「お前が、今みたいに看病しにくる夢だ」 
 
 その言い方がいつもの佐伯とは違う気がしてドキリとした。 
 どういう意味で言っているのか。晶は頭の中で何度も今の言葉を繰り返し、唾を飲みこんだ。咳のせいで掠れた佐伯の声が、ざりざりと鼓膜の上をなでる。 
 
「……へぇ……。じゃぁ、正夢ってやつじゃん」 
「……そうだな」 
 
 佐伯の様子に気付かぬフリをして軽く流し、全部のカーテンを閉め終えて元の場所に戻って座る。先程からしきりにこめかみを押さえている佐伯の顔を、晶は心配そうに窺った。 
 
「頭、痛ぇの?」 
「おい、あまり近くに来るなと言っているだろう」 
 
 覗き込まれている気配に気付いた佐伯が眉を顰め、払うように手を伸ばす。しかし、その手には全然力が入っていなくて、すぐに宙をきってソファに落ちた。晶は無意識に、力なく開かれたその手に自分の手を重ね、佐伯の指先を包むように握った。 
 
「……あっつ、……。熱、まだ下がってねぇじゃん……」 
 
 背中をさすった時にも思ったが、直接佐伯に触れると驚く程に熱い。佐伯の体温は普段ならばかなり低い。いつも覚えている佐伯の触れる指先の温度と、それはあまりに違い過ぎた。 
 最初来た時に「弱っていない」なんて思っていたけれど、「弱っていないように見せている」だけだ。しかもそれはきっと、自分がいるからで……。 
 看病どころか、逆に気を遣わせているのかもしれない。 
 
「……もう、ベッドへ戻って寝た方がいいって」 
「……」 
「俺、適当にやってるからさ。気にしないでいいから。寝室にも、用がある時以外は行かないようにするし」 
 
 握った手をそっと離して腰を上げると、佐伯は徐に腕を上げ、黙ったまま晶の腕を掴んだ。 
――……要? 
 座ったまま見上げる佐伯と視線が絡み合う。熱のせいで潤んだ佐伯の瞳の中には、いつもとは別の色が揺れて見えた。 
 
「まだ、続きがある……。最後まで聞け」 
「……なに、夢の話?」 
「そうだ」 
 
 引き留められ、晶は座り直した。 
 先程から僅かに感じる佐伯の違和感の正体に気付いてしまえば、苦い期待が静かにわきあがる。腰を何度ずらしても、据わりのいい場所がない気がするのは自分の気持ちの所為だろう。 
 
「目が覚めた時、――お前を探した。さっきまで、そこにいたのに、どこへ消えたのかと思ってな」 
 
 熱い息と共に吐き出される佐伯の言葉。切なさの混ざり込んだそれに、返す言葉さえなくて、晶は確かめるように名前を呼んだ。 
 
「……要」 
 
 部屋の冷房はガンガンに効いていて涼しさを保っているというのに、じんわりと汗が滲む。 
 違和感の正体は、佐伯が、滅多に開くことがない最奥の扉を、ほんの少し開いているからだ。 
 誰にだってその場所はあって、恋人同士だからといっていつも開いているわけではない。男同士なら尚更だ。現に自分にだってそういう場所はあるが、誰彼構わず開くわけではない。一番無防備で、柔らかい場所。 
 今、手を伸ばせば……、今なら、佐伯のその場所へ手が届くと思った。 
 腑に落ちないというような表情で佐伯が言葉を続ける。 
 
「夢だったとすぐに理解したんだが、まだどこかで、俺はお前を探し続けていた。いないとわかっているお前を探すなんて、馬鹿げた話だ……どうかしていた」 
「……、……」 
 
 佐伯の長い髪が顔を隠すように肩から零れて、その表情を見えなくする。 
 
「たまには、熱にうなされてみるのも悪くないな」 
 
 佐伯は最後にそう言って自嘲気味に笑った。 
 
「なんだよそれ……」 
 
 晶は手だけを伸ばすと、佐伯の手がこれ以上遠くに行かぬように握りしめた。 
 
「なんでそういう時、すぐ電話してこねぇんだよ」 
「午前中だぞ。お前はまだ寝ている時間だろう」 
「それが、電話しなかった理由? 要が出した『言い訳』にしちゃ、随分と隙だらけなんじゃね? らしくねぇな」 
「何が言いたい」 
 
 挑発するような晶の言葉に、佐伯が訝しげに眉を寄せる。 
 
「そんなの、関係ねぇって言ってんの。店出てたって気付く可能性もあるし、寝てたら尚更、起こしてくれればいいじゃん」 
「電話をしてどうするんだ。お前の夢を見て、起きたらいないから探したと、そんなくだらない事をわざわざ報告しろって言うのか?」 
 
 佐伯は馬鹿馬鹿しいというように小さく笑った。 
 
「くだらなくねぇだろ、……わかんねぇのかよ。ほんっと、俺の恋人は、困った先生だな」 
 
 晶は優しげな溜め息をつき、佐伯と距離を詰めて横から抱きついた。佐伯が「離れろ」というように身体を引いたが、逆に晶は引き寄せるように腕に力を入れる。 
 
「そういうのはさ『恋しい』って言うんだぜ。……俺を探したんだろ? だったら、最後まで探せよ。見つける術、知らないなんて言わねぇよな?」 
「……」 
「声聞いてさ、お前の夢を見たって笑って話してくれれば、それだけでいいんだよ。俺はそういう時の為に、いるんじゃねぇの」 
「お前なら、そうするのか」 
 
 佐伯の熱い手が横から抱きつく晶の頭にゆっくりと置かれる。晶のふわりとセットされた髪に、佐伯の熱い指先が潜りこみ地肌を撫でた。 
 
「当然っしょ。俺なら起きたら秒で電話する。すぐ聞いて欲しいし、声が聞きたいから。だから、要もそうしろよ。俺待ってるからさ、24時間……」 
「……フッ、……コンビニみたいだな」 
「要専用のサービスだぜ? 使わなきゃ損だろ」 
「考えておく」 
 
 身体を離した晶が佐伯を見つめ、盛大な溜め息をついて、自身の髪を乱暴にかき混ぜた。 
 
「あー!! もうっ! すっげー、マスク邪魔なんだけど。なぁ、ちょっとだけ外そうぜ。五秒でいい」 
「ダメだ」 
「んじゃ三秒!」 
「ダメだと言っているだろう」 
「キスする瞬間だけだって」 
「調子に乗るな。あと、もう今更だが、もっと離れろ」 
「要は、俺とキスしたくねぇのかよ。ここはどうみても、キスしたくなる状況じゃねぇの?」 
「したいかしたくないかは、今は関係ない。どう言われてもしない」 
「あっそ……わかったよ。でも、」 
 
 晶は、浅く腰掛ける佐伯の後ろに割り込んで腕を回すと、パジャマ越しの背中に身体を寄せた。 
 
「背中なら、いいだろ……。少しの間でいい、このままでいろよ」 
 
 佐伯の匂いを近くで感じたくて甘えるように頬をつけると、しばし目を閉じる。後ろから回された晶の手を、佐伯の長い指が幾度か悪戯に辿った。 
 耳を当てている佐伯の背中から、心音が聞こえてくる。規則正しい鼓動だ。熱い背中がどうしようもなく恋しくて、ずっとこのまま傍にいたい。 
 一度息を吸って、三回息を吸ったら離れると決める。 
 だけど、五回目の息を吸っても、離れられなかった。 
 
「気が済んだか?」 
 
 佐伯の言葉で、ようやく振り切るように晶は身体を離した。 
 
「足りねぇけど……、今日はコレで我慢しとく」 
 
 佐伯の扉に、自分は届いたのだろうか。晶はそんな事を考え、名残を惜しむように佐伯の長い髪を指に絡めた。 
 佐伯が元気になったら今日の分のキスを三倍にして返して貰う予定だ。 
 
「そろそろ、横になるとするか」 
 
 寝室へ戻るために腰を上げた佐伯は、数歩歩いた所で立ち眩みを感じて足を止めた。 
 高熱のせいでふらつく身体を支えるように壁に手を突くと、ただでさえ酷い頭痛が脳天を突き抜ける。いつのまにか隣にいた晶が、佐伯の腕を引っ張った。 
 
「ん、ほら」 
 
 佐伯が、なんだ? とでもいうように視線を向けると、晶は佐伯の腕を自分の肩へと乗せた。 
 
「肩かしてやるって。要みたいなでけぇのに倒れられたら、寝室まで運べねぇだろ」 
 
 佐伯はおかしそうに笑って壁から手を離し、わざとらしく晶の方へ体重をかけた。 
 
「悪いな、……助かる」 
「そう! そうやって素直にしとけよな。病人なんだから、ちょっとはしおらしくしねぇと可愛くないぞ」 
「生意気を言うな」 
 
 重い佐伯の身体を支えて寝室へ戻りベッドへ寝かせると、ぬるくなった水を取り替えるために洗面器を持って一度寝室を出る。 
 再び氷水を作って寝室へ戻ると、佐伯は大人しく横になっていた。 
 枕元に立って、タオルをきつく絞りながら口を開く晶の言葉に、佐伯は驚いて思わず軽く咳き込んだ。 
 
「今、……、お前、なんて言ったんだ?」 
「いや、だから。あとでキッチン借りるって言ったんだよ。俺が今日は飯作ってやるからさ。要は大人しく寝てる事。OK?」 
 
 佐伯の顔が一瞬にして険しくなった。 
 
「お前が……、飯を作る?」 
「うん、そーだけど。何だよ、無理とか思ってんだろ。平気だって、信二からちゃんと粥の作り方教えて貰ったから。バッチリだぜ」 
「材料がないんじゃないか? 料理は諦めろ」 
「え? 米と卵とネギだけだけど、全部ねぇの?」 
 
 冷たいタオルを額に置かれ、佐伯は考え込むように目を閉じる。材料は全部ある。 
 だが、それを言ってしまえば、晶の手料理という名の何かを食べさせられる事が決定してしまう。最近はずっと料理の話題を口にしたこともないが、もしかして、少しは上達したからこんな事を言いだしたのかも知れない。 
 佐伯は一縷の望みを掛けて晶に視線を向けた。 
 
「急にそんな事を言いだすってことは、最近は自炊でもするようになったのか?」 
「いーや? 全くしねぇけど。半年ぐらい米も炊いたことないし。あ! 違う。やったわ。先週料理したんだった。腹減ったけど何も無くてさ。卵があったから、五個まとめて焼いた。うまかったぜ?」 
「…………そうか」 
 
 佐伯は、今日一番深刻そうな表情で、晶にそのレシピの画面を見せてみろと覚悟を決めたように呟いた。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 寝室に押し込んだ佐伯に、咳が出たらすぐ呼ぶようにと何度も言い聞かせて携帯を側に置き、晶はリビングへ戻っていた。 
 準備をするにはまだ時間が早かったので、テレビを観ながら一時間ほど時間を潰した。 
 合間に佐伯のタオルを替えに行った際に様子を見たが、佐伯は咳が出ることもなく落ち着いて眠れていたようだ。 
 
「そろそろ始めっかな!」 
 
 先程佐伯にレシピを見せて材料の場所は予め聞いておいたので、後は調理をするだけだ。晶はキッチンに入りながら信二のレシピをもう一度熟読し、料理を開始した。 
 ネギを洗って切り、卵を別の容器で溶いておく。下準備を済ませてみたが、途中の過程は信二の文字での説明だけなのでこれで合っているのかは定かではない。なんとなく……いや、明らかにネギの刻み方が合っていないような気がするが、鍋に押し込んで煮ればきっと大丈夫だろう。 
 
 自分の夕飯のことは考えていなかったが、面倒なので二人分に増やして自分も同じ物を食べようと思う。鍋に適当な量の水を入れて火に掛け、冷凍してあった炊いた米とネギを投入する。中々とけないので火を少し強め、久々の煙草を取り出して換気扇の下で一服した。 
 
――思ってたより簡単だな。 
 
 キッチンに立って自分が料理をしているなんて、自分でも似合わないと思うが、これを機にたまには料理に挑戦するのも悪くない。 
 最近は料理男子と呼ばれる料理上手の男がモテる風潮もある。 
 信二は、「料理男子っすか? いや、俺はそこまでじゃないっすね」と自分では言っていたが、客とたまに料理のことを話しているのを見たことがあるので、そういう意味では知っている中では一番料理男子に近い。 
 佐伯の場合は、料理男子の域を超えているとは思うが。「料理男子」というよりは普通に「料理人」と呼ぶ方がしっくりくる。 
 料理男子は、料理が作れるか否かだけでなく、器用なもてなしも同時に出来る洒落た雰囲気が重要なのだ。 
 
 晶は携帯のレシピを一度閉じると、動画サイトを開いた。 
 『料理男子 初心者』で検索し、視聴回数が多い物を一本ずつ観ていく。 
 料理番組の面白さも理解できない自分が観てもつまらないのではと思っていたが、観始めると案外面白かった。観ているだけで自分も簡単に作れそうな気がしてくる。 
 もの凄く簡単な物から、少し手順が多い物まで、気付くと十本以上を視聴してしまい時間が相当経過していた。 
 
――あっ! やばい。 
 
 調理中である事を思い出し、慌てて目の前の鍋の蓋を取ってみるとたっぷりあった湯がほとんどなくなって米とネギがただ鍋に入れられているだけの状態になっていた。 
 すぐに火を消し、菜箸を入れてみると底の方が若干焦げている。 
 
「うわ……。どうすんだこれ。平気かな……」 
 
 なんとかごまかせないかと箸でガリガリとかき混ぜている内に焦げが混ざり、ただ柔らかいだけの米が、茶色に色付いた。ネギは当然すっかり煮えている上に混ぜすぎたのでもうどこにあるのかもわからない。 
 レシピでは、湯が少なくなってきたら塩と出汁で味を付け、最後に卵を流し入れるとかいてあるが、水分がない今の状態ではそれが出来ない。 
 
 晶は、暫く鍋を眺め、思いついたように冷たい水を足してみた。これで水分は増えた。もう一度火に掛ける。一番弱火にし、用意していた塩をふりかけ、顆粒の出汁も入れる。 
 暫くしたらくつくつと沸騰してきたので味見をしてみると、少し塩辛くて焦げの味がするがまずまずの味だった。まだ水分があるうちに用意していた溶き卵をいれる。箸をつたわせて静かに入れると注意書きがあったので、箸を真ん中へ立ててその側に卵を掛けてみた。最後に一度かき混ぜる。 
 
「おぉ! 出来た! これで俺も料理男子じゃね!?」 
 
 完成した粥をみて、晶は思わず自身で称賛を送った。見た目は茶色いし、真ん中の卵が予想と違って固まり玉子焼きを入れたみたいになっているが、自分にしては上出来だった。 
 
 
 
 意気揚々と寝室へ向かい、寝ていた佐伯を起こす。 
 佐伯は、汗をかいたので着替えてから行くというので先にダイニングに戻り夕飯の準備をする事にした。 
 二人分にしては結構量があるが、他には作っていないのでこれぐらいは食べきるだろう。 
 箸を食卓へ置いた所で、着替えを済ませた佐伯が入ってきた。解熱剤が効いてきたのか、先程より少しは楽そうで安心する。 
 
「どう? 熱は、測ってみた?」 
「ああ、37度9分だ。下がり方が遅いが、まぁ大丈夫だろう」 
「そっか、……少し安心した。でもまだ結構あるな、熱……」 
「心配要らん。それで? 夕飯は無事に完成したのか?」 
「ああ、うん! もちろんだぜ! これ、ほら」 
 
 晶が鍋を片手で持って、自信ありげに佐伯に見せる。 
 
「ほう、醤油味にアレンジしたのか」 
 
 佐伯は、想像よりマシだったからなのか感心したように覗き込んで、そんな事を言った。 
 
「え? してねぇよ。塩と出汁だけ」 
「…………」 
 
 佐伯は粥を見つめたまま軽く咳をした。 
 
「あー。この色? これは、その……ちょっと焦げたからさ。混ぜたら色がついただけだって。平気平気。炭火焼きみたいなもんだって。焼き鳥とかでよくあんだろ」 
「……粥に炭火焼きはないがな……。まぁいい。食ってみるか」 
 
 佐伯が苦笑し食卓に腰を下ろそうとした時、インターフォンがなった。晶が鍋を持ったまま廊下へ身を乗り出し、玄関の方をみた後佐伯へ振り返る。 
 
「今日、誰か来る予定あったとか?」 
「いや、特にないと思うが……」 
 
 佐伯も誰が来たのかわからないようだ。しかし、知らない人物ではなかったようで、モニターを確認した佐伯が廊下へ向かう。 
 
「とりあえず出てくる。お前は用意してろ」 
 
 髪を一本で結びながら玄関へ向かう佐伯の背中を見ていたが、玄関が開く前に晶は顔を引っ込めた。 
 佐伯がドアを開ける音と重なるように女性の声がした。 
 別に内容を聞くつもりは無かったが、佐伯がリビングのドアを開けたまま行ったのでしめるわけにもいかず、話す内容が静かな部屋に聞こえてくる。 
 まだ外は暑いようで、玄関から入ってくる温い風が、キッチンにまで流れ込んできた。 
 
「こんな時間にすみません」 
「いえ、大丈夫です。何かありましたか?」 
「佐伯先生が寝込んでいらっしゃると聞いたので……。ご飯とかどうされているのかと思いまして。余計なお世話かと思ったんですが、……お夕飯を多めに作ったので良かったら召し上がって下さい」 
 
 両手で突き出された紙袋に面食らい、佐伯はワンテンポ遅れてそれを受け取った。 
 
「わざわざ、……お気遣い頂いて、申し訳ない」 
「いえ、そんな……。先生、お体の具合はいかがですか?」 
「私の方は問題ありません。他の先生方に、変わりは無いですか?」 
「はい。先生と同じ晩に処置に当たっていた看護師たちも、皆大丈夫です。佐伯先生が初期に感染防御を敷いて下さったので、拡大せずに済んだんだと思います」 
「……私の他に感染者がいないのなら、良かった。それで、例の患者の容態は?」 
「患者さんは、先生の指示通り個室に移って頂いて様子を見ています。一度は容体が安定したんですが、夜間帯は、値がよくなくて……。SpO2・88%を切るので酸素投与の流量を増やして様子を見ています」 
「そうですか……。高齢なのでARDS発症に至らぬように常に注意をして。念の為、面会のご家族にも説明して陰性になるまでは入室を断ったほうがいい。君達も私の二の舞にならぬように、充分気をつけて」 
 
 会話を聞いていて、晶は、正直怖くなっていた。 
 医療従事者でもない自分に佐伯が具体的な説明をしないのは当然だ。風邪というのも正式な名称ではなく、佐伯が知識の無い晶に対して説明するための仮の言葉だったのだろう。来客との会話は、かなり深刻な様子に聞こえた。 
 そんなウィルスに感染している佐伯だって、本当は不安なはずだ。それを一切見せないところにプロとしての佐伯の強さを見た気がする。 
 
「はい、有難うございます。でも、佐伯先生がこうしてお話し出来るくらいまで復調されていて安心しました。早退された日、入院を勧められたのに断って帰宅されたときいてビックリしました」 
「ベッドの空き待ちの方がいますから、私の為に病床が一つ埋まるのはよくない」 
 
 佐伯の言葉を聞いて、相手の女性は「先生だって病気になれば、患者さんですよ?」と笑って返していた。 
 今日こっちへ来てからの佐伯の状態しかしらないが、早退したという日や、昨日一昨日は、今よりも酷かったのだろう。その間、ずっと一人でいたのだ。 
 過ぎてしまった事を悔やんでも仕方がないが、もっと早く傍にいてやれたらと思わずには居られない。 
 
「それじゃ、ゆっくりお休みになって下さいね。戻られるのを待ってますから」 
「有難うございます。早く復帰できるよう、体力回復に努めます」 
 
 玄関が閉まり鍵をかける音、佐伯は今受け取った物を手にして戻ってきた。 
 
 
 
 今、聞いてしまった話が頭から離れないが、それを聞いたところで自分では何の相談にも乗れない。出来る事は、傍にいて気分を紛らわせる会話をする事ぐらいだ。 
 
「なに、職場の人?」 
 
 食卓の上の置かれた紙袋を晶は覗き込んだ。 
 
「ああ、入院病棟の看護師でこのマンションに住んでいる」 
「ああー、言ってたもんな。同じ職場の人間が住んでるって。話聞こえてたけど、要の居る病院、大丈夫なの?」 
「もう患者が運ばれてから六日経つ。今の所そういう話はないみたいだからな。これ以上の新たな感染は起きないだろう。発症した前後が一番感染力が強いという特性を持つウィルスだ。俺で止まってくれるといいんだが」 
「……そうなんだ。じゃ、要は治ってきてるからもう感染らないかんじ?」 
「陰性になるまでは、完全に感染しないわけではない。感染力が初期より低いというだけだ」 
「……そっか」 
 
 今は不安でも佐伯の言っていることを信じる他にない。この話題について続けるのは佐伯も本意では無いだろう。いつまでも引きずらぬよう、晶は話の矛先を変えた。 
 
「……ところでさ」 
 
 佐伯の方を見ると、晶がニヤリと口元を歪める。 
 
「見てねぇけど、今きた彼女、要に気があるんじゃねぇの?」 
「馬鹿なことを言うな。ただの同僚だ」 
「いや、要はそう思ってるかもだけど向こうはわかんねーじゃん? わざわざ飯作って持ってきてくれるとか、好意がなきゃしねぇと思うけど」 
「もしそうだったとしても、直接言ってこない限り俺には関係ないだろう。憶測にしか過ぎん。それとも、ヤキモチでも妬いているのか?」 
「なっ! そういうんじゃねぇよ。たださ、あんま喜んでるようには見えねーから聞いただけ。嬉しくねぇの? 俺だったら弱ってる時に優しくされたら結構クるけどな。好意を向けられたらそう思う物じゃん」 
「ほう、……俺の前で堂々と浮気宣言か」 
「だから、そういうんじゃねぇって。優しくされたら、優しくしてあげたくなるっしょ。イロコイ抜きにしても、俺はそう思うけどな」 
 
 佐伯が溜め息をつく。 
 
「お前は、つくづくホストが天職だな」 
「あ、やっぱり? だよなー。だからさ、要も俺に優しくして欲しかったら、俺にも優しくすりゃいいってこと。ほら、遠慮しないで優しくしろよ」 
「別に優しくして貰わなくても結構だ」 
「ほんっと。可愛くねぇな」 
 
 晶が呆れたように肩を竦め、袋から中の物を取り出す。作りたてのようでまだ温かいそれは幾つかの容器に別々に入っている。色とりどりの野菜を細かく刻んで煮込んだスープと、綺麗な卵色の粥、デザートに入っているマスカットは丁寧に皮も剥いてある。 
 
 どうみても多めに作ったお裾分けではなく、寝込んでいる佐伯のために作ったメニューなのがわかる。見た目も綺麗で美味しそうだし、きっと栄養の事も考えて作ってあるのだろう。 
 晶は、側にある自分が作った茶色の粥と比べて気まずそうに頬を掻いた。 
 見劣りするしないの次元ではない。 
 佐伯の身体のためにも、この持ってきて貰った夕飯を食べる方がいいに決まっているし、彼女の気持ちを無駄にするのは良くないと思う。 
 
「まぁ、良かったじゃん。せっかくの好意だし、要はこれ食えよ。俺は自分が作ったのを食べるから」 
 
 そう言って、鍋からよそった粥を自分の方にだけ置き、佐伯の前には貰った夕飯を蓋を取って並べる。 
 話ながら、晶は側のリモコンでテレビをつけた。 
 
 七時からの報道番組がやっていて、今日の内容一覧がうつっている。今日の特集は、それぞれの地域の七夕の模様を追うらしい。静かだった部屋にアナウンサーの明るい声が響いた。 
 そういえば七夕だったんだなと来る時に思っていたのに、すっかり忘れていた。 
 腰を下ろした佐伯は、貰った手料理を眺めたあと、外したばかりの蓋を元に戻すと、料理を静かに隣へと移動させた。 
 
「これは明日にでも食べる。冷蔵庫にしまっておいてくれ」 
「え、なんで? 今食えばいいじゃん。あったかいみたいだし。もしかして、俺に気遣ってんだったら気にする事ないぜ?」 
「俺がお前に気を遣う? ……フッ……、そんなわけがあるか。 今は、お前が作った飯の方が食いたい。ただそれだけだ」 
「……要」 
「ほら、どれだけ不味いか食ってみるから、俺にもよそえ」 
「最初から不味いってわかってて食うとか、要も物好きだよな」 
「ああ、全くだ」 
 
 佐伯の返事に晶が笑いながら、嬉しそうに茶碗に佐伯の分をよそう。 
 飲み物をコップに汲んで食卓へ置くと、自分も腰を下ろした。 
 
「それじゃ、いただきます」 
 
 佐伯もいただきますと小さく呟き、マスクを外して隣へ置く。ダイニングテーブルの端と端に座っているので佐伯が遠い。晶はドキドキしながら佐伯が茶碗を持って粥を口に運ぶのをみていた。 
 自分の作った料理を佐伯が食べているなんて凄い事である。 
 審査を受ける料理人の気持ちがほんのちょっとだけわかった気がした。 
 
「なぁ、どうよ?」 
 
 すぐに感想を言わない佐伯を急かすように晶が口を開く。佐伯はもう一口食べ終えると、晶へ視線を向けた。 
 
「許容範囲だ」 
「なにそれ!? わかりづらい言い方すんなよな」 
「ハッキリ言って欲しいのか?」 
「当たり前だろ。いや、ちょっと待った! ……覚悟すっから十秒後に言って」 
 
 佐伯は、まるで神頼みをするように祈るポーズの晶をみて少しだけ可笑しそうに笑った。体調のせいで味覚が鈍っているとはいえ、晶が作ったと思えば上出来な味だった。温かな粥が胃の中に入れば、晶の優しさと相まって身体の芯にしみ込んでいく気がする。固まった卵を箸で割って、佐伯は短く息を吐いた。 
 
「……よく出来てる。美味しいぞ」 
「マジで!」 
 
 晶はとても嬉しそうに笑みを浮かべ、自分も茶碗を手に取った。 
 佐伯にそう言って貰えると、少し味付けが濃いことも焦げっぽい味も、なんだか美味しく感じるのが不思議だ。こんな料理一つで佐伯の体調がよくなるなんて事はないだろうが、少しでも元気になる手助けを出来た気がして、それがとても嬉しかった。 
 大量に作られた粥は、佐伯が二杯、晶が残りを全部食べ完食した。 
 
 食後の薬をいくつか取り出して卓上に並べている佐伯は、テレビの方へ視線を向けていた。 
 テレビでは、丁度特集の時間になっており、全国各地の七夕の風景が映し出されている。背の高い笹にくくりつけられた色とりどりの短冊が、風に靡いていた。 
 現地のレポーターが「私も今日は願いを書いた短冊を持参しました! 早速つけさせて貰いたいと思います」と言って、低い位置の笹の葉に、黄緑の短冊をくくりつけている。 
 
「なぁ、要もガキの頃、これやった? 短冊に願い書いてさ」 
 
 佐伯は口に放り込んだ薬を一気に飲み干し、シンクにコップを持っていくと他の食器と一緒に洗い始めた。 
 片付けまでやってやるつもりだったのに、佐伯が「俺の使った食器には触るな」と言うので、仕方なく任せる事になった。 
 手慣れた様子で食器を洗いながら佐伯が返事をする。 
 
「あまり覚えていないが、学校でやらされたかもしれん」 
「だよな。俺も小学校の時やったんだけど。その時、十枚ぐらい書いてきて吊してたらさ、先生に「一枚に決めろ」って怒られたんだよ。理不尽じゃね? 別に願いが十個あってもいいと俺は今でも思ってるし。誰が一個って決めたんだって話だよな」 
「お前らしいな。それで? その十個の願いとやらは、叶ったのか?」 
「そういえばほとんど叶ってるかも。大それた願いは書いてなかったしなぁ……。大きくなったら好きな仕事が出来ますように、とか、運動会でリレーの選手になれますようにとか、そんなんばっか。基本的に、七夕のそういうのを信じてたってよりは、それを書いたことにって案外ずっと覚えてて意識するじゃん? だから結果的には自分で叶えたみたいなもんだけど」 
「そういうもんだろう。誰かが願いを叶えてくれるのを待つ暇があるなら、その時間で自分で努力した方が早く実を結ぶ」 
「そうそ。あ! あとさ、可愛い恋人が出来ますようにとかも書いたかも」 
「小学生でか? 随分とませたガキだな」 
「それだけ叶ってねぇし……」 
 
 晶ががっくりと肩を落とすのをみて、佐伯は苦笑した。 
 
「叶ってるだろう」 
「どこがだよ。どこに『可愛い』恋人がいるか、教えて欲しいわ」 
「お前の事を『可愛いと思ってくれる』恋人ならいるだろう。何が不満なんだ。贅沢を言うな」 
「そういう願いじゃねぇっつーの。つかさ、要は? ガキの頃なに書いたの? 世界征服とかじゃねぇだろーな? やばい、ありえそうなんだけど」 
 
 晶が勝手に予想を付けて笑う。 
 
「残念ながら別のことだ」 
「覚えてんの? だったら教えろよ」 
「たいした願いじゃないが、背が高くなるようにと書いた記憶がある」 
 
 全く予想と違った控えめな佐伯の願いに晶は驚いて目を丸くした。 
 
「は? マジで? そんなに高けぇのに?」 
「中学に上がってから一気に伸びたんだ。それまでは低かった。まぁ、こんなに高くなる必要は無かったが」 
「へぇ、意外すぎ。んじゃ願いが叶ったってわけだ。小さい時の要見てみてぇ~」 
 
 その頃を想像してみようと脳内で頑張ってみたが、今の佐伯を知っている身としては、小さくて可愛かった時代の佐伯など微塵も想像できなかった。 
 晶は手持ち無沙汰な様子で椅子の背もたれによりかかって呟いた。 
 
「今、ここに短冊があったらいいのにな~。まぁ、吊す笹がねぇけどー」 
「また十個の願いでも書くつもりか?」 
 
 後片付けを終えた佐伯が食卓へ戻ってくる。 
 
「いや、今は一個でいいかな」 
「ほう? その一個をもう決めているみたいな言い種だな」 
「うん。『明日には少しでも要が元気になりますように』ってさ。今はそれだけでいーや。他に願いとか思いつかねぇし」 
 
 佐伯は何も返さなかったけれど、それでも良かった。今の願いは本当にそれだけなのだから。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 深夜一時過ぎ、寝室で眠る佐伯と別の部屋で寝かされている晶は、中々寝付けぬまま携帯をいじっていた。 
 同じ部屋に寝るのを禁止されたので、佐伯とは早々に離れてソファにいる。オットマンを足して寝れば、それなりに快適に眠ることが出来るとはいえ、色々と心配事がありすぎていつものようには眠れない。 
 
 最初は観ていたテレビにも飽きて、早々に消してしまった。その後強引に目を閉じてみたが、どうしても眠れないので、携帯を取りだした。自分の店のHPを見てみたり、通販のサイトを見たりしてみるが、追っているはずの文字は全く頭に入ってこなかった。 
 
 佐伯と看護師が話していた内容が頭から離れない。 
 急に容体が悪化する可能性があるような事を言っていたからだ。回復に向かっていると言っていた佐伯が急変したらどうしようとか、本当にこのまま完治するのかとか、考えても答えの出ないことばかりがとりとめもなく脳内を巡る。 
 
 目を閉じて寝苦しさにごそごそと動いていると、廊下の方から佐伯が咳き込む声が聞こえてきた。 
 夜になってまた咳が止まらなくなったのか、暗い中目を眇めて廊下の方へ顔を向け、晶は上半身を起こした。 
 声は洗面所の方から聞こえている。静かに廊下へ出て、佐伯がいる方へ足を向ける。 
 
 晶の視線の先には、咳き込みながらコップを握っている佐伯が立っていた。薬を飲んだのだろうか、空のシートがいくつか置かれている。激しい咳が続けば体力も削られる。佐伯はとても疲れているように見えた。 
 しかし、驚いたのは佐伯がパジャマではなく外出するようなYシャツ姿だったことだ。 
 
――……え……、なんで!? 
 
 もしかしてあまりに体調が悪いから夜間救急にでも掛かるつもりなのかと晶は咄嗟に考えた。予め開かれているドアを軽くノックして気付かせると、佐伯が振り向いた。 
 
「どこ行くの? 病院? 心配だから、行くなら俺もついていってやるよ」 
「……晶」 
 
 佐伯は、晶が起きてきたことに気まずそうに視線を逸らし、声を潜めて「寝ていなかったのか」と眉をしかめた。マスクの上から口元を覆って咳をする佐伯は、廊下の薄暗さの中、沈んだ表情を浮かべ何度か短く息を吐きだした。 
 見つからずに出て行くつもりだったのだろう。 
 少し考え込むように俯いた後、渋々と言った体で理由を口にした。 
 
「例の患者の容態が、急変した」 
「……え、」 
「一時的な指示は出したから、すぐに危険な状態になることはないが……。気になる症状がある。だが、実際に診てみないとわからないからな。今から病院へむかう」 
 
 微塵も想像していなかった事を告げられて、晶は暫く呆然としていた。病院へ行くという所は合っていたが、それは佐伯自身が行くわけでは無く、医者として診察しに行くという意味だ。 
 晶は眉を寄せて佐伯を見上げた。 
 
「冗談だろ……何言ってんだよ!? 大きい病院なんだから要の他にも沢山医者がいるだろ。そんなにしんどそうなのに、なんで要が行かなくちゃなんねぇの!? 代わって貰えよ」 
「今夜は脳神経外科の医師が当直医だ。それに、この患者は俺が最初に診た患者だ。言われたから行くんじゃない、俺が自分で「行く」と言ったんだ。今たまたま咳が出ていただけで、俺の方は問題ない」 
「なんでだよ……。折角少し良くなってきたばっかじゃん」 
 
 晶は手を伸ばして佐伯の手を掴んだ。 
 昼間よりはだいぶ下がっているのは本当のようだが、それでも到底平熱と呼べる熱さではない。 
 こんな状態で出て行こうとするなんて、正気じゃない。しかも急変した患者の処置をしに行くのだから、病院へ行っても休む暇はないはずだ。日中に見た、咳が止まらなくなった佐伯の姿を思い出せば、悪化する不安しかない。 
 
「お前も話を聞いていたから、わかるだろう? 感染しているのは俺だけだ。他の医師が処置に当たって、新たに感染するリスクを考えたら、すでに感染している俺が診るのが一番安全だ」 
「それはそうかもしんねーけど。だからって……。自分の身体のことはどうでもいいのかよ。患者の治療して何時間も様子見て、その間に要にもし何かあったら、俺……、」 
 
 本当に怖くて堪らなかった。 
 だって、現にこうしてその患者は容態が急変しているのだから。同じウィルスに罹患している佐伯が、急変しないという確証は一つも無いはずだ。 
 今まで何年も佐伯と付き合ってきて、こんなに不安になる瞬間はなかった。 
 
 震えてしまった語尾に気付いたのか、佐伯は、俯いている晶の顔を上げさせ真っ直ぐに視線を合わせた。迷いのないその瞳はすっかり医者の顔で、強い意志が宿っている。 
 その目を見た瞬間、自分がどう言っても無駄なのだと悟った。 
 
「もし何かある事が、今の時点でわかっていても、最後まで診る責任がある。それが俺の仕事だ」 
「…………」 
 
 言っている事が理解できるのに、感情が追いつかない。 
 取り残された感情だけが、それでも行かないで欲しいという言葉を喉元にのぼらせる。しかしそれが、口を出ることは無かった。 
 自分がもし同じ立場なら、やはり止められても行くのかもしれない。 
 佐伯の、仕事に対する姿勢は、同じ男として尊敬しているし、そういう部分に惹かれているのも事実だ。 
 晶は一度ゆっくり息を吸うと、奥歯を噛みしめて握っていた手をスッと離した。 
 ツと離れていく指先の熱が、二度と触れられないのではと思うとこの瞬間だって不安しかない。 
 だけど、自分が今するべきなのは、佐伯の身を案じて引き留める事ではなく、信じて送り出してやることだけだ。 
 晶は佐伯から離れて、精一杯の笑みを浮かべた。 
 
「そうだよな。わかった。……気をつけて行けよな」 
「ああ、お前は先に寝てろ。じゃぁ、行ってくる」 
「要、……」 
「……?」 
「本当に、……気をつけて」 
「心配するな、すぐに戻る」 
 
 囁くような小声を残し、玄関のドアが閉まる。 
 
――……死亡フラグみたいな事言いやがって……。 
 
 小声で悪態をつけば、その言葉が重く自分にのしかかってきた。 
 佐伯が居なくなった後も、閉まったドアの前で晶は立ち尽くしていた。外から佐伯が咳をする声が数回聞こえ、それも聞こえなくなる。もう行ってしまったのだろう。 
 佐伯が医者である事を忘れたことはない。だけど、今までにこんな状況は一度も無かった。こういうのはどこかドラマや映画の中の話で、佐伯には関係ないと思っていたからだ。 
 
 
 佐伯が行ってしまってから、酷く長い時間がそこには待ち構えていた。 
 普段一人暮らしで感じる孤独感よりずっと重い『一人だな』という感覚。自分が一番苦手としている感情だ。 
 何本も煙草を吸って、佐伯が戻ってくるんじゃないかと何回もマンションの前の道を窓から眺めた。 
 結局四時まで待っても佐伯は戻ってこなくて、連絡も一度も無い。 
 のろのろとソファに戻り横になってみる。しかし……。 
「……っ、かな、め、……嘘だろ……、要!!」 
 晶は自分の寝言にビックリして目を覚ました。 
 
 息まで乱れて心音もあがっている。 
 佐伯に借りているパジャマが汗で湿っていた。夢だからと自分を宥め、張り付いたパジャマの胸元を掴んで空気を入れる。携帯を手繰り寄せ時刻を見ると横になってから三十分も経っていなかった。 
 うとうととした束の間でさえ、こうして不吉な夢ばかり見てしまいすぐに目が覚めてしまうのだ。 
 
 はっきり覚えている夢の内容を思い出して、晶は鳥肌の立った腕をさすった。 
 病院から連絡があり、佐伯が亡くなったと聞かされ、着替えもせずに病院へ急ぐ。現実では行った事の無い佐伯の勤務する病院は、夢の中では酷く遠くて辿り着く頃には足がもつれて転びそうになった。 
 通されたやけに広くて真っ暗な遺体安置室には誰も居なくて、顔に白い布を掛けられた佐伯だけが居た……。顔に掛けられたソレをゆっくりと捲る自分。見慣れた佐伯の寝顔なのに、佐伯はもう声をかけても何も返してこない。 
 冷たくなった佐伯の手を握り、自分はその場で泣き崩れて佐伯の名を何度も叫んだ。 
 
 妙にリアルなのが余計に恐怖感を煽る。 
 その夢を最後に、また寝たら続きを見てしまうのではと思うと眠るのも怖くなった。 
 どうせ眠れないのだから、もういっそ寝ずに帰ってくるまで起きていることに決め、煙草を吸うために換気扇の下へ向かう。 
 
――……頼むよ。無事に帰ってこい……。 
 
 晶はキッチンのコンロに手を突き、空になった煙草の箱を強く握りつぶして、やりきれない溜め息を煙と共に吐き出した。 
 心配と、空腹時に煙草を吸いすぎたせいで、胃がキリキリと痛くなってくる。 
 空がほんの少し明るくなってくる頃、待ち疲れて食卓の椅子にぼんやりと座っていると玄関の開く微かな音が聞こえた。朦朧としていた頭が途端に覚醒する。 
 
「――要?」 
 
 晶は、ゆっくりと腰を上げ廊下へと顔を出した。 
 玄関のドアが時間帯を気にして、出来る限り静かに開かれた。出て行ったままの格好で佐伯はちゃんと帰ってきた。 
 
「……要」 
 
 嬉しくて、涙が出そうになる。いや、ほんの少し涙が出た。 
 
「おかえり」 
「晶……、まだ起きていたのか。寝ていろと言っただろう。また寝不足になるぞ」 
「そんなのどーだっていいよ」 
 
 晶はおもいきり前から抱き締めて顔を埋めた。これは夢ではない、現実だ。佐伯の体温も抱き締めた身体の感触もちゃんと感じる事が出来る。その瞬間、佐伯が前のめりに晶の方へ体重を掛けた。 
 
「……要?」 
「…………」 
「お、おい! ちょっと、大丈夫かよ!?」 
 
 佐伯の肩を両手で支えて顔を覗き込む。佐伯は目を閉じていたが、数秒して気付いたように身体を離し玄関にそのまま座り込んで壁により掛かった。 
 
「すまん……。大丈夫だ。ただ、お前の顔を見たら、一気に安心して気が抜けた」 
 
 晶も隣に腰を下ろし、佐伯の肩に手を回して自分の方へ寄りかからせた。肩にのる佐伯の重みが愛しい。 
 
「びっくりさせんなよ。倒れたのかと思っただろ」 
「……フッ、この程度で倒れるわけがないだろう。俺を誰だと思ってる」 
「まだ冗談を言える気力があんのかよ。でもさ……ホント、お疲れ。無事に帰ってきてくれて……よかった……めちゃくちゃ心配したんだぜ……」 
 
 言いながら、またうっかり涙が滲んでくる。晶は佐伯に気付かれぬように袖で目を擦った。 
 
「流石に疲れた……。でも、お前が居てくれたから、乗り切れたのかもしれん」 
「……おっ、珍しくね? そんな嬉しい事言ってくれんの。新しいサービス?」 
「そうだな。お前専用のサービスだ。俺が気が向いた時だけしか、利用出来ないがな」 
「どんだけ自己中なサービスだよ」 
 
 まるで長年会えなかった七夕の二人のように、暫くの間玄関に座り込んだまま隣に居る互いの熱を混ぜ合った。 
 佐伯がゆっくりと息を吐く。晶は長い足を投げ出して佐伯の方へ顔を向けた。 
 
「どうだった? 患者さん」 
「大丈夫だ」 
 
 佐伯は晶の肩から顔を上げると、眼鏡を押し上げた。 
 
「予想通り感染症による増悪ではなく、持病が引き金になった合併症による物だった。早く気付けて治療を開始できたから、回復するはずだ」 
 
 安心したような表情を浮かべる佐伯を見ていると、自分も嬉しくなった。 
 こうして患者を救えた事に安堵して喜べるのは、やれることをやったと後悔が残っていないからだ。あの時、佐伯を無理矢理に止めていたら、結果患者が助かったとしても、佐伯の中では後悔が残ってしまったのだと思う。 
 
「そうなんだ。良かったじゃん。おめでとう」 
「それと、一つ朗報がある」 
「朗報? 患者さんが持ち直した事じゃねぇの?」 
「それも一つだが、それだけじゃない。患者の検査をした際に、俺も一緒に受けたんだが、二人とも陰性になっていた。一昨日様子を見に行った際、俺はまだ陽性だったんだがな」 
「えっ! マジで!? じゃぁ、もう感染はしないって事?」 
 
 晶がからだごと佐伯に振り向いて顔を見る。 
 
「二回検査したから、間違いは無いだろう。一応もう感染の心配はない」 
 
 晶は心底安心したように笑みを浮かべた。 
 
「すげぇ嬉しい。良かったな! ……でもさ、さっきから思ってたんだけど……。要、まだ身体結構熱くね? ……もしかして熱上がってんじゃねぇの……」 
「陰性だからといって、すぐに完治はしない。寝る前にもう一度解熱剤を飲んでから寝る」 
「そか……じゃぁ、早く休んだ方がいいよな」 
「ああ、そうだな。シャワーを浴びたらすぐに休む」 
 
 そう言いながら佐伯はゆっくり立ち上がると、脱衣所に入っていった。着いていった晶は、Yシャツを脱ぐ佐伯の側で、思いついたように口を開く。 
 
「なぁ、じゃぁさ。もう一緒に寝ていいの?」 
「それはダメだ。今日は別々に寝る」 
「えー、なんでだよ。陰性になったんだからもういいじゃん」 
 
 着ていた物を洗濯機へ放り込んだ佐伯が、不満そうな晶を見て苦笑する。 
 
「そんなに俺の隣で寝たいのか? 可愛い奴だな」 
「べ、別にそんな事ねぇけど」 
 
 晶の元へ近づいた佐伯が、わざとらしく耳元で吐息と共に囁く。 
 
「お前が隣に寝てたら、抱きたくなるだろうが」 
 
 晶は肩を竦めると佐伯から離れ、笑いながら髪をかき上げた。 
 
「なーに、馬鹿な事言ってんだよ。病人のくせに。ヤってる最中に腹上死されても困るから、今日は別々に寝てやるよ」 
「それは有難いな。お前ももう寝ろ。安心しただろう」 
「うん、じゃぁ、寝よっかな。要もさっと浴びるだけにして早く寝ろよ。熱、本当に大丈夫かな。なんかして欲しいことあったら言えよな」 
「大丈夫だ、心配要らん」 
「そう? わかった。んじゃ、オヤスミ」 
「ああ」 
 
 浴室へ消えていった佐伯を残して、晶はリビングのソファへ戻った。佐伯が無事に戻ってきた。患者の様態も安定したようだし、何より、検査で陰性になったという事実に本当に安心した。 
 安心すると同時に、急激に睡魔が襲ってくる。 
 
 晶は大きな欠伸をしてソファへとうつ伏せに沈み込んだ。 
 心配事がないというのがこんなに有難い物だとは思わなかった。あんなに眠れなかったのが嘘のように、晶は一気に深い眠りに落ちた。 
 
 
 
     *    *    * 
 
 
 
 時刻は朝九時を過ぎたところ、眠っている晶の耳に色々な音が飛び込んでくる。冷房が効きすぎていて寒く、晶はかけていたタオルケットをグルグルと巻き付けて小さくなった。 
 
「ん……んー」 
 
 そのままの体勢で何度か瞬きをして目を開けると、視線の向こうで佐伯がキッチンにたっているのがぼんやりと見えた。驚いて顔を上げ、くるまっていたタオルケットから抜け出す。 
 
「あれ? 要!?」 
「起きたのか?」 
「なんでもう起きてんだよ。何してんの」 
「何って朝飯を作っている。もう出来上がるがな」 
「いや、そうじゃなくて。飯なんかいいから休んでなくちゃダメだろ」 
「身体のだるさより、最近は、長く寝ている際の腰の痛さの方が堪える。起きている方がマシだ」 
「うっわ……。やばいってその台詞。ジジイかよ。俺なんていくらでも寝てられるぜ?」 
「若ぶる必要性を感じない。なにか問題があるのか?」 
「別にいーけどさ……」 
「ほら、そろそろ飯を食うぞ。お前も顔を洗ってこい。あと、洗濯を仕掛けるから着ている物を洗濯機へ放り込んでおけ」 
 
 今現在、佐伯が何度あるのか知らないが、驚く程に佐伯はいつも通りになっていた。寝起きでテンションの上がらない自分より元気に見えるぐらいだ。 
 のろのろと廊下に出て、歯磨きなどを済ませ、晶は食卓へ戻った。 
 
「体調はどうなの?」 
「大丈夫だ。頭痛も治ったし、熱は微熱だ。お前こそ、目にクマができてるぞ。色男が台無しだな」 
 
 玉子焼きを作る際のジュッという音を響かせながら、佐伯がみるみるうちに料理を仕上げていく。 
 
「色男を台無しにしたのは名字に『さ』がつく誰かさんなんですけどー」 
「ほう? 『さ』がつく誰かなのか。見当もつかんな」 
「凄いよな。そこまで強引な白の切り方、みたことねぇわ。まぁ、クマは昨日あんま寝てねぇからかな。でも俺は全然元気だけど」 
「睡眠不足は免疫力も下げる。なるべくきちんと睡眠はとるようにしろ」 
 
 食卓へ並んでいるのは、味噌汁、厚焼き卵、焼き鮭、大根の和風サラダ、自分がこれだけの料理を作ると相当な時間が掛かるだろう。あんな遅くに帰宅したのに、もう起きて朝食を作っているとか、一度感染したとは言え、佐伯の体力もかなり凄いと思う。 
 飯なんていいからと言った物の、美味しそうな朝食の匂いに腹が鳴った。 
 昨夜は自作の粥しか食べていないので余計に腹が減っているのだ。 
 
「うまそう。あの粥しか食ってねーから腹減ってんだよ」 
「飯は沢山炊いてあるから、好きなだけ食え」 
 
 準備を終えた佐伯が向かい側に腰を下ろす。 
 いただきますという言葉を言い終えないうちに、晶が玉子焼きを口に入れる。薄味だがふわっとしていてとても美味しい。まるで旅館にでも来ている気分だ。 
 あっという間に一杯目のご飯を平らげ、晶は立ち上がるとおかわりをよそう。 
 うまそうに食事を口に運ぶ晶を、佐伯はじっと観察するように眺めたあと徐に口を開いた。 
 
「食欲は問題ないようだが……、どこか体調が悪いとか、おかしな所はないだろうな? ちょっとでも変化があったらすぐに教えろよ」 
 
 心配そうな佐伯の視線に晶がニヤリとする。 
 
「心配してくれてんだ? 佐伯先生やっさし~」 
「お前が感染したら、色々と断り切れなかった俺の責任でもあるからな」 
 
 晶は佐伯の顔を覗き込むように視線を向けた。 
 
「元気そうで安心した?」 
「まぁな」 
 
 佐伯が食事を再開する。 
 
「そういえばさ、要はいつまで休みなん?」 
「本当は今日までだが、まだ咳が出るから念の為に明日いっぱいは自宅で療養するつもりだ」 
「そか、それがいいかもな。俺は今日の夕方ぐらいにはここ出るわ。明日朝から講習会があんだよ」 
「講習会?」 
「うん、支店のオーナーとマネージャーが集められて、新しく入れるシステムの使い方とかの説明を受けるらしいぜ。この前も、在庫管理の方で新しいシステム覚えたばっかなのにさ。俺、こういうの苦手なんだよなぁ……」 
「お前も大変だな」 
「まぁね、でもさ。昨日思ったけど……」 
「……?」 
「出来る事をやったのに結果がうまくいかねぇのも辛いけど、やらないでいて後悔するよりは全然いいよな。要も頑張ってるし、俺も頑張んないといけねぇなって思ったわ」 
「そうか」 
 
 晶はサラダを最後に食べ終わると、ご馳走様と手を合わせた。 
 
「あ……! 今思い出したんだけどさ。昨日俺が言ってた七夕の願い。叶ったんじゃね!?」 
 
 晶が嬉しそうにそう言って食卓に身を乗り出す。 
――『明日には少しでも要が元気になりますように』 
 完全に元気とは言えないけど、昨日よりは良くなっているのだから叶ったと言ってもいいだろう。 
 
「イケてる粥のおかげかもしれんな」 
 
 信二とやりとりをした画面を見せたので、佐伯がいつもなら口にしないような言葉を使って苦笑する。 
 
「いやもうそれしかないでしょ。俺の料理も捨てたもんじゃねぇよな。いいんだぜ? 俺の事、料理男子って呼んでも」 
「あと二十種類ほどレパートリーが増えたら、その時はそう呼んでやる」 
「……二十とか……、鬼かよ。何年かかんだよソレ」 
「練習をすればすぐ達成出来る。やらないでいて後悔するよりは全然いいと今言っていただろう」 
「いや、それはコレとは別の話だろ。まぁでも、ちょっとはレパートリー増やしてみっかな」 
「頑張れよ。先に言っておくが、試食係は辞退しておく。これ以上、仕事を休めないからな」 
「おい! 俺の料理をサラッと毒薬扱いすんの酷くね!?」 
 
 外で観光しながらのデートも悪くないが、こうしてのんびりと佐伯と過ごす時間はやはり落ち着く。 
 昨日の昼にこっちへ来たばかりなのに、今日の夕方にもう帰らなければいけないとか、我ながら忙しないなと思うけれど、佐伯に会えたのだからそれだけで充分だった。 
 
 
 朝食を終えて、リビングで二人で他愛もない話をしながらテレビを観ていたら、あっという間に昼近くなり、昼飯を食べる。 
 その後、晴れて陰性になったので佐伯の了解を得てから、身体を休める佐伯の隣で一緒に昼寝をした。 
 佐伯がまだ外すのは駄目だというのでマスクは付けたままだったけれど……。こっそり手を伸ばして繋いでも、珍しく佐伯は嫌がらなかった。というか、多分眠っていて気付いていないだけだ。晶は手を繋いだまま満足そうに目を閉じる。 
 隣に佐伯が居る安心感からか、ここ最近で一番気持ちよく熟睡できた気がした。 
 
 
 ここちよい昼寝から起きたら日が暮れていて、もう帰る時間になっていた。 
 昨夜佐伯を待っている間は、恐ろしいほど長く感じた時間は、こんな時ばかりやけに早く過ぎていく。眠っている間に誰かが時計の針を強引に進めたのではと疑いたくなる。 
 
 朝に仕掛けておいた洗濯機が乾燥まで終了しており、晶は渡された洗い立てのシャツに腕を通した。佐伯の使っている洗剤の匂いがして何だか幸せな気分になる。 
 帰る準備を済ませた晶が、リビングに顔を出すと、佐伯は読んでいた本を置いて立ち上がった。 
 
「俺、そろそろ行くわ。駅であいつらに土産とかも買わねぇとだし」 
「そうか」 
 
 見送りに玄関へきた佐伯の方を見たいのに振り返る勇気が無い。本当は、まだ帰りたくない。だけど、それには終わりが無くて、明日になったらまた傍にいたくなる。佐伯の顔を見てしまえば、それが増長されるのがわかっているからだ。 
 
「あー、要はここでいいからな。完全に治ったわけじゃねぇんだし」 
 
 背中を向けたまま口を開く。 
 
「階下までなら問題ないから見送ってやる」 
「いいって。……マジで。ここでいいから」 
 
 靴を履いていた晶が立ち上がる。意を決してもう一度だけ顔を見とくかと後ろを振り向いた晶は、佐伯を見上げてニッと笑みを浮かべた。 
 
「俺が帰っても、ちゃんと身体休めろよ? 今度いつ会えっかわかんねーけど、また連絡す、……って、……」 
――……要? 
 
 言葉の最後は、佐伯の胸に吸い込まれた。急に抱き締められていることに気付くのに少し時間がかかった。段差のある玄関、下にいる晶の顔が、丁度佐伯の胸に当たる。 
 
「色々と面倒を掛けたな」 
「そんな、改まって何だよ……。別にいいって……」 
「感謝している。だが、お前も結構意地が悪いな」 
「は?」 
「昨日、お前がキスをねだってきた時は、正直、抑えるのに苦労したぞ」 
 
 佐伯は晶を見下ろすと、参ったと言わんばかりに眉を寄せて苦笑した。晶も吹き出して、顔を見合わせる。 
 
「良く言うぜ。全然平気であしらってたくせに」 
「あそこでは、そうするしかなかったからな」 
 
 赤くなった頬をごまかすように、晶が身体を離して手で顔を仰ぐ。 
 
「晶」 
「うん?」 
「東京に戻ってからも、身体には気をつけろよ」 
「うん、わかってる。要も、無理しすぎて倒れねーようにな」 
「ああ」 
「今度会った時はさ……、」 
「ん?」 
 
 晶はマスクをしたまま、踵を浮かして佐伯の頬に一度だけ軽く口付けて離れた。 
 
「死ぬほどキスさせろよ。マスクなしで。んじゃ、お大事に」 
「ああ、またな」 
 
 晶は笑いながら片手を挙げ、背を向けると玄関を出て行く。 
 店に何を買っていこうかなとか、帰りの電車で食べる駅弁は一個にしておこうとか、そんなどうでもいい事を考えながら歩く。 
 どうでもいい事を考えられるのって本当に幸せなのだなと実感する。 
 
 マンションを出て、行きと同じくタクシーに乗って駅まで行って降りると、携帯へ佐伯からメッセージが入っているのに気付いた。 
 何か言い忘れたことでもあるのかと改札を潜りながら目を通し、晶は読み終えると笑みを浮かべてポケットへ携帯をしまいこんだ。 
 
『いつか、俺がお前の夢を叶えてやる。南国のどこに行きたいか考えておけ』 
 
 佐伯は、何気なく言った自分の夢の話を覚えていてくれたのだ。 
 いつになるかはわからないけれど、その願いは、織り姫でも彦星でも無くて、どうやら佐伯が叶えてくれるらしい。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
おわり 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後書き 
 
季節外れの七夕話になってしまいました(苦笑) 
こちらの話は第六回 キャラクター投票で一位になった彼の番外編を書くというお約束の元、佐伯×晶で書きました。掲載するまでに随分とお時間を頂いてしまいすみません。 
何本も佐伯達の番外編を書いてきましたが、大阪へ行ったバージョンは初めてです。といっても観光しないのでいつもと代わり映えがしませんけど^^; 
晶に投票下さった方が、少しでも気に入って貰えるような話になっていましたでしょうか。 
良かったら、一言ご感想等聞かせて下さると励みになります。 
それでは、投票所設置の際は、沢山のご参加、有難うございました。 
 
 
2020/10/9 紫音