オルゴールのようなメロディが耳に届き、晶は読みかけの雑誌から顔をあげた。 
 
『まもなく、終点、新大阪です。お降りの際は、足元にご注意ください。今日も、新幹線をご利用くださいまして、有難うございました』 
 
 いつもは夜の時間帯に乗ることが多く、こんな早い時間に乗るのは久し振りだ。想像していたよりずっと早い到着に、晶は同じ姿勢で凝りかたまった首を回した。暇だった時の為に持参していた雑誌は二冊も読んでいないし、車内で食べようと思って弁当と一緒に買った菓子は、手をつけてすらいない。 
 新幹線に乗ったら、まずは駅弁を食べる! という、日中ならではの旅行気分を楽しみにしていたので二個買ってしまったのがそもそもの誤算だった。 
 流石に二個同時に食べきると腹が一杯になり、菓子を食べるほどの余裕がなくなってしまったのだ。そして、腹が満たされれば眠たくなる。人間の本能ってやつだ。 
 
 というわけで、少しの時間うたた寝をしたが、それは、信二によってすぐに妨げられた。 
 今日は楠原が出掛けており「夕方まで、暇なんっすよね」が理由らしい。楠原の代理で暇を潰す相手に選ばれたことに文句を言いたくなりながらも「仕方ねぇな」と相手をしている自分は、わかっているが、信二に甘い。 
 
 一度も新幹線に乗ったことがないという信二がグループチャットで写真をせがむので、窓から見える景色や駅弁、車内の様子などを携帯で撮っては送っていたので寝ている時間もほとんどなかった。いつもはこっそり大阪へ向かうのだが、今回は皆と話しているときにうっかり口を滑らせてしまったのが原因だから、半分は自業自得である。 
 散らかしていた座席周りを片付け、もう一度携帯を見る。 
 
「7月7日か……」 
――ん? 七夕、今日じゃん!? 
 
 7/7が七夕なのは勿論知っていて、LISKDRUGでも笹を飾り、つい先日まで連日七夕ナイトというイベントを開催していたのだ。ホストクラブはなにかにつけてイベントを開催するので○○ナイトの○○部分は月に何度もあったりする。 
 しかし、あまりにも前からそれをしていたので感覚が麻痺していた。 
 
 今日が七夕だったなんて、これは最高の運命なのではないか。晶は満足そうに一人で頷いた。中々会えない恋人達が、天の川を渡ってデートをする日。まるで自分達のようでロマンチックだ。まぁ、彦星が彦星に会いに行くというイレギュラーな七夕ではあるが……。 
 
 
 車内アナウンス通り、無事に新幹線が新大阪駅に到着し、晶はホームへと降りた。気のせいなのはわかっているが、東京とは空気が違う気がする。空になった弁当の入れ物をゴミ箱へと捨て、サングラスを掛けると足早に構内を歩く。 
 天気も良い絶好の行楽日和の今日は、人の行き来も多い。 
 
 急に行って驚かせてやろうという作戦だったが、歩きながらフと不安になった。恋をしている人間は時に些細な事でも不安になる。それは、男でも女でも同じはずだ。 
 勿論佐伯の予定は調査済みである。それとなく何回かに分けて休みの日を聞き出した。調査の結果、昨日から佐伯は休みのはずなのだ。 
 何も無ければの話だけれど……、晶はボソッと呟く。しかし、休日なのだからもしかしたら出かけている可能性は大いにあり得る。 
 サプライズも捨てがたいが、アポなしでこんな所まで来て無駄足でしたというオチは、なんとしてでも避けたい。天秤に掛ければ、やはり連絡を先に入れる方に落ち着いた。 
 
――仕方ないな……。……ん? 
 
 先程からすれ違う人からの視線をやけに感じると思ったら、どうやら心の声が漏れていたらしい事に気付いた。 
 金髪サングラス、派手な格好の男がブツブツと独り言を言って歩いているのは、誰が見ても怪しい。晶は慌てて口を噤んだ。 
 最近、店でも気付かぬうちによく独り言を言っているらしく、先日も楠原に「何か悩みがあるなら、僕で良ければ聞きますけど」と心配されてしまったのだ。 
 
 晶は気を取り直し、歩きながら渋々携帯を取り出すと佐伯へと連絡を入れた。よく使う相手ページの中頃に佐伯の名前がある。 
 それにしても今日は暑い。ただ歩いているだけなのに、伸びてきた襟足がかかる首筋に手をやると、指先が汗で少し濡れた。 
 中々電話に出ない佐伯に焦れること数十秒。あとワンコールで留守番センターに繋がる直前で佐伯はようやく電話に出てきた。 
 
『……はい』 
 
 いつにもまして不機嫌そうな声に、晶はやれやれと肩を竦める。 
 
「俺だけど。なに、もしかして寝てたとか? おいおい、もう3時過ぎだぜ?」 
『……もうそんな時間か』 
 
 こんな時間まで佐伯が寝ているなんて夜勤明けでもない日に珍しい。周囲がうるさすぎるせいか、佐伯の声がやけに聞き取りづらくて、晶は携帯をより強く耳へと押し当てた。 
 
「こんな時間まで寝てるとか、珍しくね? まぁ、たまにはゆっくりしねぇとだけどさ。今、家?」 
『そうだが、用件はなんだ』 
「用件っつーか。俺さ、今どこにいると思う?」 
 
――もしかして大阪なのか!? 会いに来てくれたんだな。 
 これは希望するリアクション。 
 しかし実際が甘くないのは重々承知している。ある意味期待を裏切らない佐伯の返答が返ってきた。 
 
『日本』 
 
 正解である。まさに今晶は日本にいる。だけどそうじゃない。 
 
「はいはい、日本日本。ってか、当てようって気もねぇのかよ。しょうがねぇなー。俺さ、今なんと!! 大阪にいるんだぜ」 
 どうだ? さすがに驚いたか。確かに佐伯は驚いてはいた。 
『大阪……だと? 何しに来た』 
「何しにって、たこ焼き食いにとか? ないない。要に会う以外にないっしょ」 
『そうか』 
 短く返された言葉は、とても喜んでいるとは思えない。続く言葉は、プラスして歯切れも悪かった。 
『悪いが、……今日は会えん。観光でもした後、そのまま帰れ』 
 
 思わず足が止まった。 
 貴重な休日、新幹線に乗ってまでわざわざ会いに来た恋人に「帰れ」は酷すぎる。酷すぎる王決定戦があったら、優勝できるぐらい酷すぎる。 
 
 流石に腹が立って言い返してやろうとした瞬間、耳をあてている携帯の向こうから咳き込む声が聞こえた。佐伯だって、咳をすることぐらいはあるだろうが、そういう普段の咳とは違うように聞こえる。 
 なかなか受話口に戻ってこない佐伯に、気分は180度怒りから心配に振り切った。もしかして……、予期せぬ事態を察し、晶は眉を顰めた。 
 
「要……? ……もしかして、体調悪ぃとか? すげぇ、咳してっけど、大丈夫かよ」 
 
 心配という感情は、怒りをいとも容易く凌駕する。佐伯が体調を崩しているのだとしたら、こんな時間に寝ていたという事にも合点がいく。 
 返事の返ってこない携帯に焦り、晶はもう一度声をかけた。 
 
「なぁ、マジ、大丈夫?」 
 
 沈黙が続き、暫くしてあまり大丈夫そうではない佐伯の声が聞こえた。聞き取りづらいのは、周囲の雑音のせいじゃない。佐伯がいつもより声が小さいせいだ。 
 
『大丈夫だ、問題ない。……だが、家には来るな。いいな』 
「いや、ちょっと待てよ。体調悪ぃのに一人なんだろ? 飯とかどうしてんだよ。色々不便なんじゃねぇの」 
『少し体調を崩しているだけで、たいした事は無い。飯もちゃんと食ってるから安心しろ。後日、俺からまた連絡を入れる。じゃぁ、そういうわけで……切るぞ』 
「あ、ちょっ! おい! 要っ!」 
 
 ツーツーという勝手に切られた電子音を聞き、仕方なく電話を耳から離す。少し体調を崩しているだけという佐伯の言い分は、本人の様子を見てみないことには信じられない。だけど、佐伯の考えている事も当然だがわかった。 
 恐らく、自分へ感染す事を危惧しているのだ。それに、余計な心配をさせたくないのだろう。 
 佐伯はよく「お前の考えている事など、すぐわかる」と言ってくるが、それはお互い様だ。だからこそ、余計に放っておけない事態なのだ。 
 
 ただ一つ問題があった。自分は、看病をした事が無いという事だ。医者の佐伯相手に何が出来るかと問われれば、本当に何も思い浮かばない。晶は「ああ……」と低く呟き、空を仰いだ。 
 
「どうすっかなぁ……」 
 
 駅を出たはいいものの、慣れない街で右も左もわからない。何度かは佐伯のマンションに行ったことはあるが、いつも直行なので全く地理が頭に入っていないのだ。佐伯は「観光でも」と言っていたが、佐伯が寝込んでいるのを知っていて、自分だけ楽しく観光をする気分にも到底なれそうにない。しかも一人で。 
 
 晶の脳内でルーレットのように考えがぐるりと一周し、ピタリと止まった。これは、ある意味ラッキーなのだという結論に。物事のメリットを強引に引っ張りだすのが得意な晶は、ここぞとばかりに本領を発揮した。 
 例え佐伯が寝込んでいると知った所で、普段のように離れていたらいくら心配でもすぐに様子を見に行くのは無理だ。せいぜい電話で様子を窺って気を揉むのが精一杯。しかし今は違う。すぐに会いに行けるのだ。 
 こんな最高の偶然があるだろうか。いや、ない。 
 
 体調が悪くて一人で寝ているのは心細いだろうし、ここはひとつ自分が行って邪魔にならない程度に看病しつつ励ます必要がある。晶は、心配でたまらない気持ちを、建前で丸ごと包んで隠した。 
 
「んじゃ、行くか」 
 
 晶は歩きながら、先程車内で写真を送っていた信二とのグループ画面を開いた。看病と言えば、定番のメニューは粥。それは間違いないはずだ。 
 
『信二まだいる?』 
 
 うちこむと数分してすぐに吹き出しが返ってくる。 
 
『あれ? 晶先輩、今大阪エンジョイ勢じゃないんっすか??』 
『いやまぁ、そうなんだけどさ。それより、ちょっと聞きたい事があんだよ。粥の作り方教えてくれ』 
『粥って、米の? 急にどうしたんっすか』 
『もしかしたら作るかも知れねぇから、聞いておこうと思ってさ。あ、簡単なやつな、俺でも出来そうなやつで、真っ白のじゃなくてなんか栄養あるやつ』 
『そうっすね……。んじゃ、ネギと卵の粥とかどうっすか? 念の為言っとくと、ネギはタマネギじゃない方の、長いやつのほうっす。上が緑の、わかりますか?』 
『わかるに決まってんだろ』 
 
 晶が相手だとわかっているからこその『上が緑』という但し書きに、画面を見ながら思わず吹き出した。長い方のネギと言われれば名称がわからずともその時点で脳内に絵が浮かぶ。晶を知り尽くしている信二だからこその気遣いだ。 
 
『じゃ作り方と材料書いて、このあと送っときますね』 
『それ普通にイケてる粥なんだろうな? 不味いとやばいんだよ。俺が食うわけじゃねぇからさ』 
『大丈夫っすよ、味付けを間違えなければ。イケてるかどうかはわかんないっすけど。ていうか、イケてる粥ってどんなのっすか』 
『イケてる粥っつったら、食ったら一発で元気になるやつにきまってるっしょ』 
『なるほど。まぁ、そんな粥ないっすけどね。とりあえず、送ります』 
 
 その後、『はじめてのおかゆ』という児童書かと思うような、詳細が送られてきた。材料は、米と卵とネギ、塩、出汁の素、以上だ。ざっと読む限り、自分でも何とかなりそうである。晶は礼を打ち込んでグループ画面を閉じた。 
 
 ひとまずタクシー乗り場を探して乗り込み、佐伯の住所を告げる。タクシーの中は凍えるほど冷房が効いていて、滲んだ汗が瞬時に引いていった。座席シートに身を預けると、発進した運転手が目をキラキラさせて話しかけてくる。 
 
「お客さん、観光ですか? 大阪の人間じゃないでしょ?」 
「あ、わかります? 今、東京からきたばっかで」 
「だと思いました!」 
 
 晶がノリのいい乗客だとわかった途端大阪弁になった運転手は、歳は同じぐらい。前は芸人を目指していたというだけはあって話が面白い。おかげですぐに打ち解け、車内の時間は退屈せずに過ぎていった。 
 大阪の人間はノリがいいというのをテレビで何度も聞いたことがあるが、どうやら本当のようだ。同じサービス業として、人を楽しませる事の難しさを知っている晶からすれば、彼は相当な才能があるように思えた。 
 楽しい時間を過ごした礼にと多めの運賃を払い、釣り銭を受け取らずにタクシーから降りた。 
 マンションへ行く前に先程信二が送ってきた材料を買って行った方がいいかと思ったが、普段自炊をしている佐伯の事だから、これぐらいの材料は既にあるだろう。もしなければ、また買い出しに行けばいい。 
 流石にマンションの外観は覚えていたのですぐにわかりエントランスを抜けてエレベーターへと乗り込む。東京にある佐伯の自宅と比べるとこじんまりとした普通のマンションだ。マンション内の何室かを社宅として借り上げているらしく、佐伯曰く、よく職場の人間と会うので面倒らしい。 
 しかし、運よく、マンションの住人には一人も鉢合わせなかった。 
 
 エレベーターを目的の階で降りた所で、晶は一度足を止めた。 
 手摺りに腕を乗せ、晴れ渡った夏空を見上げながら、辺りに人が居ないことを確かめる。 
 晶の脳内では、息も絶え絶えに瀕死状態でベッドに横になる佐伯の図が完成しようとしていた。皮肉の一つを言う気力も無く、弱々しい佐伯。かなり想像が難しいが、予想しておけば、ショックも抑えられる。 
 
――よっ、具合はどうよ。心配だからきてやったぜ。 
 
 第一声にこれはまずいなと考える。そもそも「来るな」と言われているのだから「来てやった」と言うのは恩着せがましい。紛れもなくただの押しかけであるが、その行動を和らげたいという気持ちがあった。だったらこれはどうか。 
 
――来んなって言われたけど、心配だから、会いに来ちゃった。 
 
 無難にいい線をいっているとは思うが、佐伯を前にしてこれはちょっと恥ずかしい。「来ちゃった」じゃねぇだろ! 可愛すぎだろ俺!! さっきの運転手のノリがまだ残っていて激しく自分にツッコミが入る。 
 
 考えるだけ無駄な気がしてきて晶は一人でおかしくなり笑って手摺りから離れた。成り行き任せでいいやと諦め、佐伯の玄関前まで辿り着く。インターフォンを二回連続で押したが案の定すぐには反応が無かった。 
 中々出てこないのは、寝ているからだろう。 
 あまりに出てこないので、家の中で倒れているのではと心配になり携帯を取りだしたところで、漸く鍵の外れる音がした。しかし、いっこうに中からはドアが開かれない。 
 
――……ん? 鍵は今あいたよな……? 
 
 不思議に思った晶は、ドアの取っ手を握って少しずつ中の様子を窺った。 
 
「要……? 俺だけど……いるんだよな?」 
 
 中からは返事がない。思いきってドアを全開にすると、廊下の離れた場所に佐伯がパジャマ姿のまま立っていた。そして、同時に胸ポケットの携帯が振動する。 
 
『そのまま近寄らずに帰れ。顔は見たから満足だろう』 
 
 この文面を送ってきているのは、そこにいる佐伯だ。目の前にいる。息も絶え絶えで瀕死のはずが思っていたより元気そうだった。 
 
「あー……えーっと」 
 一人で呟き、晶は携帯をしまうと、とりあえず玄関に入って鍵を閉めた。 
「久し振り。とりあえずあがるけど、文句はナシな」 
 
 先程予め考えていた台詞とは全然違うことを口にした。 
 靴を脱いであがるのを佐伯は腕を組んだまま見ていたが、特に怒ることは無かった。そんな気力も無いのか、廊下の壁に寄りかかっているその姿は、元気に見えてもよくよく見ればいつもと違う。髪も若干乱れているし、明らかに顔色も悪い。しかも家の中なのにマスク装着済みだ。 
 
「大丈夫? ……じゃねぇだろうけど、……風邪?」 
「忠告を聞かん奴だな……」 
 
 呆れたようなそれでいて困ったような表情で、佐伯がゆっくり歩いてくる。しかし、手が届かぬ程度の距離を開けてピタリと足を止めた。晶の全身を眺め、僅かに頷く。 
 
「お前は元気そうだな」 
 
 晶が元気でいることに安心したのか、ほんの少し柔らかな口調の佐伯に愛しさが込み上げた。会いたかった気持ちが満たされれば、次が欲しくなる。もっともっとと貪欲な恋心を表に出さぬまま、晶はさらりと佐伯の視線をかわした。 
 
「俺から元気を取り上げたら、何も残らないっしょ。あと、マジ心配しなくていいから。俺にはうつんねーよ。結構丈夫だし」 
「俺だって身体は丈夫だ。免疫も抵抗力も一般の人間よりある。だが、こうして感染してる。その意味がわからないわけじゃないだろう。なんで来たんだ」 
「そうだけど、俺の性格知ってんだろ。来んなって言われて「わかりました」って素直に帰るとか思ってなかったくせに」 
 
 佐伯がやれやれと首を振って洗面所を指す。 
 
「まぁ、いい。帰れとはもう言わないが、出来る限りの事はちゃんとしろ。洗面所に新しいマスクの箱がある。お前も家にいる間はつけていろ。後、俺にはあまり近づくな。いいな」 
「わかったって、ちゃんとする。んじゃ、手洗ってつけてくるから、寝てていいぜ」 
「ああ」 
 
 寝室へと消えていった佐伯の言うとおり、ひとまず洗面で手洗いうがいをし、側にあったマスクを付ける。かなり大きめのマスクで、顔の半分以上が覆われた。マスクを付けるのはもの凄く久し振りである。ゴムに絡まった毛を指で引っ張り出すと、晶は鏡の中の自分をじっと見つめた。 
 少し様子を見て、本当に迷惑そうなら素直に帰るか……。 
 心の中でそう決め、佐伯の寝室へと向かった。 
 
 廊下は涼しかったのに、寝室のドアを開けると急にむわっとした空気が絡みつき、晶は眉を寄せた。もちろんその原因は佐伯だった。 
 寝ていていいと言ったはずなのに、佐伯は寝ておらず部屋にある窓を全開にして回っていたのだ。しかも咳き込みながら。 
 
「ちょ、何やってんの。言ってくれれば俺がやるし。病人は大人しく寝てろって」 
「換気だ。十分したら閉めろ」 
 
 深く息を吸い込んだ拍子に佐伯が咳き込む。 
 
「そりゃいいけどさ。マジ大丈夫?」 
 
 全部の窓を開けた後、大人しくベッドへ戻った佐伯は、少し息苦しそうに肩で息をしていた。ほんの少し動いただけなのにこの有様とは、どこが「少し体調を崩しているだけ」なのかと口元まで出掛かった。 
 開けている窓から冷房が逃げて、部屋がどんどん蒸し暑くなってくる。 
 風通しがいい部屋なのはいいことだが、入り込んでくるのは湿度の高いぬるい風なので不快感が凄い。晶は佐伯の指示通り少しベッドから離れた場所に椅子を引っ張ってきてひとまず腰を掛けた。 
 会えたのだからそれだけで良しとするが、近づくことさえ出来ないなんて……。 
 
「いつから具合悪ぃの?」 
「それを聞いてどうするんだ」 
 
 近くの電柱にでもとまっているのか、蝉の鳴き声がやけにうるさい。晶は椅子の背もたれに寄りかかって窓から射す光に眩しそうに目を細めた。 
 
「どうもしねーよ。ただ聞きたいだけ」 
 
 あまり言いたくないのかもしれない。佐伯が返事をするまでに蝉が3回鳴いた。 
 
「……一昨日からだな」 
「患者から風邪がうつったとか?」 
「まぁ、そんな所だ。こいう事態を防ぐために徹底した感染予防に気をつけているが……。100%は防げない。結果、この有様だ」 
 
 俺としたことが一生の不覚、と言わんばかりに佐伯は眉間の皺を深くした。 
 
「……そっか。……そういう事もあるって。でも、風邪なら良かったよ。もし俺がうつっても風邪ぐらい全然平気だし」 
「風邪と言っても、かなりたちの悪いウィルスだ。診察した患者は急性肺炎を起こして今入院している。感染する人間によっては風邪程度じゃすまない可能性も否定できん。俺は軽い方で済みそうだがな。だから、念の為ここには来るなと言ったんだ」 
 
 佐伯は心配そうに晶の方へ視線を向けた。 
 
「わかった。ちゃんと気をつけるから」 
 
 別に、佐伯の言うその性質の悪いウィルスを軽んじているわけではない。だから、自分なりに気をつけるつもりではいる。 
 そういえばずっと前に、何故医者は風邪を引かないのかと佐伯に聞いた事があった。その時佐伯は、今と同じ事を言っていた。 
 各種ワクチンは当然接種しているし、手洗いやうがいは勿論、その頻度は診察毎にしていて消毒も行うらしい。面倒くさくないのか? と晶が訊ねると、もう慣れていると言っていた。 
 それでも、引くときは引くと苦笑していたのを思い出す。 
 自分達が適当に過ごしていて感染するのは当たり前だなと、その時は感心した物だ。 
 佐伯は完璧主義だ。そこまで気を配っていたのに感染した自己管理の甘さに佐伯自身が一番悔しい思いをしているだろう。 
 
 晶はわざと軽い調子で医者の真似ごとをした。深刻に問えば、それだけ佐伯が気にすると思ったからだ。 
 
「じゃぁ、まず。今の症状から聞くとするかな。軽いって熱とかは? 今、何度? 他の症状は咳だけ?」 
 
 晶が続けざまに質問してくるのを受けて、佐伯はベッドの背もたれに寄りかかると少し愉快そうに笑って眼鏡を押し上げた。 
 
「問診のつもりか? たまには、逆も悪くないな」 
「だろ? 三上先生の言う事にはちゃんと答えろよ? で?」 
 
 佐伯は黙ったまま部屋にある時計を見てから枕元の体温計に手を伸ばした。今、熱が何度かを聞いたので測ろうという事なのだろうか。 
 晶が様子を窺っていると、1分後に体温計が音を鳴らした。 
 それを取り出し数値を確認した佐伯が、満足げに頷く。 
 
「38度8分だな」 
――え? 今ナンテ? 
 一瞬にして問診ごっこは終了した。 
 
 素に戻った晶が驚いて立ち上がり、佐伯から体温計を奪って数値を見直す。確かに佐伯の申告通りの数値がそこには表示されていた。とんでもない数値である。 
 
「めちゃくちゃ熱あんじゃん。どこが軽い方なんだっつーの。ってか、よく普通に起きてられんな」 
 確かにしんどそうではあるが、そんなに高熱がある状態には到底見えない。自分が前に同じぐらいの高熱が出た時を思い出して比べてみれば尚更だ。 
 無理して出勤した店で倒れ、信二に家まで送ってもらうほどフラフラになり、もう死ぬのかと思ったぐらいだ。 
 大人になってからの高熱は洒落にならないと身をもって知った。なのに、佐伯ときたら今だって普通に会話をしているし、普段との違いがそこまでない。それに、体温を測った後の満足げな様子の意味もわからなかった。 
 
――……もしかして、……普通に見えているけど実は……。 
 
 晶は体温計を棚に置くとハッとしたように佐伯に疑いの眼差しを向けた。高熱で頭がおかしくなったのではと考えたからだ。 
 
「要、しっかりしろよ。俺の事わかるよな? 俺、晶だけど」 
 佐伯が呆れたように腕を組んで溜め息をつく。 
「何の話だ」 
「いや、熱で頭イカれちゃったんじゃねぇかと思ってさ、俺がわかるか一応確認」 
「熱があろうがなかろうが、お前の間抜け面を、誰かと間違うわけがないだろう」 
 
 どうやら高熱でおかしくなったわけではないらしい。しかもこんな時でも、佐伯の減らず口は健在だ。『間抜け面』に反応することもなく、晶は慌てたように続けた。 
 
「いや、でもさ、そんなに高いとか、マジでやばいって。医者だけど病院行った方がいいって。あ、俺、ついて行ってやろうか」 
「問題ないと言っただろう」 
「いや、問題しかねぇだろ。余裕ぶってる場合かよ」 
 
 今すぐ無理矢理にでも病院へ引き摺っていく勢いで再び腰を上げた晶を、佐伯が宥める。 
 
「そうじゃない。まぁ、落ち着いて座れ。わかるように説明してやる」 
 
 当人はいたって冷静で、慌てているのは自分だけ。まずは佐伯の説明を聞いた方がいいのだろう。晶は、仕方なく腰を下ろすと、「それで?」と心配気に佐伯の様子を窺った。 
 
「熱が高いのは、あえて解熱剤を飲まずにここまで上げたからで、丁度時期的に今がピークだ。増悪ではなく予定通りだから、心配は要らん」 
「予定……?」 
 
 一体何の話をしているのだろうか。時期的に今がピークなど、桜の開花予想でも聞いている気分だ。 
 佐伯はベッドサイドに置いていた薬を、同じく置いてあったペットボトルで一気に飲み込んだ。ポカンとしている晶に、佐伯が自分で書いたらしいメモを見ながら説明を続ける。グラフのような物が紙の裏に透けて見えた。 
 
 初期症状を確認してから発熱するまでに9時間、体温の上昇は生体防御機構が正常に働いている証拠だそうで、この場合、途中で解熱せずあがりきるのを待ち、ピークを越えて下がってくるのに合わせて解熱剤を服用するのがベストな治療法だということだ。 
 なので、自身の変化のパターンをみて熱があがりきるのを待っていたという事らしい。人体実験かよと思わずツッコミそうになる。 
 
「今、解熱剤を飲んだから、暫くしたら熱は下がるはずだ。わかったか?」 
「ま、……まぁ。医者がそう言うならそうなんだろうけどさ……」 
 
 何となく言いくるめられた形になってしまったが、全て納得したという意味ではない。理論上は佐伯の言っている通りなのだろうが、これは講義ではなく本人の体の話だ。 
 あえて熱を上げようが、そうじゃなかろうが、現在高熱があるのは事実だ。熱が高ければ身体中が怠いはずだし、当人は相当に辛いはず。 
 
 普通の人間が想像する病人とあまりにも違いすぎて調子が狂う。 
 弱った佐伯を看病して励ますつもりが、佐伯は弱っていなくて、何故か自分が説得されていた。しかも、佐伯はこれ以上体調のことを話す気はないらしい。 
 
「俺の体調のことはもういい。それより、どうして今日、急にこっちへ来る事にしたんだ。先日の電話では、何も言っていなかったはずだが?」 
「いや、それは。だから……、言ったろ、会いたくなったから……。ホントは、内緒で来て驚かせようと思ってたんだって」 
 
 訊ねてきたくせに返事をしないまま見つめてくる佐伯の視線に気恥ずかしくなってくる。空気を読んだかのように急に鳴きやんだ蝉のせいで部屋が一気に静まりかえった。要らん事をする蝉を心の中で恨みながら、晶は沈黙を破るように口を開いた。 
 
「なんだよ。理由はそれだけで充分だろ。それに、要が具合悪ぃって聞いたら心配になるに決まってんじゃん。俺、駅から電話したとき、どうしようってマジで心配したんだぜ」 
「まぁ、そうだな。電話では、説明もせずに「帰れ」と言ったことは謝る。悪かった」 
「それは、……別にいいけど……。とりあえず、もう横になれよ。そうだ、冷たいタオルとかあったほうがいいよな。ちょっと用意してくるわ。眠ってていいから」 
 
 佐伯は、そんなに大袈裟にする必要は無いと言ってきたが、晶は構わず腰を上げた。浴室にある洗面器と、脱衣所にあったタオルを台所へ持っていき、水を入れて氷を浮かべる。手を浸してみると、ひんやりとして熱がない自分でも気持ちが良い。 
 寝室へ戻って佐伯の額に固く絞ったタオルをのせると、佐伯は抵抗せず大人しく目を閉じた。 
 
「冷たすぎる?」 
「いや、丁度いい」 
「時々かえてやるから、ゆっくり休めよ」 
 
 次第に寝息に変化していくのを見届けながら、見慣れないマスク姿の佐伯の顔をしばし眺める。高い鼻のせいで押し上げられたマスク、眼鏡を外し目を閉じる佐伯は、寝顔さえ綺麗な顔立ちだ。 
 佐伯から静かに離れ、換気のために開けていた窓へと足を向ける。もう十分はとっくに過ぎているので換気は十分だろう。ずっと開けていると冷房が逃げていくため暑くて仕方がない。 
 佐伯を起こさぬよう、なるべく音を立てないように最後の窓に手を掛け、そのまま暫く窓の外を眺めた。 
 
 窓から見える景色は馴染みのないもので、見た事の無い店の看板がビルの屋上に幾つもあり、知らない街だなと実感する。 
 地元から東京に出て来た時も、そういえば同じ感覚を味わった。まだ、大学生だった時の話だ。一人でいるのが寂しくて誰彼構わず電話した。そんな昔のことを思い出す。 
 佐伯は生まれも育ちも東京だ。こうして慣れない街で一人で生活していて、最初の頃は自分と同じような感覚になったりもしたのだろうか。 
 
 夕暮れにさしかかるオレンジ色の光が、今日の最後の力を振り絞って降り注ぐ。眠っている佐伯の顔も、それを見つめている晶の髪も姿も同じ色に染まる。 
 視線を移して窓の近くの電柱を見ると、一匹蝉が留まっているのが見えた。 
 先程から聞こえていた鳴き声はこいつのせいだろう。夏の夕暮れは、時にノスタルジックな気持ちを抱かせる。 
 いつもなら、そろそろ店へ向かっている時間だ。 
 晶は、ぬるくなった佐伯のタオルをもう一度浸して冷やすと、そっと額へとのせた。 
 
 リビングへ行っていようかと思ったが、たとえ近くに寄れなくても折角の時間を佐伯と共に過ごしたくて、新幹線に乗る際に買った雑誌を持ってきて読む事にした。 
 静かで涼しい室内にいると、眠くなってくる。最近睡眠時間が短い。今日は特に電車の都合上午前中に家を出たので、昨夜店から帰宅してほとんど寝ないままに電車へ乗り込んだのだ。蓄積されている分と合わせて、完全に寝不足である。 
 晶はうとうととして、誘われるままに壁により掛かり浅い眠りに落ちた。 
 
 
 
 それから一時間半後、晶が目を覚ますと部屋の中はすっかり暗くなっていた。ポケットに入れたままの携帯を取りだして時刻を確認しびっくりする。少し仮眠をするだけのはずが、本格的に寝入っていたらしい。佐伯のタオルをしばらく変えていないことに気付いて立ち上がり、ベッドの方へ目を向けると佐伯の姿がなかった。 
 
――あれ!? 
 
 トイレにでも行っているのか。額にのせていたタオルは洗面器の縁に掛けてある。様子を見に寝室のドアに向かった晶は、廊下に出るなり佐伯の名を呼んだ。 
 
「要、どこ?」 
 
 窓のない真っ暗な廊下、洗面とトイレがある場所には灯りが点いておらず、廊下の先のリビングの方から光が漏れていた。キッチンと繋がっているドアに近づくと、佐伯が咳をしている声が小さく聞こえハッとする。急いで入っていくと、ソファに座り身体を折るようにして激しく咳き込んでいる佐伯の背中が見えた。 
 
――要!? 
 
 胸がドクンと跳ね、指先が冷たくなる。 
 晶が駆け寄ると、一人だからとマスクを外していた佐伯が晶の存在を一瞥した途端顔を背けた。 
「今、近くに来るな」と咳の合間に口にする。その言葉に一度足を止めた物の、そんな事を聞きいれられる状況ではない。 
 躊躇いを捨てて佐伯の傍に寄り、汗ばんだ佐伯の背中に手を当てて何度もさすった。 
 
「おい、どうしたんだよ! 本当に大丈夫なのかよ!? なんか持ってくる? 俺に出来ることねぇの!?」 
 
 佐伯は「必要ない」というように首を振り、そんな状態でも晶を避ける為に腰を浮かせ立ち上がろうとした。 
「ばか、何してんだよ! いいから座れって!」 
 佐伯を怒鳴りつけて肩を押しつけ座らせる。 
 
 部屋中に響くような咳は中々止まらず、このまま血でも吐くのではないかと思ってしまうような勢いだ。想像しただけで怖い。晶へ向けないよう、咳き込む口元をパジャマの肘で覆う佐伯の背中が苦しそうに揺れるのと比例して、晶の心拍数も上がっていった。 
 佐伯の背に当てた自分の手にも汗が滲む。 
 
 目の前のソファテーブルに置かれているコップを取ろうと腕を伸ばす佐伯に気付いて、晶はすぐにそれを手にして渡した。 
 咳の合間に少しずつ喉を湿らせるように水分をとり、佐伯の咳は次第に落ち着いた様子を見せた。 
 
「ど、どう? 治まった?」 
「……、」 
 
 佐伯は短く息を吸うと返事の代わりに頷いて額に浮かぶ汗を拭った。晶の全身から緊張が抜け、同時に、詰めていた息を吐き出す。 
 
「マジ、ビックリした……。気付いたらベッドにいねぇし……、すげぇ心配しただろ」 
 
 佐伯は側に外してあったマスクをすぐに付けると「もう大丈夫だ」と言いつつも、疲れ切ったように目を閉じ、浅い呼吸を繰り返した。 
 見ているだけで息苦しそうな様子で、心配すぎてどうしていいかわからなくなる。 
 
「いつ起きたんだよ。ていうか、何してんのこんな所で、寝てなきゃダメだろ」 
 
 佐伯は何度か空咳をして眉を顰めると、暑くなったのかパジャマの袖を腕まで捲り上げた。逞しい腕に浮かび上がる太い血管は、佐伯がこめかみを強く押さえる度に浮かび上がった。 
 
「咳が一度出だすと、止まらない。だから、水を飲みに来ただけだ。そう騒ぐようなことじゃない。心配するな」 
「何言ってんだよ、心配するに決まってんだろ! なんで俺を起こさないんだよ。なんのために、俺がいると思ってんの。マジ信じらんねぇ。強がるのもいい加減にしねぇと、俺もマジ切れっからな」 
 
 佐伯は漸く整った息を長く吐けるようになったようで、腰を浮かせると晶と距離をあけた。ソファの背もたれによりかかり、心配すぎて語気を強める晶の方へ振り向く。 
 
「……なんだよ」 
「お前、昨日店から帰って、ほとんど寝ないままこっちへ来ただろう」 
「そ、そんな事ねぇし。仮にそうでも、別にいいだろ。俺の事は」 
「寝不足は、少しは解消されたのか? 部屋でみた時、少し顔色が悪いように見えた」 
「……だから、別に寝不足じゃねぇって、……言ってんじゃん……マジ、意味分かんねぇし」 
「気持ちよさそうに寝ていたからな。起こさなかっただけだ。別に強がっているわけじゃない」 
 
 どんな理由だよ。 
 晶は溜め息をつくと拗ねたように佐伯から視線を逸らした。自分の方がしんどいくせに、ただの寝不足でうたた寝していただけの自分に気を遣って起こさないとか、ありえない。寝てしまった自分が悪いとも言えるけれど。 
 
 佐伯は、もう一度水を汲んで飲み干す。 
 隣に置いてあった灰皿には吸い殻が一本も無くて、暫く佐伯が煙草を吸っていないことがわかる。自分もそうだが、煙草を吸わないのは相当体調が悪い時だけだ。喫煙者なら、かなり体調が悪くても、吸えそうならとにかく吸う。佐伯が一本も吸っていないというのは、つまりそういう事なのだ。 
 そういえば、自分も佐伯の家に来てからは一本も吸っていない。 
 そう気付くと無性に吸いたくなったが、こんなに咳をしている佐伯の前で吸うわけにはいかないので我慢した。 
 灰皿をじっと見ていたせいなのか、佐伯が心を見透かしたように苦笑する。 
 
「吸いたければ吸っていいぞ」 
「いや、いいって。また咳が出たら困んだろ。要がいない時に、換気扇の下で吸うから」 
「晶」 
「ん? なに?」 
 
 佐伯は何度か軽く咳をした後、ぽつりと呟いた。 
 
「昨日、お前の夢を見た」 
「……、……」 
 
 突然そんな事を言いだした佐伯は、暗くなった窓の外へ視線を移した。大きな硝子窓には、パジャマ姿の佐伯と自分の姿が映っていた。 
 
「そろそろ、カーテンしめる? 暗くなってきたし」 
「そうだな」 
「じゃ、俺がしめてくるから。そこから一歩も動くなよ」 
 
 晶はカーテンを閉めるために立ち上がり、その夢とやらの内容を想像して少しだけ笑った。 
 
「どうせろくな夢じゃねぇんだろ? どんな夢よ。喧嘩でもして別れる夢とか? ああ、それとも、二人で南国にでもバカンスに出掛けてたり? まぁ、それは俺の別の意味の夢だけど」 
 
 晶はカーテンに手を掛けたまま口を開く。 
 東京の佐伯の自宅はいつも綺麗にしてあって塵一つ落ちていないような状態だけれど、ここは少し違った。 
 確かに綺麗に掃除はされていた。広いリビングの端に積まれているダンボール。佐伯は常に視界に入る位置のそれに手を付けていないようだ。必要が無いから開けていないにしても、それは酷く佐伯の部屋に不似合いで……。 
 ゆっくり片付けをするような暇が無いのだと示しているみたいだった。 
 大阪へ来てからは大学で講義もしているのだから、医者として仕事をしている時より時間が無いのはわかる。今日の前に会いに来たときも、同じ場所にあった。 
 
 晶がベランダへ続く大きな窓のカーテンを閉めて出窓側へ向かうと、佐伯の思いも寄らぬ言葉が背中越しに聞こえてきた。