──RIFF 9
近寄ってみると、クリスは首が動かなくなったように俯いており、トミーがしきりに励ましているようだ。
「どうした? そんな葬式帰りみてぇな顔して」
ニールが腰を屈めると、トミーがニールの腕を引っ張り小声で耳打ちする。
「クリスが緊張してるみたいでさ。ちょっとやばそうなんだよ。本番大丈夫かな」
「あぁ、……なるほどな」
トミーの説明がなくても、隣にいるクリスを見れば一目瞭然だった。俯いた横顔でさえ顔面蒼白で、その様子はまるで悪霊に取り憑かれたかのようでもある。しかし、今のクリスに必要なのはエクソシストなんかじゃない。
ニールは一度トミーの方へ向き、「クリスは大丈夫だ」そう言って、安心させるように笑みを浮かべた。
そっとクリスの腕を掴んで立ち上がらせる。
「クリス、ちょっと話がある。場所を変えるぞ」
「え、……うん」
控え室にいるメンバーには「先に準備できることをしていろ」と一言告げてクリスを連れて控え室を出る。長い廊下を通ってステージ上の袖までくると、本番でクリスが立つ位置まで引っ張っていった。
「ニール?」
辿り着くまで一言も喋らないニールに、クリスが不安げに声をかけた。
ただでさえ緊張しまくっているのに、ステージにあげられた事でクリスの緊張が増長する。
ニールはそれをわかっていて連れて来たのだ。目の前に広がる自分には不釣り合いなほど広い客席、忙しなくローディーの大きな声が響き、照明のテストなのかステージ上にはスポットライトが点いたり消えたりしている。クリスはその全てを視界に入れながら、自身の腕をきつく掴んだ。こんな状態で、ギターが弾けるだろうか。
昨夜はトミーと別れて帰宅してからもずっと気が晴れず、ようやく眠りについても嫌な夢で何度も目が覚めた。
演奏中に弦が切れ、外した音を響かせてしまう自分。客席からは、こうなると思っていたとでも聞こえてきそうな冷たい視線とブーイング。起こってもいないそんな場面が何度も壊れたフィルムのように夢の中で再生された。
前にヘルプでステージに立ったときはこんな事は無かったのに、今朝から緊張しすぎて食事も喉を通らない始末だ。やはりトミーから聞いた話が堪えているのだろう。だけど、信頼して自分を頼ってくれたニールを失望させるのだけは避けたかった。
クリスはもう一度ゆっくり息を吸って「ニール、どうしてここに……」と声をかけた。
ニールはクリスの背後に回り肩にそっと手を置いた。
「クリス、お前はあと何時間かしたら、この場所でご機嫌なギターを弾いてる。今見てる目の前には大勢の客がいるはずだ。そうだよな?」
「……、……うん」
「だけどな、ライブは客とお前だけってわけじゃねぇ」
ニールはそこまで言って、「ちょっとこっちを向いてみろ」とクリスを自分の方へ向かせた。客席へ背を向ける形で、クリスの視線を真っ直ぐに捉える。
「こうやって後ろをみれば、そこにはお前を可愛がってるトミーがいる」
ニールがドラムの位置を指して言う。
「右を向けばアドリブに強くて、どんな時でも頼りになるスティーブンがいる。ブラスもお前と今日ステージに立てるのを凄く喜んでた。舞台の袖には、俺たちが気持ちよく演奏できるよう全力を尽くしてくれるローディーがスタンバイしてる。わかるか?」
「……、……」
「それに、俺はいつだって、お前の隣にいるじゃねぇか」
「……ニール……、俺、」
「緊張するなとは言わねぇよ。ただ、クリス、お前は一人ってわけじゃない。不安になったらステージ上を見渡すんだ。いいな。どうにもならなそうな時は、気付いたメンバーが必ず助けるって約束する。お前は今日、ヘルプなんかじゃない。SADCRUEの大切なメンバーの一人だ」
ゆっくり言い聞かせるように話すニールの顔を見て、クリスは漸く硬い表情をやわらげた。先程まで感じていた孤独な不安感が小さくなっていくのを感じる。ニールの言葉の力強さにはいつも助けられてばかりだ。どんな些細な事だって、ニールはこうして馬鹿にせずに、真剣に向き合ってくれる。
「……そうだな。……ごめん。こんな切羽詰まった時に時間取らせて、俺、ほんと情けないな。大丈夫だと思ったんだ。でも、いざ当日になって、こんな大きなステージで弾くんだって思ったら急に怖くなって、さっきもみんなに迷惑掛けて……」
「あいつらが「迷惑だ」って一回でもお前に言ったのか?」
「……そうじゃない、けど……」
「だろ? 迷惑だなんて、これっぽっちも思っちゃいねぇさ。誰だって最初は緊張する。みんな経験してきてんだ」
「……ニールも、そうだったの?」
「まぁ、そりゃぁな……。今はもう慣れちまったけど。一番初めにでかい箱のステージに立った時は、曲の合間にバケツの世話になったぐらいだ」
いろいろな理由の急な体調不良の為に、舞台袖には必ず吐くためのバケツが用意されている。それはバイト先の小さなライブハウスでも同じなので知っていた。しかし、ニールにもそんな経験があったなんて俄に信じがたい思いだった。
「ニールが……? 想像できないな」
「俺だって、お前と何もかわんねぇよ」
「……うん」
「ああ、クリス。今話したことは、かっこ悪ぃから、他の奴には言うんじゃねーぞ?」
ニールが眉を顰める。
「大丈夫、言わないって」
クリスが小さく笑う。いつのまにかだいぶ緊張がほぐれクリスの頬に赤みが戻る。ニールはその様子を見てクリスの背中をポンと叩いた。
「よし、んじゃ戻るか。なんか、ブラスが話があるって言ってたからな」
「そうなのか? じゃぁ、急がないと」
控え室まで戻りニールがドアノブに手を掛ける。クリスが慌てたようにニールの背中に声をかけた。
「あ、ニール、待って」
「……ん? どうした?」
「その……。有難う。すごく安心した」
ニールは一度笑みを浮かべると、そのまま控え室のドアを開いた。
途端に聞こえる女の声、声の主はだいたい想像がつく。
控え室の中には、予想通りブラスの恋人クローディアが顔を出していた。
クローディアは大人しいブラスと全く正反対の性格と容姿で、今日も男ばかりの控え室の中で眩しいほどに着飾っている。元チアリーダーをやっていたというだけあり、プロポーションの良さはモデル並みだ。
ブラスはSADCRUEに加入前からずっとクローディアと付き合っており、とても仲が良いのだ。ライブに限らず、練習の際にスタジオに迎えに来たりもするので、メンバーがクローディアと顔を合わせる回数は少なくない。今ではすっかり馴染みの顔だった。
しかし、クリスにとっては初対面である。
呆気にとられているクリスにメイク中のトミーが椅子ごと移動してきて、わざと皆に聞こえるように耳打ちする。
「クローディアはブラスのハニーさ、しかも十人目のな」
「えっ!? 十人目!?」
真に受けて驚いているクリスの様子を見てメンバーが笑う。戻ってきたクリスがいつも通りに戻っていたことにも安心したようだ。
ニールは通りすがりにトミーの頭を軽くはたいて笑った。
「適当な嘘、吹き込んでんじゃねぇよ。クリスが信じてんだろうが」
「いや、ち、違うんだ。俺は別に信じてないよ」
クリスがクローディアを見て慌てて訂正し、彼女から差し出された手をとる。握手した彼女の指先には綺麗なブルーのネイルが施されていた。
「貴方がクリス? ブラスからたまに話を聞くわ。今日は会えて嬉しい。私はクローディア、宜しくね」
「こちらこそ。宜しく、クローディア」
ニールが自分の席に腰掛け、ポケットから取り出した煙草を咥えながら、面倒くさそうにメイク道具を漁る。取り出したステージ用のファンデーションを開け、片手でブラスとクローディアを交互に指さしてハートマークを空中に描いた。
「相変わらず仲がいいなぁ、お前達の周りだけ世界が違って見えるぜ」
「ハーイ、ニール。今日はね、最後のライブだからお洒落して来ちゃった」
「最後? ん? どういう意味だ?」
ニールのメイクは適当にファンデーションを塗り、透明のリップを塗るだけだ。わずか三分で終了し、ニールはメイク道具を脇へとどけてクローディアに視線を向けた。
「あれっ、まだ言ってないの? ブラス」
クローディアが不思議そうにブラスに顔を向ける。
「クローディア、君はどうしてそうお喋りなんだ。まだ話してないよ。少し大人しくしてて」
「はーい」
困ったように眉を寄せるブラスが「ごめん、みんな」と小さく謝る。
「あー、話って例の件か? 丁度皆揃ってるし、聞こうと思ってた所だ。遅くなって悪ぃな。良かったら今聞かせてくれ」
ニールがそう言うと、膝に座らせていたクローディアを降ろし、ブラスが立ち上がった。
「話って言うか……、まずは報告になるけど。俺、こいつと結婚することにしたんだ」
メンバーがどよめく中、クローディアが嬉しそうに付け加える。
「お腹にブラスの赤ちゃんがいるのよ」
「本当か!? そりゃ、良かったな。おめでとう」
祝福の言葉を一身に受けながら、当の本人はまだ何かを続けるように一度息を吐いた。ブラスは思いきったように口を開く。
「みんな有難う。……それで、ずっと言いそびれていたんだけど、このライブを最後に、バンドからは足を洗おうと思ってる。クローディアの家が経営してる、プリスクールで働くんだ」
本当に突然の報告だが、親友のスティーブンだけは最初から知っていたようで何度も頷いては少し寂しそうな表情を浮かべていた。プリスクールは義務教育のキンダーガーデンにあがるまでの子供達が通う学校だ。
本来なら、突然バンドを辞めると言われたら誰か一人ぐらいは文句を言う奴が出て来てもおかしくない。しかし、メンバー全員が戸惑いつつも、それを受け入れようとしているのがわかった。
それはひとえにブラスが今まで真面目にやってきたという事実があるからだ。
練習だって一度も休んだことはないブラスは、ある意味バンド内で一番真剣に音楽に取り組んでいた。
そんなブラスがバンドを辞める決断をするまでには相当悩んだ事は容易に想像がつく。
「本当に、突然ですまない……。俺も、中々決断できなくて、こんな時期になってしまって。ライブはもう難しいけど、声をかけてくれれば手伝えることなら何でもするから遠慮なく言って欲しい」
ブラスが申し訳ないともう一度頭を下げる。ニールは二人に歩み寄ると、ブラスの肩にふれ、頭を上げさせた。
「お前の決めた人生に、文句言う奴はここにはいねぇはずだ。おめでとう。幸せになれよ」
「……ニール、……本当に有難う。SADCRUEで皆と一緒にやれたことは忘れないよ」
「ライブ前に話してくれて良かったぜ。全員で盛り上げて送り出してやれんだろ?」
ニールがそう言ってメンバーへ振り向くと、皆が口々に「そうだな」やら「勿論」やら呟く。
そうなると気にかかるのがスティーブンだ。ブラスと行動を共にする事が多い彼がこのことを受けてどうするのか。少し心配になり、ニールがちらっと視線を送ると、スティーブンはその意味に気付いたらしく、塗っていた途中のマスカラから手を離した。
「ああ、俺は残るよ。あいにく結婚の予定もないんでね」
「勿論それは大歓迎だ。これからも頼んだぜ」
スティーブンは普段とてもクールだが、友情には熱い男だ。親友と別の道を歩くことになった寂しさ。しかし、今ここでそれを見せるのはナンセンスだと判断しているのだろう。普段通りの態度がそれを物語っていた。
マットに続きブラスも脱退となると、一度このライブが終わったらバンドのこの先を立ち止まって考える必要がある。
メンバーの脱退は何度経験しても慣れはしないが、それが本人の幸せに繋がるなら喜ぶべき事だ。
トミーはライブ前の空気が変わらぬよう、いつもの軽口を叩いた。
「めでたいついでに、聞いてもいいか? お腹の子が女の子か男の子か、どっちなんだ? 今後の参考にしたいから詳しく教えてくれ」
「なんの参考だよ。いつのまに、結婚前提の交際を始めたんだ?」
ニールが苦笑する。
「少ししたら、絶世の美女と出会う予定があってね。その後、コウノトリに希望を聞かれるかもしれないだろ?」
控え室に「気が早すぎる」と笑いが起こった。クローディアは幸せそうな笑みを浮かべそっとお腹に手を当てる。
「まだわからないの。どちらでもいいんだけど、男の子の方がいいのかもしれない。だってブラスったら、もう名前を決めてるのよ」
ブラスがクローディアのお喋り好きに呆れたように肩を竦める。話を聞くと、その決めている名前というのがブラスが憧れているロックスターの名前であり、その名前はどう考えても女の子には不似合いだからだ。
「そりゃいいな。でもさ、ライブでずっと立ってて大丈夫なのか? 何かあったらやばいだろう」
トミーがクローディアのお腹を指して心配そうに言う。確かに、ライブ中は結構激しい動きをするファンもいる。しかし、クローディアは「どうして?」とでも言うように肩を竦めた。
「あら、大丈夫よ。前列には行かないし。それにね、胎教にもクラシックじゃなくてメタルを聴かせてるの」
「それはクールだ。産まれてくる時、メロイックサインでもしながら出てくるんじゃないか? なんせ、ブラスの子供だもんな」
トミーのジョークを受けてブラスも笑う。
バンド内の関係性。常に一緒に音楽をやっているからと言って、メンバー同士が仲が良いとは限らない。こと、ロックバンドなんて半数以上が練習以外では連絡も取らないようなビジネスライクの付き合いをしている場合が多いのだ。
ニールは控え室のメンバーを眺めて、フと息を吐いた。
自分は、恵まれている。今までのバンドも、だいたいが今と同じような感じだった。同じ音楽を目指す仲間であり、良き好敵手でもある。そんな関係が築けていることが幸せだと思う。
すっかり緊張が解けたクリスも話の輪に交ざっていて、クローディアにメイクを教わって少し恥ずかしそうにしていた。ずっとこのままでいられれば……。それを望んでいるのが自分だけではないと、そう思えた。
鏡の前でヘアスタイルを整えていると、控え室のドアが大きな音を立てて開く。
顔を出したのはこのライブハウスでローディーを纏めている責任者だ。恰幅のいい男で、誰よりも声がでかい。トミーが陰で”スピーカー”と渾名を付けるほどには。
「お前達、準備できてんだろーな! そろそろ本番始まるぞ、RIPの方も、もうステージにむかってる」
サムズアップと共に開始を知らせに来たのだ。RIPは今日の対バンの名前であり、彼らの持ち時間は二十分。もうあまり時間が無い。ニール達はそれぞれが準備を済ませ腰を上げた。
「よし、じゃぁ、俺らも行くとしようぜ」
「ああ」
トミーはどこを直したのかわからないが「今日のヒゲは完璧だ。どうだ、俺に惚れてもいいんだぜ」とクリスに自慢している。いつもより派手にアクセサリーを付けているスティーブン、ブラスはクローディアの頬に軽い口付けをして離れた。
静かに閉まる控え室のドアが、ガチャリと退路を断つ。
廊下に響く硬質な五人の足音。
これがSADCRUEとしての最後のステージになるかも知れない。そう思えば、メンバー全員の足音がやけに大きく聞こえた。