──RIFF 17 
 
 
 
 ショックを受けている様子のクリスに返事できないまま、ニールは脱力したように背もたれに背を預けた。何がどうしてこうなっているのか。なにもかも、わからなかった。 
 
「……冗談、だろ」 
 
 思わず口をついた言葉に返ってくる答えはNO。クリスは悲痛な面持ちで目を伏せた。 
 
――マットが……死んだ? 
 
 死ぬという意味でさえ、曖昧にぼやけて頭に入ってこない。消化しきれない言葉がゆっくりと胃の腑に落ちれば、途端にそこが焼けるような熱を持った。 
 
「……、ッウ」 
 
 急激に突き上げた吐き気にくぐもった声を漏らし、ニールは椅子を倒す勢いで腰を上げると、口元を押さえてトイレへと駆け込んだ。便器まで間に合わず、手を外した途端真っ白な洗面台に胃の中の物をぶちまける。昼に食べた物は消化されていて夕飯は摂っていない。 
 陶器のボウルに跳ね上げるのはアルコールとさっき飲んでいた珈琲だけだ。 
 息をつく間もなく連続で嘔吐を繰り返す。 
 それでも、吐き気が治まらなかった。 
 
 蛇口を捻り勢いよく水を流せば、濁った水になって排水溝へと吸い込まれていく。 
 荒い呼吸を繰り返しながら、嫌な汗がじっとりと額に浮かぶ。心臓が耳の中に移動したみたいにうるさく鳴り響き、ニールは掻きむしるように耳元を塞いだ。 
 
 さきほどクリスから聞いた言葉は、もう体内から出て今頃下水道で浮かんでいるはずだ。それとも、未だしつこく体に残っているのか。苦しさに目尻の睫が濡れる。 
 
――ニール……、マットが……。アパートで、死体で見つかったって……。 
 
 冗談は嫌いじゃない。だけど、洒落にならない冗談だけはごめんだ。誰だってそうだろう。頭にくる。 
 それでも、今すぐトミーが「さっき電話で言った事は冗談さ」と言ってくれるなら、笑って許せる。寧ろ大歓迎だった。 
 
――頼むから、今すぐ冗談だと言ってくれ……。 
 
 覆らない現実を全身が拒絶している。 
 もうとっくに吐く物はなくなっていて、溢れる胃液混じりの唾液だけがポタポタと口元から落下して水に混じる。 
 
「……ニール! 大丈夫!?」 
 
 慌てて後を追ってきたクリスが心配げな様子で時々引き攣るニールの背中を摩る。ニールは幾度か咳き込んで口元を水で拭った。 
 
「……っ、大丈夫だ。あっち、……いってろ」 
「でもっ、……」 
 
 後ろ手でクリスを払おうとしたが、クリスはその手にあたってもその場を動かず、それどころか一歩距離を縮めてきた。 
 
「……、……おまえな、」 
 
 再度の拒否を口にする前に、喉元で空気を含んだ水音があがって洗面台に顔を突っ込むしかなくなった。 
 
 洗面台の縁を、指が白くなるほどの力を入れて掴んでいるニールの手に、クリスは視線を落とす。 
 ニールの気持ちを考えるだけで自分の呼気まで震えてくる。クリスは唇を引き結んで首を振った。 
 あっちへ行けという言葉に従わず、自分の手を重ねてその背中を擦り続けた。苦しげなニールの息遣いが何度も耳に届いているのに、何も出来ない自分に歯噛みするしかない。 
 
 ニールは最後に一度、クリスの擦る手に促されるまま胃液を吐き出し、漸く深く息を吸った。 
 何度かそのまま口をゆすぎ、最後に顔を洗う。濡れたままの手を額にあてると、腕を伝わった水滴が肘に流れ、床へとポタリと垂れた。ニールは泣いてなんかいないけれど、その滴は涙のように思えた。 
 
 電気も点けていない暗い洗面台の前で、ニールの口から漏れる自嘲気味な言葉。 
 
「……吐いてる場合じゃねぇよな」 
「……、……ニール」 
 
 クリスは俯いて、そっと背中から手を外した。 
 冷えた指先を開いてタオルを掴むと、ニールは顔を覆って荒い呼吸を整えた。吐き気が治まると共に頭が冷えて、冷静さが徐々に戻ってくる。 
 鏡の中の自分自身に向き合うと、ニールは汚れたタオルを洗面台の縁に掛けて何度か息を吐いた。 
 痺れたような脳内で考える事は『今やるべき事』だった。脳内でリストアップされたそれが機械的に思考へねじこまれる。 
 
 ニールは、背後で戸惑っているクリスへと振り向いた。 
 すぐにでも抱き締められそうな至近距離にいたクリス。透き通った淡いブルーの濡れたような瞳は、よく見ると若干グリーンがかっても見える。深層部の海中のようなその瞳がニールを見上げていた。 
 
――……クリス。 
 
 ひとつ息を吸う。その瞬間、自分でも驚く程無意識にクリスの後頭部に掌をやって自分の方へ引き寄せていた。 
 鼻先にクリスの柔らかな金髪が触れる。 
 伝わる体温を感じていると、気分の悪さが緩和されていくのがわかった。それは経験の無い感覚だった。 
 酷く寒い日にみつけた温かな陽だまりのようで、このまま目を閉じたら眠ってしまいそうだ。 
 腕の中でクリスが驚いた様子で固まっていることに気づいたのは暫くしてからだった。 
 
――……何やってんだ、俺は。 
 
 ハッとしたようにニールは両手を離すと、バツが悪そうにすぐ距離を取った。 
 
「悪ぃ……」 
 
 恋人でもない人間から急に抱き締められたら驚くのは当たり前だ。今のはただのハグでは片付けられぬ雰囲気だったのだから。クリスは首の後ろに手をやって、視線を泳がせた。 
 
「あ、えっと……。俺は、その、気にしてないから……」 
「……そうか。それなら良かった」 
 
 何が良かったのか、言っている自分でもわからない。 
 ニールは顎を指で触ると気まずい空気を取り払うように言葉を続けた。 
 
「お前、すぐ、でられるか?」 
「俺は平気だけど。……でも、ニール、まだしんどそうだよ。10分でもいいから、少し横になって、それからでも、」 
「いや、そんな時間ねぇだろ。トミーを一人で待たせてんだ、早く行ってやんねぇと」 
「そうだけど……」 
「俺なら、もう、大丈夫だ。そんな顔すんなって。すぐ準備してくる」 
「…………」 
 
 ニールは洗面所を出ると、上に着ていたシャツを厚手の物へ着替え、クリスの分ももう一枚取り出して腕に掛けた。 
 
「それ脱いで、こっちを羽織っていけ。向こうへ着いたら多分ずっと外にいる事になる」 
「うん、有難う」 
 
 車のキーをポケットへ入れ、財布と携帯だけを手に持ったニールは部屋の電気のスイッチに手を掛けた。 
 
「ああ……。お前、今日運転出来るか? 俺、酒入っちまってるから」 
「わかった。俺が運転するよ」 
「悪いな、頼む」 
 
 いれたばかりのポケットからキーを取り出すと、ニールはクリスへと渡した。アルコールは今の嘔吐でほとんど出たし、多少残っていても規定値は超えないはずで運転には問題ないだろう。だけど、念の為だ。 
 こんな状態で運転して、クリスを乗せたまま事故でも起こしたら取り返しのつかないことになる。 
 
 すぐに部屋の電気を消して、クリスと二人でアパートを出た。 
 予想通り、外は帰ってきた時より寒さが増していて、風が強まっていた。クリスが先程からずっと心配げに視線を向けてくるのを感じていたが、それには気付かないフリをするしかなかった。 
 
 契約している野ざらしの駐車場に停めてあるニールの車。 
 素早く乗り込んで勢いよくドアを閉めると、ルームミラーに引っかけていた紙製の芳香剤が揺れてくるくると回転した。表が天使で裏がドクロの絵が描いてある。 
 それは、次第に回転を止めて天使とドクロの両面を見せたまま動きを止めた。 
 こんな時ぐらい、気休めにでも天使の面で止まりやがれ。舌打ちを押しとどめ、ニールは視線を外してクリスへと声をかけた。 
 
「じゃぁ、行くか」 
「うん」 
 
 クリスがすぐにエンジンを掛けてアクセルを踏み込む。 
 深夜二時過ぎ、道はがらがらだ。 
 
 マットの自宅までは少し離れている。流れていく景色が素早く視界に写り込み、瞬きの瞬間には次の景色へと変わる。それを、ただ見ながら。互いに一言も話さなかった。 
 現状、無防備なところへ強烈な右ストレートを食らったような物だ。 
 そんな状態で世間話を口に出来るほど、互いに余裕なんかない。 
 
 とりあえずつけてあるカーステレオから流れているのは、『ROCK AIR』というラジオ局の番組だ。 
 今夜は少し懐かしい時代のロック特集をやっていた。よく知った、なんならCDも持っているようなメジャー曲が何曲も流れ、否応にも当時聴いていた頃を思い出す。ざらついた想い出の中にはマットもいたが、ノイズが酷くてまともに顔を思い浮かべることすら今は困難だ。 
 曲の合間に入るパーソナリティーの陽気な話し声が、沈んだ車内に場違いに響いていた。 
 
 メイン・ストリートを抜けて脇道へ入っていけば、周囲の雰囲気も変わる。様々な人種が入り乱れ独特の雰囲気だ。 
 暫くして信号で停車すると、クリスがニールの方へと視線を向け言いづらそうに口を開いた。もうアパートを出てから十五分は経っている。 
 
「ニール」 
「ん?」 
「着いたら、声掛けるからさ。シート倒して休んでなよ」 
「心配しなくてもいいって言ったろ。別に、体調が悪かったわけじゃねぇんだ。もう、なんともない」 
「でも……」 
「大丈夫だって」 
「……どこがだよ」 
 
 クリスは視線を逸らして「全然大丈夫じゃないくせに……」と付け加え、ハンドルを握る自らの手に視線を落とした。 
 
「……クリス?」 
「大丈夫なわけ、ないだろ……。ニール、今、自分がどんな顔してるかわかってる?」 
「何だよ、急に……」とニールは言葉を濁らせる。クリスはハンドルから手を離し、ニールの方を見て悲しそうな表情を浮かべた。 
「急じゃないよ。さっきからずっと、心配してるんだ。俺と居るときぐらい…………無理、するなよ……」 
「…………」 
 
 別に強がっているわけではない。これは自分の性格的な問題だ。だけど、クリスにそう言われてしまえば、何も言い返せなかった。心配を掛けたくないが、困らせたいわけでもない。 
 ましてや面と向かって泣きそうな顔で言われてしまえば、これ以上「大丈夫だ」と言い張ることも出来ない。ニールは降参だとでも言わんばかりに手をあげた。 
 
「OK……わかった。じゃぁ、着いたら声掛けてくれ。少し休ませてもらう」 
「うん。俺、結構運転上手いよ。安心して」 
 
 ホッとしたようなクリスの表情を見て、今自分が独りじゃないという事を実感した。 
 
「”自称”の運転上手は、八割が当てにならねぇって、裏通りにある占い師のばぁさんが言ってたぜ」 
「うるさいな。俺の辞書では九割当たってるって載ってるんだ。今度見せようか?」 
「へぇ、そりゃかなりの確率だな」 
「だろ?」 
「ああ、安心して眠れそうだ。うっかり寝過ごさないようにしねぇとな」 
 
 本当は冗談を言って笑えるような気分じゃないけれど、無理矢理にでも二人で笑った。 
 うまく笑えていたかどうかは、わからなかったけれど。 
 サイドのレバーを引いて座席を傾けると、ニールは額に腕を置いて目を閉じた。眠ることは出来なくても、人間目を閉じて休んでいれば幾らか回復するらしいので効果はあるだろう。 
 
 クリスが煙草を咥えて火を灯す際のジュッという音が聞こえる。気を遣ってボリュームが下げられたラジオからは相変わらず懐かしい曲が流れ続けている。 
 換気のために細く開けられた窓から、冷たい空気が流れ込んでニールの身体を撫でた。 
 
 
 
 
 
 
 暫くして、車が停車する音でニールはうっすらと目を開けた。瞼の裏側を見ていただけで、寝ていたわけではない。サイドブレーキを引きあげたクリスが、ニールの顔を覗き込む。 
 
「ニール、着いたけど」 
「ああ、気付いてる」 
 
 シートを元に戻し、身体を起こして窓の外を見る。 
 目的地からは1ブロックほど離れた場所の路上パーキングに停めたのに、周囲には何台ものロス市警のパトカーが止まっていて、それだけで普通の夜ではない事を示していた。 
 車から降りて多めの小銭をパーキングメーターへ投入しマットのアパートへ急ぐ。 
 
 この一帯は細い路地が入り組んでいるせいで外灯の光が届かない場所はかなり暗い。袋小路の奥には、ゴミが散乱していて、その近くに何をするでもなく地面に直接座っている数人のグループがいくつもたむろしている。こういう奴らがクスリを売っているのだ。関わらないにこしたことはない。 
 植え込みの近くに落ちているキャンディの包みが、風が吹く度に移動し、カサカサと音を立てる。足下までひらひらと寄ってきたそれを靴底で踏んで、ニールは足を速めた。 
 
 立ち入り禁止のテープが張り巡らされた手前には、近隣の住民と警察官が何人も集まっている。 
 こんな時間なのに犬を散歩させていたのか、初老の男が不吉な物をみてしまったとでも言うように早足でニール達の前を横切っていく。 
 見渡してみると、アパート脇の少し奥まった路地にトミーの姿を発見した。 
 クリスと走って近づくと、トミーが「待ってました!」と言わんばかりに大きな手振りで手招きした。 
 
「おーい! ニール! クリス! こっちこっち」 
 
 側にいた警察官に何やら聞かれていたらしいトミーが、足早に近づいてきて側で足を止めた。 
 
「遅くなって悪い。クリスから話は聞いた……。俺にも電話くれてたのに、気付かなくて」 
「トミーはいつきたの?」 
「俺も警察から電話あったときは呑んでて、たまたま気付いたんだ。ここへ来たのは一時間ぐらい前だったかな。最初は悪戯電話かと思って切ったんだけどさ、また掛かってきて……。ビックリしすぎて一気に酔いが醒めたぜ。マットの携帯の履歴に残ってた人物に、片っ端から掛けたみたいだな」 
「だから、ニールにも着信があったんだ……」 
「そうそ」 
「そうか。……今どんな状況なんだ。その、……」 
 
 ニールが言葉尻を飲みこむ。トミーは俯いて何度か頷くと眉を顰め小声で説明した。 
 
「マットの遺体を発見したのは、買い物に出ていて戻ってきた仲間の女だって言ってたな。パーティーをしてたみたいでさ。他にも部屋には数人いたらしい。全員警察署に事情を聞くために、さっき連れて行かれたよ。四人か五人はいたかな……」 
「そうなんだ……」 
 
 クリスが辛そうに相槌を打つ。そういえば、アンディと話した際に、今夜はパーティーがあるからマットは先に帰ったと言っていたのを思いだした。 
 ドラッグ仲間との乱交パーティー。今更驚くような事実じゃない。 
 
「マットは、……その……、風呂場で溺死してたって……。相当な量のヘブンスも部屋で見つかってる。サツが言うには、ラリって溺れた事故か、……。それとも……、自殺か」 
「……自殺!?」 
 
 クリスが驚いて険しい表情をする。 
 
「いや、今まだ検視してるんじゃないかな」 
「じゃぁ、まだマットは運ばれてねぇって事か?」 
「そういう事。参ったよ。さっきからずっと、マットの日頃の行動とか事前に何か言っていなかったかとかしつこく聞かれてさ、俺だって協力したいけど、知らない事が多すぎてな……。いつからクスリをやってたかとか、何人女がいたかとか……ほとんど答えられなくてお手上げさ」 
「……そんな事まで聞かれるんだ」 
「ああ。悔しいけど、あいつら多分面白がってやがる。最悪な連中さ。最初から俺の事見下した態度をとるもんだから、協力する気も失せるってもんだ」 
 
 黙って話を聞いていたニールが、先程トミーと話していた警官を横目で見る。 
 大きな欠伸を隠そうともしていないその警官は、心底この件をどうでもいいと思っているのだろう。鑑識が捜査を終えるまで暇でしょうがないといった感じだ。トミーの言うとおり、相当にたちが悪そうで、話す前からうんざりした気持ちになった。 
 
「大変だったな……、お疲れさん。そういう話なら、俺の方が答えられる。後は俺が話してくる。携帯にも電話があった証拠が残ってるから、それで話は通じるだろ」 
「ニール、俺も一緒に」 
「いや、……クリスはトミーと待っててくれ。俺、一人で行く」 
「クリス、ここはニールに任せようぜ。俺達じゃ役に立ちそうにない」 
 
 トミーにも引き留められて、クリスは心配げにニールを見ながらも、並んでいたニールから一歩後ずさった。 
 
「……そうだな。じゃぁ、待ってるよ。気をつけて」 
「別に取って食われるわけじゃねぇんだ。すぐ戻る」 
 
 少し離れた場所で足を止めたクリスとトミーに背を向け、ニールは一人で警察官の方へ足を向けた。夜なのに眩しさに目を眇めたくなるのは、停車しているパトカーの回転灯が点いたままだからだ。