──RIFF 15 
 
 
 
 観光客があまり使用しないそのホテルは、ホテルと言うよりモーテルに近い。築年数が経っていそうな、パブリックスペース込みのフロント建物。細長い駐車場を囲むように部屋が並んでおり、カウンターなどは通さずロビーを跨げば自由に外出が出来るようだ。 
 
 そういえば、何度か車で通ったことがあるなと思いつつ、全体を見渡してみる。こうして中へ入ったのは勿論初めてだった。同じようなドアが規則正しく並ぶ中、アンディがルームナンバーを確認する。 
 
「ああ、あったあった。ここだ」 
 
 南端の部屋の前で車椅子を止め、左手でカードキーを取り出しドアに通す。グリーンに点滅したドアがガチャッと開く音がした。 
 ニールは開いたドアが閉まらぬよう支えたまま、アンディに先に入るように促す。アンディは「有難う」と言って車椅子をギリギリのラインで滑り込ませ、部屋の中へそのまま入った。 
 
 室内は結構広かった。ベッドが二つあるところを見るとツインルームなのだろう。しかし使われているベッドは一つで、残りは綺麗に整えられたままだった。ここへはどうやら一人で泊まっているらしい。 
 備え付けの簡易キッチンの冷蔵庫からビールを二本取り出すと、アンディはニールの元へとそれを持ってきた。 
 
「これしかないみたいだな。何か、フロントに頼んで持ってきて貰うか?」 
「いや、俺はこれでいい」 
「そうか? じゃぁ、飲み物はこれでいいとして。でも、よく考えたら食う物もないな……」 
 
 アンディが、古く黄変したラミネートで覆われたメニューを片手に戻ってくる。MENUと書いてあるが、ピザは近所の宅配だし、フィッシュ&チップスはよくスーパーで目にする冷凍食品のパッケージのまんまである。手抜きもいいところだが、何故かマカロニチーズは三種類もあった。値段も全て同じだ。 
 
「これ、どう違うんだ?」 
 
 アンディが、その三種類を指して苦笑する。確かに意味がわからない。 
 
「お袋の味と、彼女の味、あとは自分で作った場合、そんな所じゃねぇか? どっちにしろ、きっと材料は同じだ。俺は別に、酒だけでいいけど」 
「その三種類だと期待以上の物は出てこなそうだな。じゃぁ、酒だけにするか」 
「ああ」 
「どこか、適当に腰掛けててくれ」 
 
 アンディがメニューを元の場所へと置きに行く。 
 アンディは本当に器用で、全てのことを左手だけで難なくこなす。手を貸すタイミングもわからないほどだ。受け取ったビールのプルタブを開けて一口口に含んだ後、ニールは側にあったベッドへと腰掛けた。少し深く沈み過ぎる気もするが、座り心地は悪くない。 
 ニールは部屋を見渡しながら訊ねた。 
 
「マットと一緒なのかと思ってた。ライブの時、二人でいただろ?」 
「ああ、マットは先に帰ったよ」 
 
少し離れた場所からアンディが返事をする。 
 部屋の壁には、かなり年季の入った映画のポスターが飾られている。確かジェームス・ディーンの遺作になった映画だ。内容は覚えていないが、子供の頃に深夜テレビでやっていたのを観たことがある。 
 戻ってきたアンディが車椅子からベッドへ座り直し、自分のビールを開けた。 
 
「なんでも、今夜は自宅でパーティーだとか言ってたな。俺は最後までライブを観たいから、残るって言ったんだ。俺の方から、ライブが終わったら楽屋に行くはずだったんだけど、……驚かせて悪かったな。まだアンコールの途中だったのに、引っ張り出すはめになって……」 
「……いや、大丈夫だ。メンバーにも、ちゃんと話はしてあるから」 
「そうか……すまん」 
 
 マットの言うパーティというのは、きっといつものアレで、相変わらずそこは変化なしかとニールは軽く溜め息をつき、アンディに向き直った。 
 
「アンディ、その……身体の調子は、どうなんだ?」 
「見てわかるだろう? すこぶる元気だよ。久し振りにライブハウスなんて行ったから、今は少し興奮しているぐらいだ。こういう雰囲気は懐かしいよな」 
 
 アンディの口調は前と変わらず、今までの会話からしても責めるような雰囲気は全く感じられない。後ろめたさから、自分でも気付かぬうちにどこか構えてしまっているのを感じ、ニールは一度深く息を吸った。身体から、僅かに緊張が抜ける。ニールは言葉を選び安心したように呟いた。 
 
「元気なんだったら、……良かった」 
 
 車椅子の相手に向かって『元気』だと言い切って良い物かどうか迷ったが、他の言葉が見つからない。 
 あの日以来話していないアンディとこうして二人きりになっても、いざ話そうとすると、どこから話していいのかもわからない。前は、何を話すかなんていちいち考えることもなかったのに。 
 それだけの長い年月が、自分達の間に流れてしまったのだと実感する。 
 
 ニールは喫煙が可能かを訊ねた後、手持ち無沙汰なのを紛らわすように煙草を取り出して火を点けた。それをみていたアンディが小さく笑って煙草を指す。 
 
「変わってないな、ニールは。そうやって、咥えた煙草を一度噛んで潰す癖。昔からやってたよな。楽屋の灰皿でも、ニールの吸い殻は一目でわかった」 
 
 アンディの懐かしむような言葉。 
 
「ああ……そうかもな、もう癖になっちまってる」 
 
 ニールは苦笑して指に挟んだ煙草を見る。確かに昔から口に咥える部分を潰す癖がある。ゆっくりと紫煙を吐き、ニールが思い切ったように話を切り出した。 
 
「アンディ」 
「ニール」 
 
 同時に話を切り出そうとして、互いに言葉を止める。 
 
「あー……。先に、話していいぜ」 
「そ、そうか? じゃぁ、俺から話すかな。って、改まるとなんだか変な感じだな」 
 
 アンディは笑ってビールに口を付けると、うまそうに半分ほどを飲み干して缶を膝の上へと置いた。こうして互いに座っていれば、アンディが車椅子である事も忘れてしまいそうになる。 
 ライブハウスのステージで見つけた時はかなり老けたように見えたが、実際話してみるとアンディは昔とそんなに変わっていなかった。 
 長かった金髪が今は短く整えられ、前は掛けていなかった眼鏡を掛けている。違いはそれぐらいだ。 
 
 時間が少しずつ巻き戻っていくような感覚がすると共に、アンディが何を話すのかを考える。どんな内容でも、たとえそれが過去の事に言及する話であっても、受け入れるつもりでここへ来た。しかし、アンディから告げられたのは耳を疑うような言葉だった。 
 
「色々話したいことはあるけど、まずは、ニール……。本当に、すまなかった……」 
 
 予想もしない謝罪に驚いて、ニールは咥えていた煙草を落としそうになった。謝らなければいけないのは自分で、その為に来たというのに。アンディの言葉の意味を理解できず、ニールは困ったような表情を浮かべて頭を下げるアンディの謝罪を慌てて止めた。 
 
「待ってくれ。どうして、アンディが謝るんだ? 謝らなければなんねぇのは、俺の方だろ」 
「そんな事はない。お前には、もう何度も謝ってもらってるし」 
「なんのことだ。……メールの話をしてるのか? 直接はまだ、一度も……」 
「ああ、そうだ。でも、それだけじゃない。ニールが何度も送ってくれたメールも、俺の病室に毎日来てくれていたことも、全部だ。だからこそ、今日は謝りたいんだ」 
 
 アンディはそう言うと、もう一度ビールで喉を湿らせた。少し言いづらそうに切り出したのはあの日の事故の話だ。互いに一番口にしたくない話題で、だけれど、一番ちゃんと話さねばならない話題でもある。 
 
「……あの事故の後、さすがに俺もショックでさ」 
「…………ああ」 
 
 この件を先にアンディから切り出すのは相当に辛いはずだ。今でも事細かに記憶に刻まれているあの事故のシーンが脳内ではっきりと蘇る。それはアンディだって同じ筈だ。 
 しかし、アンディは穏やかな表情で、通り過ぎた過去をしっかり受け止めているように見えた。 
 
「自分でも、現実を受け入れるのに時間がかかったんだ。みんなが病室へ見舞いへ来てくれても、とてもじゃないが話せる状態じゃ無かった。誰にも会いたくなかったんだ。俺もまだ、若かったからな……」 
 
 そんな自分を恥じていると、アンディはそう言わんばかりの顔をしている。 
 
「……アンディ」 
「でも今、俺は、その事にもの凄く後悔してる。もう少し自分以外の事に目を向けられる余裕が、あの時にあったらって……」 
「……後悔?」 
「ああ、そうだ。あの時、ちゃんとニールや、他のメンバーとも会って話すべきだったってさ。なんでそうしなかったんだろうな……」 
「それは……、あんな事があったんだ。誰だってそうなるだろ。仕方がない事だ」 
 
 アンディはニールの言葉を否定するように首を振った。 
 
「ニール、それは違う。仕方がないなんて事はないのさ。あの時俺は”そうしよう”って自分で選択したんだからな。今夜のライブを観て、俺は自分のした過ちの大きさを実感した」 
 
 まっすぐに昔と変わらぬ視線を向けられれば、どう返して良いのかわからなくなる。 
 部屋の外では宿泊客が丁度戻ってきたようで車から降りて大声で騒いでおり、静かな室内にその声が響いていた。この部屋の中では、互いの話す声しか聞こえない。時々飲みこむ唾の音さえ聞こえてきそうだ。 
 
 アンディが悔しげに表情を歪めてから、一度堪えるように下唇を噛んで言葉を止めた。「悪い」と一言だけ取り繕うように口にすると、漸く続きを口にした。 
 
「ニール、ギター随分上達したんだな。ライブを見せて貰って正直驚いたよ。こんなにもうまくなるもんなんだなって。凄く、かっこよかった。最高のステージだった」 
「…………有難う」 
「だいぶ、練習したんじゃないか?」 
「あれから、何年経ってると思ってんだ。そりゃ、少しぐらいは上達しねぇとおかしいだろ」 
「まぁ、それもそうだな。でも……、ニール、ひとつ聞いて良いか?」 
「ああ、なんだ?」 
「……どうして、……歌をやめたんだ」 
 
 アンディの言葉に時が止まる。心臓が冷たい爪で引っ掻かれたようにズキリとした。 
 
「それは……」 
「俺の所為……、なんだろう?」 
 
 アンディが真っ直ぐに見つめてくる視線に、全てを見透かされているような気分になった。アンディの所為ではない。自分が、自分の罪の重さに耐えられなかっただけだ。贖罪の念、そんな綺麗事にも及ばない感情。 
 ボーカルであった自分を、シルバー・グラントの名前ごと過去に置き去ることでしか、前に進めなかったからだ。 
 
「そうじゃねぇよ。俺にはギターが向いてるってわかったからだ。アンディ達と組んでいたバンドを抜けてからは、ずっとギターでやってる。別に、アンディの所為じゃない。自分でそうしたかっただけだ」 
「ニール、それは……本当か? 違うだろ?」 
「……嘘だって言いたいのか」 
「そうじゃない。……けど」 
 
 アンディが切なげに眉を寄せる。「一本貰ってもいいか?」と聞かれ、煙草を渡すとアンディは黙って火を点けてゆっくりと吐き出した。アンディは、それ以上追求はしてこなかった。 
 
「半月前ぐらいだったかな、用があってこの近くに来ることがあったんだ。ニール達がLAにいるなんて知らなかったからな。街でマットに会ったときは凄く驚いたよ。時間もあったから、マットと二人で少し話して、その時に、ライブがあるから一度見に来れないかって誘われたんだ。ニールにも会わせたいからって」 
「それで、今夜二人で観に来てたのか。全然知らなかった。今はあいつとも色々あって、ここ最近はあまり連絡とってねぇんだ……」 
「そうみたいだな。誘った本人が、まさかステージにいないとは思っていなかったけど。その件についてはマット本人からちゃんと聞いた」 
 
 アンディが苦笑する。それは誘ったのが脱退前で、その後にクスリの事があったからだ。 
 
「悪ぃ……。ちょっとゴタゴタしてて」 
「まぁ、バンドをやってれば色々ある。で、そのライブに誘われた時に、初めてニールがボーカルをやっていないって知ったんだ。あの事故以来ニールは歌うのを辞めた、マットがそう言ってたぞ」 
「……」 
「……どうして歌を捨てたんだ。あの事故のことがきっかけなんだったら、あれは誰の所為でもない。もし、罪滅ぼしのために歌を捨てたとか、そんな理由なら俺は、」 
 
 アンディの言葉に被せて、ニールが「違う、何言ってんだよアンディ……」と否定する。 
 
「あれは、紛れもなく俺が起こした事故だ。あの時、俺が言われたことを済ませていたら起きなかった。そうだろ? 俺は、アンディの全てを壊した。謝って済まされるような事じゃねぇんだよ……」 
 
 つい感情的に吐き捨てるニールに、アンディは辛そうに顔を歪めた。 
 
「俺はさ……、お前にそう思わせている事を、謝りたいんだよ」 
 
 アンディは吸い終わった煙草を空いた缶の中へ落とすと、それを脇へと置いた。膝の上で組み替えられる指先がニールの視線の端に写り込む。 
 
「確かに、ニールの言うとおり、あの日の事故は別の行動によって起きなかったかも知れない。でもそれも、100%じゃないだろう? 頼んできたスタッフ自身が、ニールに頼むことを忘れていても結局同じ事故が起きた」 
「…………」 
「それに、俺たちがライブをやる日の前にも、別のバンドがライブをしていたはずだ。その時は、同じ状態で放置されていたんだぞ。ライブの日程が一日でも前後していたら、事故に遭うのは俺じゃなく、別のバンドの誰かだったはずだ。そう考えると誰がどうしたって話じゃなくて、全ての不運が、あの瞬間たまたま重なっただけだってわかるだろう?」 
「それは、そうかもしれねぇけど……。でも、現実にあの事故は起こったんだ。不運が重なっただけの一言で、片付けられるような事じゃない。俺も……、アンディもそうじゃないのか」 
「そうだな。事故があった直後はギターが弾けなくなったって知って勿論絶望したよ。でも、あの事故はニールのせいじゃないって今も思ってる。お前が一人で背負う必要なんて全く無いとも思ってる。俺の本心だ。それに、ニール。俺は死んだわけじゃない。それは、お前があの事故の瞬間、俺を助けようとしてくれたからだ。ニールが俺の名前を叫ばなかったら、あのまま俺は死んでいたと思う。そうしたら、今の俺はどこにもいない」 
「……俺に気を遣ってるのか? だとしたら、よしてくれ。何を言われても受け入れる覚悟は出来てる」 
「ニール、俺を見てくれ」 
 
 アンディは左手を伸ばすと、膝に置いているニールの手に重ねた。体温の感じられる生きた人間の手だ。 
 
「今は、こうして酒も飲めるし、ニールとまた話せるようにもなった。生きているっていうのはそういう事だろ。今言った事を、もっと早くに話してやる機会を作るべきだった」 
「……っ、」 
「こんなに長い間、お前一人に背負わせ続けていた事を、心から謝りたい」 
「……何でだよ。なんでそんなに、俺を許すことが出来るんだ」 
「許す? そんな大それた事じゃないさ。俺は聖人君子じゃない。ただ、同じだからだよ」 
「同じ……?」 
「ニールが俺の全てを壊したって言うなら、俺だって同じだろ? 今のお前から、歌を奪ったのは、この俺だ」 
 
 静かにそう告げたアンディの自身を責めるような口調、まるで自分を見ているようだった。同じ重さの後悔、アンディの中にもそれがある。ニールは長い髪をかき上げ視線を落とした。 
 続く沈黙は、どちらも次の言葉を探しているからだ。 
 
 アンディがベッドに置いてあった鞄から自分の携帯を取り出すと、膝において操作をしているのが見える。ある画面で指を止めて、アンディはニールへと差し出した。 
 
 受け取った携帯の画面を見る。 
 そこには大勢の人間に囲まれて楽しそうな笑顔をカメラに向けているアンディの姿があった。どうやら誕生日パーティーの写真のようで、バックにはハッピーバースデーの飾りが取り付けられている。アンディは少し身体を移動させ、ニールの見ている画面を指して説明した。 
 
「それ、この前の俺の誕生日の時の写真なんだ。こいつら全員、俺の教え子だぜ」 
 
――教え子……? 
 
 聞き慣れない言葉が届き、ニールは考えるように指先を軽く動かした。 
 
「ああ。ギタースクールを開いてる。もう三年ぐらい経つかな」 
 
 ニールは驚いたようにアンディに視線を向けた。 
 当時からアンディは人に物を教えるのが上手で、自分やマットも色々な事を教わってきた。しかし、あんな事があったら普通はギターに関わることを目にするのも辛いはずではないのか。今は全く関係のない仕事に就いている物とばかり思っていた。この写真は、アンディが全てを自分の力で乗り越えてきた事を雄弁に語っている。 
 
「右手はほとんど動かないけど、左手と耳さえ聞こえればギターは教えられる。生きてるから出来たことだ。ニール、――俺はまだ、音楽を捨ててないぞ」 
 
 アンディのその力強い言葉には、だからお前も、もう一度マイクを取れと。そう願いが込められていた。あの日のまま、前に進めていないのは自分だけだと思い知った。