──RIFF 16 
 
 
 
「……アンディ」 
「将来のロックスターを自分の手で育ててるんだ。最高にクールな仕事だろ?」 
 
 ニールは、言葉を詰まらせて写真を見ながら頷いた。写真の中のアンディは本当に幸せそうで、その言葉が上辺だけのものではないことがわかる。 
 
 いつのまにか錆びたレコード針がゆっくりとアナログ盤へと落ちていく。溝にはまって回り出せば、ただの黒い円盤からは溢れるようなメロディが響き出す。まるで止まっていた時が流れるように……。 
 ニールはもう一度画面の中の写真にゆっくりと視線を落とした。 
 
「ああ、……最高の仕事だな」 
 
 ニールは静かにそう言って表情を緩めた。 
 
「それとさ。ここ、みてくれ」 
 
 アンディが楽しそうに写真を指先で拡大して見せる。そこには赤ん坊を抱いた女性が写っていた。 
 
「これが俺の娘だ。抱いてるのは奥さんな」 
「アンディ、結婚してたのか? おめでとう」 
「ああ、有難う。リハビリで通ってる病院で、俺が口説き落としたんだ。なかなかの美人だろう?」 
 
 悪戯な口調でそう言うアンディが、昔のままの彼に見えた。もうこうして笑う顔を見ることも無いと思っていた。この瞬間を、自分がどれだけ望んでいたか。身体中に巻き付く鎖の重みがいつのまにか軽くなり締め付けられていた物から解放されていく。 
 
「そうだな。羨ましいぐらいの美人だ」 
「でも今は奥さんより、娘の方が可愛くて仕方ないんだ。まだ一歳だから理解できないだろうけど、ニール達と組んでたバンドのアルバムをたまに聴かせて、このギターは俺が弾いてるんだぞって教え込んでる最中だよ」 
「ん? ……教えて、どうするんだ?」 
「それは、決まってるだろ。『パパかっこいい』って言って貰いたいからさ」 
「なるほど。うまくいくように、俺も祈っておくよ」 
 
 ニールが苦笑する。そんな事をしなくても、アンディは十分かっこいい父親だ。こんなに強くて優しい男はいないと思う。 
 
「アンディ」 
「ん?」 
「今話してくれたことは、よくわかった。本当に有難いと思ってる。だけど、俺からもちゃんと謝らせてくれ」 
「……ニール」 
「本当に……すまなかった。……ずっと、ちゃんと謝る機会が欲しいと思ってた。あの事故のことは一日たりとも忘れたことはなかったんだ。もう、アンディとは会えないと思ってた……。今夜会えた事に、心から感謝するよ」 
 
 頭を深く下げるニールの肩にアンディがそっと手を置く。 
 
「有難う……。だけど今夜で、あの事故のことはお互いもう水に流そう。ニールも俺も、まだまだ人生先は長いんだからさ。昔を懐かしむには、楽しかった想い出さえあれば充分だろ」 
「……ああ。そう思えるように努力するよ」 
 
 アンディの優しげな目元が細められる。 
 
「またライブを見に行かせてくれ。ニールの歌が、いつか聴けるのをずっと待ってるから。……それを待ってるのは、マットも同じみたいだけどな」 
 
 突然マットの名前が出され、ニールは眉を顰めた。 
 
「……、あいつ、何か言ってたのか?」 
「まぁ、色々言ってたぞ? マットは昔からお喋りだからな。バンドをクビになったことも自分から話した」 
 
 ニールは苦々しい気持ちで「そうか」と頷いた。クビになった事を知っているのなら、マットの事だ、隠す事もせず全てを話したのだろう。勿論クスリに手を出したことも……。 
 
「一度手出しちまってから、何度言って聞かせても、やめられねぇみたいで……」 
「……そうか。こればっかりはな……。俺からも注意はしておいたけど……。でも、本人が近いうちにドラッグ中毒の治療を受けようと思ってるって言ってたから、自分でもわかってはいるんだろう……。いい結果になるといいな……」 
「治療を受ける……? マットが、……そう言ったのか!?」 
「ああ……、そうだ。ニールがマットの側にいたから、あいつもあれ以上酷くならずに済んでいるんだと思うぞ。誰も止めてくれる人がいなくなったら終いだ。俺たちには、どうする事も出来ない……。マットは昔から、脆いところがあったからな……。今の俺が出来る事は限られているが、何かあれば力にならせてくれ」 
 
 アンディは辛そうに視線を落とした。 
 
「そうだな……有難う。人に言われたからじゃなく、あいつ自身が「やめるべきだ」と自発的に思わない限り断ち切るのは難しいと思う。でも……、もし治療の話が本当なら、俺ももう少し希望を持てるかもな」 
 
 マットの顔をぼんやりと思い出す。アンディが聞いたというマットの言葉は、本人から聞いた事は無い。自分には言い辛い事だったのだろう。それならば、それでもいい。少しでも自発的に今の状態に危機感を抱いてくれれば、それだけで十分前進だ。 
 
――たまには連絡してみるか……。 
 
 もし助けが必要なら、もう一度ぐらいは手を貸してやってもいい。それで、元のアイツに戻れるのならば……。 
 アンディは詳細は言わなかったが、マットがあの事故の後の状況を勝手に話しただろう事は容易に想像がつく。マットなりに考えて、アンディを自分に会わせようと思ったのだろう。それにたとえ深い意味はなくとも、そこは感謝するべきだ。 
 ニールが新しい煙草を取り出すと、アンディは急に思い出したように話題を切り替えた。 
 
「ニール。ところで、バンドでギターを弾いていた彼は友人か?」 
「ああ、クリスのことか? 俺のギターソロを代わりに弾いてた、」 
「そう、その彼だ」 
「クリスがどうかしたか?」 
「お前にギターの弾き方が似ているなって思ってさ」 
「それは多分、俺の代わりに弾いたから、その部分を似せてくれていたせいじゃねぇかな。クリスは本来、もっと情緒のある音を出す。昔の俺なんかより、ずっと腕のいいギタリストだ」 
「そうなのか。随分、その彼のことをかってるんだな」 
 
 アンディにそう言われて、ニールは「別に、そういうわけじゃねぇけど」とごまかすように煙草を咥えた。確かに、クリスの事を聞かれてつい褒めてしまう自分は、アンディの言うとおりクリスの事を特別な位置に置いているのかもしれない。 
 
「彼は才能があると思う。何と言っても、音と音の間の取り方が絶妙だ。きっとこの先、もっとうまくなるぞ。俺が言うんだから間違いない」 
 
 その証拠に、今だって、自分の事を褒められたように感じるぐらいだ。 
 
「ああ、アンディがそう言うなら、確かに間違いはないな。俺も期待してる」 
 
 
 その後、もう一本ずつビールを飲み、昔のことや最近の音楽談義に花を咲かせ、最後に今の連絡先を交換した。 
 時刻は十二時を過ぎている。少し酔った様子のアンディは、もう少しゆっくりして行けと言ってくれたが、明日の朝には発つと聞いていたので、そう遅くまで呑んでいるわけにはいかないだろう。 
 ニールは腰を上げると「いや、今夜はそろそろ帰るよ」と言って荷物とギターケースを肩に掛けた。 
 
「アンディ、今夜は会えて本当に嬉しかった。また、連絡する」 
「ああ、俺も話せて楽しかった。こうして会えたことはマットに感謝しないといけないな」 
「そうだな。俺もまた近いうちに連絡してみる。いつか、……三人で会える日がくるといいな」 
「ああ、楽しみにしてる。折角だから少し送るよ」 
 
 車椅子のままドアの前まで見送りに来るアンディに「ここでいい」と告げ、ニールはホテルを後にした。 
 
 
 
 
 
 
 流石に十二時を過ぎると、人の通りも多くない。 
 来る時は、アンディがいたのでタクシーを利用したが、歩いて帰れない距離ではない。特に予定もないので、ニールはそのまま大通りへ出てゆっくりと歩いた。 
 
 舗装された道路は今夜も酷く乾いていて、大型の車両が通る度に道路脇に積もった砂埃を巻き上げる。長い事雨が降っていないのだ。 
 フと雨で濡れたアスファルトの匂いを思い出し、懐かしくなる。降ったら降ったで鬱陶しいと思うのだから、無い物ねだりってやつだ。 
 空を見上げて、長く息を吐く。明日も雨は降りそうになかった。 
 
 最後までライブを観ずに出て来てしまったが、あの後無事にライブを終えられただろうか。しかし、それを考える時間は、全くもって無駄だなとも思う。何故かって、メンバーの顔を一人一人思い出してみれば簡単な事だ。心配要素の欠片も見つからないからだ。 
 ニールは少し足を速めた。 
 
 この時期になると、昼と違い夜は冷え込む。長袖のシャツを羽織っているが風が吹けば肌寒さを感じる。幾つもの信号で運悪く足止めされたせいで、四十分程歩いて漸くアパートへ到着した。 
 流石に歩きすぎたのと、今日一日色々あったことを思い出すと疲労感が滲む。 
 階段を上りきった所で深く溜め息をつくと、自分の部屋の前に人影があるのに気付いた。日付も変わっているこんな夜更けに、待ち伏せされるような思い当たりはない。 
 近寄ってみて夜目にもその姿がはっきり写ると、その人物はすぐにわかった。 
 
「……? クリス!?」 
 
 膝を抱えたまま座り込んでいたのはクリスだったのだ。出来るだけコンパクトにしていろと指示を受けたかのように小さくなっていたクリスが、ニールの声にハッとしたように顔を上げる。 
 
「ニール!」 
 
 近寄ってみると、その笑顔がよく見える。一度自宅に戻ったのだろう。クリスは手ぶらだった。 
 
「どうしたんだよ、こんなところで。驚いたじゃねぇか」 
「ごめん、ニールが帰って来るのを待ってたんだ」 
「待ってたって、いつからだ? 連絡くれりゃ良かったのに、馬鹿だな」 
 
 そう言ってクリスの手を取って立ち上がらせると、その手は空気と同じぐらい冷え切っていて相当な時間をここで待っていたのだとわかる。こんな事ならタクシーで帰ってくれば良かった。 
 ニールは携帯で時計を確認する。もう一時を過ぎている。 
 
「おかえり、ニール」 
 
 いつもと変わらない笑顔でそう言ったクリスが、握られた手をそっと背中へ隠す。 
 
「とりあえず中へ入れ。風邪引くぞ」 
「大丈夫だよ、俺、そんなに弱くないって」 
「そういう問題じゃねぇ」 
 
 ニールが急いで鍵を開けて、クリスを中へと入れる。真っ暗な部屋の中へ入って部屋の電気を点ける。朝に出たっきりなので、朝食の皿がだしっぱなしだ。 
 クリスは部屋の中へ入ると、自身の腕を何度かさすって一度クシャミをした。 
 
「なんか上に着るもの、かしてやろうか?」 
「あ、……うん。じゃぁかりようかな。でも、別に寒かったとかじゃないからな」 
 
 そう言った直後もう一度クシャミが出て、クリスは気まずそうに咳払いをした。 
 
「一度クシャミが出ると、二回か三回は連続で出る体質なんだ」 
「わかったわかった」 
 
 案外頑固なクリスに苦笑しつつ、シャツを一枚手にしてニールは戻ってきた。 
 
「ほら、これ着てろ」 
「サンキュー」 
 
 少しサイズが大きいのでクリスが着ると袖が長い。クリスはニールのシャツに袖を通すと安心したように食卓の椅子へと腰掛けた。長い袖に手を潜らせ温めるように息を吹きかけるクリスに「やっぱり寒いんじゃねぇか」とからかおうと思ったが、今夜はやめておいた。 
 
「ニール」 
「んー?」 
「良かった……。ちゃんと戻ってきてくれて」 
 
 クリスの小さく呟く声に、湯を沸かそうとしていたニールの手が止まる。 
 
「……約束しただろ。それに、どこに行くっていうんだよ。この時期に野宿は、流石にやべぇだろ」 
「そういう意味じゃないよ。ニール、わかってて言ってるだろ」 
 
 ニールは再びコンロに火を点けると、クリスの方へ振り向いた。 
 
「今日は、本当に心配掛けて悪かったな。お前にヘルプに入って貰って助かった。ライブは、どうだった?」 
「ちゃんとあの後アンコールを二曲やって、無事終わったよ」 
「そうか。お前達の事は信じてたから、そこは心配してなかったけどな」 
「うん。あ、でも、ちょっと大変だったんだ」 
「大変? なにかあったのか?」 
 
 インスタントのコーヒーをいれたマグカップに、湯が沸いたケトルから湯を注ぐ。二つのマグカップを持ったニールが向かい側に腰を下ろす。クリスは「有難う」といって熱々のマグカップを受け取った。 
 
「ニールが最後の曲の途中からいなくなった事、ファンの子達が心配しててさ」 
「ああ……」 
「出待ちの子達に質問ぜめにあいそうだったから、皆で裏口から出て、俺はトミーの車で送ってもらったんだ」 
「そうか、手間掛けさせちまったな……。今度トミー達にも礼を言っておくよ」 
「でもさ」 
「うん?」 
 
 クリスが嬉しそうに、マグカップを手で覆う。 
 
「今日のライブ、凄く楽しかった。最初は緊張してニールとかにも迷惑掛けたけど、始まってからは夢中でギター弾いてて、……これがバンドなんだなって、実感したっていうか……。当たり前のことなんだけどさ」 
「良かったじゃねぇか。ライブはスタジオでの練習とは全く違うからな。お前達も、ライブやってみればいい。そういう話とか、メンバー内で出ねぇのか?」 
「その事なんだけど……」 
「……?」 
「俺、今いるバンド、抜けようと思ってるんだ。今日ニールのバンドで一緒に演奏させて貰ってわかった。俺が本当にやりたいのは、こういう事なんだって……」 
「……。今のバンドじゃ、ライブは無理ってことなのか?」 
「言ったことはないけど……。多分、難しいんじゃないかな。俺以外は、他にメインのバンドがある奴らばかりだし、最近は音楽の方向性も少し変わってきてて……」 
「……そうか」 
「あ、別にニールのバンドに入れてくれとかそういう事じゃないから。俺も、もうちょっと真剣にバンド探そうかなって思ってるって話」 
 
 慌てて言葉を付け加えるクリスを眺めながら、ニールも珈琲に口を付ける。 
 クリスがこんな事を付け加えるのは、ライブ前に自分が言ったことを覚えているからだろう。 
 
「自分が一度でもそう思い始めたら、このまま続けるのは厳しいかもな。お前が納得するように行動すればいい。焦る必要はねぇから、本当に自分に合うバンドかどうかゆっくり見極めろ」 
「うん。そうしてみる。迷ったら、また相談に乗ってよ」 
「ああ、勿論構わないぜ。俺も、知り合いでメンバー募集掛けてる奴がいないか気をつけてみる。なぁ、クリス……今夜はこのまま、泊まっていくだろ?」 
「あー、特に考えてなかったけど……いいの? ライブもあったしニール疲れてるんじゃないのか?」 
「ライブがあったのは、お前も一緒だろ」 
 
 ニールの言葉にクリスは「それはそうだけど」と笑った。 
 
「お前に話しておきたいことがある。明日にでも連絡しようと思ってたんだが、もし今夜空いてるなら、丁度いいかなって」 
「そうなんだ。じゃぁ、うん。泊まっていこうかな」 
「ああ」 
 
 クリスがマグカップを持ち上げると同時に、ポケットに入れていた携帯が音を鳴らした。 
 クリスの着信音は初期設定のままの電子音だ。 
 
「あれ? こんな時間に誰だろう……」 
 
 携帯を取りだし、ひとまずカップをテーブルへと戻す。着信画面を見て、クリスは驚いたように目を丸くした。 
 
「トミーからだ!」 
「トミー? こんな時間に? なにかあったのか」 
「わからない。とりあえず出てみるよ」 
 
 クリスが受話ボタンをタッチして通話に繋ぐ。ニールが自分の携帯を取りだしてみると、知らぬ間にトミーからの着信が二件と、見知らぬ電話番号の着信が何件か表示されていた。 
 先程、時刻を確認するときに一度携帯を見た時は着信はなかったはずだ。この短い間に連続で連絡が来ていたことになる。アンディと話す際に邪魔なので、音をサイレントに切り替えていて今まで気付かなかったらしい。 
 自分に繋がらないので、クリスに掛けた。そういう事なのだろう。 
 電話が終わるのを待っていると、クリスが「……え」と声を漏らした後、ニールに視線を向けた。 
 
『うん、今さっきニールに会ったところで、一緒に居るよ。うん』 
 
 どうやらトミーから自分の居場所を尋ねられているらしい。その後、一瞬にしてクリスの様子が一変した。 
 
『……嘘だ。 本当の話……?』 
 
 会話がわからないのをもどかしく思いながらクリスへ視線を向ける。 
 クリスは何故か酷く動揺していて、最後に「すぐそっちへ向かうよ」と言って電話を切った。通話が切れた後も呆然としているクリスが心配になって、ニールが顔を覗き込む。 
 
「どうした? トミー、何の用だったんだ。……クリス? おい、何があった。お前、顔が真っ青だぞ」 
「……ニ、ニール」 
 
 クリスの手が震えている。力を入れてそれを抑え込むようにしたクリスが震える声で続けた言葉。 
 
――今、……なんて言った? 
 
 聞き慣れた言葉でさえ理解が追いつかない。こめかみから弾丸を食らったような衝撃に、ニールは言葉を失った。