story 2


 

 
 
 待ち合わせ時間の三十分も前に到着してしまった渋谷は、改札を抜けた所で側の柱に背を預けて鞄から携帯を取りだした。電車内ではサイレントモードに切り替えていたので、それを通常の物に切り替える。もしかして玖珂から電話があるかも知れないからだ。 
 電車が到着する度に溢れるように湧いてくる人波を眺めながら、玖珂の到着を待つ。陽が高くなっている今は、背後から照りつける陽射しで首筋が暑いぐらいだ。そういえば、どちらが雨男なのかわからないが、玖珂とのデートは雨に降られることが多い。一回前は最初から降っていて、その前は途中で降ってきて急遽デートコースを変更したのだ。 
 
 確か……初めて玖珂とキスをした時も雨の日だった……。濡れた歩道橋。縦に伸びてうつりこむ滲んだネオンの光。差し出された傘に落ちる雨音でさえ記憶に鮮明に残っている。当時を思いだせば、懐かしい気持ちになる。 
 
 早く着て玖珂との想い出を反芻しながら待つこの時間も楽しみの一つだった。 
 玖珂の姿を遠くに発見した時の、何とも言えない感覚。 
 一緒に居る時の玖珂は、常に優しい眼差しで見つめてくれるけれど、まだ渋谷の存在に気付かないほど遠くに居る時は、意外とクールだったりする。 
 
 そんな玖珂が少しして渋谷の存在を見つけた瞬間、そのクールさがすっと消えていつものよく知る玖珂になる。気付かれないほどに小さく手を振ってくる玖珂に、渋谷もまた隠しながら手を振り返す。自分が玖珂の恋人である事を実感出来るその瞬間が好きだった。 
 渋谷は袖を少し捲って再び時計を確認し、そろそろかなと期待を寄せて眼鏡の奥の目を細める。玖珂もいつも待ち合わせの時間より早く到着するので、そろそろ来てもいい頃である。 
 
 そう思っていると予想は当たり、駅構内アナウンス直後の人波に玖珂の姿を発見した。少しずつ改札へ近づいてくると着ている服もよく見えるようになる。秋色を取り入れたイタリアンカラーのジャケットと揃いのボトムス。ジャケットの中は、玖珂には珍しく明るい色のカラーシャツを着ていた。 
 毎度の事ながら、まるでファッション雑誌から抜け出してきたかのようなその容姿に見惚れてしまう。 
 
 だけど、いつもと違い玖珂は少し俯いており、心なしか疲れているようにも見えた。 
 
――……どうしたんだろう……。 
 
 もしかして、多忙で無理をして時間を作ったのではないか。 
 そんな心配が渋谷の胸に一瞬陰をさした。結局改札を出てくるまで、玖珂が渋谷に気付くことは無かった。 
 改札を出たところでようやく顔を上げた玖珂が辺りを見渡す。見つけられるより前に、渋谷は駆け寄って声をかけた。 
 
「玖珂さん」 
「ああ、祐一朗」 
 
 玖珂は渋谷の顔を見つけると、いつもの穏やかな笑顔を見せた。その様子を見ていると先程の心配は思い過ごしのように思え、渋谷も笑みを浮かべる。 
 
「今日も俺の負けだな……。中々祐一朗より先に、到着できない物だね」 
 残念そうにそう言って少しだけ渋谷の肩に触れると「待たせたかな?」と優しげな声で訊ねられる。 
「いえ、俺もさっき来たばかりですから」 
「そう? それならいいんだが……。たまには、遅く来てもいいんだぞ?」 
「好きで早く来てるんですよ」 
 
 渋谷はそう言ってごまかすように笑い、予め買っておいた映画の前売り券を取り出して玖珂へと渡した。そのまま並んで歩き出し、映画館へ向かう。そろそろ昼時なので、早めの昼休みをとっている会社員や、遊びに来ている学生で街は賑わっていた。 
 上映が終わってから昼食を摂ることになるだろうが、この辺は飲食店も多いので、街を歩きながらその時に店は決めれば良いだろう。 
 
「祐一朗が観たがっていたから、どんな映画か少し調べてから来たんだが、まさかアクション物だとは思わなかったよ」 
 
 玖珂が渡したばかりの前売り券を見ながら隣に並ぶ渋谷の方へ振り向く。 
 
「そうですか? 昔から、アクション映画って好きなんですよ。あまり小難しい物は、頭が疲れるので」 
「祐一朗らしからぬ台詞だな。もっとこう、謎解きとか、ミステリーの要素がある映画を好みそうな気がしていたんだが」 
「あ、勿論そういう映画も好きです。だけど、休日には何も考えずに楽しめる娯楽映画の方が落ち着くんです」 
「なるほど。普段酷使している頭も、たまには休ませてやらないとな」 
 
 玖珂のその台詞を聞いて渋谷は肩を竦めて首を振った。 
 
「いえ……。そんな、立派な理由じゃないんですよ」 
「違うのか?」 
「はい。俺、学生の頃一度、アメリカに短期留学に行っていて、その頃このシリーズがむこうで流行ってたんです。一作目を現地で観て、面白くて当時何度も映画館に足を運びました。だからかな、思い入れがあって、続編が出ると気になっちゃって……」 
「そうか、そんな想い出の映画なんだね。それに、……確か祐一朗は、高校時代も映画研究会に所属していたんじゃなかったか?」 
「覚えていてくれたんですね。はい、昔から映画が好きで」 
「それは、益々思い入れが深くなるわけだね。一緒に観ることが出来て、俺も嬉しいよ」 
「……はい、あの、付き合ってくれて俺も嬉しいです」 
 
 渋谷の精一杯の台詞が小声で返される。照れ屋である渋谷もだいぶ慣れてきたのか、こうして素直に自分の気持ちを口にしてくれるようになった事に玖珂は嬉しそうに頷いた。 
 
 
 間もなくして到着した映画館は、まだ前の上映が終わっておらず、少しの待機列が出来ていた。映画館のスタッフに半券を渡し、玖珂と渋谷もその最終尾に並ぶ。渋谷の言っていた通り、かなり人気のある映画のようで、前に並んでいる学生らしき若者も、玖珂達の後ろに並んだカップルも、漏れる会話を聞くにどうやら数回この映画を観に足を運んでいるらしい。 
 最終日が近いから見納めに来たといったところだろう。 
 
 今はネットやテレビの有料チャンネル等で、映画はすぐに見放題となる事が多いが、やはり映画館の大きなスクリーンでの鑑賞は、ファンの間では別格なのかもしれない。 
 有名なハリウッドスターが大きくうつる映画のポスターを眺めていると、隣の渋谷が玖珂の肩を軽く叩いて顔を上げた。 
 
「どうした?」 
「俺、先にパンフレットを買って来るんで、並んでて貰ってもいいですか」 
「ああ、もちろん、構わないよ。行っておいで」 
「じゃぁ、ちょっと行ってきます」 
「祐一朗、その荷物。買う時に邪魔なんじゃないか? かしてごらん。俺が持っているから」 
「あ、すみません、じゃぁお願いします」 
 
 玖珂に手荷物を渡し、嬉しそうにパンフレットを買いに行く渋谷の後ろ姿をみて玖珂は目を細めた。会社帰りに泊まる時用に、一通り玖珂の自宅には渋谷の着替えが揃えてあるが、休みの日に泊まる時は新たに泊まるセットを用意してくるのだ。小さめのトートバッグの中には畳まれた衣類が綺麗に整頓されて入っているのだろう。想像するだけで、いかにも几帳面な渋谷らしいと思い、玖珂はちょっとおかしくなった。 
 
 渋谷が走って行った方へ視線を向けると、物販のカウンターにも列が出来ており、渋谷の後ろ姿が見える。 
 パンフレットまで買うとは、かなりのファンなのだろうと改めて思う。 
 
 朝よりは幾分マシになったとはいえ、やはり体調は優れないが、あんなに嬉しそうな渋谷をみているとそれも和らぐ気がする。 
 
――後数時間はもってくれるといいんだが……。 
 
 顔色の悪さを少しでもごまかせるよう、顔映りの良い明るい色のシャツを着てきたのが功を奏したのか、今の所、渋谷には体調のことは気付かれていないようである。スッキリしないような胃の辺りに無意識に手を当てているのに気付き、玖珂は慌ててその手をポケットへとしまった。 
 
 それにしても、随分と変わった物だなと思う。映画館に来るのは、本当に久し振りなのだ。 
 ここ数年で様変わりしたのか、昔のような少し薄暗い雰囲気は全く無い。原色の通路はピカピカでまるで遊園地のアトラクションのようだ。昔と全く違うその空間をぐるりと見渡し、玖珂は昔を思いだしていた。 
 
 たまに店が終わった後のアフターで、単館上映のレイトショーを観に行く事があったのだ。 
 そういう場合は、だいたいが恋愛映画になるのが定番だった。激しい展開のない映像美が売りのフランス映画等は、薄暗い映画館の雰囲気も一役買って、鑑賞後も余韻が楽しめたものだ。 
 
 そんな昔の記憶を掘り返していると、前の上映が終わったようで、客が戻ってくると同時に、掃除のための係員が数人館内へと入っていくのが見えた。そろそろこの待機列も動き出す頃だろう。 
 
「すみません、遅くなっちゃって」 
 
 パンフレットを手にした渋谷が息を切らして列へ戻ってきた。 
 
「そんなに急がなくても、大丈夫だったんじゃないか」 
 
 走ってきて少し乱れた渋谷の前髪を玖珂が指で整え苦笑する。渋谷は「あ、」と少し赤くなって自らも髪に手をやったあと、玖珂に渡していた荷物を礼を言って受け取った。 
 
 外でこうしてデートをしていても、肩を抱くことは勿論、手を繋ぐことさえない。端から見たらただの男友達に見えるだろうが、渋谷が人前でそういう事をするのを苦手としているので、玖珂も外で会う際は気をつけているのだ。 
 だけど、玖珂の行動にすぐ赤面する今のような渋谷を見てしまえば、男友達とは違う関係である事は一目瞭然な気もする。 
 勿論そんな事を渋谷本人に言えば、益々赤面させる結果にしかならないので黙ってはいるが……。 
 そう思い玖珂が苦笑していると、渋谷が不思議そうに顔を覗き込む。 
 
「どうかしました?」 
「いいや、何でも無いよ」 
 
 清掃が終わったようで徐々に列が進み出す。係員の誘導に従い館内へと入る。最近の映画館は随分親切で、入り口では膝掛けまで貸し出してくれるようだ。玖珂はそんな所にも感心しながら、慣れた様子ですいすいと席へ進む渋谷の後について行った。一つ一つのフロアはそんなに大きな規模ではないらしく、入ってみるとこぢんまりとしている。 
 同時に何本も扱っているので、一つ一つのフロアはこんなものなのだろう。 
 
「祐一朗は、よく映画館に来るのか?」 
「そうですね。ここ最近は来ていませんでしたが、前は、休日によく一人で観に来てました」 
「そうか、どうりで慣れているわけだ」 
 
 話しながら座席の通路番号を確認していく。スクリーンにあまり近いと首が痛くなるが、渋谷が取っていたのは中央の端の席で片側は通路だった。 
 
「Dの26と27……。あ、ここですね。玖珂さん、どっちがいいですか?」 
「祐一朗はどっちがいいんだ? 俺は、どちらでも構わないよ」 
「じゃ、……俺が奥に座りますね」 
 
 次々に人が入ってきて流れは止まったが、渋谷の隣の席は運良く誰も居ないようだった。ひとつあけてその隣に女性客三人のグループが座っていたので、半端な席が余ったのかも知れない。折りたたみの座席を引いて腰を下ろしてみると、足下が若干窮屈ではあるが、座り心地は悪くない。 
 折角買ってきたパンフレットを膝の上に載せたまま時々眺めているだけの渋谷に、玖珂が声をかける。 
 
「中は見ないのかい?」 
「……はい。いえ、見たいんですけど……。先に結末を知ってしまったら嫌だなと思って、我慢してるんですよ。帰ってからゆっくり見ます」 
 
 渋谷の台詞に玖珂が小さく笑う。 
「祐一朗は、本当にこの映画が好きなんだな」 
 それを聞いて、渋谷は照れたように頬を掻いた。 
「子供みたいって、思いました?」 
「いや? そうは思っていないが、――そんな君も、可愛いなと思ってね」 
 
 玖珂は後半の台詞だけを耳元で囁く。案の定館内は空調が効きすぎているくらいだったけれど、渋谷は頬が熱くなった気がして掌をあてると俯いた。 
 
 ブザー音が鳴り響き、一気に照明が落とされる。スクリーン横のベルベットの緞帳がゆっくりと左右に開けば、上映開始を期待する熱気まで伝わってきそうだった。 
 
「そろそろ始まるみたいだな」 
「……はい」 
 
 周囲でざわざわと楽しげに喋っていた客達も一気に静かになり、皆の視線がスクリーンに集まる。玖珂は通路側の肘掛けに手を置くと、一度ちらりと渋谷の様子を窺った。眼鏡を指で押し上げ、少し顔を上げている渋谷の横顔、スクリーンから発せられる光が渋谷を照らす。映画の上映が終わるまでは夢中になっているだろうから、玖珂の様子に気付くことはないだろう。 
 
 玖珂はそっと視線を外すと、一瞬しんどそうに眉根を寄せた。せめて映画が終わるまでは……と切に願っているのに、そんな玖珂の気持ちは全く無視して少しずつ体調が悪化を辿っているのを感じる。やはりそう上手くはいかないらしい。 
 腕を組み、渋谷に見咎められない角度で胃の辺りさすり、せめてもの抵抗を試みる。隠すために膝掛けをかりれば良かったと今更ながら思う。 
 
 スクリーンでは他の映画の宣伝や鑑賞時の注意事項が終わり、本編が始まっていた。CMでよく見るので聞き慣れたテーマソングであるそれにのって颯爽と主人公が登場する。 
 渋谷の言っていた通り、このシリーズの第一章が上映されたのが大学時代だったならば、十年以上前である。主役の彼も同じ年数歳を取っているわけだ。 
 いい歳の重ね方をした証拠に、スクリーンでの彼は白髪交じりではある物の年相応の格好良さと貫禄があり、今回の相棒である若手俳優とはやはりオーラが違った。 
 聞き取れない部分を字幕で補完しながら観ていると、ふと視線を感じた。 
 
「……玖珂さん」 
 
 気付くと渋谷がこちらを見ており、小さな声で呼びかけ少し心配そうに見つめていた。 
 
「ん? どうした?」 
「いえ……。もしかして、寒いですか?」 
 
 きつく腕を組んでいたからそう思ったのだろうか。玖珂は組んでいた腕をとくと「いや、平気だよ」と笑って見せた。 
 
「それなら、いいんですけど……」 
 まだ何か言いたそうな渋谷の言葉を遮って、玖珂が人差し指を鼻に当てしーっというポーズを取る。 
「ほら。こっちを見ていたら、大事なシーンを見逃すぞ?」 
 
 渋谷は「そうですね」と肩を竦め再びスクリーンへと向き直った。もしかして、少しの違和感に感づいているのかもしれない。玖珂は一度ゆっくり息を吐くと、渋谷と同じように本編に集中した。 
 
 映画はさすがシリーズで続いている人気作なだけあって、ハラハラさせる展開や目を見張る派手なアクションシーンもあり、大作の名に恥じない内容だった。音響効果もよいので、爆発シーン等は映画館自体が揺れたのかと感じるほどだ。映画自体は文句なく面白いのだが、集中しきれないのはやはり体調のせいだろう。 
 
 クライマックスを迎え、次回の続編に繋がるような伏線、主人公も気付いていない組織が暗躍する場面に切り替わったところで、本編は暗転して終了した。上映が開始して130分、アクション映画の最後らしくハードロックが大音量でかかり、エンドロールが流れ出す。 
 楽しく鑑賞をしていた渋谷に水を差すことなく最後まで乗り切れた事にほっとする。 
 しかし、我慢するのもそろそろ限界が来ていた。曲も終わり、最初と同じように緞帳がするすると閉まっていく。ゆっくりと明かりが灯り出す館内、態度に出さずにいられるのも多分僅かな時間しか無い。 
 
 最後の二十分あたりから、治まっていた吐き気がぶり返していたのだ。仕方がないので映画館を出たら訳を話し、今日はそこで別れることにしようと決めてはいるが、それ以前に、そこまで持つかどうか……。 
 
 格好よかったね! 凄く楽しかった! 客達の絶賛する声を耳にしながら手荷物を持つ。次々に観客が帰り支度をして立ち上がる中、玖珂達も腰を上げた。 
 
「観に来て良かったです。面白かったですね」 
 
 観終わった後の高揚した気分のまま、渋谷も他の客と同様嬉しそうに笑顔で振り向く。混雑する出入り口へ一斉に向かう客に交じり、玖珂も足を踏み出しながら渋谷へと返した。 
 
「そうだね、見応えもあったし。俺も楽しかった。祐一朗が誘ってくれたおかげだな」 
「良かったです。俺の趣味に付き合わせちゃったので、少し心配だったんですが」 
「そんな事は気にしなくていい。本当に面白かったよ。また続編が上映されたら、一緒に観に来ようか」 
「はい、是非」 
 
 立ち上がって動いてみると歩く振動でさえ体調に響く有様だ。視界には自分より頭一つ低い人の群れ。その景色が不吉に早まる心音と共に揺れて見える。周囲の声もどこか籠もって聞こえ、耳の奥では車酔いにも似た耳障りな反響音が鳴り響いていた。 
 やはり、今言い出すしかない。渋々切り出す玖珂の言葉は、その気持ちを反映するように歯切れが悪い物だった。 
 
「……祐一朗、……悪いんだが……」 
「はい……? どうかしました?」 
 
 あまり渋谷の方へ向かないようにして用件だけを伝える。 
 
「ちょっとトイレに行ってくるから、先にロビーで待っていてくれないか」 
「わかりました。じゃぁ、先に出て待ってますね」 
「すまないね、パンフレットでも読んでいてくれ。すぐに戻るから」 
 
 互いに荷物を持って、館内のドアを出た所で別れる。すぐに、玖珂は逆方向にあるトイレへと向かった。思わず壁に手をつきたくなるが、もしかして渋谷がこちらを見ているかも知れないと思うとそうもいかず。なんとか足を速める。 
 ちょうど上映が終わって客の入れ替えと重なったので、個室が空いていなかったらどうしようかと危惧していたが、向かったトイレはそれなりに広くて、個室も三つ程空いていた。 
 
 人目を気にする余裕もなく一番奥の個室へ滑り込むと急いで鍵を掛ける。間一髪、便器の蓋を開けたと同時に、朝に吐き切れていない残滓が喉をせり上がる感触。腰を屈めるとそれはすぐに吐き出された。不快感に鳥肌が立ち、背筋がゾクリとする。 
 
「ォエッ、……ッ……、っヴ、」 
 
 喉を焼かれて噎せたような咳とともに吐き出される物は、何度目かの嘔吐でもう吐く物がなくなったようだ。それはそうだろう、朝にも一度吐いているのだ。それ以降は水分しか口にしていない。それでも身体は吐き出させるように指令を送り続けるので堪ったものではない。 
 絞られるような胃の痛みに眉間の縦皺が深くなる。 
 一応胃腸薬も飲んできたのに、その効果は全く発揮されていないように思えた。 
 
 周囲の気配もあるので、声を押し殺そうとしているものの、繰り返し込み上げる吐き気の前ではそんな努力も水泡に帰す。 
 吐き出す際のくぐもった呻き声を取り繕う余裕もないまま、時間だけが過ぎる。狭い空間の中、ベージュ色の壁が迫ってくるような錯覚に陥り、玖珂は押し返すように壁についた手で爪を立てた。 
 意思とは無関係に胃の中を甚振られているようで、自然、呼吸も浅くなる。 
 
 本当に参った。トイレに籠もってから何分経ったのだろう。 
 玖珂は視線を下げて腕時計を見る。あまり長いと渋谷が心配をして様子を見に来る可能性がある。そう思うが、だからといって今ここを離れるわけにもいかなかった。気付くと、次の上映が始まったのか周りに感じていた人の気配がすっかり消えていた。 
 微かに聞こえる館内の上映時間を知らせるアナウンス、それをかき消すほどの自らの喘鳴の中、溢れた唾液が水面にぽたりと落下して波紋を広げる。 
 
「……、……は、ぁ、」 
 
 玖珂は浮かんでくる冷や汗をハンカチで拭って顔をあげ、壁に凭れて首元のボタンをひとつ外した。グイと指で下げると幾分苦しさが和らぐ気がする。喉仏を上下させながら濡れた睫を伏せる。トイレ入り口の自動ドアが開く音がした気もするが、その事に気を回す余裕も無かった。 
 
 空咳に連れられて水音をのぼらせる喉がチリチリと痛む。制御できないままに苦い胃液をビシャリと便器に吐き出していると、ようやく全部吐ききったのか気分の悪さが鎮まってくる。と同時に、玖珂はやっと誰かの気配に気が付いた。 
 
 足音は近づいてきて、玖珂の入っている個室の前でピタリと止まった。控えめなノックの後に続くのは案の定渋谷の声だ。 
 
「あの、人違いだったら申し訳ない。……玖珂さん、ですか?」 
「……、……」 
 
 予想通りの展開になってしまい、玖珂は、一生の不覚とでも言わんばかりの表情を浮かべ思わず口を噤む。息を殺してみても、渋谷が去る様子は無かった。もうこれは観念するしかないのだろう。ドアを隔てたまま玖珂が渋々返事をする。 
 
「……祐一朗か。ロビーで待っていてくれと言っただろう」 
 
 出来るだけ平静を装って返した言葉は、喉を痛めたせいで掠れていて、自分で聞いても普通ではない事がわかる。何度か咳払いをして整えていると、渋谷がハッと息を呑む気配がした。 
 
「玖珂さん!? 中にいるの、やっぱり玖珂さんなんですね!?」 
 
 渋谷がドアに近寄ったせいで声が一層近くなり、手をついた際の大きな音が個室内に響く。掛けている鍵がそれを耐えるように振動した。 
 
「どうしたんですか? 気分が悪いんですか!? 大丈夫ですか!? 開けて下さい!」 
 
 渋谷の焦ったような声を聞きながら、どう言えば納得してくれるかを咄嗟に考える。一度深呼吸した後個室の鍵を外した。身なりを整えハンカチで口元を拭い、乱れた髪を後ろへなでつける。 
 玖珂が個室のドアを静かに開けると、渋谷はぶつかりそうなほど近くに居て、出て来た玖珂の腕を掴み動揺したような表情で玖珂を見上げた。 
 
「玖珂さんっ」 
 
 気分の悪い自分より余程切羽詰まったような表情の渋谷に、玖珂は安心させるように薄く笑みを浮かべた。 
 
「なんて顔をしてるんだ。そんなに心配するような事じゃないだろう?」 
「……っ、心配するような事ですよ! 戻すほど体調が悪いとか、どうして会った最初に言ってくれなかったんですか、いつから……まさか、ずっと我慢していたんですか」 
 
 真剣な顔で詰め寄ってくる渋谷の、責めるような口調。普段はこんな言い方は絶対にしない。それだけ心配していると言う事が伝わって胸がズキッと痛む。 
 玖珂はひとまず洗面で口を濯ぎ、鏡越しに渋谷を見ると、後悔の念を滲ませながら呟いた。鏡に映っている自分の顔色はもうごまかせないほどに蒼ざめている。 
 
「……すまない、朝から少し体調が悪くてね……。でも、家を出たときは治まってたんだ……。黙っていたのは謝るよ。驚かせて、悪かった」 
「……そんな、俺は別に、謝って欲しいわけじゃなくて――」 
「朝に断りの電話を入れるか迷ったんだが、やはりそうするべきだったな……。せめて映画だけでもと思ったのが間違いだった……、観終わったら事情を話して、今日は別れるつもりだったんだが……」 
 
 蛇口に翳していた手を離すと、側に来た渋谷が玖珂の背中に額をあて、そのまま抱きついてきた。トイレ内に誰も居ないとはいえ、恥ずかしがり屋で、しかもこんな公共の場で自らする行動とは到底思えず、玖珂は驚いて後ろを振り向いた。 
 
「……祐一朗?」 
「俺が……。俺が、楽しみにしてたから、無理して来てくれたんですよね……。すみません……。俺のせいで……」 
「待ってくれ……。何を言っているんだ、祐一朗。そうじゃないよ」 
「いえ、そうですよ。俺、今日は少し、玖珂さんの顔色が悪いなって、最初から気付いていたんです……。でも、ここまで具合が悪いなんて思って無くて……。気のせいかもって、もっとちゃんと気付けていればこんな事には……」 
 
 渋谷の言葉を聞いて、やはり気付いていたのかと玖珂は来た事に今更ながら後悔した。気付かれないまま別れれば、ここまで心配を掛ける事も無かったはずだ。こうして楽しい想い出に水を差したのは、ごまかせると思っていた自分の誤判断が招いた結果。 
 思い詰めて言葉を詰まらす渋谷に向かい合い、玖珂が優しい笑みを浮かべて腰を屈める。 
 
「祐一朗、今日のことは君は何も悪くない。気付かなくて当たり前だ。わざとそうしていたんだから」 
「……でも、」 
「でもじゃない。こうして、心配を掛ける可能性をわかっていて、それでも無理に行動したのは俺自身だ。考えが甘かったよ」 
「…………玖珂、さん」 
「映画も楽しみだったが……、どうしても祐一朗に会いたくてね。楽しい映画の最後が、こんな事になって、本当にすまないな」 
 
 渋谷は何度も首を振って、甘えるように玖珂の胸に顔を埋めた。いつもとは違い感情を露わにする渋谷を不思議に思いつつも、その肩をあやすように軽く抱く。壁一面を覆う磨かれた大きな鏡。そこに映っているのは、抱き合っている自分達。こんな状況は初めてだった。 
 
「ほーら、どうしたんだ。人が来たら見られるぞ?」 
「……別に……構いません」 
「今日は、随分と大胆だね。俺は、見られても構わないけど」 
 
 冗談めかしてそういった玖珂が、渋谷の俯いた前髪で隠れる頬をそっと撫でる。そのまま顔を覗き込み、玖珂は一驚して目を瞠った。渋谷は、目尻にうっすらと涙を溜めていた。見られた事に慌て、袖でそれを拭うと「動けますか? どこかに座って少し休みましょう」と言った後、目元を赤く染めたまま口をぎゅっと引き結ぶ。 
 
 渋谷の性格的に、自分のせいだと思い込んでしまう結果になるのはわかっていた。しかし、ここまでの動揺を見せるとは思ってもおらず、何かあったのかと逆に心配になってしまう。 
 心配そうに何度も玖珂の顔をちらちらと窺う渋谷は、トイレから出ても繋いだ手を離さなかった。たまには手を繋いで歩くのもいいなんて思った事もあったが、こんな展開を望んでいたわけではない。 
 
「――祐一朗」 
 
 かけようと思った言葉は沢山あるのに、渋谷の名を口にした途端何も言えなくなる。握った渋谷の手は、――不安気に小さく震えていた。