、佐伯も拓也へ少し微笑んでみせる。
「あぁ、別に怒ってはいない」

 その言葉を聞いて安心したのか、拓也もはにかんで佐伯に視線を向けた。気を遣っている様子の拓也にチクリと胸が痛む。こんな事なら、まだ床が抜けていた方が冷静でいられたのではないかとさえ思ってしまう。
 鍵を開け、佐伯の家へあがると、物珍しいのか拓也は辺りをキョロキョロと見渡し落ち着かない様子を見せた。佐伯が父親である事をどうやら知らないらしいので、不安なのは当たり前である。見知らぬ人間に囲まれて、初めて来た場所で一人なのだ。

 佐伯の部屋のソファへと腰掛けた拓也は隣に置いてあるクッションと同じくらいに小さい。佐伯を見上げると「おじさんは、お母さんのおともだちですか?」と首を傾げた。先程から「おじさん」と呼ばれている事に今更ながら気付き、佐伯は苦々しい思いで問いに答える。

「お母さんがそう言っていたのか?」
「……はい」
「……そうか」
「…………」
「……まぁ、友達……だな。だから安心しなさい」

 拓也と向かい合ってその後沈黙している空気を晶が割って和ませる。子供の相手もお手の物なのか、拓也も次第に慣れた様子を見せ、晶には自然な笑みを見せるようになっている。夕飯は食べたのかどうかと尋ねる佐伯に、母親と食べたというので、佐伯はとりあえず何か飲み物を用意する為にキッチンへと向かった。

 未だコートを着たままなのに気付き、自分に余裕がないことを思い知る。コートとジャケットだけを脱いで椅子へとかけると冷蔵庫をあけてみる。子供でも飲めそうな物を探したが、甘い物を好まない佐伯の自宅にジュース等があるはずもなく、水かアルコールか、唯一あるのは野菜ジュースしか見当たらなかった。
 無塩の野菜ジュースを果たして子供が飲むのかどうかわからないが、仕方が無いのでそれをコップに注ぎ、自分と晶にはコーヒーをいれて居間へと運ぶ。
 テーブルへと飲み物を置くと、晶がコップをみて「え?」とでも言うように佐伯を見た。

「……何この緑の液体」
「野菜ジュースだ」
「他にもっといいのなかったのかよ……。オレンジジュースとかさ」
「あるわけないだろう。水ならあるが」
「いや、水もど-かと思うけど……、まぁ、しかたねーか」

 そんな佐伯達のやりとりを聞いていた拓也がコップに手を伸ばす。

「ぼく、野菜ジュースだいすきです」

 明らかに気を遣っている拓也に晶と顔を見合わせて、余計な事を言ってしまった事を反省する。自分の息子ではあるが、大人顔負けのその様子に佐伯は感心するとともに、周囲の顔色を伺い過ぎる拓也の普段の生活を思い浮かべ複雑な気持ちになってしまう。ジュースを飲み終わると、拓也は「ごちそうさまでした」ときちんと礼を言いコップをテーブルへと置いた。

 その後、絵本を読みたいという拓也をキッチンのテーブルへと座らせると佐伯はソファへと座り、漸く一息ついてネクタイを緩め深く溜息をついた。

──何でこんな事に……。

 一気に疲労感が押し寄せ、軽い頭痛がするこめかみに指をあてる。眼鏡を外し片手で目を覆うようにして黙り込む佐伯の隣に、晶が腰を下ろした。

「手紙、何だって?」

 小声で聞いてくる晶に事情を説明する。美佐子は佐伯と同じく医師をしており、今は小児科専門の医療機関に勤務している。そこで昨日細菌感染の疑いがある患者が出て、美佐子にも感染の疑いがあるらしい。幸い小児以外では症状が重く出る事はないが、拓也に感染するのを避けるために潜伏期間が終わる明日の夜まで佐伯に預かって欲しいとの事だった。

 拓也にその兆候が出た場合に佐伯なら対処が可能だというのも理由らしい。拓也から渡された手紙には、その感染症の詳細が書かれていた。美佐子は早くに両親を亡くしており、急な事で佐伯を頼る以外なかったのかもしれないと最後に予想を付け加えて説明を終える。

「そっか……。拓也平気かな?今は元気に見えるけど……」
「まぁ、大丈夫だろう。そうならないように事前に行動した結果が、今この状況だろうからな」
「ならいいけどさ。……拓也、やっぱり要に似てるよな。顔もそうだけど、勉強大好きって言ってたし」
「……そうか?自分では似ているかどうかわからんな」
「親子だなって……さっき思った。「おじさん」って呼ばれちゃってるけどな」
 晶がそういって小さく笑う。
「晶」
「ん?」
「すまんな……。こんな事に巻き込んで」
「別にいいって。つーか、拓也可愛いし、会えて良かったって思ってる」
「…………」
「それにさ~、要、全然お父さんできてねーし、晶お兄さんはめっちゃ心配なんですけど」
「……そうだな。正直どうしていいかわからん」

 佐伯が苦笑する。確かに父親らしい振る舞いは全く出来ていない。子供の相手をするのは佐伯の最も苦手とする所で有り、患者が子供の場合もかなり苦労しているのだ。しかし、今はそんな事を言っていられない状況なのも理解していた。明日の夜まではこの状況が続くのだから……。

「で、どうすんの?明日の夜まで」
「……どうにかするしかないだろう。とりあえず俺は休みを取って拓也の様子をみるから、お前は気にしなくていい」
「今日、泊まってやろっか?俺、店出るの明日夜からだし」
「……無理するな。ちゃんと飯は食わせるから安心しろ」
「……拓也も心配だけど、俺は……、要も心配……」

 晶が佐伯のネクタイを引っ張って顔を覗き込む。本当は晶の申し出は渡りに船ではあるが、これ以上自分の事で迷惑を掛けるのも躊躇われ、佐伯は困ったように眉を寄せた。食事を用意して様子を見るだけなら問題ないが、それ以外にも拓也の相手を出来るのか……。暫く考えて黙っている佐伯に晶が「らしくねーな」と小さく笑う。

「いつも俺に遠慮無くひでー事言うくせに、こういう時こそ遠慮とかしなくていーんじゃねーの」
 しかし、いつもの状況と今は話が別である。佐伯は迷いに迷った挙げ句溜息をつき、やっと口を開いた。
「……本当に、いいのか?」
 確認するように呟き、晶の頬を指で撫でる。
「当たり前じゃん」
「……じゃぁ、頼む。……だが、無理はするなよ」
「無理とかねーし。No1ホストの接客術なめてもらっちゃ困るぜ?」

 ふざけてそう言って、晶は佐伯の肩にもたれかかった。晶の頼もしい言葉に、佐伯もいつもの調子を取り戻す。何も状況は変わってないが、何とかなりそうな気がしてくるのが不思議である。晶の髪に指を絡ませ、「……子供相手にも通用するとはホストも侮れんな」そう言って耳元に軽く口付けを落とすと、晶はくすぐったそうに肩をすくめた。

「つーか、初めて要に褒められた気がするんだけど。明日雪でも降るんじゃね?」
「……丁度いいじゃないか。拓也と雪だるまでも作ったらどうだ」
「お!それ名案!」

 嬉しそうに笑う晶の横顔を見て、佐伯も肩の力を抜くとひとつ息を吐いた。考えていた所で、何も好転する事がないならば、考えている時間が無駄である。
 晶は立ち上がると拓也の側へ行き、隣の椅子に座り何かを話している。何を話しているのか、絵本を指さして笑っている二人の笑い声を聞きながら、佐伯はテーブルの煙草へと手を伸ばし一本抜き出すと口に咥えた。だが、火を点ける手前で指先が止まる。

――拓也が寝てからにするか……。

 そのまま咥えた煙草を口から外すと、元の箱へと戻し、そっとテーブルへと置いた。
 目の前の灰皿には、未だ一本も吸い殻がなかった。