──RIFF 13 
 
 
 
 命は取り留めた物の、事故があった日から三日間アンディの意識は戻らなかった。自分がもし彼の立場だったなら、そのまま目が覚めない方が幸せだったのではと思うほどの現実。 
 回復を待って告げられたのは、二度と自分の足で歩くことが出来なくなった事と、右手に麻痺が残りギターが弾けなくなった事。 
 
 アンディは毎日訪れるメンバー全員の面会を断り、誰とも会おうとしなかった。それが怒りによる物なのか、今の姿を見られたくないからなのか、メンバーを見ると事故の事を思い出してしまうからなのか、本当のところは誰もわからない。 
 
 それでもニールは毎日病室を訪ね、ドア越しに声を掛け続けた。返ってこない返事を暫く待ち、諦めて帰るという事の繰り返し。 
 そんなある日、いつも通りに病室へ行くと閉めきられていたドアが開いていたのだ。 
 
――……!! 
 
 やっと顔を見られると思い急いで病室内へ足を踏み入れると、綺麗にベッドメイキングされたベッドにはもう誰もいなかった。換気のために開け放たれた窓。そこから入りこむ風に、カーテンが曲線を描くように揺れているだけだ。 
 
「……アンディ」 
 
 思わず口にした言葉が、真っ白な病室に吸い込まれる。 
 一時留守にしているわけではない証拠に、病室に私物は一切無く。廊下に出てみるとドアにあった患者名も消されていた。 
 ニールはアンディの名前があった場所に指を触れると、深い溜め息をついて視線を落とした。 
 
 廊下を通り過ぎる看護師にアンディのことを尋ねると、看護師は少し思い出すように首を傾げた後ニールに告げる。 
 
「この病室に居た患者さんなら、確か……昨日、ご家族の方が迎えにいらして、リハビリ専門の病院へ転院されたと思いますけど」 
「……リハビリの。じゃぁ、その病院の場所とかは……」 
「申し訳ありません。そういう事はお答えできませんので」 
「……そうですか。わかりました。有難うございます」 
 
 空っぽになった病室の前で、ニールは呆然と立ち尽くしていた。 
 ライブハウスでの事故は自分の所為だとメンバーやスタッフに説明はした。会うことが出来なかったアンディにも、その件では何度もメールを送ったので知っているとは思う。 
 許してくれと言うつもりは無い。 
 だけど、メールなんかではなく一度ちゃんと会って謝りたかったのだ。アンディの個人的な連絡先は知っていても、本人が拒絶している限り繋がらない。実家の連絡先は誰も知らなかった。 
 
 謝罪する機会すら失ってしまったことの無念さは、今のニールには相当堪えた。 
 ほんのこの前までは、くだらない事で共に笑い合い、そんな時間が終わるなんて考えてもいなかったのに。不幸はいつも突然やってきて、日常を一瞬にして壊していく。そんな当たり前の事を忘れていた日々が、どれだけ幸せだったのかを痛いほどに実感する。 
 ニールはもう用のなくなった病院を後にした。 
 
 サングラスを掛け、深く被ったキャップに顔を隠すようにして人混みに紛れる。沈み掛けている夕陽が、辺りも、店も、ニールの姿も全てを均一に染め上げた。 
  
 
 事故の顛末は、古い機材を使い続けていたライブハウス側に責任があるという事になり、ライブハウスはほとぼりが冷めるまで改装を兼ねて閉鎖する事になったらしい。 
 真相は世間に知らされることもなく、誰も口にすることがなくなった。 
 通りを歩きながら、ニールはやけに軽い肩に虚しさを感じていた。普段ならば、大抵はギターケースを背負って移動していることが多いからだ。 
 何も背負わない背中に、今はギターケースよりずっと重い悔恨の念だけが残っていた。 
 
 よく通っていたCDショップの前で一度足を止める。 
 店内には、バンドマンらしき男達が数人視聴機の前で何やら笑い合っていた。新譜が出ると、バンド練習の帰りにメンバーと立ち寄って、同じ事を自分達もしていた。少し前の自分達を見ているようだ。そう思いつつ、再び歩き出す。 
 
 アパートメントの階段を上り、自宅のドアを開ける。薄暗い部屋の隅には、壊れたままのレスポールがあの日のまま静かにそこにあった。 
 
 
 
 
 
 次の週も、ニール達は今まで通り練習スタジオに集まっていた。 
 メジャーデビューの話が白紙に戻ったと聞かされた頃から、嫌な噂を何度か耳にするようになったとメンバーが話す。 
 真相を知らないファンの憶測が、あたかも真実であるように広まっていて、メンバー全員が事故で死んだという説が流れていたのだ。 
 中には悲劇のバンドだの呪われたバンドだのと噂され、ローカルのゴシップ誌の記者が取り上げたこともあった。 
 
 しかし、バンドはまだ、事実上は正式に解散していなかった。 
 アンディがあんな形で脱退した後もメンバーの誰もが解散しようと口にしなかったからだ。あまりに急な出来事の連続で思考が追いついていなかったせいもある。 
 以前と変わらず、こうして決めた曜日にバンド練習のためにスタジオに集まる事で、何も変わらない日常をかろうじて繋ぎ止めたかったのかも知れない。 
 
 いつもの曲を弾く。いつもの曲を歌う。誰一人として集中出来ず、魂の抜けたような音しか出せないまま、アンディが作った曲を演奏する。 
 あてもなく、何の意味もない。きついくらいに効かせた空調が喉も空気も乾かし続ける。ただ時間が過ぎるのを待つだけの時間。 
 
 メンバー全員が同じ事を感じていた。少しずつずれて狂っていっているのは”音”だけではない、と。 
 
 
 ある日の練習で、全く声が出なくなった。 
 別に体調が悪かったわけではない。本当にただ、歌が歌えなくなった、それだけだ。 
 マイクに向かうと喉が締まったようになって声が出せない。 
 ニールは軽く咳き込みながら、一人小さく笑い、スタンドに挿してあるマイクを握ったまま目を閉じた。 
 メンバーには悪いが、その時酷くホッとしている自分がいた。 
 
 アンディの夢を奪った自分が……。自分だけが変わらず夢を追い続けることへの、罪悪感があったからだ。許されないことを続けているのだと、常にその思いに苛まれ続けていた。 
 
――これで、自分も終わったのだと。 
 
 ニールはそのままマイクのスイッチをそっとOffにして、自分のギターケースを担いだ。振り返らぬままスタジオのドアをゆっくりと開く。 
 
「悪い……。ちょっと、煙草買ってくるわ……」 
 
 誰も何も言わなかった。 
 二度とニールが戻らないことに気付いていても。 
 まるでシナリオ通りに進む映画の、エンディングを見ているかのようだった。 
 歌が歌えないボーカルの意味など、道端に転がっている石ほどの価値もない。ニールはその日を最後に、バンドに戻ることは無かった。 
 
 どのみちもう再起は不可能な状態だったのだ。 
 数日後マットが脱退した時には、ドラムのメンバーはもう抜けており、ベースも暫くバンドは組まないと言っていたらしい。 
 
 足場の崩れた瓦礫の上で藻掻いても、誰も上に登ることなんて出来やしない。 
 照りつける太陽が眩しい夏の終わり、空中分解したバンドは遺灰のようにサラサラと散って、跡形もなく世間からその姿を消した。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 それから数ヶ月の間、バイトだけで食いつなぎ、あんなに嫌っていた父親と同じようにニールは酒浸りの日々を送っていた。 
 昼過ぎに漸く起きた所に、アパートのインターフォンが鳴る。のぞき窓から相手を確認することもない。来ているのはマットだとわかっているからだ。 
 ニールはガンガンと痛む頭に眉を顰め玄関を開く。 
 
「またお前か……。今日は何のようだ……」 
「酒くさっ。また呑んでるのかよ」 
「……俺の勝手だろ」 
「なぁ、ニール。そんな事よりこれ見てくれよ」 
 
 勝手にあがってくるマットがニールの目の前にローカルの音楽雑誌を広げてみせる。大手のレコードショップが出している地域限定の音楽情報誌だが、最後のページにはバンドメンバーの募集コーナーがあるのだ。 
 
「ここ! ギターとボーカル募集してる。連絡とってみよう」 
 
 ニールがボサボサの髪の毛をかき混ぜながら腰を下ろす。部屋は換気もしていないので酒の匂いと煙草の匂いで淀んでいる。足下に散らばっていたビールの空き缶が倒れた拍子に、少し残っていた中身が床に零れた。 
 ニールはそれを邪魔そうに足で脇に寄せると、咥えた煙草に火を点け、ライターを適当に放った。 
 
「……何度も言わせんな。もうバンドはやらねぇよ」 
「なんでだよ」 
 
 不満そうなマットの言葉に苛々する。ただの八つ当たりもいいところだが、未だに無邪気にバンドを組もうと前向きな姿勢を見せるマットが信じられなかった。 
 
「何でもクソもあるか……。歌も歌えねぇのに、バンドに入って何すんだよ。ダンスでも踊れって言うのか? 冗談じゃねぇ」 
 
 こうして週に一回は必ずバンドを組もうと持ちかけてくるマットに心底うんざりしていた。断り続けているというのにそれでも諦めない理由がわからない。 
 ニールは吸い終わった煙草を吸い殻で山になった灰皿の隅で押し潰す。隣にある吸い殻に火が移ってフィルターが焦げる匂いがする。長い間細い煙が立ち上っていた。 
 
「マット、お前さ、どういうつもりだ……。別に俺と一緒にやらなくたって、お前一人で新しいバンド組めばいいじゃねぇか。頼むから、もう放っておいてくれ」 
 
 立ち上がってキッチンへ行き、ニールは冷蔵庫から新しいビールを取り出すと缶ごと口を付けた。 
 キッチンのシンクには洗っていない食器が山積みになっている。フとその中のシルバーの大きなスプーンに写り込む自分が見えた。 
 無精髭もそのままで、目の下の隈は酷い状態だ。手入れせずに伸ばし続けている髪は、いつのまにか鎖骨の辺りまで伸びている。十歳ぐらい一気に老けた気がした。 
 
――……。 
 
 水道を思い切り出すと、食器の上でバランスを崩したスプーンが水を散らしてシンクの底へ転がった。 
 
「……ニールだって、本当はまたバンドやりたいと思ってるはずだ。俺はわかるよ。だって、今までだって、ずっと音楽でやってきたじゃん」 
「今度は、占い師気取りか? だけど、素質はねぇみたいだな」 
 
 マットがそっと雑誌を閉じる。 
 ニールの部屋には、あの日壊れたギターが埃を被ったまま置いてある。折れたネックは今のニールそのものだった。何もかもがあの時から壊れたままだ。マットが寂しそうに呟く。 
 
「しつこく誘ってるのは、ちゃんと理由があるよ。俺、お前の歌が好きだった。俺は音痴だからさ、ガキの頃からニールの歌に憧れてたんだぜ? なんでそんなに才能があるのに、簡単に捨てられるんだよ。ギターだってこんなに上手いのに、どうして」 
「……才能なんか、最初からねぇよ……。……そんなもの、どこにあったっていうんだ……」 
 
 マットが黙ったまま腰を上げる。諦めた様子で玄関まで戻り、去り際に悔しげに言葉を残す。 
 
「俺は……、お前と一緒にもう一回バンドをやりたかった。でももう、誘わねぇよ。邪魔してごめん……。元気でな、ニール」 
 
 静かに閉まっていくドア越しにマットの背中が見える。 
 今日はこんなにいい天気だったのか。日中の天気ですら気に掛けることのない毎日。差し込む太陽の光が、酒で麻痺した脳内を刺激する。酷くなった頭痛をごまかすように、ニールは二本目の缶ビールを一気に呷った。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 マットはそれ以来連絡をしてこなくなり、いつしか季節が変わっていた。 
 ニールはバイト先の楽器屋の裏でギターを解体していた。中古で売られてきた物の中でも直しようがないギターを解体してパーツを取るのだ。 
 ぱっと見はまだ使えそうなギターもあったが、裏を返すと穴が空いていたりでやはり使えそうに無い物がほとんどだ。 
 
 解体をしながら、自分の部屋にある折れたギターを思い出す。 
 あんなにずっと大事にしていたのに、マットと一緒に買いにいった際につけた名前すら、もう記憶がおぼろげだ。直さないまま置いておいても意味が無いので何度も捨てようと思った。だけど、どうしても出来なかった。 
 ニールはかじかんだ手に息を吹きかけて一度揉むと、山積みの解体待ちギターの中から一本を取り出す。 
 
 弦は一本切れているが、他は残っている。ざっと確認しても大きな損傷は無い。膝の上で抱えてコードを鳴らしてみると、悪くない音がした。 
 
――なんだ……。結構いい音するじゃねぇか。 
 
 解体前に手にできたことが何となく嬉しくて、ニールは薄く笑みを浮かべた。 
 ボディは傷だらけで一部が欠けているし、塗装も剥がれかかっている。指板の反りもみられ人間で言うと満身創痍といった体だ。 
 それでも、こうして音が鳴るのだ。 
 自分はまだ音を鳴らせるのだと、そう主張してくるように、ニールが軽くメロディをかき鳴らすとギターは必死で音を届けてきた。縋るようなその音がいつまでも耳に残る。 
 
 歌を歌う気はもうない。だけど、ギターならまだ弾ける。アンディの夢を代わりに叶えるなんて奢ったことを思っているわけじゃない。しかし、久々に曲を弾きたくなったのだ。 
 少しの間手を休め、そのギターを手にして何曲か弾いてみる。張り詰めた弦にあたる指先の感覚が、やけに懐かしくて堪らなかった。 
 
「なんだ、ニール。ギターうまいんだな。今はバンドをやってないって言ってたけど……。もしかして、前はギタリストだったのかい?」 
 
 店の奥から音を聞きつけて顔を出した店長が、感心したようにニールの側で立ち止まった。ニールは咄嗟に弦をミュートした。 
 
「そういうわけじゃねぇけど……。昔、少し習ったことがあったんだ」 
「へぇ、そうか。少し、ね……。まぁ、詳細は聞かないよ。「聞くな」って顔に書いてあるからな」 
 
 そういって笑う店長に返す言葉もなく、ニールは苦笑した。確かに、少し習った程度の弾き方ではない事は、経験者ならすぐにわかってしまうだろう。 
 
「今日は適当なところできりあげて帰って良いぞ。今夜は寒くなるってよ。風邪引くなよ」 
 
 野外での解体は確かに寒い。店長が去ったあと、ニールは今弾いていたギターを積んでいた山へと戻した。言われてみれば、吹きつける風はいつもよりひんやりしている。 
 
 バンドを離れていた間、何をしていても、バンドをやってきた今までの想い出を忘れる日はなかった。物心ついてから、こんなに長く音楽と離れたのは初めてだった。心から楽しいと思うことも興奮するような音楽との出会いもない日々。 
 ただ酒を呑んでいるときだけは現実から解放された気がしていて、いつしかアルコールに依存するようになっていた。 
 
 最初は、現実逃避のために酒を呑んでいただけだった。 
 そのうち素面に戻った瞬間の自分と向き合いたくなくて酒を切らさないようになる。元々酒に強かったせいで、酔うまでに必要な酒の量は日に日に増えていった。 
 ブラックアウトしたまま玄関で酔い潰れていたり、生活の全てが面倒になり酒を呑むことだけに意味を見いだす日々。 
 例えれば、次の到達地点に酒が置いてあるとする。その褒美の酒を手に入れるためだけに、必死で全ての行動をこなしていたようなものだ。 
 人生においての逆説的なそれに疑問すら感じていなかった。 
 酒を切らすと全てのことに苛立ちを感じ、冷静な自分が冷ややかな目で自分を見下ろしているような錯覚に陥った。 
 
 自分が、アルコール依存症で死んだ父親と同じ事をしていると自覚した時、人生で初めて父親に同情した。 
 彼にも何か理由があったのだろう。ギリギリの場所に居る事を思い知った自分と、同じ場所に立っていたはずだ。 
 同情と共に感謝もした。あんなクソみたいな人生を辿りたくないと強く思わせてくれたからだ。マットがまた一緒にバンドを組もうと何度も誘ってくれていたことの有り難みが、その時、初めてわかったのだ。人間は多分、何かに縋らないと生きていけない。それが自分には音楽だった。 
 
 それからは、アルコール依存症から社会復帰するためのグループカウンセリングに通うようになり、そこで知り合ったのが今の楽器屋の店長だった。丁度バイトが一人辞めて人手が足りないと聞いて手伝うようになり、そのまま今も働かせて貰っている。ちゃんと朝に起きて毎日ここでギターを解体する。 
 
 最初のうちは離脱症状も強く、素面で居る事の恐怖感から再び酒に手を出すことも何度かあった。しかし、依存症になってからの治療が早かったおかげで、順調に回復に向かっていた。最近は、自分でコントロール出来るようになっている。 
 
 回復していくと同時に、放棄していた色々な事を考えるようにもなった。 
 その中のひとつがマットとの事だ。 
 今はどうしているのかわからないが、近いうちに連絡を取ろうと思っていた。最後まで、才能を捨てるなと言い続けてくれた。歌を歌わなくても、もう一度バンドを組んでやり直したい。そう思えるようになったのはマットの言葉があったからだ。 
 ニールは、腰を上げると空を仰いだ。 
 
 すでに暗くなっており、ビルの表の通りには外灯が灯っている。見上げた空は、どこか懐かしい色をしている。通りの喧噪が耳に優しく届いた。