──RIFF 11
――十分前
噎せ返るようなライブハウスの熱気。客席のボルテージは最高潮に達していた。
今夜のステージの出来に満足しつつ、ラストの曲に向かう。ニールの表情にしては珍しい、安堵のような色が浮かんでいた。
曲の最後、一音ずつ変えて三回同じコードが繰り返される。音が完全に途切れた後、ブラスのMCが入った。
「みんな有難う。それじゃ、……最後の曲。”Truth”」
MCに続けてイントロの部分を奏でながら、ゆっくりとニールは客席を見渡した。ライブハウスの入り口、右脇にある酒をふるまうドリンクカウンター付近は、客が頻繁に出入りする。手にした酒を友人と酌み交わし、ライブを観る。平和な光景だ。
だからこそ、その中に見慣れた背中を見つけた時は、自分の目を疑った。
――……!?
ニールの表情が一瞬にして曇る。
気付かなかっただけで最初から客席の何処かにいたのか。それとも、丁度今来たばかりなのだろうか。そこにいたのはマットだったのだ。
あの日スタジオを出て行って以来、一度も連絡をしていない。薄暗い客席にいるマットの表情までは見えないが、ニールは気付かないフリをして咄嗟に視線を逸らした。
驚きと同時に「何故」という疑問が何度も脳内を駆け巡る。SADCURUEのライブが今夜ある事は勿論知っているだろう。だけど、そのライブを観に来る理由がわからない。
しかし、気まずさより先に、マットが元気でいた事にホッとしている自分に気付いていた。我ながら馬鹿げていると思う。彼をこのバンドから追い出したのは自分だというのに……。
マットの存在を否定し、引き留めることもしなかったくせに、その結果を消化し切れていない自分にうんざりする。まだ完全にマットを切り捨てていない証拠を見せ付けられたようで、ニールは人知れず小さく溜め息をついた。
リーダーとしての行動に後悔はない。一週間前まで時間が巻き戻っても、きっと同じ結果を出すと言い切れるだろう。
しかし、リーダーという立場を捨てた、ただの自分がこの結果を望んでいたとは言い切れなかった。
なるべくマットの方へ視線を向けないように、ギターの音だけに集中する。
自分だけではない。メンバーも、マットの存在に気付けば少なからず動揺すると思ったからだ。慣れたフレーズを弾きながらいつも通りに曲が進んでいく。
しかし、もう少しでラストのサビ部分にさしかかろうとしていた時、ニールは一瞥して目を瞠った。
それは、予想もしていなかった、あまりにも衝撃的な光景で……。
射貫かれたように動かせない視線の先、マットが腰を屈めて誰かと話している。
マットの隣にいる人物は、見間違うはずがない。前のバンドを解散してから何度も連絡をした。しかし、一度も返信がなかったアンディだったのだ。髪はもう以前のように伸ばしておらず、雰囲気も随分違う。
歳はニールより上だが、それにしてもかなり老けているようにみえた。
「……っ」
鈍く反射する足代わりのスチール。アンディは車椅子だった。
技巧派を十分名乗れるほどの聞き惚れるギターの腕前は今でも度々思い出す。彼の世界から音を奪ったのは自分だ。音だけではない。彼の夢も、生活も……。
その真実だけは変えられない。
動かない右手を膝に載せたままこちらを見ているアンディの視線に捕らわれ、徐々に身体が動かなくなる。夢の中で溺れていく時のようだった。
肺の中に直接水を流し込まれたように、うまく息も吸えない。
これは現実なのか? 何度も自分の中で問う。
――本当ならば、俺もお前と同じようにステージに立てていたはずだ。
――お前のせいで、俺の夢は奪われた。それなのに、お前はのうのうと今もステージに立っている。
――思い知れ。俺の苦しみを……。
幻聴である事はわかっているが、アンディの声で台詞が覆い被さってくる。
「……やめ、ろ……。やめてくれ……」
ニールは譫言のように呟き、あまりの息苦しさに喘いで喉元に手をやった。
責められて当然とわかっている。受け止めるべきである事もわかっている。だけど、改めてこうして目の当たりにしてしまえば、真実の大きさに押し潰されそうだった。
何年経っても、消すことの出来ない記憶。
アンディの視線は、ニールの指先に向いていた。ニールのギターが奏でる音の一つ一つを確認するかのごとく視線で追われる。
ブラスの声もメンバーが奏でる音も、そして観客の声もいつのまにか何も聞こえなくなっていた。
――今、俺はどこを弾いている……?
ブラスが今夜で脱退という大切なラストライブだというのに、絡みつくような視線に指が上手く動かせない。
You want to teach me, right?
The truth, to me
You want to know, right?
My truth
What do you want to do?
Just tell me even if it’s a lie
(教えたいんだろう?
俺に真実を
知りたいんだろう?
俺の真実を
どうしたいんだ?
嘘でもいいから、俺に教えてくれ)
六本の弦が指の腹に当たる感触も、ピッキングをする右手も、まるで記憶を無くしたかのように、どうしたらいいのか迷い続けている。
ステージ上に立っているはずの自分は、気付くとあの事故の日のステージに立っていた。今までも何度も何度も繰り返し思い出していた凄惨な事故のステージに。
そこには、自分を慕ってくれるクリスも、軽口を叩くトミーもいない。
どこまでも続く気が狂いそうな闇、迫ってくる濃厚な血の匂い。浮かび上がる黄色いギター。
そこにいるのは自分とアンディだけだった。
「……ッ、」
閉まる喉に、ニールは苦しげに眉を寄せて俯く。
ニールの髪は、現実を隠すようにバサリと前へ垂れた。
* * *
事故のあった日。天候は最悪だった。
垂れ下がった空はすっかり太陽を隠し、今すぐに雨が降ってきてもおかしくないほどに。
しかし、ライブハウスに向かう車内では、陽気なハードロックが車体を揺らす勢いでかかっていた。信号で停車する度、大音量の音漏れに、隣の車線に並んだ車からクラクションを鳴らされる。
「マット、ちょっとボリューム下げろ。話も聞こえやしねぇ」
ハンドルを片手で握りながらニールが助手席のマットをミラー越しに睨む。
「どうしてだよ。ライブ前はテンションあげていかないとじゃん?窓を閉めれば全て解決するし」
「だから、エアコンが壊れてるって言ってんだろ。わかんねぇ奴だな。干からびてぇのかよ。それに、お前はもう今MAXなんだから、それ以上テンションあげる必要ねぇよ」
ニールがわざとらしく溜め息をつき、やれやれと窓枠に載せた腕で頬杖をつく。
「アンディ頼む。コイツどうにかしてくれ。俺にはお手上げだ」
後部座席に座るアンディに助けを求めるニールに、アンディは後ろから顔を出した。笑いを堪えながらマットとニールの方を交互に見る。
「どっちがいいか少し考えてもいいか?」
「どういう意味だ」
「ニール、今俺たちは二つの選択を迫られているんだ。ボリュームを下げてマットのテンションが下がった場合の今の俺たちへのメリットと、このままライブハウスまでボリュームを下げずに行き、マットのテンションが高いまま本番に突っ込むメリット。どっちが大きいかってね」
ニールが呆れたようにハンドルから手を離し肩を竦めた。
「そりゃ難しい問題だな。腹が減ったときにピザを食うか、ハンバーガーを食うか、それぐらい難しい。OK。だったら俺が結果を教えてやる」
次に停車したと同時に、ニールの長い腕がマットの目の前にあるステレオのボリュームをミュート側に勢いよく倒した。一気に静まった車内にマットの文句とアンディの笑い声が響く。
笑いながらアンディが口を開く。
「この結果は、結局どっちなんだ? ピザか? ハンバーガーか?」
「どっちでもねぇよ。その日の気分次第だ」
あと少しでライブハウスには到着する。静かになった車内では後ろに積んである機材がガチャガチャと音を立てるのが聞こえた。ライブに早入りする際はいつもニールが二人を乗せてライブハウスに向かう。毎度くだらない事で言い合う車内は、曇天など吹き飛ばす勢いの笑い声が響いていた。
いつもより楽しげなのには理由があった。
一つは、今夜のワンマンライブのチケットが飛ぶように売れ、数時間で完売したから。
しかし、最大の理由はもう一つあった。
それは、丁度一週間前にスティールレコードから連絡があったからだ。
スティールレコードは多くのロックバンドを輩出しているレーベルで、どうやら前回のライブをスカウトが見に来ていて目に留めてくれたらしい。
メジャーデビューだけを目指していたわけではないが、バンドをやっていて、憧れのスティールレコードからアルバムが出せるチャンスを喜ばない者はいないだろう。外部の人間にはまだ知らせていないが、関係者の一部やメンバーは既に知っている。
ライブハウスに到着してからも、どことなくいつもと雰囲気が違うのはそのせいだ。僅かな緊張感を全員から感じ取ることが出来た。
機材を全て降ろした後、ローディーに車のキーを預けてニール達は一度ステージへ向かった。道が空いていたせいで予定より随分早く到着してしまい、まだ控え室の準備も出来ていなかったからだ。
ステージの袖にある階段に腰掛け休んでいると、マットが顔の前で手をすりあわせ弾んだ声を上げた。
「俺らもついに!! ツアーとか行っちゃうんじゃねーの。どうするよ。まだ夢を見てる見たいだぜ」
マットはスティールレコードの件を一番喜んでいて、先程から終始落ち着かず、早速アンディに呆れられていた。
「マット、落ち着けって。今日のライブで「やっぱり、話はなしだ」ってなるかもしれないんだぞ? 喜ぶのはまだ早いって」
「んな事いってもさ……。あー、やっぱ無理。なぁ、ニール。お前はどうなんだよ」
突然振られたニールは、咥えた煙草に火を点けながら肩まで伸びた髪を無造作にかき上げた。
「俺? いや、俺も嬉しいけどよ。アンディの言うとおり、ぬか喜びはしたくねぇからな。決まってから喜ぶことにするわ」
「なんだよ、相変わらずクールぶりやがって」
マットがふざけてニールをからかう。
「別にクールぶってるわけじゃねぇよ。お前は浮かれすぎだ。ダッセェ奴」
ニールははしゃぐマットの方へ顎を向けて馬鹿にするように笑った。
「俺はダサくてもいいんだよ。嬉しいときは嬉しいんだ。仕方ねぇだろ?」
「勝手にしろ。それで本番ミスっても、俺は知らねぇぞ」
「マットはこういう時、子供みたいだな。ファンから”sugar”って呼ばれる意味がよくわかるよ」
アンディが苦笑する。
マットは昔からこういう性格だった。よく言えば感情表現がストレートなのだ。思った事はすぐ口にする。
しかし、後先考えずに行動するせいで、結果的に周囲に迷惑を掛けることも多い。大人になった今は少しはマシになったが、慣れた相手には相変わらずだ。
それでも案外真面目にギターの腕は磨いていて、センスも悪くない。アンディに教わるようになってから、その腕はみるみるうちに上達した。
マットとの付き合いは長い。
学生の時に組んでいたコピーバンド時代には、まさか今に至るまでずっと一緒にバンドを続けているなんて思ってもいなかった。
ニールは腰を上げると一段飛ばしで階段を上り、ステージの中央へ足を向けた。
そんなに大きなライブハウスではないが、シアトルではある程度人気を博したバンドでなければ出演できない場所だ。
シルバー・グラントを名乗り、ここまで辿り着く前に、相当な数のライブをやってきた。
このバンドを組んで初めてのライブはどこかのパーティーの前座だった。
大凡ロックと無関係のパーティーで、自分達は激しく浮いていた。客も「なんでこんな奴らがいるんだ?」と思っただろうが、それはこちらも同じだ。「なんで俺たちがここでライブするんだよ」と全くテンションの上がらないまま三曲ほど演奏したのだ。
その時ちゃんと聴いてくれていたのは多分二人ぐらいだったと思う。
ライブ前、こんな所でやりたくないと腐るマットをメンバー全員で宥めるのに大変だったのも、今は笑い話である。
それが、今はこうして名の知れたライブハウスでワンマンでライブが出来るまでになった。自分達でバンを借りて何回かに分けて運んでいた機材や楽器も、ローディー達が今はやってくれる。
高い天井に組み上がっている鉄骨剥き出しの照明装置。
今は暗い鉄の塊だが、本番になればその中央からは眩しいほどのライトが自分達を照らすのだ。
見上げながらニールはマットと過ごした学生時代を思い出していた。吐き出す紫煙の中に、古い記憶を浮かび上がらせれば、それはまだ色褪せていなかった。