──RIFF 8 
 
 
 トミーと二人きりで飲みに行くのは初めてだ。 
 落ち込んでいる自分を励まそうとしてくれたトミーの気持ちは嬉しい。 
 それに、今夜は少し酒でも飲まないと緊張して眠れないかも知れない。 
 クリスは行き交う車のヘッドライトに目を眇めた。この辺はバーやクラブも沢山あり、どぎつい色のネオンがそこかしこで煌めいているのだ。トミーの横を歩いていると、突然背後から怒声が聞こえ、クリスは足を止めて振り返った。 
 
 停まっている一台のイエローキャブから降りてきた男が、「ぼったくりだ」と大騒ぎ中である。ちらっと確認してみると、イエローキャブによく似た車だがどうやら偽物らしい。大方乗る時にメーターが動いているか確認せずに乗り、相当な金額を支払わされたのだろう。 
 クリスは肩のギターケースを掛け直し、同情の視線を向ける。トミーも振り返って「あぁーあ」と声に出してその様子を見て笑っていた。 
 
「あの男、勉強代が相当高くついたらしい。タクシー”もどき”も悪くない商売だな。ご愁傷さん」 
「でも、ちょっと可愛そうだけどな。トミーの言い方だと、まるで悪いことをしている方が正しいみたいじゃないか」 
「そうは言ってないさ。でも、乗ったのは自分だろ? 自業自得だな」 
 
 男は走り去るタクシーに中指を立てて悪態をつき、別のタクシーを拾うために車道へ身を乗り出している。 
 トミーは、後ろ向きに歩きながら大きな声でその男に声をかけた。 
 
「おっさん、ここらは初めてか? だったら、その手に持ってる電話でイエローキャブを呼ぶんだな。それが賢いやり方だぜ」 
 
 急に声をかけられ驚いた様子の男は、それでもトミーの言うとおり携帯を操作しながら歩道へ戻ってきて、大声で礼を言った。 
 トミーは、さも愉快な物を見たと言わんばかりに笑い、再び歩き出すとクリスへ話しかけた。 
 
「な? 俺は良心のかたまりさ。見知らぬ男に「幸あれ」って願ってやるんだから」 
 
 クリスも苦笑いしてトミーへ並ぶ。 
 
「そうみたいだね。見直したよ」 
「そりゃどうも」 
 
 漸く馴染みのBARリトルハノイの看板が見えてくる。それなりに派手な看板ではあるが、他と比べるとどうにも見劣りする。その原因の一つは綴りの『H』の部分のネオン管がイカれたままだという事だ。何年も直さないので、もしかしたら、最初からそういうデザインなのかもしれないけれど。もしそうだとしたら、はっきり言って変えた方がいいと思う。 
 
 リトルハノイはニールとよく来る事もあって、もうすっかり常連である。 
 店内にはいつも80’s~90’sのロックがエンドレスでかかっており壁一面に憧れのミュージシャンのサインも飾ってある。前にニールと来た時「いつか俺らもサインを飾れるようになろうぜ」そう言って笑い合ったのをクリスは思い出していた。 
 
 扉を開けると、すでに酔っている数人が騒いでおり、今夜も賑やかそうだ。トミーとクリスはカウンターを避け、いつも座る席に腰を下ろした。 
 この席は後ろの柱との間に隙間があって、ギターケースをたてかけるのに便利なのだ。さっと呑んで済ます時はカウンター、大勢か、じっくり話すときはテーブル席とだいたい決まっている。 
 
「相変わらず騒がしいったらありゃしないな。この店は」 
 
 トミーが、耳の穴に小指をねじ込みながら眉を顰める。 
 
「そうかな? 俺は好きだよ。トミーは静かなところで呑みたいの?」 
「そういうわけじゃないけどさ。なんていうか、ムードの欠片もないっていうか。とびっきりいい女とデートの時は、遠慮したいもんだな」 
 
 トミーが言った台詞が終わらないうちに店のウェイトレスをしているケリーがメニューを持って来て、不機嫌そうに腰に手をあてた。 
 
「だったら他の店にいくことね、トミー」 
 
 トミーの顔を覗き込むケリーのポニーテールが左右に揺れる。トミーは店の文句を言った事を悪びれることもなく、長い足をテーブルの下で組んでケリーを見上げた。 
 
「よぉ、エース。ひさしぶり」 
「ちょっとトミー!? 私をその名前で呼ぶのはやめてって言ってるでしょ」 
 
 エースというのは彼女のあだ名で”気取り屋で偉そうだ”という意味だ。からかってそう呼ぶ者は結構いる。しかし、ケリーはそのあだ名を気に入っていないのだ。ケリーは一度店の入り口を確認し、すぐに視線をクリスへ向けた。 
 
「クリス、いらっしゃい。ねぇ? ニールは一緒じゃないの??」 
「今日はね、俺達だけ。残念そうだね、ケリー」 
 
 メニューを受け取りながらクリスが笑いかけると、ケリーは大袈裟に落胆した後「そんな事ないわよ」と肩を竦めた。実にわかりやすい。ケリーはニールにご執心なのだ。 
 ニールと二人で呑みに来ると必ずケリーが飛んでくるし、店にいる間は用もないのに度々テーブルにやってきては話に混ざってくる。サービスで色々出してくれるので有り難いと言えばありがたいが。 
 
「そういえば! 聞いたわよ、クリス。明日のSADのライブヘルプで出るんだって?」 
「へぇ、情報早いな。どこから聞いたのか知らないけど、そうだよ」 
「ってことは、マットの代わり?」 
「そうそ。他に誰がいんだよ」 
 
 トミーが投げやりに口を挟む。 
 
「マットのやつ、また女にでも入れ込んでるの? 最近うちの店にも顔見せないけど、アイツも懲りないわねぇ」 
「あぁ……うん。まぁ、そんなところかな」 
 
 クリスがごまかすように苦笑する。ケリーの情報網が凄いとしても、マットが薬に手をだしてクビになった事までは流石に知らないらしい。 
 
「私も見に行くから、頑張ってね、クリス」 
「ケリー来てくれるんだ。有難う。頑張るよ」 
「俺も頑張るぜ?」 
「あらそう、あんたには言ってないけどね」 
 
 ケリーはトミーに憎まれ口を返したものの、最終的には顔を見合わせて吹き出していた。リトルハノイのウェイトレスはケリーだけではないけれど、皆ロック好きで明るい子ばかりだ。 
 いつもの銘柄のビールを復唱した後、ケリーがいなくなったのを確認してからクリスが口を開く。 
 
「トミー、話の続き、聞かせてくれるんじゃないの?」 
「まぁ、そう急かすなって」 
 
 すぐに運ばれてきたビールを傾け、トミーが「明日のライブの前祝いだな」そういって笑う。瓶ごと口を付け一気に飲みほすと、トミーは口元を手で拭った。 
 バニラの香りのする煙草に火を付けて一気に吐き出す。甘い独特の匂いが辺りに漂った。 
 
「お前さ、ニールとマットが昔からの知り合いなのは知ってるよな?」 
「ああ、それは知ってるよ。ハイスクールの時からの腐れ縁だって、ニールが言ってたから」 
「あの二人さ、前はシアトルにいて、そこで一緒にバンドやってたんだ。それも知ってるか?」 
 
 クリスは何と返して良いかわからず、目の前のボストンラガーの瓶に伝う水滴を意味もなく指先で撫でた。そういえば、あのバンドはシアトル出身だったと記憶の片鱗をまたひとつ見つける。 
 
「……それで?」 
「俺もさ、最近知ったんだよな。ニール達のいたそのバンド、シアトルではかなり人気だったみたいでさ。あっちにいるダチが教えてくれたんだけど。……ニール、そのバンドではボーカルだったらしいぜ」 
「……っ、」 
 
 クリスの心臓がドクンと跳ねる。 
 ニール本人に聞く前にこんな形で本当の事を知ってしまうなんて思ってもいなかった。だけど、自分が確信したあの歌声が、ニールだった事は間違っていなかったのだ。 
 一気に全身に血が駆け巡り、急に思い出した事があった。あのバンドのボーカルの名前だ。確か、シルバー・グラントという名前だった。ニールが本名である事は免許証を見せて貰ったことがあるのでわかっている。という事はシルバー・グラントの方は芸名だったのだろう。 
 名前も変えていたなら余計に結びつかないはずだ。 
 クリスは一瞬躊躇った後、静かに口を開いた。 
 
「俺も……、知ってるよ」 
 
 そう言って、ビールを一気に流し込んだ。冷たいビールが喉を通って身体の芯を冷やす。 
 
「え? ホントかよ。ニールから聞いたのか?」 
「ううん。実は……。俺、……そのバンドのファンだったんだ。ニールにはまだ言った事ないけど」 
 
 トミーはとても驚いていて、何かを口にしようとし、すぐに「ちょっと待て」と呟き、言葉を整理するように止めた。灰皿に置いてあった短くなった煙草を思いだしたように指で摘まみ、再び咥える。 
 
「じゃぁ、あれか。解散した理由とかも知ってるのか?」 
 
 クリスは視線を落として首を振った。 
 
「当時は気になって調べたけど、……わからなかったんだ。だから、知らないよ」 
「……そっか……。まぁ……、そうだよな、うん」 
「トミーは、知ってるの?」 
 
 あくまで噂話の域を出ないことを前置きしてから、トミーが告げる。 
 
「ギターの奴が事故に遭って、その原因がニールだって話だ。その後、事故ったギターは勿論、ボーカルだったニールも脱退してバンドは空中解散したらしい」 
「……そんな。ニールが原因で解散したって事? ……信じられない」 
「いや、俺もその話を鵜呑みにしてるわけじゃないぜ? どんな理由があったとしても、ニールは人を傷つけるような男じゃない。俺だって一緒にバンドやってんだ。それはよくわかってる」 
「うん」 
「だからさ、その事故ってのも、ニールが原因って言っても、直接何かをしたって話じゃなくて、不運が重なっただけだと思ってる」 
「……、……」 
 
 聞かなければ良かった。ニールの昔のバンドの事なんて、気付かなければ良かった。 
 そうすれば、こんな気持ちにならずに今まで通りだったのに。クリスは辛そうに睫を伏せた。 
 自分のせいで解散してしまったバンド。当時のニールがリーダーだったかは知らないけれど、その責任を軽く考えるような無責任な男ではない。 
 
「だからさ、さっきニールが怒ったのは、お前の腕がどうこうって話じゃなくて。多分……俺がボーカルやれって言ったからだ。だからクリス、お前が気にする必要とかないって事。OK?」 
 
 トミーは慰めるように、テーブルに置いていたクリスの手を軽く叩いた。これを言うために、呑みに誘ってくれたのだろう。トミーは少し間を開けて、話を続けた。 
 
「俺も、ちょっと無神経な発言だったって反省してる。ニールにとっちゃ、一番触れて欲しくない部分だったんだろうな。……何があったかは知らないけど、ニールは昔の事を今も忘れてない……そういう事なんだろうよ」 
「……、……そうだな」 
 
 トミーはやりきれないとでも言いたげにもう一本煙草を取り出すと唇の端に咥えた。 
 店のBGMは今夜も脳天気にシャウトを繰り返しているけれど、一緒に盛り上がれるような気分には到底なれそうにない。 
 
「それと、今回のマットとの件があっただろ?」 
「ああ……、うん。その事は、ニールもショック受けてたよ」 
「だよなぁ……。まさかなぁ……。こんな事になるとは俺も思ってなかったんだよ。あいつ、俺たちには一切そういうの見せないけど、相当参ってるんじゃないかな」 
「……そうだな」 
「なぁ、クリス。お前、あいつを支えてやってくれよ。ほら、同じバンド内の俺達じゃさ、逆にあいつ気を遣うと思うし。その点お前は、そういうの抜きで付き合えるだろ?」 
「……トミー」 
 
 根が優しいトミーがニールを心配してこう言ってくれているのは痛いほどわかる。だけど、任せてくれとは、気休めでも口に出来なかった。クリスが自嘲するように薄く笑みを浮かべる。 
 
「俺じゃ、……無理だよ」 
「なんでだよ、お前ニールと一番仲いいんだし。親友だろ? こういう時こそ力になってやりたいとか思わないのか?」 
「思うに決まってるだろ。そう出来たら、もうとっくにしてるし。だけど……ダメなんだ」 
 
 クリスはテーブルに置いた腕で額に手を当てた。 
 色々な真実がこうして明かされたとしても、頭の中は混乱するだけで、どうしたらいいのかなんてわからない。 
 クリスの指先が小さく震えているのを見てトミーが眉を寄せる。 
 
「クリス? ……お前、ニールと何かあったのか……?」 
「俺、……ニールに言っちゃったんだ。ニールならボーカルもやれるんじゃない? って……そんな事があったなんて知らなかったから……」 
「……、そう、……なのか?」 
「最低だよな……。半分は自分の好奇心を満たすために。残りの半分は、ニールが歌うのをもう一度聴きたいって俺のただの我が儘で。ニールはさ、今日みたいに怒らなかったよ」 
「……」 
「多分それは、傷ついてたからなんだと思う……。それと、俺にはそのパーソナルスペースに立ち入って欲しくないって思ってるからだ。トミーの話を聞いてわかったよ。そんな俺が、力になれると思う? ……何も知らないフリをするので、精一杯さ」 
 
――才能は、自分がそれに気付いて活かせるかどうかだろ。 
 
 そういった時のニールが見せた寂しげな表情が頭に焼き付いている。 
 あんなに才能があった歌を捨て、ギターだけでやってきたニールの気持ちなんて考えてもいなかった。あの瞬間気付くべきだったのだ。気付きたかった……。 
 ニールが嘘をついたことに勝手にショックを受けていただけの自分に、何が出来るというのか。 
 
 クリスはもう一度「俺には、無理だよ」そういって泣きそうな顔で笑った。 
 トミーはそれ以上その話を続けなかったけれど、他に何を話したかはあまり覚えていない。ただ、飲んでいたビールがいつもよりとても苦かった。それだけだった。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 ライブ当日、機材チェックを含めた段取りを確認しているニールの姿があった。 
 会場入りしているのはまだニールだけだが、そろそろ全員集まる頃だろう。 
 バイトのローディーの一人がニールの使う何本かの調整済みギターを見て目をキラキラさせている。確か先程紹介された時、まだ新米でチケットの整理しか任せていないと言われていたはずだが、何故そんな青年がステージ上にいるのか、そう思いながら横を通り過ぎようとしたニールに突然声がかかった。 
 
「あの!!」 
「……ん?」 
「待ってたんッス! これ、触ってみてもいいッスか?」 
 
 どうやら自分の持ち場の仕事が終わって、ニールを待っていたらしい。 
 
「ああ、別に構わねぇけど。なんだ、お前もギターやってんのか?」 
「はい! まだ始めたばっかりっすけど、練習中ッス! 俺SADの大ファンなんッスよ」 
「おう、サンキュー」 
「今日新曲やるんッスよね!? すげー楽しみにしてますっ!やっぱ、カッコイイなぁ……。ギターもニールさんも最高にクールで、憧れッス!」 
「おいおい、褒め殺しか? ポケットから無限にキャンディが出てくるなんてことはねぇぞ?」 
 
 ニールが思わず苦笑する。 
 
「俺……、コードとかいっぱい覚えてめちゃくちゃ練習してるのに全然上手くならないんッスよね……。ニールさんみたいにカッコイイギタリストになりたいのに」 
「そりゃ、お前。上手くなろうって意識してるからだろ」 
「え? どういう意味ッスか?」 
「お前が、”うまいギタリスト”目指してるならそれで正解だ。だけど、目指してんのは”カッコイイギタリスト”なんだろ? だったら、技術じゃねぇ。自分の目指す音を出せるようになるのが先だ」 
「……はぁ……目指す音、ッスか……難しいッスね……」 
「そう難しく捉えるな。うまく弾けるギタリストが、イコール、カッコイイギタリストじゃねぇって事さ」 
 
 ニールは青年の胸ポケットに自分のピックを一枚入れ、片手を上げるとステージから降りた。背中にかかる青年の「有難うございます! ライブ頑張って下さい!」というテンションの高い声。 
 ニールは背を向けたまま小さく笑った。 
 
 自分も昔一度憧れていたバンドのバックステージに入ったことがあるので、気持ちはわかる。今となっては、あんな純粋に夢に向かえるというだけで羨ましい限りだ。 
 
 
 
 一通りのステージ確認を終えて控え室へ戻ると、いつのまにか全員が揃っていた。 
 
「もう、揃ってんのか。お前らも早くきたんだな」 
 
 声をかけるとニールが先に来ていることを知らなかったメンバーが一斉にニールを見る。丁度ブラスが話があると言っていたし、今なら時間があるなと思いニールが切り出そうとした瞬間、控え室の隅でトミーとクリスが何やら真顔で深刻そうな様子を見せているのに気付いた。 
 それに他のメンバーも心配そうにトミー達の様子を窺っているようだ。 
 
――何か、あったのか? 
 
 ニールはひとまず話は止めてクリス達の元へ足を向けた。