──RIFF 12 
 
 
 
 まだ十代だった頃、初めてのギターをマットと二人で買いに行った時の事だ。 
 
 バイトで貯めた金の全てをつぎ込んで互いに憧れのギターを買い、マットの家のガレージで試しに弾いてみることになった。 
 ギターケースから取り出した真新しいギターは、今までのどんな物より輝いて見え、ガレージの汚れた床に置くのを躊躇った程だ。 
 憧れのロックスターがよくギターに名前を付けているのに倣い、マットと二人でそのギターに早速名前を付けた。 
 
 慎重に膝に載せ、滑らかなボディに指を這わせる。 
 しかし、いざ試しに弾こうとして、肝心なことを忘れているのに気付いたのだ。 
 
「あのさ、ニール。アンプとシールド、俺ら買ってないよな」 
「あ……」 
 
 アコースティックギターならそれでも一応は弾けるが、エレキギターはアンプを通さないとほとんどギターらしい音は出せない。練習スタジオではいつもレンタルしているし、ニールの家に行けば父親が持っているアンプやシールドがあったが、取りに行くには時間がかかる。 
 
 そして今から買いに行くには、決定的な問題があった。ニールがポケットから財布を取り出して中を覗く。その後がっくりと肩を落とした。 
 
「……俺、こいつに全財産使っちまったぜ。アンプも、ちゃんとしたの欲しいけどよ、今はもう金がねぇ」 
 
 同じようにポケットに手を入れたマットは財布すらなく、掌に載せた小銭は缶ジュースを一本買ったらなくなるような残金だった。 
 
「俺もだよ。……来月までバイト増やして買うしかないよな」 
「そうだな……。いや、……、俺、来月も買えねぇわ。彼女の誕生日があんだよ。欲しいもん買ってやるって言っちまったし……」 
「うわ、お前それはちゃんと買わないと後が怖いぞ。ただでさえ、去年のプロムクイーンを独り占めして周りの野郎に羨ましがられてるんだからさ。気抜いて他の男にでも取られてみろ。絶対後悔するぜ」 
「そんときゃ仕方ねぇだろ。他の男についていった時点で、俺の事が好きじゃねぇんだから終わりだろうが」 
「いや、だから! 終わらせたら勿体ないって意味で言ってんだよ。ニールは恋愛に対して必死さが足りないんだよな」 
「勿体ないとか意味がわかんねぇ。お互い好きだから今は一緒に居る、それだけだろ。必死になる必要がどこにあんだよ」 
「あー、そうかよ。モテル男は言うことが違うな」 
「わかったわかった。つっかかって来んな。だから、プレゼントは買うって言ってんだろ。お前と同じ失敗はしねぇよ」 
 
 ニールがニヤリと口元を歪める。 
 
「おい、ニール。それを言われると嫌な事思い出すじゃん。今はもう許して貰ったんだから蒸し返すなよ」 
 
 マットが彼女の誕生日をすっかり忘れ、スタジオに怒った彼女が乗り込んできたのはほんの数週間前だ。 
 強引にスタジオから引き摺られていったマットの姿を見て、当時のメンバー全員で女の恐ろしさを知った。 
 真新しいギターを抱えたまま二人で「あぁーあ」と肩を落とし、自分達には背伸びしすぎた買い物に苦笑した。 
 数万程度の初心者用ギターであったならば、大抵の場合はセットでミニアンプやシールドが付属していたはずで、こんな事態にはならなかっただろう。 
 それでも、このギターを買ったことには後悔していなかった。 
 
「アンプねぇけど……。とりあえず弾いてみるか」 
「うん、そうだな」 
 
 どうしてもやっぱり弾きたくて。アンプを通さないまま何曲か好きなバンドのコピーを弾いた。音はいまいちよくわからなかったが、それでも楽しかったし、興奮した。 
 弾きながら歌うニールにマットが感心したように頷く。 
 
「ニールは、マジ歌うまいよな。さすがボーカルなだけはある。それだけはお前を尊敬するわ」 
「はぁ? 急に何だよ。気持ち悪ぃな。……まぁ……、でも、thank you」 
 
 当時は、マットとコピーバンドを組んでいて、ニールはギター兼ボーカルをやっていたのだ。自分のギターはトップ材にフレームメイプルを使用したgibsonのレスポール。マットのギターはFenderのアッシュ材を使用したテレキャスターだった。 
 かなり年季が入っているが今も勿論大切に使っている。 
 
 
 
 
 そんな昔のことを思い出しつつ、マットも変わらないなと思えばおかしくて、ニールは一人思い出し笑いをした。 
 アンディと他のメンバーは、今のバンドのメンバー募集で出会った。 
 歳はいくつか上だったが穏やかな性格のアンディとはすぐに親しくなり、いつのまにかマットとアンディ、自分の三人でいる時間が増えた。 
 
 アンディはメンバー募集の際に自分で作ったオリジナル曲を持ち込んでいて、その曲が最高に格好よかったのだ。その曲をアレンジして歌詞を付けたのが一枚目のアルバムだ。インディーズレーベルから出した記念すべき一枚である。 
  
 アンディの尊敬するギタリストは早弾きで有名な大御所で、そのギタリストに自分のギターを聴いて貰うのが夢なのだと酒を飲むとよく語っていた。努力家の彼は、身体の一部がギターと繋がっているのではないかと思うほどいつも自分のギターを肌身離さず持っていて、個性を出す弾き方やエフェクターの効果的な使い方、癖の強かったニールのギターの音を活かしつつ、もっと理想に近づけるようにと色々と教えてくれた。 
 見よう見まねの独学で弾いてきたニールが、初めてちゃんとギターを教わった相手だった。 
 
 
 シアトルは当時ちょっとしたバンドブームだったせいもあり、中規模ライブハウスのトリを務めるようになるまで、そう時間はかからなかった。しかし、人気を確実な物にしたのは二枚目のアルバムを出してからだ。 
 
 二枚目は、ラジオのDJもしているプロデューサーで、インディーズの発掘をしている人物の目にとまり、紹介して貰ったレーベルから出すことが出来たからである。 
 彼のラジオでも度々紹介されるようになり、益々人気には火が点いた。先程マットには「浮かれすぎだ」と言った物の、自分も、最近の順調さに、このままロックスターになれるのではないかとどこかで思っていたのかも知れない。 
 
 
 
 ニールは吸っていた煙草を近くの灰皿まで捨てに行き、手持ち無沙汰にステージ上を歩いていた。 
 大がかりなステージセットを組むスタッフ達を何気なく目で追う。 
 自分達でする事は少ないので今はやることが無い。全体を流す軽めのリハーサルが終わった後、僅かな緊張をほぐすためにもメンバー全員でステージセットの仕上げを手伝うことになった。 
 集合したメンバー全員にスタッフが説明をする。 
 プロでもないアマチュアバンドが、こうしてスタッフを手伝うのは珍しいことでもない。 
 
「ニール、こっちも頼む」 
「今行く」 
 
 殊更背の高いニールは、こういう時に何かと便利で高い場所の幕を張ったりとあちこちから声がかかっていた。 
 
「悪いな、本番前に」 
「別に構わねぇよ。まだまだ時間あるし」 
「じゃぁ、早速だけど右上のライト、この前から首が馬鹿になってるみたいなんだ。多分締め付けのネジが緩んでいる所為だと思うから、上って締め直してきてくれないか?」 
「右上って言うと、あの四角いやつか?」 
 
 ニールが幾つかあるライトを指して確認する。ステージの両端にあるそのライトは他の物より設置場所が高く、奥まっている。確かに少々やっかいそうだ。 
 
「そうそう。もし締め直しても固定が難しかったら、危ないから取り外しちゃって教えて欲しい」 
「了解」 
 
 工具を渡され、組み上がった鉄骨の真下に脚立を立てる。年季の入った脚立は、ニールの体重が乗るとギシギシと嫌な音を立てた。 
 その時だった。 
 別のローディーが息を切らしてニールを呼びに来たのだ。 
 
「ニール! 大変だ。すぐ来てくれ」 
 
 上り掛けていた脚立から下り、何事かと急いでそのローディーの後をついていく。搬入はとっくに終わっているはずなのに、一便遅れていた物があったようで、それらをステージに運んでいる最中のようだ。 
 
 人だかりが出来ている輪をかき分けて中心に向かうと、そこには無残な姿になっている自分のギターがあった。 
 若手のローディーが青ざめた様子でギターを手にして固まっている。 
 
「すみません!!! これ……俺の不注意で……」 
 
 他にもギターは持ってきているが、よりによって壊れたギターはあの日マットと買いに行って初めて手にしたギターだった。弦だけでぶら下がっている状態の惨めなその姿に一瞬にして頭が真っ白になった。 
 
「ちょっと、見せてくれ……」 
 
 ローディーからギターを受け取り確認してみると、ネックが中央で真っ二つに折れていた。 
 買ってから一度自分の手に合わせネックリシェイプに出して改造してあるので普通の場合より折れやすくなっている。だからこそ、今までも気をつけて扱ってきたのだ。 
 よく確認してみると折れたネックをくっつければ使える等の甘い壊れ方ではなく、ネックの下の部分にも大きなヒビが入っておりボディも傷だらけだった。 
 
 これではどうしようもない。ライブにハプニングはつきもので、今までだって色々な事を経験してきたが今回はその中でも最悪の部類だ。 
 言葉を失ったニールがギターを手にしたまま立ち竦む。 
 
「…………」 
「本当に……すみません。すぐに新しいギターを用意しま、」 
「ダメだ……それじゃ、ダメだ……」 
 
 ニールは言葉を被せて首を振った。今日初めて触るような真新しいギターなんて、自分の音が出せるわけがない。だけどそれを今言ったところで、何も変わらない事もわかっていた。 
 ニールはぐっと言葉を飲みこんで呟いた。 
 
「こうなっちまったもんは仕方ねぇ。他にも何本か持ってきてるから、今日はそれを使う」 
「……わかりました。すぐに調整を始めておきます」 
 
 大事なギターを壊された事による行き場のない怒り。目の前の青ざめた彼だって、意図的にしたわけではないのは十分わかる。繰り返し謝罪する彼に自身の怒りを向ける気にはなれなかった。 
 しかし、こんな大事なライブの日にどうしてというのが正直な気持ちだった……。 
 今となっては特別に高級なギターというわけでもない。しかし、ニールにとっては意味のあるギターなのだ。壊れたギターを持ったまま控え室へと向かう足取りは重い。 
 
 メンバーは皆出払っていて、控え室には自分一人だった。 
 
――……くそっ! 
 
 もう音を奏でることが出来ないギターを持ったまま、側にあったロッカーに拳を叩き付ける。大きな振動に、中に入っていた何かが落下する派手な音が響いた。 
 気持ちを早く切り替えられるように何本か煙草を吸っていると、ステージの手伝いを追えたメンバー全員が揃って控え室へ戻ってきた。 
 事情は周りから聞いたのだろう。 
 横に置いてあった壊れたギターに皆から同情の声がかかる。 
 
「このギター……」 
 
 すぐにその事に気付いたマットがしゃがんでネックを弄る。 
 
「ライブが終わったら、修理に出せよ。ちゃんと直るって。今日は……残念だけど。これ、……ニール大切にしてたのにな……」 
「……他にも持ってきてるから、問題ねぇよ。大丈夫だ」 
 
 精一杯の嘘を表情を変えずに言う。大切なライブの本番前に動揺している姿を見せたくなかった。 
 アンディが「ライブの後、腕のいいクラフトマンを知ってるから紹介するよ。きっと元通りになる」と気遣ってニールの肩に手を置いた。 
 ニールはライブ二時間前から、いつもならば喫煙をしない。 
 もう一時間後には本番だというのに灰皿に残る数本の吸い殻を見て、マットは辛そうに顔を歪め口を噤んだ。 
 
 
 客を入れる前、ステージの仕上がり確認のためにメンバー全員で一度ステージへ向かった。それぞれが立ち位置に着き、軽く一曲演奏する最終リハーサルだ。 
 客席の中央にいるスタッフが合図を入れ、一曲目の演奏が始まる。 
 アンプ、モニター、マイク、照明、エフェクター、ステージ上の特殊効果、一通り本番と同じように進む。 
 曲の途中で、ニールのモニターに不快な雑音が混じった。 
 
――……ん? 
 
 歌詞を軽く口ずさみながらニールは周囲に視線を向ける。ニールのモニターはドラムとアンディのリードギターの音がメインに設定してある。雑音はどちらのモニターから聞こえたのかはわからなかった。他のメンバーには聞こえていないようで、そのまま演奏が続く。 
 二回目の雑音で、ニールはマイクの音源を切ると曲を止めるように手を上げて合図した。 
 
「ストップ。どこからかノイズが入ってるぞ」 
「ノイズ? 聞こえたか?」 
 
 アンディが不思議そうにニールへと目を向ける。 
 
「ああ、二回聞こえた。どっちのモニターか、それとも他からなのかわからねぇが」 
 
 メンバーがバラバラと演奏を止め、自分の周囲を確認する。暫くスタッフも交えてチェックしてみたが配線にも問題が無く原因がわからなかった。最終的には、ニールは耳が良いので拾えただけなのだろうという事で落着した。 
 しかし、間を置かずして静かになったステージに、今度は誰もが気付くような金属の軋む音が連続で響いたのだ。 
 
「今、凄い音がしたな。上か?」 
 
 アンディが自分の真上を見上げる。と同時に丁度頭上にあったスポットライトがガタッと傾いた。 
 今にも落下してきそうなその角度にメンバーが「危ない!」と声をあげる。 
 しかし、鉄の塊の落下スピードは予想以上に速かった。一本のネジが変化した角度によってはじき出されて鉄骨に当たりながら落ち、続くようにして本体も落下してくる。 
 
「アンディッ!!!」 
 
 ニールが突き飛ばす勢いで腕を伸ばす。アンディは咄嗟に目を瞑ってギターを庇うように手を被せた。しかしニールの伸ばした腕より先に、落下したスポットライトはアンディの腕に直撃していた。 
 埋め込まれていたレンズが砕け散り、跳ね返って激しい音を立てる。 
 
 騒然となるステージ上でアンディの呻くような絶叫が木霊した。ギターを放ってニールはアンディの身体を抱き起こして声を張り上げた。 
 
「誰か!! 救急車だ!! 早くしろっ!!!」 
 
 スタッフが慌てて何人か駆け出し、集まったメンバーがその惨状に思わず口元に手をやる。 
 
「アンディ、しっかりしろっ!!! アンディ!!」 
 
 腕を押さえて呻くアンディの手首は、ぐにゃりとあらぬ方向へ曲がっており、自慢のギターは鋭利に抉られていた。それだけではない、垂直に加速した鉄のスポットライトは、灯体のレンズこそ重さで砕け散っていたが鋭利なその羽がアンディの腰を切り裂いて足の付け根に刺さったままだった。 
 
 噴水のように吹き上げる血が、あっという間にアンディの身体とステージを赤く染めていく。 
 ニールの目の前で、アンディの血の海へ沈没していくスポットライト。 
 
――もし締め直しても固定が難しかったら、危ないから取り外しちゃって教えて欲しい 
 
 ニールがスタッフに頼まれて調整するはずだった物だ。 
 自分のギターの件で動揺し、頼まれていたことを忘れていた自分の過失だ。 
 あの時、取り外していれば……。アンディは……。その事に気付いた瞬間、震えが止まらなくなった。腕の中で、ぐんとアンディの重みが増す。 
 
 すぐに救急車は到着し、アンディは意識を失ったまま運ばれていった。ライブは当然中止になり、早めに到着し集まりかけていた客への説明で周辺は騒然とした。 
 返り血で真っ赤に染まった身体、ニールの髪の毛からアンディの血が滴り、毛先でぷっくりと溜まっては床へと落ちる。ニールはその場から動けずにいた。マットやメンバーが心配げに何度も声をかける。 
 どこか遠くにその声を聞きながら、自分だけ別の時空にいるような錯覚に陥っていた。 
 
「ニール、とりあえず控え室に戻ろう。お前血塗れだぞ」 
「……俺のせいだ……、……」 
「何言ってんだよ。これは事故だろ! なんでニールのせいなんだよ」 
 
 今すぐ本当の事を話さなければいけないと思うのに、説明をする気力がもうどこにも残っていなかった。ニールは落ちていたレンズの砕けた欠片を握り込む。掌に刺さるそれが皮膚に食い込んで血が流れても痛みを感じなかった。 
 
 遠ざかるサイレンの音。 
 どす黒い血だまりに置き去りにされた、アンディ愛用の黄色いギター。 
 メンバーが気遣うようにかけてくる声。 
 濃厚な鉄の匂い。 
 畳みかけるように溢れてくる五感全ての情報が覚めない悪夢を送り込んでくる。 
 
「……アンディ」 
 
 ニールは自分の犯した過ちに震え、奥歯を噛みしめた。