──RIFF 19 
 
 
 
 マットの叔父に当たる人物から電話があり、葬儀の日程を知らされたのは翌日の夜。 
 滅多に出番のないダークスーツは、どこにしまったかの記憶も薄らいでいた。同年代の、しかもこんなに身近で『死』が訪れたことが未だに信じられない。 
 
 やっと探し出したスーツを壁に掛けた物の、常に視界にそれが写り込む事で繰り返し思い出す――あの晩に見たマットの顔。膨大な記憶の中で、まるでそこだけ印がついているかのようにくっきりと浮かび上がるそれに、溜め息も枯れそうだ。 
 ニールはスーツを掛けたハンガーの上に、いつも着ているくたびれた革のライダースを被せた。 
 
 部屋の灰皿には、未だクリスが吸っていた吸い殻が残されたままだ。 
 空になった缶を手に取って片付けながら、あの夜の事をぼんやりと思い出す。 
 マットのアパートから戻った後、結局眠ることもなく、かすかな夜明けの空気を肌で感じつつ、クリスと酒を呑みながら色々な話をした。故人を送り出す際、残された人間が一番早く立ち直るには、気が済むまで、その故人の想い出を語ることらしい。 
 クリスがそれを知っていたのかどうかはわからない。 
 だけど、いつになくマットの事を聞いてくるクリスに、今まで話したことが無いような事まで話して聞かせている自分がいた。 
 
 酒を呑んではひとつ。一本煙草を吸ってはひとつ。悲しさをごまかす苦笑いと、純粋な懐かしさ。実感の湧かない友の死を語っているうちに、少しずつ心の中が整理されていく。 
 クリスは優しげな笑みを浮かべ、時には目元を潤ませ、ニールの話ひとつひとつに耳を傾けていた。静かな時間だった。 
 山のようになっている灰皿にある吸い殻と同じ数だけ、マットの事を話したのだ。 
 こんなに話すのは初めてで、自分でもここまで色々と覚えていた事に感心しそうになったぐらいだ。 
 
 そして、あの夜話したのはマットの事だけではない。 
 これは、この件に関係なく最初からクリスに話そうと思っていたことだ。アンディとの事、過去に在籍していたバンドの事、そして……昔はボーカルをやっていた事。 
 一番驚いたのは、クリスがシアトル時代の自分のバンドを知っていて、そのボーカルがニールだったと気付いていたことだ。 
 
「……いつから?」 
 そう言ったニールに、クリスは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。 
「俺、ファンだったんだ。ずっと憧れてて……。ライブにも一度行ったんだよ」と。 
 
 咄嗟に返す言葉が思い浮かばなかった。 
 鏡を見たら、自分は相当に呆けた表情をしていただろうと想像がつく。 
 クリス曰く、少し前にクリスの自宅に泊まった際、口ずさんでいた歌声を聞いて確信したらしい。 
 勘がいいとか、そんな問題ではなく、過去と現在の複雑な重なり具合に、言葉では言い表せない不思議な感覚を覚えた。 
 
 歌の歌詞にも、ヒットを飛ばす映画の中にも『奇跡』や『運命』といった形の無い物は度々登場する。 
 色とりどりのエピソードで着飾ったそれらは、筋書きの中で眩しいほどに輝いて、時には恋人達を結ぶ役目を果たし、時には抗えないそれに翻弄されて破滅に向かわせたりする。 
 普通に生活をしている中では気付くこともない、自分には縁のない言葉だと思っていた。 
 
 今だって、過去を知るクリスに出会ったのが、運命だったなんて思っちゃいない。 
 それでも、そう考えさせる程度に、今はその言葉の持つ意味を噛みしめていた。 
 ニールは灰皿を逆さまにして吸い殻入れに全てを放り込むと、アルミの蓋をそっと閉めた。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 葬儀が行われたのは、事故のあった日から三日後だった。 
 身内だけで家族葬をやるとの事で、ニール達が参加したのは葬儀場でのビューイングだけだ。バンドのメンバー全員とクリス、ニールが連絡した事でアンディも駆けつけた。 
 
 電話口で事実を知ったアンディは言葉を失っていた。 
 当然だろう。数日前にマットと会っていたのだから。何の冗談かと問われてもおかしくない状況だ。 
 互いに続く長い沈黙の末、電話越しにアンディが言った一言。 
 
「三人で会うのは、これが最後なんだな……」 
「……ああ」 
 
 アンディと会った夜、最後に『いつか、三人で会えたらいい』と言ったのは自分だ。望んでいたそれが、叶う事はもう永遠にないと改めて実感した。そんな事を、あの時は考えもしなかったのに。 
 互いの思いを噛みしめ、最後に「じゃぁ、現地で」と電話を切った。 
 
 ビューイング当日、こんな形で再びアンディと顔を合わせる日が来るとは思ってもおらず、互いに見慣れないスーツ姿のまま交わした挨拶は、どことなくぎこちない物になった。 
 親族の意向で生花は受け付けておらず、その分は薬物治療の施設への寄付という形を取っていたため、それに倣ってSympathy Cardのみを贈る。 
 マットは片親で、その母親も再婚しておりほとんど家族との縁は切れていたようだ。 
 それでも、離婚していた父親の弟である叔父とはたまに連絡を取っていたらしく、今回もその彼が場を仕切っていた。 
 自分達以外にはほとんど人もおらず、静かな会場でポツリポツリと別れを告げに来る人達がいる程度だ。 
 参加していたその場の人間と、故人についての想い出を語りながら静かに悼む。 
 
 ニールは話の輪から抜けると、マットの方へと足を向けた。 
 横たわる巨大なマホガニーの柩。 
 やけに厳かな雰囲気のそれは、古びた教会の中で浮いていた。鏡面のように磨き込まれた表面に教会の天井が映り込んでいる。三分の一ほどを開けたままにしてあるので、こうして顔を見ることが出来るのだ。 
 収められたマットは綺麗なエンバーミングを施されており、目を閉じているその様子はハイスクールの頃と全く変わっていない印象を受けた。マットはもう老いることもなく、永遠にこの姿のまま記憶に残るのだ。 
 
 父親の葬儀の時とは大違いだ。そう思った。 
 例の如く酔っぱらって路上に寝ていたところを車に跳ねられた父親は、死に様が酷かったせいで柩は閉じられたままだった。その柩の中にどんな花があったのか、否、花があったのかさえ知らない。 
 
 マットは綺麗な花で囲まれていて、ラベンダーの花から漂う芳しい匂いがニールの周りを満たしていた。今にも起き上がって、好きなバンドの話を楽しそうに語り出しそうだ。 
 ニールはマットの姿を見ながら、黙って僅かに眉を寄せた。 
 刻まれた眉間の皺から、込み上げる悲しみをにがす。 
 
 マットの崇拝していたバンドのボーカルも、若くしてこの世を去った一人だ。唐突にそんな事を思いだした。短いロック人生を、死に急ぐように突き進むその様が強烈に輝いて見え、そのカリスマ性に魅了されたファンからカルト的な支持を得ていたバンドだった。彼の死後、後追い自殺をした若者が何人もいてニュースになったぐらいだ。 
 
 学生時代のマットの部屋には、そのバンドのポスターが天井にまで貼ってあって、当時は髪型も服装もそのボーカルの影響を強く受けていた。 
 今もついている鼻から耳に繋がった鎖状のピアス。これも、そのボーカルのトレードマークだったものだ。 
 だからって……。 
 
――こんな事まで、真似する馬鹿がいるかよ……。死んじまったら終いじゃねぇか……。 
 
 柩の中のマットの髪に触れ、ニールは心の中で呟いた。声に出したところで、もうマットから返事が戻ってくることはないけれど。感傷的な気分を追い払うように、ニールは自らの呼吸に集中した。 
 俯いたニールの長い前髪が揺れ、その表情を隠す。 
 
 ニールは一つ息を吐き、柩から離れてクリスの側へ寄った。 
 淡い髪色が薄い影を落としているクリスの肩に触れる。 
 
「クリス。俺、ちょっと一服してくるわ」 
 
 振り向いたクリスは、「うん、わかった」とすぐに頷いたが、その表情に少し心配げな色が浮かんでいる。 
 
「すぐ戻るって」 
 
 安心させるようにクリスの頭上に一度大きな手を置き、ニールは背を向けた。 
 最初に紹介したアンディと気があったようで、クリスは今もアンディと話中だった。ニールは部屋を出て廊下を少し歩き喫煙所へ向かった。 
 
 着慣れないダークスーツの窮屈さに疲れ、ネクタイを緩めながら歩く。 
 喫煙所といっても、教会の庭の片隅に灰皿があるだけだ。周囲の申し訳程度の柵は修繕を繰り返しているせいであちこちが傷んでおり、寄りかかりでもしたら簡単に倒れてしまいそうだ。 
 到着してみると最初は誰も居なかった。 
 胸ポケットから煙草を取り出して咥え、空を見上げる。あまり天気は良くない。霞んだ鈍い灰色の空。薄日が差し込む中庭は冷え冷えとしている。 
 田舎町の小さな教会だが、雰囲気は悪くない。目まぐるしいほどに変化する都心部で生活をしていると、こういったゆったりとした時間の流れを忘れがちだ。 
 
 一本目を吸い終わり、二本目を取り出した頃、遠くの方からマットの叔父が歩いてくるのが見えた。彼も煙草を吸うのかと予め少し奥へ移動して場所を開けたが、どうやらすぐに煙草を吸う気はないらしい。 
 ニールの側まできて足を止めた彼は、穏やかな笑みを浮かべてニールへと声をかけた。 
 
「今日は、甥のためにわざわざ来てくれて有難う」 
 
 咄嗟に話しかけられた事で、ニールは慌てて吸いかけのタバコを灰皿へと捨て軽く会釈をした。 
 マットの叔父は恰幅のよい人の良さそうな紳士で、先程までは皆に交じって話をしていたのだ。改まって礼を言われるとなんと返して良いかわからない。 
 
「ああ、一服中に急に声をかけてすまないね。気にせず吸ってくれていいよ。君が、ニールであってるかい?」 
「そうです」 
「マットから時々話は聞いていたから、どんな友人なんだろうと思っていたんだ。さっき、カードで君の名前を見て、『ああ、君がニールなんだな』と納得したよ。格好よくて凄く歌がうまい友人がいるって聞いていたんでね。想像通りだったな」 
 
 否定も肯定もしづらい言葉である。 
「……マットが、そんな話を?」 
 ニールは苦笑して、浅く息を吐いた。 
 
「ああ。彼は君に憧れていたみたいだった。君のことを話すときはいつもより電話が長くなって。……それも、数年前までの話だけど……。ここ一年ちょっと、中々連絡をする機会もなくてね、まさか、こんな事になるとは……」 
「……本当に、俺も残念です」 
「……そうだね。でも、今日はとても良い日だ。沢山の友人がマットに会いに来てくれて、僕も嬉しいよ。彼もきっと喜んでいるんだろうな」 
「そうですね」 
「ところで……。ひとつ、折り入って君にお願いがあるんだが、聞いてくれるかい?」 
 
 本題と言った所か、彼はニールの視線に真っ直ぐ向き合った。 
 
「お願い? 俺に、出来る事だったら」 
「明後日、マットのアパートを引き払うにあたって、遺品の整理に行く事になっていてね。その時、君にも顔を出して欲しいんだ。時間は取らせない、少しの間でいい。予定があったら無理にとは言えないけど、都合を付けられないかな?」 
「わかりました。でも、……どうして俺が?」 
「見ての通り……、マットは家族に縁がなくてね。僕と、あと遠方に居てこれなかった親戚が一人、それぐらいしかいないんだ。マットの事をよく知る友人である君に、彼が生きていた証しを、ひとつでいいから受け取って欲しくてね。形見として、持っていて欲しい。それを選びに来て貰いたいんだ。ダメかい?」 
「いえ……。そういう事なら、時間を作ります」 
「そうか。良かったよ。ほとんどは処分することになると思うけど、君が選んでくれたらマットも凄く喜ぶと思うんだ。我が儘を聞いてくれて有難う。マットに代わって礼を言うよ」 
「そんな……。マットのために、何か俺が出来る事があるなら、光栄です」 
 
 その後連絡先を聞いて、その日にマットのアパートに出向くことをその場で約束した。 
 徐に彼が取り出した煙草はマットと同じ銘柄だった。唯一の肉親として繋がりがあった彼からも、マットは影響を受けていたのかも知れない。 
 互いに会話もないまま紫煙を燻らせる。 
 吹く風が冷たくて、スーツだけしか着ていない身体には少々堪える。靡く細い煙が尽きる頃、彼は静かに口を開いた。 
 本来ならば、家族にしか知らされないであろう今回の事件の詳細を……。 
 
 静かに事実だけを口にする彼の話を聞きながら、悲しみより悔しさが込み上げた。あのクソみたいな警官が言っていたことはやはり間違っていたのだ。 
 マットは自殺ではなく、泥酔状態での入浴で起きた不慮の事故だったらしい。 
 それともう一つ。彼の言っていた言葉に思わず息を呑んだ。 
 
「検死の結果なんだけど、マットからは薬物反応は一切出なかったそうだ」 
「……え」 
「一番長く痕跡が残る毛根は、一週間ぐらいは反応がある物らしいけど、それも陰性だったんだ……。その結果と現場の検証報告を合わせると、クスリを断とうとしていたんだろうって、ね。まぁ、あくまで予想でしかないんだが。もしそれが真実なら……、過去はどうであれ、僕は、自分を大切にする事に気付いた甥を、誇りに思う」 
 
 そう言い切った彼は涙を堪えるように唇を引き結んだ。ニールは忙しなく肺の奥深くを何度も煙で満たすと悔しげに奥歯をギリッと噛みしめた。 
 
「……」 
 
 アンディに自分から言った通り、本当にマットはクスリを断つつもりだったのだ。 
 ヘブンスは沢山自宅にあって押収されたようだが、どれも手を付けておらず真新しい物だったそうだ。それを打つ注射器などの道具でさえ全て処分されていて、みつからなかったらしい。 
 マットが覚悟を決めて新しい人生をやり直すつもりだった証拠だと思う。 
 
 あの夜が、区切りを付ける最後のパーティーだったのかも知れない。 
 アンディをニールに合わせたのも、心境の変化がマットの中に起こっていたからなのだろう。そう思うと益々やりきれない思いが募る一方だった。 
 生きようとしていた人間に訪れた、あまりに早すぎた死。 
 あっけなく幕を閉じたマットの人生に、自分はもっと何かしてやれなかったのだろうか。今更そんな事を考えてしまいそうになる。 
 ニールは、スーツのジャケットの襟を正すと、礼を言った。 
 
「話、聞かせてくれて有難うございました。知ることが出来て、本当に良かった」 
「いや、こちらこそ。聞いてくれて有難う。じゃぁ……ごゆっくり。僕は戻るよ」 
 
 背を向けて遠ざかっていく背中を見送りながら、ニールは背後にある蔦の這った塀に背を預けた。 
 目一杯蔓を伸ばす強い生命力の奥から伝わる塀の冷たい温度、側にある青々としたその葉からは命の匂いがした。