──RIFF 18 
 
 
 
 警察官は犯罪者をつかまえ、市民を守るために居る。 
 それは正解ではあるが、不正解の部分もある。何が不正解かって、全市民ではないって所だ。”善良な”市民かそうではないか。それは向こうに基準が委ねられている。 
 
 治安の悪い地域に馴染んでいるような市民が、失踪しようが死のうが、その扱いは羽が生えているかのように軽い。通報する方も後ろめたい事情がある人間ばかりなせいで、多少の揉め事なら通報すらされない事が多い。ヤク中の死亡事故なんて瑣末事の一つにしか過ぎない。 
 それに、奴らが真っ先に守るのは市民ではなくて自分のプライドだ。例外も沢山居るだろうが、そうそうお人好しの警官など居ない。 
 
 ニールが近づいていくと、案の定、値踏みするように全身を見渡した後、男はニヤリと口元を歪めた。”善良な”市民ではないと判断されたらしい。早速かけられた台詞は予想通りだった。 
 
「お仲間はとっくに連れて行かれてるぞ? 行かなくていーのかい?」 
「生憎だが、俺はドラッグパーティーのイカれた連中の仲間じゃない。マットのバンド仲間だ」 
 
 咄嗟にマットの名前がわからなかったようで、時差があるようなタイミングで男は「ああ」と興味なさそうに納得した。念の為に携帯の画面を表示させて男へ突き出す。 
 
「この番号、あんたらのだろ?」 
「ああ、そうだ。君、名前は?」 
「ニールだ。Neil Drakoulias。マットの履歴に残ってたはずだ」 
 
 すぐに確認をするように、無線で誰かとやりとりをした後、男は胸元から取り出したボールペンでメモを書き取った。 
 
「君の名前は確認した。じゃぁ、幾つか聞かせて貰っても?」 
「ああ。答えられる事なら」 
「さっきバンド仲間だって言ってたよな? 奴との付き合いは長いのか?」 
「ハイスクールからだ。ずっと一緒にバンドをやってた」 
「へぇ~……。じゃぁ、奴がヤクをやり始めたのも知ってたって訳か?」 
「具体的な時期は知らねぇけど、一応は知ってる。だけど、ヘブンスは違法じゃねぇだろ」 
 
 マットが過去にヘロインに手を出していたことを今言う必要はないだろう。ニールはそれを口にしなかった。 
 
「まぁ、そうだな。今の所は違法ではない。実は、お前もやってるってオチか? 違法じゃないんだから吐けよ。後で話のネタになる」 
 
 ニールを挑発するような下卑た笑みを浮かべ、男はニールを見上げた。 
 警官にしてはかなり小柄な男だ。見下ろしてニールが睨むように目を眇めると「怒るなよ。冗談だって」とわざとらしく肩を竦めた。そんな些細な仕草も、わざとらしい。神経を逆なでする事に関しては才能があるようだ。 
 こんな挑発に乗るほど馬鹿ではないし、そんな時間も勿体ない。 
 
「俺は善良な市民なんでね。あんたの話のネタになるような愉快なことはなにもしてねぇよ。残念だったな」 
「わかったから、そう睨むなって。タマが縮んじまいそうだ」 
 
 気弱に見せる言葉とは裏腹に、絶対的な権力に守られていることを自負しているのか高圧的な態度が崩れることはなかった。 
 
「ところで、どんなバンドをやってるんだ? 凄いタトゥーだな。ヘビーメタルってやつか?」 
 
 ニールの袖口や首元、手の甲と一通り視線を動かした後、ヘッドバンキングの真似をしてみせる警官に呆れてニールは溜め息をついた。全く今回の件と関係ないと思われる質問だ。トミーもきっと、こうやってくだらない質問を挟みつつ長い間拘束されていたのだろう。人が死んでいるというのに、無神経にも程がある。 
 
「それを今、答えなくちゃならねぇ理由があるのか? お喋り相手を探してるなら、他を当たってくれ」 
「フン、つまらん奴だな」 
 
 気分を害したようだが、構いやしない。「続けろよ」とニールが促すと、不満そうな表情を浮かべたまま警官は指を舐めて手帳を捲った。 
 
「じゃぁ、ここ最近の彼の行動とか、何か言っていたとか、そういうのは知らないか?」 
「その前に一つ聞きたい。今回のことは……事件の可能性もあるのか?」 
「それはまだわからん。今調べているところだ……。ただ、事件性はないように見えるな。現場で本人が抵抗した様子がないからな」 
「そうか……。マットは今夜のライブに顔を出していた。話してはいないが客席に姿を見たんだ。それと、知り合いに、今夜パーティーがある事は話していたらしい」 
「なるほど。その姿を見たって言うのは何時ぐらいなんだ? その時の様子は?」 
「厳密じゃないが、九時の時点ではもうライブハウスには居なかったと思う。こっちはステージからの遠目だったから、様子はわからねぇ……。元気なように見えたけど……」 
 
 メモを取りながら首を傾げる目の前の男は、勘だけはいいらしい。 
 
「待てよ? 一緒のバンドなんだろう? 奴と何故別々の場所に居た」 
 
 ニールが軽く経緯を話すと、上辺だけの同情の視線を向けられた。その後、マットが誰かから恨みをかっていた可能性や、女関係の事を聞かれたが質問はそれで終わったようだ。警官はメモをパタンと閉じるとまた無線を取り出した。 
 もっと色々聞かれるかと思ったが、こんな程度でいいのだろうか。ザザッという音の後に応答する声が届いて、ニールはその行動終了の意味がわかった。 
 
『聞こえるか? 今奴と同じバンドにいたって男から話を聞いた。自殺で片付きそうだ』 
「!?」 
 
 ニールはその言葉を聞いて眉をスッと顰めた。 
 
「おい、なに馬鹿なこと言ってやがる。マットは自殺じゃねぇよ。勝手に決めんな!」 
「経験から導き出した答えであって、勝手に決めたわけじゃぁない。ジョン・マクレーンだってきっと俺と同じ見立てさ。よくある話だろ? ヤクなんてやってると一般人が考えないような行動に出るもんなんだ。バンドも失って自暴自棄になって世の中全部に絶望しての自殺。珍しいことじゃない。奴の腕にはコットン・フィーバーが幾つもあった。つまりは、もうその時点で俺らの理解の届かない世界の住人なのさ。いや。住”人”ですらないかもな」 
 
 あまりの言い種に言葉が出なかった。コットン・フィーバーというのは整脈注射をする際の消毒コットンが、注射を繰り返すことにより皮膚に残って入り込み、傷口が赤黒く腫れて割れる現象の事だ。先日マットをバンドから脱退させたとき、自分もマットの腕にその痕をみつけた。 
 だからといって、まるで人間じゃない扱いを甘んじて受け入れろというのは暴論でしかない。 
 
「今日は寒いよな。お前達も、早く帰りたいだろう? 俺も、早く帰って観たい番組があるのさ。わかってくれるよな」 
 
 わかるはずがない。ニールは奥歯をギリッとならすと警官の胸ぐらを鷲掴みにして背後の落書きだらけの壁へと押しつけた。 
 
「てめぇ……、ふざけんのもいい加減にしろ。ちゃんと調べろって言ってんだよ、それがあんたの仕事じゃねぇのか」 
 
 そのまま突き飛ばしたい衝動をなんとか堪えている物の、怒りに震える気持ちがどうやっても静まらない。 
 
「おっと、こんなことをしたらお前もブタ箱行きが確定するけど、わかってて殴ろうってんならいいぞ? ホラ、一発やってみろよ」 
 
 ニールが「……くそっ」と吐き捨て、渋々掴んでいた手を離す。ここで警官を殴った所で、悔しいが何も変わらない。大袈裟に咳き込んでみせる警官の前で、ニールはぎゅっと目を閉じた。 
 
 マットは絶対に、自分から命を絶つなんて事はしない。アンディを連れて一緒にライブを観に来たことも、アンディに話した治療の話も。マットが必死で変わろうとしていた、その全てを何も知らない奴に否定されるのだけは許せなかった。 
 何度か深く息を吸って気持ちを落ち着かせると、ニールは髪をかき上げて警官に向き合った。 
 
「あいつは、近いうちにちゃんとドラッグ中毒の治療を受けるって、前向きに自分で考えてたんだ。自殺なんて絶対にしねぇ……。頼むよ……、ちゃんと調べてくれ。病院の予約とか、そういうのが見つかるかも知れねぇだろ?」 
 
 必死で訴えるニールの言葉に面倒くさげに警官が溜め息をつく。 
 
「事故でも自殺でもどっちでもいいじゃないか。結果は変わらない。奴は死んだんだぞ?」 
「いいわけねぇだろ!」 
 
 やりとりを見守っていたクリスとトミーも「どうかしたのか」と心配げな表情を浮かべ側に来ていた。 
 
「ニール、治療って……なんのはなしだ? マットがそう言ったのか?」 
 
 トミーが静かに口を開く。 
 
「ああ。今日あの後、昔のバンド仲間と会ってたんだが……。その時聞いたんだ。本人が、そう言ってたって。昔の仲間に嘘をつく理由なんかねぇだろ。マットは、自分で変わろうとしてた。だから、自殺なんかするわけねぇ……」 
「その話が本当なら、……確かに自殺じゃないな」 
 
 トミーが何度も頷き、警官を睨みつける。 
 
「おい、あんた。適当なこと抜かしてんじゃねぇぞ。しっかり調べろよ。その警官バッジはお飾りか?」 
 
 その時、アパートの階段の方から大勢の声が聞こえた。 
 皆で視線を向けると、検視が終わったのか数人の警官がおりてきて、その後方に遺体袋が担架に乗せられているのが見えた。銀色のそれの中にマットがいるのだ。 
 映画や刑事ドラマでしか見た事の無いその光景が、やけに生々しく目に焼き付く。 
 思わず視線を逸らすクリスの横を通って、ニールが立ち入り禁止のテープを潜った。 
 
「ニール」 
 
 背後で慌てた警官が「勝手に中に入るな」と制止する声も、トミーが名を呼ぶ声も、ニールの耳には届いていなかった。 
 階段を下りてきた遺体袋の前まで行くと、ニールは付き添っている鑑識の人間に静かに口を開いた。 
 
「最後に、マットに一度会わせてくれ……友人なんだ……」 
 
 最初は訝しげにニールを見ていたが、ニールに質問していた警官が目配せをすると態度が変わった。少しぐらいはいいだろうと、一人が遺体袋のファスナーを下げる。ジリジリと下がるファスナーの隙間から徐々に見えてくる、事切れた若い肉体。 
ファスナーは首の辺りまで下がって止められた。 
 
「……、……マット」 
 
 発見が早く、死後、時間が経っていないせいなのか、濡れたまま中で目を閉じているマットはまるで蝋人形のように見えた。 
 ニールが吸い寄せられるように手を伸ばし、マットの頬に触れる。 
 もう、人間の感触ではなかった。ひんやりと湿った肌が、生きている人間との境界線を指先に刻みつける。 
 数時間前までライブを観に来ていた人間とは思えない。 
 
 マットが死んだという事実を受け入れていなかったわけではない。だけど、目の前でこうして見てしまうと、もう寸分の逃げ場も塞がれたようで、その事実から目を背けられなくなる。 
 苦しんで死んだ様子は窺えず、穏やかな死に顔だったのがせめてもの救いだった。 
 
 死に顔に重なるのは、不思議とマットの笑顔ばかりで……。 
 溢れるマットとの記憶に、こめかみがズキリと痛んだ。 
 
「…………」 
 
「もう気が済んだか?」という問いに答えることもなく、目の前で再びファスナーが閉まって運び出される。その後すぐに、サイレンを鳴らして次々にパトカーが発車する。 
 立ち入り禁止のテープが外され、アパートの階段前に一人だけ警察官が配置されてあとは撤収していった。 
 
 伝えることは伝えた。検視の結果も出ない今、この場に素人の自分達が残っていても出来る事はない。未だ手に残る感触がこびりついたように離れない。 
 駆け寄ってきたクリスに声をかけられるまで、ニールはその場に立ち尽くしていた。 
 
「ニール、俺たちももう帰ろう」 
「……ああ、そうだな」 
 
 三人でその場から離れて歩く。途中の道でトミーとは別れることになった。 
 トミーは「何かあったらすぐ連絡してくれ」と何度も心配気に言い残し、クリスに小声で何かを言った後、寄る場所があるからと先に帰っていった。 
 
 先程まで騒々しい雰囲気だった周辺は嘘のように一気に静まりかえっていた。本来の夜の姿に戻ったのだ。 
 車に戻る途中、一度立ち止まってマットのアパートを見上げる。主を失った部屋には、まだ明々と電気がついていた。 
 パーキングに止めてあるのは、ニールの車だけになっており、クリスと二人で乗り込む。もう、急ぐ必要はない。後は帰宅するだけなのだから。 
 
 助手席で煙草を取り出して咥えたニールは、黙って煙草の箱をクリスへも向けた。クリスが箱を受け取って一本抜き出すと同じように口に咥える。 
 二人で同時に煙を吐き出しているせいで、車内の低い天井にたまった煙が、視界を霞ませていた。 
 
「クリス」 
「……うん?」 
「こんな時間まで付き合わせちまって悪かったな。疲れただろ」 
「平気だよ。マットの事は……、……何て言っていいかわからないけど……本当に、残念だよ……」 
「……ああ」 
 
 吸い終わった煙草を灰皿へ押し込むと、クリスは車のキーを挿した。ヘッドライトがアスファルトを照らし、数時間前に辿ってきた道を走る。 
 
 工事中の舗装されていない道路を通れば、車体が揺れる。ニールの視界の隅では、芳香剤が、今度ははっきりと天使の面を見せていた。 
 
 
 
     *     *    * 
 
 
 
 やっと戻って来られた自宅。果てしない距離を時間をかけて走ってきた気もするが、時間にしてみれば行きにかかった時間とそう変わらない。アパートの階段を上りながら携帯の時計を確認する。 
 
「もうこんな時間か……。やっと帰って来れたな」 
「……うん」 
「……?」 
 
 先程から話しかけてもクリスは相づちを打つだけで、ずっと浮かない表情を浮かべている。いつもと違うその様子は少しおかしい気もするが、マットの事もあって疲れているのだから当然なのかも知れない。 
 
 夜の深さは段々浅くなっていて、もう明け方に近いといってもいい。 
 ニールはバックポケットから繋がる鎖に繋いである自宅の鍵を、鍵穴へとさして重いドアを開いた。出掛けるときに引っかけたのか、裏返っているスニーカーをのけて部屋へと上がり込む。 
 
「大丈夫か? クリス」 
「え……、俺? うん、もちろん」 
 
 クリスは心配を掛けぬように咄嗟に薄い笑みを浮かべた。大丈夫じゃないのはニールの方なのに。クリスは今日何度目かのその言葉をニールの背中へ向ける。 
 マットと自分は何度か顔を合わせたことがある程度の知人でしかないが、ニールは違う。自分と出会う何年も前から、ずっと共にバンドを続けてきた友人なのだ。 
 友人の死を目の当たりにしたニールのショックは、自分には想像もつかない。 
 マットの遺体に触れていた時、ニールは今までに見たことがないほど切ない表情をしていた。 
 最後まで一度も涙を見せなかったニールの、いつも通りの背中が余計に悲しくて、堪らなかった。 
 
 
 テーブルの上は出掛けた状態のままで、マグカップの中で珈琲が冷え切っている。 
 ニールはそれを手に取って、キッチンのシンクへと置いた。何か他にもっとするべき事があるのではと思う物の、疲れ切った頭の回転は停止したままで何も思いつかない。 
 そのままキッチンの水道を流してマグカップの中身を捨て洗剤のついたスポンジで軽く洗う。 
 人工的な甘ったるいオレンジの匂いが辺りに漂う。そういえば、この洗剤は匂いがきついので次回は別の物にしようと考えていたんだった。そんなどうでもいい事ばかり頭に浮かんでは消えていく。 
 
「どうする? とりあえず酒でも呑むか……」 
 
 後ろを振り向かないままニールが声をかけると、背後に立っていたクリスが小声で呟くのが聞こえた。 
 
「ニール、……俺、もしかして邪魔かな」 
――……? 
 
 洗い終わったマグカップを脇へ置いて水道を止める。 
 
「邪魔? 急になんの話だ」 
「いや……。こういう時ってさ、一人の方が気が楽なのかなって思って」 
「……」 
「俺、こんな事初めてで……どうしたらいいかわからないんだ。さっきから、ニールが気を遣って色々話しかけてくれてるのに、何も出来ない。俺がいると、ニール気を遣うだろ? だから、遠慮なく帰れって言ってくれていいよ」 
「……クリス」 
 
 振り向くと、クリスは俯いたまま睫を伏せていた。 
 そんなつもりは全く無かった。二人でいるのだから、何か話すのは普通の事だったし、何よりマットの事があったばかりで自分も何かを話して気を紛らわせていたいというのもある。 
 寧ろ、クリスが側に居てくれることに甘えているのは自分の方だ。 
 クリスの様子がおかしく感じたのは、今言った事を考えていたからなのだろう。 
 
「バカだな、何言ってんだ。邪魔なわけねぇだろ」 
 
 ニールはシンクにもたれかかり、煙草を取り出して咥えた。 
 短く吸って忙しなく紫煙を吐き出し、微笑んでクリスの腕を優しく叩く。 
 
「わかんねぇか? むしろ、感謝してる。だってそうだろ。お前がいなかったら、……一人で過ごす夜の長さに、殺されちまう……」 
 
 ニールはそう言って、切なげな苦笑いを浮かべた。 
 
「ニール……、俺……」 
 
 クリスはニールの目の前にゆっくりと近づくと、羽織っているニールのシャツを掴んだ。 
 
「クリス……?」 
「どうやったら、ニールが辛いのを消せるんだろう。俺じゃ、無理なのかな」 
「……、……」 
 
 クリスの言葉ひとつひとつが、乾いてひび割れた胸の中に、水を撒くようにしみこんでいく。 
 クリスが降らせる優しい雨は、大地を通って、ニール自身でさえ気付かない深い場所に辿りついていた。 
 自分の事をこんなにも心配してくれているのだ。 
 今夜だけの話ではない。今までだって何度も、クリスが側に居てくれたことで救われたことがある。近くに居たはずなのに、何も見えていなかった。クリスの気持ちに今更気付くなんて、本当にどうしようもない。 
 
 シャツを掴むクリスの手が小さく震えていて、その覚悟が伺い知れた。 
 ニールは短くなった煙草を最後に肺の奥深くにゆるりと吸い込み、後ろのシンクへと捨てた。残っている水たまりに落ちた吸い殻は水を吸って、音もなく巻いている紙を広げた。 
 
 遠慮がちに伸ばされた腕とニールの身体の間には隙間がある。 
 この僅か六インチほどの隙間がこれまでのクリスとの関係の境界線だ。 
 ニールの喉仏が、飲みこむ空気で上下する。 
 腕がゆっくりと上がる。 
 開かれた指先は、クリスの身体に触れながら境界線を跨いでクリスの腰へと回された。 
 
「……いいのか?」 
 
 ニールが囁く一言に返事をするようにクリスの手に僅かに力が入る。 
 その隙間を埋めるように、ニールはクリスの身体をゆっくりと強く抱き寄せた。親友の関係が形を変える瞬間、互いの心臓がドクンと跳ねた。 
 
「ニール……っ、……」 
 
 腕の中のクリスの背中が堪えるように小さく震え。次第にその回数は増えて、抱き締めているニールのシャツにクリスの涙が次々としみていった。静かな部屋にクリスの押し殺した細い声が響く。 
 
「……クリス?」 
「…………」 
「なんで、お前が泣いてんだよ」 
「泣いてない」 
 
 クリスはそう言い張って、片方の腕を外すとゴシゴシと目を擦った。だけど、いくら擦っても溢れてくる涙が止まらず、鼻先まで赤くなっていく。濡れた睫が色を濃くして影を落としていた。 
 少し身体を離してじっと見つめるニールの優しげな視線に、観念したクリスが腕で顔を隠し涙で濡れた唇を開く。 
 
「ニールが泣けないから、俺が代理で泣いてるんだ。だから……俺が泣いてるわけじゃないよ」 
 
 クリスらしい言い種に、ニールは苦笑した。 
 クリスが泣いているのを初めて見た。いつも明るくて少し強がりで、そんなクリスが初めて泣いたのが、他の誰のためでも自らの悲しみでもなく、ニールの為だということ。本当に参ったなと思う。 
 
「ったく……、お人好しにも程があんだろ」 
 
 クリスを抱き締めながら、今まで我慢していた感情が一気に膨れあがっていくのを感じた。 
 いとも簡単に決壊したそれは、抑えようとしても制御できないままで……。 
 
 過去の自分から繋がる道は曲がりくねっていて、いつだって先が見えなかった。それでも、一人で立って歩いてきたのだ。バンドのメンバー、アンディ、そしてマットも、いつだって自分の隣には並んで歩く誰かがいたはずなのに、気付くことさえなかった。 
 
 こうして立ち止まって見渡せば、道の先は眩しいほどに明るくて、標識が幾つもある。 
 そして今、クリスが、一つの標識の前で自分を呼んでいた。 
 
 子供の頃習ったことわざがある。”It’s always darkest before the dawn”(夜明け前がいつも一番暗い)ってやつだ。意味がわからなかった。明け方になれば徐々に明るくなるのに、おかしな言葉だと思っていた。大人になってからそれは”明けない夜はない”という意味だとわかったけれど、本当の意味は理解していなかったのかも知れない。 
 今なら少しわかる気がする。 
 
 夜の終わりを切り開くのは結局自分しかいない。 
 だけど、どこへ歩いて行くのか、その先を選べるのもまた自分だけなのだ。明るい未来が何マイル先にあろうとも、それを選択すればいつかは辿り着ける。簡単な事だ。クリスが呼ぶ方へ、ニールは足を向けた。 
 
「……だっせぇな……俺、……」 
 
 ニールが掌で両目を覆う。 
 大きな掌の隙間から、一筋こぼれ落ちた雫は、つぅと頬を流れる。 
 人前で泣いたのは今夜が初めてだった。