scene3


 

 
 
 無事に辿り着いた自宅最寄り駅から、二人でゆっくりと歩き出す。 
 途中通る商店街は個人経営が多いせいか、閉店時間を過ぎた今、ほとんどの店のシャッターが降りている。何軒か営業中のこぢんまりとした飲み屋だけが、商店街の通路を時々淡く照らす。前を通り過ぎると店内からは、客の声が小さく聞こえた。 
 
「で、俺も欲しくなっちゃって」 
「買ったんですか?」 
「買っちゃいました。部屋に置いてあるんっすけど、結局使ってないんっすよね……。あとで、見ます?」 
「そうですね。勿体ないですし、今度使ってみましょうか」 
「いいっすね! 多分、蒼先輩ならうまく使えると思うんで。俺、手先不器用なんだよなぁ……」 
「僕も、そんなに器用ではありませんよ? あまり、期待しないで下さいね」 
 
 他愛もない会話、信二の魅力は、その優しさであったり明るさ誠実さ。そして、何より会話のうまさにもあるのだと思う。話している相手を自然に笑顔に導ける話術、豊富な話題や流行に敏感なところも含め、こういう部分はやはり、信二をホストとして育てた晶の影響なのだろうと楠原は考えていた。 
 
 まるで自分とは違う性格の信二に惹かれるのは、当然なのかも知れない。好きだという感情だけではなく、男としても憧れているのだ。こういう生き方を自分も選べたらと。 
 
 楠原は会話をしながら何気なく電柱に貼り付けてある宣伝をみていた。近所の小児科、家電店、引っ越し業者。名の知れない引っ越し業者だが、地元では有名なのだろうか。 
 まだ片付いていないマンションを思い浮かべ、楠原は呟いた。 
 
「帰ったら、すぐにやらないといけないですね……。明日から仕事ですし……」 
 
 必要な物は片付けたつもりだが、そうはいっても部屋にも玄関にも段ボールがいくつか積まれたままだ。楠原の言葉に、信二は何故か「えっ!!」と驚いて足を止めた。信二のその反応に、楠原も驚いて立ち止まる。 
 
「どうかしましたか?」 
「あっ、いや……」 
「ああ、もしかして、今日はもう疲れていますか? でしたら、信二君は無理しなくていいですよ」 
 
 信二は何故か少し照れたように頬を掻いたあと再び歩き出すと、もの凄く激しく楠原の言葉に否定を返した。 
 
「いや、全っ然疲れてないっす!!! 元気いっぱいです!」 
「そ、そうですか? ……では、もう少しだけ一緒にお願いします」 
「勿論っすよ! でも、あの……」 
「……???」 
「帰ったらすぐとか、蒼先輩も結構直球っすよね。いや、嬉しいんっすけど、ちょっと驚きました」 
「……? ええ。折角の休日ですし、まだ時間もそんなに遅くないので、丁度いいでしょう?」 
「ですね! 俺から誘おうと思ってたんっすけど、先を越されちゃいました」 
 
 あの状態でそのままというわけにはいかない。信二も帰宅後に片付けを始めようと思っていたらしい。もしかして、先程の発作の件で体調を気遣い「片付けよう」と誘うのを躊躇っていたのかも知れない。 
 だとしても、何だか少し信二の様子がおかしい気もするが……。 
 
「でも蒼先輩、体調は大丈夫なんっすか?」 
「お陰様で。先程の発作も、さほど重い物ではありませんでしたし、信二君がいてくれて安心出来たせいか、今はすっかり大丈夫です」 
「そっか。それは良かったっす! よーし! そうと決まったら、早く帰りましょう!!」 
 
 信二が楠原の手をガシッと掴むと歩くスピードをあげる。 
 商店街を抜けてマンションに辿り着く頃には、かなりのスピードで歩いた物だからすっかり息が上がっていた。何故か急にテンションを上げた信二は、いつにもまして上機嫌に見える。 
 
 鍵を開けて中に入り、もう誰も来ないのでチェーンも施錠する。 
 
「お邪魔しま……、じゃなくて。――ただいま。……でしたね」 
 
 ついまだ信二の家へ来たという印象が強く、ここに自分が住むという事実に慣れない。 
 信二は思わず言い間違える楠原に振り向くと「おかえりなさい」と笑みを浮かべ、自身も「ただいま」と付け加えた。 
 
 
 
 洗面所で交互に手を洗い、着替えを済ませて部屋を出ると、丁度信二も部屋から出て来た所だった。見慣れない信二の部屋着姿。 
 スーツとも出掛けるときの私服とも違い、ラフな格好の信二は普段と少し印象が違う。水泳で鍛えたという逆三角形の体型は、当時よりは筋肉も落ちたのだろうが十分美しい身体だ。 
 楠原は一瞬見惚れていた視線を外すと、玄関の方へ視線を向けた。自分の部屋はともかく、玄関のダンボールは通るのに邪魔になるので、まずはそこから手を付けようと思ったからだ。 
 
「さて……。それじゃ、最初は玄関でいいですか?」 
「え! 玄関でやるんっすか!?」 
 
――…………やる? 
 
 信二の勘違いしていることが漸くわかり、楠原は思わず「ああ」とひとりごちた。信二の様子が途中からおかしかった原因がやっとわかったのだ。わかってしまえば、笑いを堪えるのに今度は苦労する。 
 楠原は信二の方へ寄って、わざと首筋に手を添えて囁いた。 
 
「早く……。もう、待ちきれません」 
 
 囁いた後、すぐに背を向け玄関へ向かったのは、笑いを堪えているのを信二に隠すためだ。信二は無言で後ろを付いてくると、玄関横の壁で足を止めた。その姿はまるで尻尾を振って待っている大型犬のようだ。 
 
「蒼先輩っ」 
 
 勢いよく抱き締めてくる信二の痛いほどの抱擁を受けつつ、耳元にかかる信二の息遣いがくすぐったくて肩を竦める。思わずこのまま勘違いな事を忘れてもいいかと思ってしまう。しかし、すんでの所で楠原はそれを留めた。 
 じりじりと壁に押しつけられると、足下に積まれたダンボールに膝があたる。 
 
「ダンボール」 
「え……?????」 
「邪魔でしょう? 早くやりましょう。片付けを」 
「…………カタヅケ……? …………――あ。……え?」 
 
 勘違いに気付いた信二の顔が少し赤くなる。恥ずかしそうに頭を抱え「……そっちか」とかなんとか、ごまかすようにブツブツ言っている信二の顔を見上げ、楠原はその唇へと悪戯にキスを落とした。 
 
「信二君は、本当に可愛いですね」 
 
 指先で信二の鼻をつつくと、信二は楠原のその手をふて腐れたように掴んだ。 
 
「ちっとも嬉しくないっす」 
 
 楠原を壁に押しつけながらもキスを返し、不満げな顔をする信二を見つめ、楠原はクスっと笑った。 
 
「たまには、不満そうな信二君もいいものですね。色々な信二君を見たいんですよ。いいでしょう?」 
「よくないです! ってか、蒼先輩って、ちょっとS入ってますよね。……時々意地悪だし……。酷いなぁ、もう……」 
「おや、勝手に勘違いしたのは信二君でしょう? 僕にそう言われても、困ります」 
「俺、めっちゃ恥ずかしいんっすけど」 
 
 数度の遊び半分のキスを終えた後、信二の腕から離れる。腰を屈めて一つ目のダンボールを抱えて歩き出す楠原の後ろを、信二も同じように手にダンボールを抱えたままついていった。 
 
「俺のこのやる気モード、どうしてくれるんっすか。蒼先輩のせいっすよ?」 
「やる気を出せば、片付けだって早く終わりますよ」 
「それはそうっすけど。じゃなくて! そのやる気とはまた違うでしょ!?」 
 
 文句を言いながらも、楠原が行く先に回りこんで片手でひょいとドアをあけてくれる。信二はやっぱり優しい。信二のやる気が功を成したのか、片付けは一時間ほどでほぼ終了した。 
 
「これで、最後かな?」 
「ええ」 
 
 信二はクローゼットの中に運んだ最後の一個を隅へと押し、「完璧!」と満足そうに頷いた。片付けを手伝い終えると、すぐに楠原の部屋を出てドアへともたれ掛かる。 
 
「お疲れ様でした。手伝ってくれて、有難うございます」 
「どういたしまして。さてと! 汗掻いたし、シャワー浴びちゃいますか」 
「そうですね。お先にどうぞ。僕は信二君の後でいいですから」 
「そうっすか? んじゃ、俺、浴びてきます。すぐあがるんで、用意してて下さいね」 
「はい、ごゆっくり」 
 
 信二が浴室へ向かったのを見て、自室の椅子に腰掛ける。手伝って貰ったおかげで、収納もほとんど片付いた。 
 今日からここが自分の部屋なんだなと思うと不思議な気がする。家具類は新しく買ったので見慣れないし、カーテンの先、窓から見える景色も新鮮だった。 
 
 住宅街の、静かな街並み。浴室から聞こえる信二がシャワーを浴びる音。ずっと一人で生活してきたので、こうして他の人間がたてる生活音を耳にする事も今まではなかった。 
 楠原は髪を解いて天井の明るい照明を見上げると、先程の信二を思いだして小さく笑った。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 信二の後に続いてシャワーを浴びた楠原が出てくると、信二はキッチンで煙草を吸っていた。 
 首に巻いたままのバスタオルに、まだ乾かしていない髪から雫がポタリと落ちる。 
 楠原は毛先をタオルで拭いながら信二の隣へと並んだ。 
 
 自分も一服しようとテーブルへ置きっぱなしになっていた自身の煙草に手を伸ばそうとすると、信二が自分の煙草を目の前へと一本差し出した。 
 
「俺ので良かったら」 
「じゃぁ、いただきます」 
 
 楠原が受け取って咥えた煙草に、信二が手を翳して火を点ける。 
 
「有難う」 
 礼を言って、ゆっくりと紫煙を吐き出す。 
「疲れました? 大丈夫っすか?」 
 吸いながら首に手を当ててマッサージしている楠原の顔を覗き込むと、信二は少し心配そうな顔をした。 
 
「大丈夫ですよ。信二君こそ、今日は疲れたでしょう? 大活躍でしたし」 
「俺は平気っす。体力だけは自信あるんで。今日は、時間なかったから行かなかったけど、休みの日とか、夜走ってるんっすよ」 
「そうなんですか。体力作りの為に?」 
「そんな大した理由じゃないんですけど、昔からやってる事だから、習慣みたいなもんっすね。普段あんま身体動かさないから」 
「確かに、そうですね」 
「夜走ってると、結構気持ちいいんっすよ。蒼先輩も、今度一緒に行きましょう」 
「信二君についていけるか自信がありませんが、機会があれば是非」 
「そん時は、ちゃんと蒼先輩に合わせるんで。安心して下さい」 
 
 信二がそう言って笑う。ジョギングなんてした事も無いが、信二と一緒ならそれも楽しいのかも知れない。 
 
 吸い終わった煙草を灰皿で消すと、楠原は部屋を見渡した。開けっぱなしのドアから自室が見える。 
 信二が使っている部屋は八帖で、今度楠原の部屋になった場所は十帖。 
 信二の部屋は物が多く、新たに移動するのも大変なので、物置にしていた部屋を楠原が使う事は、引っ越しをする際に二人で決めたことだ。 
 
「僕がきたせいで、信二君の生活リズムに支障がなければいいですが……。それに、部屋も狭くなってしまいましたし」 
 
 楠原が使う部屋を空けるために、色々と信二が物を処分した形になった事を知っている。住む場所がなくなった自分のせいで、信二の生活を乱した事は、やはり申し訳ないと思ってしまう。 
 
「何言ってんっすか」 
 
 信二は苦笑すると楠原を引き寄せ、その頬に軽く口付けをした。 
 
「俺が誘ったんだし、もし四畳一間でも、蒼先輩がいる方がいいに決まってるでしょ」 
 
 楠原はくすぐったそうに信二の腕から抜けると、背を向けた。こうして曖昧な態度でかわす時の楠原は、いつだって本心を見せてくれない。信二は楠原の背中に触れると、少し切なげに眉を寄せた。 
 いつか、楠原が自然に本心を見せてくれるようになるまでは、このままでいい。 
 二本目の煙草に火を点け、換気扇に二人分の煙がどんどん吸い込まれていくのをぼんやりと眺める。 
 
 喉が渇いたので冷蔵庫から飲み物を二本取り出す。一本を楠原へ渡すと、楠原は「丁度喉が渇いていたんですよ。有難うございます」とにっこり笑った。 
 信二は、楠原の方へ顔を向け優しい笑みを浮かべる。 
 
「蒼先輩」 
「はい。何でしょう?」 
「今からちょっとだけ細かい事言います。ちゃんと覚えてて下さいね」 
「……? わかりました。どうぞ」 
 
 信二は、ごくごくと喉を鳴らして飲み物を半分ほど一気に流し込み、手の甲で口を拭った。 
 
「一緒に住むのに、約束して欲しい事があります」 
 
 楠原は黙って頷いた。居候の身なので、信二がいう約束がなんであれ守るつもりである。先を促すように視線を向ければ、信二は一度咳払いをして続けた。 
 
「この前、合い鍵渡したじゃないっすか?」 
「ええ」 
「あの瞬間から、この家は俺の家じゃなくて、蒼先輩と俺の家です」 
「……、……」 
「どこの引き出しを開けてもいいし、冷蔵庫も食器も、風呂とか洗濯機も、全部好きな時に使って下さい。そういう事で、俺に遠慮とか絶対しないで欲しいっす」 
「……、遠慮はしていないつもりですが」 
「嘘でしょ。今だって、喉渇いてたら勝手に冷蔵庫から何か飲んで良かったんっすよ? でも、俺が勧めるまで我慢してましたよね?」 
「……それは、」 
 
 信二の鋭い観察力に、返す言葉を失って楠原は困ったように眉を下げた。 
 
「急に一緒に住むことになったし、まだ慣れないと思うんで、ぼちぼちで。――あと、俺は蒼先輩の部屋には、許可無く絶対入らないって約束します。あ、俺の部屋は入っていいっすけどね。寧ろ歓迎っす」 
 
 信二がそう言って悪戯っぽい笑みを浮かべた。 
 これは約束でもなんでもない。楠原が住みやすいように、信二がわざわざ言葉にして示してくれているのだ。その自然な気遣いに、胸がギュッとなる。 
 
「有難うございます。でも、僕の部屋にもどうぞ、気にせず入って下さい」 
「いや、それは、遠慮しておきます」 
「どうしてですか? 内緒で変な事はしませんけど」 
「そういう意味じゃないんっすけど……。恋人だからって、一人になりたい時とかあるでしょ? 俺、そういうの気付けないかも知れないし、疲れてる時とかもあると思うし……。蒼先輩が俺といて、少しでも窮屈だなって感じて欲しくないんっすよ。ほら、俺、うるさいってよく言われるし」 
 
 信二が自嘲して頬を掻く。 
 
「それを言うなら、信二君も同じなのでは?」 
「俺は、一人になりたい時とかないっすから。許されるなら、蒼先輩の後ろをついて回りたいぐらいです」 
「いいですよ。ついて回ってくれても」 
「また、そんな事言って。真に受けますよ? いいんっすか」 
「ええ、どうぞ」 
 
 楠原が冗談を言って、信二の左手に指を絡める。悪戯に信二の手で遊んでいると、吸い終わった煙草を消した信二に、腰をぐいと引き寄せられた。 
 
「……最後にもう一つ……。これは、ただのお願いっすけど……」 
 
 信二が楠原の肩口に甘えるように鼻をうずめる。至近距離に寄った信二から、シャンプーの香りに混じって安心する嗅ぎ慣れた匂いがする。信二の濡れた髪が、楠原の頬に冷たく触れた。 
 
「俺の事、……ずっと好きでいて下さい。あと……、俺の手の届かない場所には、行かないで」 
「――信二君……」 
 
 信二の体温を感じながら、楠原は信二の頭を優しく撫でた。ストレートな言葉で求められるお願いは甘くて。だけれど、今までしてきた自分の行動で傷つけてきた信二の心情を思い浮かべると、残ってしまった傷に胸が痛む。 
 
 一度踏み入れた、信二の言う手の届かない場所。 
 自分でも行くつもりは無いけれど、もし踏み込んでしまったら同じように元に戻れる保障はない。 
 今でもまだすぐ隣には、殺伐としたその場所がある気がする。信二もそれがわかっているからこそ、不安なのだ。すぐには消せない傷跡が、うっすらと影を落とす。だけど、その影に怯えるよりも大切なことが沢山あった。 
 
「約束します。……では、僕からも一つ、お願いをしてもいいですか?」 
「はい、なんっすか」 
「この先、僕がもし自分を見失ったら、……信二君。貴方の手で、引き戻して。お願いできますか……?」 
「蒼、先輩……」 
 
 信二が顔を上げて、楠原と視線を合わせる。こんなにはっきりと楠原に頼られていると感じたのは初めてかも知れない。付き合う前ではあるが、信二の助けは一切要らないと拒絶していた楠原から、こんな言葉が聞けるなんて思ってもいなかった。 
 信二はそっと楠原にキスをし「もちろん」と微笑む。絡ませた指先に力を入れ、その体温、感覚、全てを忘れないように心に刻む。 
 
「もっとキス……、してもいいっすか」 
 
 信二は続けて唇を重ねると、「ダメって言っても、きけないけど……」と囁きながら楠原の舌に自身の舌を絡ませた。 
 柔らかな濡れた唇が、何度も擦れ合う。音のない部屋ではそれがやけに響く。早くなる鼓動、次第に乱れていく呼吸音、鼻から抜けるキスの合間の吐息でさえ多分信二に聞こえていて。何度も名を呼ばれ、貪欲に求められる口付けに徐々に反っていく首筋。 
 
 背中に当たる硬いシンクの縁を掴み、楠原は大きく息を吸うと「待って」と信二の胸に掌をあてた。それは自分自身に向けた言葉でもある。 
 性急に火がついた身体に、気持ちが追いつかない。 
 
「……だめ、待ちません」 
 
 信二の返す言葉が、まるで自身の身体の代返のようだと楠原は思った。 
 
「今夜は、……強引ですね」 
 
 楠原が苦笑してそう言いながら、今し方信二の唇が重なった上唇の端をゆっくりと舐める。 
 
「色々な俺が見たいって言ったの、蒼先輩でしょ。……どうっすか?――強引な俺は」 
 
 楠原の首筋に何度も口付けた後、右手を絡ませたまま低い声でそう告げると、楠原の頬が僅かに紅潮したのがわかった。密に埋められた睫の隙間から、楠原が瞳を向ける。 
 
「……堪りませんね」 
 
 視線を絡めた楠原が、誘うように薄い唇を開き、信二の指を取ると咥えて歯を立てた。指先に感じる楠原の舌の動き。見つめられ、ただ指を舐められているだけなのに、腹の奥がズンと重くなる。下着の中で窮屈に張り詰めたそれが、一層硬くなった。 
 
「蒼先輩、エロすぎでしょ。指じゃなくて……、こっちで」 
 
 信二が濡れた指を抜いて、唇を寄せる。 
 チラリと覗く真っ白な歯、つるりとした表面をなぞるように舌を差し入れ絡める。口付けながら楠原の肩から着衣を脱がす。自身のタオルもとって床へと落とすと、互いの肌が触れあった。 
 熱い口付けを一度終わらせ、信二が啄むような軽いキスを一度だけ落とす。 
 
「ちょっと、待ってて下さい」 
 
 楠原に言い残し、信二が一度自室へと必要な物を取りに行く。そのたった数秒でさえ、信二が離れた事を寂しいと感じている自分がいて、楠原は自分でも驚いていた。 すぐに戻った信二が優しい笑みを浮かべ「寒くないっすか?」と訊ねる。 
 
「信二君が温かいですから」 
「蒼先輩、……」 
 
 そのままもどかしいように互いに下着までを脱ぎ去ると、洗ったばかりの身体から石鹸の香りがふわりと舞う。少し寒いぐらいの室温に下肢が晒されたが、火照った身体には寧ろ丁度良いぐらいだった。信二の熱が、体温以上の温かさを伝えてくる。 
 
 逞しい腕の中で求められる感覚が、快楽を期待して疼く身体にリンクする。 
 信二は楠原の首筋を甘噛みして、舌で辿った。 
 
「ん……っ、……」 
「痕、付けられないの……、残念っす……」 
 
 つい忘れて強く口付けそうになるが、それだけは出来ないのだ。微弱な快感をあちこちに残しながら、信二がなだらかな楠原の鎖骨に辿り着く。本当はこの白い肌に自分の痕を残したい。信二は、親指で楠原の胸へと触れると指先を動かした。 
 
「……っ、信、二君」 
「なんすか」 
 
 楠原が一度全ての髪を両手で束ね、いつも結んでいるのとは逆側にゆるりと纏めて流す。そのまま信二に背を向けた。露わになった細い首筋はいつも隠されている場所だ。まるで秘密を知った子供のように、信二の心臓がドキリとなった。シンクに視線を落としたまま楠原が口を開く。 
 
「ここへ……」 
「……え?」 
 
 楠原の長い指先が、耳の後ろの項辺りにそえられる。俯いたまま、漏れ出す吐息。 
 
「……普段は、隠れて、……見えない場所です……」 
 
 甘く誘うようなその言葉の意味を察し、信二は、そっと背中から抱き締めたまま楠原の指先の場所へ唇を寄せた。いけない事をしているような、そんな背徳感。だけれど、抗うことも出来ぬまま駆り立てられる情動に任せてその首筋を強く吸う。 
 
「ん……、ぁ……っ、」 
 
 白い肌に赤く残る口付けの痕、一カ所だけ刻むことを許された場所。 
 重ねて何度も同じ場所へと口付ければ、その度に楠原の濡れた吐息が漏れた。 
 信二は場所をずらし、その背中に浮き出る翼骨、なめらかな脇腹のラインに掌を滑らし、その全てを愛撫する。後ろから覆い被さるようにして抱き締め、耳を、濡らした舌でなぞりながら胸の突起を指の腹で擦る。 
 
「ゃ、……信、……くん」 
 
 軽く摘まめば、すぐに硬くなって楠原の身体の前で揺れる屹立がぴくりと動く。早く繋がりたくて逸る気持ちと、それを焦らして得る快感を長引かせたい気持ちがせめぎ合う。楠原の身体は敏感で、信二が指で、唇で、吐息で、触れる度に反応をみせた。 
 
「蒼先輩……、少し、足、開けますか」 
 
 僅かにずらされたつま先。信二の指が静かに下りていき、楠原の後ろでツととまる。先程持ってきたローションを指に絡め、もう一度触れると楠原の身体がビクッと震える。すぐに体温で温まり溶け出すそれは、卑猥な音を立て、信二の指ごとするすると飲みこんだ。 
 
「っ、ん、……っ、」 
 
 指を立てるように挿し入れ、肉壁を割って奥へとそのまま潜り込ませれば、反射的に抵抗する楠原の中が、信二の指をきつく締め付ける。 
 
「ぁ、ダメ、……、っ、んん」 
 
 楠原の身体が跳ねる場所を、繰り返しこする信二の指先が、動く度にクチュクチュと音を立てる。指が中で動く度に、張り詰めた先が猥らに濡れて竿を伝う。 
 
「蒼先輩、すごい色っぽい……。もっと、声、聴かせて」 
 
 甘やかな刺激と共に、信二の上がった息遣いが耳元で響き、絶え間なく楠原の鼓膜までをも優しく犯し続ける。 
 そそり立つ信二の屹立が、時々身体へ触れることさえ、堪らない快感に変化し腰が揺れた。 
 
「……信二君、……っ、ん、もう、……」 
「そうっすね、」 
 
 指がゆっくり抜かれ、空虚になった場所へ信二の先があてがわれると、迎え入れる後ろが既にひくつく。 
 
「ゆっくり、挿れますから。痛かったら言って下さい」 
「……っ、……んんッ」 
 
 シンクの縁を掴む楠原の指先に力が入る。恐ろしいほどの圧迫感に思わず息を止め眉を寄せる。楠原の身体が前へとしなり、耐えるように喉が鳴った。 
 視界の中で揺れる長い髪。自分の吐き出す乱れた息で、毛先が不規則に舞う。 
 
「っ、……っ、ぅ、」 
 
 背後から貫かれているせいか、いつもより奥へと入っている気がする。全てをおさめると、信二はゆっくりと深く息を吐き、動きを止めて楠原をいたわるようにそっと抱き締めた。 
 
「……蒼、先輩」 
「……はい、」 
「俺、今まで、100回ぐらい「好き」って言ってると思うんっすけど」 
 
 楠原が、フッと笑う。 
 
「数えて、いたんですか?」 
「いや、数えてないっす。でも、……全然足りなくて」 
「……足りない……?」 
 
 上がった息の合間に、信二が言葉を続ける。 
 
「はい……。言えば言うほど、蒼先輩の事、好きになっちゃうから……。追いつかないっす……」 
 
 信二が、楠原の腰を掴むと押しつけるようにゆっくりと動き出す。 
 余裕を見せているはずが、信二の言葉は時々驚く程簡単に心の中に入ってきて、どんな飾った口説き文句も追いつかないほど、楠原の心を鷲掴みにする。 
 
 言葉にすればするほど好きになる。信二はそう言っているけれど、自分も同じだと楠原は思った。言えば言うほど、言われれば言われるほど、深くなっていく愛情。苦しいほどの愛しさがつのる。 
 
「ん、……っ、それは、……困り、ましたね、でも……」 
「……でも?」 
「僕も、……貴方と、おなじ、っ、ですから……」 
 
 こすれる部分が熱を持ってうねり、信二が身体の中に溶け込んでくるような錯覚に陥る。狙った部分を絶え間なく刺激されれば、堪らない愉悦が零れ出した。 
 目の前が揺れる度に、膝に力が入らなくなって……。 
 
「蒼先輩っ、好きです」 
 
 一層奥へと突き抜ける熱、打ち付けるように引き寄せられれば、自身の中にある信二の大きさと焼けるような熱さに上ずった声があがった。 
 苦しさを凌駕する快楽。目尻に浮かぶ涙。信二の雄の匂いに麻痺していく脳内。混ざり合う想い。 
 
「ッ、……んッ、ぁ、ぁ、」 
 
 喘ぎながら思わずシンク脇に縋るように腕を動かすと、指先が先程二人で飲んでいた空のペットボトルへとあたった。 
 軽い音を立てて床へと落下する透明なボトル。 
 粟立つほどの快感が急激に全身を突き抜ける。 
 
「信、二……ん、……ぁ、ゃっ、……ッ、ん、ッッ」 
 
 一度床で跳ねたボトルに、一気に達した楠原の白濁がふりかかった。 
 
「蒼……っ、先輩……ッ」 
 
 信二が隙間を埋めるようにぐいと押し込み、楠原の背中を抱いたまま低く呻く。膨張した信二の屹立が脈打つのを体感しながら、楠原はフと意識が揺らぐのを感じて目を閉じた。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 明け方四時、真っ暗な部屋の中、楠原は浅くなっていた眠りから目を覚ました。互いに昨夜は疲れたので、一緒に布団に入ってすぐ眠ってしまったらしく記憶が無い。 
 ぼんやりと視界に飛び込む部屋の景色に、一瞬ここはどこだろうと考える。しかし、背中に感じる温もりに、すぐに現実を思いだした。 
 
「……、……ん」 
 
 寝返りを打って反対側へ向くと、楠原を抱くように腕を回したままの信二が、静かな寝息を立てていた。普段くるくると表情を変えるその瞳も今は閉じられていて見ることが出来ない。いつも真ん中でわけるようセットしている髪が、サラサラと無造作に枕へと散っていた。 
 
 すっと通った鼻梁、自分を「好きだ」と優しい声で告げてくれる唇。信二の顔を間近でみつめ、楠原は安心したように信二の胸に顔を寄せた。 
 
 規則的に鳴る鼓動、熱いほどの体温を感じながらその音に耳を澄ましていると、信二の腕が動いた。ギュッと押しつけるように引き寄せられ、思わず伏せていた顔をあげる。 
 鼻が触れそうなほど間近に迫った信二が、何度か瞬きをし、眠そうにうっすらと目を開ける。 
 
「……どうしたんっすか? ……眠れない?」 
 
 気怠げな声で問われ、楠原は「いえ、」とすぐに返事をする。 
 
「すみません、起こしてしまいましたね……」 
「いや、……それはいいんっすけど。怖い夢でも、見ました?」 
「そういうわけでは……」 
 
 まるで子供の様な扱いだ。勿論、信二以外からこういう扱いを受けることはまずない。でも、こういうのも何だか悪くないと思う。信二が布団から腕を出すと、楠原の額にかかる前髪をそっと払う。 
 露わになった額に一度口付けると、背中を幾度か撫でて信二は再び目を閉じた。 
 
「これで、もう大丈夫。俺特製、すぐに寝れるおまじないっす」 
「……ありがとう、よく効きそうですね……」 
 
 夜が明けるまではまだ時間がある。 
 ほんのこの前までは、夜中に一度目が覚めてしまうと薬に頼らないと眠ることが出来なかった。だけど、今夜は薬は必要なさそうだ。 
 
 信二の腕の中で目を閉じていると、再び眠気にいざなわれる。 
 こうして自然な眠りに微睡むように、自分自身もゆっくりと変化していくのだろう。 
 
――光のある、その場所へ。 
――少しずつ。 
 
 楠原は、閉じた瞼の裏に続く真っ直ぐに伸びた道に、静かに足を下ろした。 
 
 
 
 
 
 
fin