「こっちこっち、そこの部屋の隅に置いといて」 
 信二の大声が、玄関を開けっぱなしのマンションの廊下に響く。 
「え? どこだよ、ここ?」 
「もうちょい右、――そう、そこ!」 
 
 晴れ渡る空、澄み切った空気はひんやりとしている物の清々しい。いつもなら夜の街に染まっている集団が、昼真っ只中の今、汗を流して活動中というのは、珍しい光景だった。 
 
「康生君は、鍛えているだけあって流石ですね。頼もしいです」 
 
 ダンボールを二つ重ねて前が見えない状態の康生を誘導しながら、楠原も自分の持っているダンボールを部屋の隅へと運んだ。 
 そういう楠原も見かけによらず結構重い物も表情一つ変えず運んでいる。 
 まだ春になったばかりとは言え、こうして重い荷物を運ぶために動き回っていれば当然汗も掻く。半袖をさらに捲り上げている康生の額には爽やかな汗がキラリと光っていた。どこからみても、ホストではなく、プロの引っ越し業者である。 
 
 今日は楠原が信二の家へ引っ越してくる日なのだ。 
 
 二人の事情を知るのは、店の中では晶と康生のみなので、こうして引っ越しの手伝いをお願いした。康生が自家用車のワンボックスカーを出してくれたおかげで業者を頼む必要がなくなったのは有難い。 
 大物を運ぶ楠原と康生。電車で来た晶は信二と一緒に細々とした物を仕分けしていた。食器棚や家具を移動する必要があったので、信二の自宅にある物も一度段ボールに詰めてある。 
 整理整頓に無頓着な晶は早くも細かい作業に飽きており「もう適当でいいんじゃね?」と溜め息をつきながら箱のガムテープを雑に剥がしていた。 
「なんか、不思議っすよね」 
 深い意味はない。率直な今の気持ちである。信二は腰に手を当てて天井を仰いだ。 



little by little
 
 
 

 ほんの一ヶ月前は、こんな日が来るとは思ってもいなかった。晶の教えに従い、ポジティブシンキングを習得した信二であっても、この展開は予想が出来なかったものだ。 
 自分が、思いを告げた楠原と結ばれ、一緒に住むことになるとは。今では楠原も店に復帰し、前以上に店の雰囲気も良くなった。こうなるまでには色々あったが、全て遠い昔のようでもある。 
 
 信二は新しい場所に設置した食器棚の扉を開けて、横に積まれた食器を重ねてしまう。真っ白な皿、花の模様が描かれている皿、それぞれ二枚ずつは取り出しやすいように別の場所へと置く。一枚は自分の分、もう一枚は当然楠原の分だ。 
 
 食器だけだと割れる可能性があるので、途中途中雑誌が挟まっている。 
 晶はよそ見しながら取り出した雑誌を積み上げ、食器が挟まっている事に気付かないまま手を離す。 
 
「あっ!」 
 
 晶が「しまった」と気付くのと派手な音をたてて皿が砕けたのは同時だった。その音に、後ろを向いていた信二が我に返り、驚いて振り向いた。 
 
「何すか!? 今の音。食器落としました?」 
 最後まで言い終わらないうちに、晶の目の前で砕け散る皿に気づき信二が慌てて側に来てしゃがむ。 
「マジ、ごめん! まさか中に食器あるとか思って無くて。ほんと、悪ぃ……」 
 
 慌てて謝った晶は、すまなそうに皿の欠片に手を伸ばす。食器類に詳しくはないが、何となく高級そうな皿である。信二が大切な客に貰った物だった場合、本当に申し訳ないことをした。そう思い信二の顔を見ると、信二はすぐに眉を寄せ、晶の手を取った。 
 
「……え?」 
 真剣な表情の信二に手を握られ、裏返される。 
「……ど、どした?」 
「いや、怪我とかしてないっすか?」 
「……。それは、平気、……だけど」 
 
 信二がホッとしたように眉を下げ、いつもの人懐っこい笑みを浮かべる。 
 
「だったら良かったっす」 
「でも、……この皿、お前大事にしてたんじゃねぇの? ごめんな」 
「ああ、皿は別にどうでもいいっすよ。物なんて、いつかは壊れるもんでしょ」 
「……それはそうだけどさ」 
「あ、俺が片づけるんで、晶先輩は、康生達を手伝ってきていいっすよ」 
「お、おう……」 
 
 確認し終えた信二が納得して手を離し、腰を上げる。割れた食器には見向きもせず真っ先に晶の事を心配する信二に、うっかりときめきそうになった。 
 というのは冗談だとしても、最近信二は前より随分いい男になったと思う。以前から真っ直ぐで男気のある性格だとは思っていたが、それに磨きがかかったというか。店でも最近では色々と信二に手伝って貰う事も多く、『可愛い後輩』から今ではすっかり『頼れる仲間』だ。 
 それは嬉しい事でもあるけれど、どこか少し寂しいような。晶は複雑な気持ちを僅かに感じつつ腰を上げた。 
 
「んじゃ、俺あっち手伝ってくるわ」 
「お願いします。もうそろそろ大物は運び終わってると思うんで」 
 
 信二はそう言って、新しく楠原の部屋になった場所を指した。 
 
 楠原の以前の暮らしぶりからして、荷物はほとんど無い物だと思っていたが、実際は違った。 
 家具などは処分して何も無かったようだが、借りていたトランクルームがあり、そこには楠原の衣類や客から貰った物等が保管してあったのだ。 
 
 引っ越しの段取りをする際に、買い取り業者の契約書がでてきて、そこには例の件の日付が指定されていた。その日を過ぎたらトランクルーム内の全てを処分するという契約で、鍵を予め渡していたらしい。あまり考えたくない事ではあるが……、自分の痕跡を跡形もなく消すならこの方法しか無かったのだろう。 
 
 信二は、割れた皿の破片を拾う手を一度止め、玄関脇の廊下へ目を向けた。 
 楠原が、晶と話して穏やかに笑っている横顔が見える。 
 バタバタと忙しなく過ぎて引っ越し当日になってしまったが。今更ながらじわじわと実感が湧いてくる。 
 平和な日常、幸せな時間、手に入れた物の大きさは、計り知れない物だ。 
 
 信二の視線に気付いた楠原が、目を細めて信二の方に視線を送る。廊下から入り込んできた風が楠原の髪をゆるやかにたなびかせる。 
 
――蒼先輩……。 
 
 急に目頭が熱くなり、信二は思わず風のせいにして目を擦ると視線を逸らした。 
 幸せ過ぎて泣きたくなるなんて、初めての経験だった。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 夕方近くまでで一通りの引っ越し作業は終わった。昼飯を引っ越し蕎麦にしたので、夕食は信二達の奢りで皆で食べに行く事になり、現在焼き肉店でお疲れ会が開かれていた。車で来ていたせいで酒が飲めない康生は、それを理由にすさまじい早さで肉を食べるだけ食べて早々に帰ってしまったのだが。 
 だけど、本当の理由は多分別にあるのだろう。 
 
 折角の休日に快く今回の手伝いを引き受けてくれた康生が、途中何度か電話がかかってきているのをみたからだ。その度に、客にも見せる顔とは全く違う、少し困った、でもどこか嬉しそうな穏やかな表情で何かを話していたので、相手は多分同棲しているという彼女の子供だと思う。早く帰って来てとせがまれているのか……。 
 
「帰りにちゃんとケーキ買って帰るから。約束? もちろん覚えてるよ。苺のやつ、でっかいのな」 
 
 なんて、大凡不似合いな台詞を言いながら康生は幸せそうだった。 
 近々、プロポーズの予定もあるらしく今度相談に乗ってくれと言われている。 
 
 康生が帰ったあと、晶と楠原と信二の三人になり、今に至る。 
 大皿から肉を網へと運ぶ晶は、重なっていようが野菜の上にのっかろうがおかまいなしである。その度に信二が箸を延ばして場所を修正するという作業が繰り返されていた。 
 その横では、楠原が隙間にうまく肉をのせ、信二達の会話に時々苦笑しながらマイペースに焼いている。 
 人気の店なので活気があり、店員が注文を通す声や客の話し声がひっきりなしに店内に響く。 
 そんな中、信二と晶のいつもの言い合いが始まっていた。 
 
「ちょ! 晶先輩、肉ばっか乗せすぎでしょ。他の物を焼くスペースがないじゃないっすか」 
「他ってなんだよ。その付け合わせの野菜?」 
「そうですっ!」 
「馬鹿か、お前。焼き肉屋で野菜食うとか、女子かよ。肉しか食わないに決まってるっしょ」 
「誰が決めたんっすか、それ。育ち盛りみたいな事言わないで下さいよ」 
 
 信二が晶の目の前に、焼く隙を与えられずたまっていた人参をずらっと並べる。網の上は鮮やかなオレンジ色で半分埋められた。 
 
「……お前、なにその陰湿ないじめ」 
「何がっすか?」 
 
 晶は人参が苦手なのだ。素知らぬふりでそう返すと、晶はふて腐れて自分の前の人参を楠原の前へと全て移動させた。 
 そのやりとりを見ていた楠原が耐えきれないというように笑う。 
 
「オーナー、もしかして人参が苦手なんですか?」 
 
 少し同情の視線を含む楠原の視線に、晶は慌てて首を振った。 
 
「えっ? いや、べ、別に、食おうと思えば食えるけどさ。その……あれだ。ホラ! 楠原も今日は疲れただろ? 人参栄養あるから俺からのプレゼントだって、さぁ、遠慮しないで全部食ってくれ」 
「おや、そうでしたか。それは、有難うございます」 
「蒼先輩、なに真に受けてるんっすか」 
 
 子供のような人参嫌いを知られて、晶はバツが悪そうに頭を掻いた。火力が強いのであっという間に肉が焼ける。晶が一気に載せた物だから、焦げる前に食べきるにはかなりのスピードが必要だ。なんとも忙しない食事である。 
 
「でもさ、楠原だって嫌いな食べ物あるよな?」 
 晶が何枚かの肉を纏めて食べながら、合間にジョッキのビールを飲み干す。 
「もちろんありますよ」 
「だよな? ほらー」 
 
 ホラ見ろと言わんばかりに信二に視線を向ける晶は楠原も自分と同じだと言いたげである。確かに苦手な物は皆それぞれあるのだろう。晶は人参の他に辛いものも苦手で、寿司はサビ抜きという子供舌だ。 
 そういえば楠原は何が苦手なのだろうと思い、信二も楠原へと視線を向ける。 
 
「蒼先輩は、何が苦手なんっすか? まさか……人参じゃないっすよね?」 
「人参は好きですよ」 
「ですよね! んな子供みたいな事言わないっすよね」 
「そうですね……。僕は、ピーマンが苦手です」 
 
「…………」 
――子供!? 
 
 信二は思わず楠原を二度見した。晶に続き、子供が嫌う野菜の代表格であるピーマンが苦手とは、晶と全く同じレベルである。大の大人が二人揃って何を言っているのか。 
 
「信二、聞いたか? みんなそんなもんなんだって。俺が特別じゃないってわかったろ?」 
「いや、まぁ……。ってか、蒼先輩までそんな事言って……。なんなんっすか二人とも」 
 
 肩を落とす信二をみて、晶がうんうんとしたり顔で頷く。 
 
「楠原はピーマンが苦手なのか……。苦いもんな、あれ。わかるわかる! まぁ……、俺は大人だから? 平気だけど!」 
「大人は人参も食べるでしょ」 
「うるせーな。人参なんて食わなくても人生楽しくやっていけるし」 
 
 突然話をとんでもない方向に投げた晶が、「あれ?」と急に首を傾げた。 
 
「ん? どうしたんっすか? ……って、……え?」 
 
 先程人参と一緒に乗せたピーマンを楠原が皿に取って、何でも無いことのように口に運ぶ。たったいま、苦手だと言っていたはずなのに。 
 
「どうかしましたか? お二人とも」 
「いや、え? 蒼先輩、ピーマン苦手なんっすよね?」 
「ええ、あまり好きではありませんが、普通に食べますよ。食べられないほど苦手な物はありませんから」 
 
 先程まで、楠原も仲間だと強気だった晶が無言で視線を彷徨わせる。 
 
「晶先輩、聞いてました?」 
 
 目の前の晶が、負けを認めたくなくて無言でいるのが可愛いやらおかしいやらで信二が吹き出す。 
 
「仕方ないっすね、ほんと二人とも子供なんだから」 
 
 信二は苦笑しながら、網に乗ったピーマンと人参を全部自分の皿へとのせる。明らかにほっとしたのがわかる晶、楠原まで「助かりました」と苦笑している。こんなくだらない事で笑えるのは、幸せな証拠だ。 
 
「俺、次ハイボールにすっかな~」 
「あ、じゃぁ俺はレモンハイで」 
「僕は緑茶割りでお願いします」 
「OKOK、んじゃまとめて頼むわ」 
 
 店員を呼んだ晶が、三人分の注文をまとめてオーダーする。すぐに運ばれてきた酒に口を付け、信二は煙草を取り出した。 
 
「でも今日はマジ助かりました。晶先輩と康生が手伝ってくれて、休みなのに有難うございます」 
「本当に、オーナーもお疲れ様でした。こんなに早く片付くなんて思ってもいなかったので」 
 
 二人に改めて礼を言われた晶が「いいっていいって」と少し照れたように忙しなく煙草を吸う。 
 
「たまには力仕事もいいよな。でも、楠原があんなに力があるとはちょっと予想してなかったわ。俺よりあるんじゃね?」 
「さぁ、そんな事は無いと思いますけど。普通ですよ」 
「確かに、蒼先輩細いっすからちょっと意外っすね。頼もしいっす」 
「有難うございます。高校時代はクラスで腕相撲が一番強かったんですよ。その名残でしょうか」 
「え! マジで? すげぇな」 
「ホントっすか!? 凄い!」 
 
 楠原はいつものようにクスッと笑うと、晶と信二を交互に見た。その意味に気付いて、晶がやれやれと苦笑する。一瞬騙されたが、少しは学習したからだ。 
 
「出たな、蒼ちゃんのいつものやつ」 
「冗談です。って、ちゃんと言った方がいいですか?」 
「言ってやって。信二のやつ信じてるっぽいから。信二ほんとお前騙されやすいのな。可愛い奴」 
「え、冗談なんっすか?」 
 
 信二の言葉に二人が吹き出す。楠原の言う冗談は、全く嘘とも言い切れない絶妙な所をついてくるので、見抜くには多少の慣れが必要なのだ。 
 だけど、楠原から冗談を聞くのは久し振りだった。誰も傷つけることのない言葉遊び。信二は騙されたことに文句を言いながらも、嬉しそうに笑った。 
 晶が首に手を当て、「ああ」と上を見上げる素振りをする。 
 
「久々にこんなに身体動かしたから、明日俺、絶対筋肉痛になるな~」 
「僕も多分、なりますね」 
 
 晶に釣られて楠原も、困ったように肩を落とす。正直、疲れはしたが晶と楠原が言うほどの疲労は感じていない。 
 信二は酒を一気にあおると、テーブルへと置いた。 
 
「明日なら若い証拠じゃないっすか。良かったっすね」 
「うんうん。って! よくねーだろ。っていうか、信二、お前もそう言ってっけど、あっという間に三十間近になるからな? 覚悟しとけよ?」 
「わかってますよ。でも俺が三十になったら、晶先輩と蒼先輩はもうアラフォーっすよね」 
「…………」 
「…………」 
 
 楠原と晶が顔見合わせたあと信二に冷たい視線を送る。ダブルの視線攻撃を受けて、信二は思わずゲホゲホと噎せた。 
 
「いや、冗談ですって! なんで二人とも俺を睨むかな」 
「お前、今から肉禁止な。野菜だけ食っとけ」 
「そうですね。ではどうぞ、いっぱいあるので遠慮しないで」 
 
 信二の前に残った野菜がかき集められた皿が置かれた。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 晶とは、別の電車に乗って帰るので駅で別れ、それぞれがホームへと向かう。店の休みは土日ではないので、平日の今の時間帯は丁度帰宅ラッシュの時間である。 
 ひっきりなしに入れ替わる人混みにまぎれてホームへ着くと、丁度電車が到着するアナウンスが耳に入ってきた。 
 
「ラッキー、すぐ来ますね、電車」 
「ええ。……それにしても、この時間帯の人の多さは少し異常ですね」 
「そうっすね。晶先輩あっちのホームにいるから見つけようかと思ったけど、これじゃ無理っぽいですね」 
「オーナーは目立つので、わかるかと思いましたが……確かに、姿が見えませんね」 
 
 楠原が晶のいる方へ視線を向けて探してみるが、全くわからなかった。そんな事をしているうちにホームには電車が入ってくる。突風を受けながら車内をちらっとみると、これまたあり得ないほどの混雑具合だった。 
 
「うわ、マジで、めちゃくちゃ混んでますね。すぐつくからいいけど」 
 
 信二の自宅最寄りの駅までは五駅。乗車している時間は三十分にも満たない短い時間だ。乗り換え客が大勢いるので、到着と同時に人が溢れる。 
 開いたドアはまだ乗客が乗ろうとしているのを急かすように「閉まる」アナウンスを流してくる。 
 並んでいた列ごとどっと中に押し込まれた信二は「あ、」と小さな声を上げて手を伸ばしかけた。 
 乗り込んでいる途中で降りてきた乗客のせいで、楠原と離れてしまったのだ。入り口ドア付近にいる楠原と、少し先に中側へ押された信二。 
 伸ばそうと思った手は、すんでのところで引っ込められた。男女の恋人同士ならまだしも人前でするような行為ではない。 
 
 座席の端と人に挟まれている楠原が視線だけを信二に向けて「このままで」とでも言うように頷く。手摺りに掴まったまま信二も了解の意を視線で返した。 
 外気は冷たいほどの季節なのに、車内は人の熱気で溢れている。 
 
 すぐに発車しだした電車は数分走った所で、何故かゆっくりとスピードを落とし、駅でもない途中で完全に停止した。