もうすぐ9月だというのに、外気温度は35℃。 
 滴り落ちてくる汗をハンカチで拭いながら、晶はポケットに入っているゴムで後ろ髪を結んだ。首元がほんの少し風通しが良くなっただけでこうも違うのかと感動するが、それも一瞬だった。生暖かい夜風が首筋を二度目に撫でる頃には、もうすっかり元通りの暑さに逆戻りだ。 
 
「夜だぞ、夜……。この暑さどうなってんだよ……。昼かっつーの……」 
 
 呪いの言葉のように呟き、コンビニから店までの距離をダラダラと歩く。どんなに暑くてもジャケットまで着こみ、髪は勿論結ばずガッチリとセットでかため、クールに格好をつけていた数年前の自分の根性が今すぐ欲しい。今は格好よさより如何に暑さを和らげるかに重点を置くようになってしまった。 
 認めたくないけれど、現役から遠ざかっている証拠のような気もする。 
 夜の街歌舞伎町は、今夜もいつも通りだった。
 
 
 
 
 
 
 アスファルトに踵を降ろす足音さえ、雑踏に紛れて聞こえない。 
 晶のつま先にあたった小石は勢いよく跳ね、電飾看板の足にぶつかって動きを止めた。 
 街中のいたる所で暑さを増長させるような熱い抱擁が行われている。しかし、少しでも路地裏に入り込めばまた違った景色があった。そこでは湿った空気が溢れ、愛憎渦巻く修羅場中なんて事も珍しくない。 
 
 剥き出しの欲望、表と裏、具現化したそれらがそこかしこに溢れている。 
 ギラつくネオンに目を眇め、通りすがりの女性の香水がきつく鼻を掠めれば、現実からトリップするのもそう難しくない。 
 そんな街で自分は今夜も生きているのだ。 
 晶はポケットから出した手で、落ちてくる前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。 
 
 吹けば飛ぶような小さなピースでしかない自分だって、でかいパズルの一部である。そんな事を考えながら歩いているとようやく店へ辿り着いた。 
 エレベーターから降りて店のドアを開けると、冷え切った風が一気に吹いてきて、あまりの心地よさに昇天しそうになった。 
 
「あぁぁぁ。生き返ったわー……」 
 
 独り言にしては大きな声でそう言って、冷風の吹き出し口に顔を向けていると、丁度客を見送って外から戻ってきた信二とぶつかった。 
 信二はジャケットを着込んで平気な顔をしたまま、爽やかさ全開でさらさらの髪をかき上げた。勿論汗など一切かいていない、ようにみえる。 
 ふんわりと信二のつけている香水が香った瞬間、戦う前だが、非常に悔しいが惨敗だと感じた。 
 
「あ、すみません。晶先輩、んな所で何してるんっすか? 邪魔なんっすけど」 
「…………」 
 
 一回り成長した信二は、態度も比例してでかくなった気がする。 
 いや、それだけ親密な時間を過ごしてきた信頼関係と言えるのかも知れないけれど、ズバッと邪魔と言われると流石に悲しい物がある。 
 
「おい、信二。仮にもオーナーにむかって邪魔ってこたねーだろ。調子のんな、コラ」 
 
 冗談で軽く足を蹴ると、信二は「痛っ、もう~」と言いながらへへっと笑みを浮かべた。首元の汗をハンカチで拭いながら、晶が眉を顰める。 
 
「にしてもさ、今日も地獄のような暑さだよな。勘弁してくれよ、ったく……」 
「そうっすね、まだ夏ですから。ってか、地獄って暑いんっすか? 俺、行ったことないんで」 
「いや、俺もねぇよ。例えだよ例え」 
「ですよね。あ……」 
「???」 
「ちょっと、待ってて下さいね」 
 
 信二は晶を見て何か思いついたのか走って奥へ行き、少しして急いで戻ってきた。 
 
「はい、これ」 
「ん? ……俺に?」 
「そうっす」 
「(信二のくせに)気が利くじゃん。サンキューな」 
 
 言葉では冷静に言っているが、正直心の中では感激していた。カッコの中は勿論心の中の声だ。 
 
「いや、晶先輩が髪結んでるとか、よっぽどっすからね。水はここ置いておきます。んじゃ、俺客待たせてるんで」 
「お、おう……」 
 
 信二から渡されたのは、冷たいおしぼりとコップに注がれたミネラルウォーターだった。自分が後ろ髪を結ぶのは余程暑がっている時と知っていて、すぐさま持ってきたのだろう。 
 冷たいおしぼりを首筋に当てながら、貰ったグラスを手に取る。 
 冷蔵庫から絞って入れてきたか、ほんのりレモンの香りが漂い、グラスを傾けると透明な氷がカランと音を立てた。 
 鋭い観察力に素晴らしい気遣いだ。一気に飲み干せば、渇いていた喉がひんやりとした水に喜び、体温を幾らか下げた。 
 
 店内の入り口に近いテーブルから聞こえる、信二が接客をする声。楽しそうに笑う女性客の顔からは視線を外さず、信二の手が灰皿の交換を合図する。さっときたボーイが灰皿を交換した後、真新しい灰皿が女性客の手元に置かれるまでの流れは完璧だった。 
 その様子を横目でチラッとみつつ、晶は信二がまだ新入りだった頃をぼんやりと思い出していた。 
 
 ホストになりたての頃。信二は、どちらかというとあまり気が利くタイプではなかったのだ。ホストに必要な客を楽しませる話術は最初から持っていたが、接客中はそれに集中しすぎて他の事まで気が回らない。 
 そんな信二によく言っていた事がある。 
 
――言われる前に相手がして欲しいことを先回りしてサービスしてあげんのも俺たちの重要な仕事なんだよ。会話しながらそれを同時にやれるようになれ、と。 
 
 だけど今の信二を見ていれば、もう、今後その言葉を言う必要はないのだと実感する。 
 すっかり身にしみ込んでいる信二が、今度は後輩達に教える番なのだ。 
 信二の成長を目の当たりにして世代交代とはこういう物なのかもと思う。玖珂から自分へ、自分から信二へ、信二から後輩へ、雑な家系図のような絵が脳裏に浮かび、晶は一人苦笑しながらオーナー室へと向かった。 
 晶の背後から遠ざかる店の音。そろそろラストソングの選曲が始まる時間でもある。 
 店は閉店まであと一時間。今日も何事もなく無事に終わりそうである。 
 
 しかし、一時間では片付けられないほど雑務が山積みなので、店が終わっても晶の仕事はまだこれからといった所だった。 
 店が繁盛して界隈でも名が知れてきたのは喜ばしいことではあるが、それに比例して最近ではホスト雑誌の取材や、ホストクラブを紹介する動画番組の出演など、店の仕事とは別の所でも色々と舞い込んでくるので時間が足りないぐらいだった。 
 
――んじゃ、やるとすっかな……。 
 
 本日残っているのは一番嫌いな事務仕事ばかり。 
 気合いを入れてスリープさせていたパソコンを立ち上げると早速新着メールが何通か届いている。8割宣伝だが、大事なメールも中にはあるので見逃さないように順番にチェックする。 
 中には、今より高額の報酬を約束するからうちにこないか? というような同業者からの引き抜きも紛れている。以前中身を確認して目を通したこともあるが、その額は胡散臭いほどに高額だったりするので、金目的で店に身を置いている人間ならば揺らぐ事もありそうである。 
 しかし、晶は一度も考えた事はなかった。 
 LISKDRUGで働くのは金のためだけではない。この店が好きだから、ここにいるのだ。 
 
 晶はタイトルでそれとわかるものは中も見ずにゴミ箱へと移動させた。漸く減ってきた新着メールの中に、見た事の無いアドレスからのメールが届いていた。 
 
「ん? ……、何だこれ……」 
 
 メールを開いてみてやっと「ああ」と思い出す。先月店の取材に来た編集社のカメラマンと意気投合し、そのあとプライベートでも何度かやりとりをするほど親しくなったのだ。相手はそのカメラマンだった。 
 
 なになにと内容を見てみると、どうやらモデルをやって欲しいという依頼のようだ。また雑誌かと思いながら読み進めると、雑誌は雑誌でもなんと結婚情報誌のようで、晶は驚いて雑誌名を二度見した。 
 
――マリアージュ!? 
 
 コンビニで並んでいるのを目にしたこともあるし、テレビを観ていればCMも頻繁に流れてくる程知名度のある雑誌だ。 
 しかし、そんな有名結婚情報誌のモデルに何故自分が……。 
 
 湧いた疑問への回答は読んでいくとちゃんと書いてあった。花嫁役のモデルが、晶を指名しているというのだ。 
 新宿店に移動してから一度顔を見せに来てくれたが、本業のモデルで人気が出てからは流石に店にも来なくなり、最近は月に数回メッセージをやりとりする程度の付き合い。所謂、以前の晶の客の一人なのだ。 
 撮影は一日だけらしいし、場所も近場の撮影スタジオのようなので、特に断る理由もない。 
 
「……結構、世話になったからなぁ……」 
 
 晶は、モデルの子を思い浮かべて優しい笑みを浮かべていた。たとえ今は客とホストの関係からは外れたとしても、こうして頼ってくれるのは嬉しい事でもある。 
 
――まぁ、一回だけだし、引き受けておくか。 
 
 学生時代、読者モデルの経験もあるし、前にも数度、別雑誌のモデルはやったことがあるのでだいたいの流れもわかる。引き受ける旨を記載してメールを返信すると、5分も経たないうちに店の電話が鳴り響いた。 
 
「はい、LISKDRUG新宿店です」 
 
 愛想良く電話に出ると、同じぐらい愛想の良い声が返ってきた。 
 
『三上さんですか? 俺です。光栄出版の佐藤です』 
「おぉ! 今メール返したのに、行動はぇーな。ってかこんな時間なのにまだそっちも仕事?」 
『はい、あ、でもさっき撮影終わったばかりなんですよ。今から片付けて社に戻って編集って所ですかね』 
「そっかそっか。お互いお疲れさんってやつだな」 
『ですね~。あ、忙しいところメールの返信有難うございました。モデルの件引き受けて頂けるんですね!? 依頼してみて良かったです!』 
「うんうん。でもさ、いくら指名があったからって俺みたいな素人でいいの? あの雑誌結構有名なやつじゃん?」 
 
 元来二人とも話し好きで、だからこそ気があったという大前提があるので、電話は脇道に逸れまくり結局30分程話し込んでしまった。 
 ホスト界隈も時間的にはかなり不規則な職種だが、話を聞いていると、カメラマンも同じように相当時間が不規則らしい。 
 
 
 電話を切ったあと、今話していた内容を思い出し、晶は煙草を咥え難しい顔でプライベートの携帯を取りだした。 
 電話帳の佐伯の所で指を止め、一度携帯を閉じて天井を仰ぐ。 
 
――……無理。ぜってぇ無理……だよなぁ……。 
 
 打診する前から断られるのが目に見えている案件の可能性を、少しでもあげるにはどうしたらいいか。ひたすら考える。 
 自分が雑誌のモデルを引き受けたのはいいけれど、まさかこんな事になるとは思っていなかった。 
 ここはやはり店の誰かにお願いするしかないのか。 
 
 晶は新宿店だけにとどまらず、他の店舗のホスト達の顔も順に思い浮かべては、最終的に「なんか違う……よな」と一人呟いた。 
 もう一人モデルを探して欲しい、出来れば三上さんと親しい方でと切り出された時は軽くOKしてしまったが、その後の条件を聞いてOKした事を少し後悔した。 
 
 
 時間が時間なので、いつもメッセージをやりとりしている佐伯とのグループに書き残しておくことにする。佐伯が気付いて返信が来るまでに、何かいい誘い文句を考えればいいだろう。 
 
【突然なんだけど、9月の最初の日曜、時間取れる? 一日だけちょっと付き合って欲しいんだけど。返事待ってる】 
 
 具体的な内容を書くと返事が来ない可能性が高いので、あえてはぐらかしていくスタイルをとった。メッセージ画面を閉じて携帯をポケットへしまうと、すぐにそれが振動しだした。 
 
――こんな時間に誰だ? 
 と思いつつ相手を見るとなんと佐伯からである。 
――要!? マジかよ。 
 驚いて落としそうになった携帯を握り直して、晶は携帯を素早く耳に当てた。名前を見つけただけでテンションが上がったことを知られぬよう、いつも通りに電話にでる。 
 
「よぉ、珍しいじゃん。こんなすぐに連絡付くとかビックリなんだけど。暇だったんだ?」 
『20分前に手術が終わったばかりだ。今はまぁ、暇と言えば暇だが。一服中だ』 
「いやそれ、全然暇じゃねぇし。つか、こんな時間まで手術とかお疲れ。夜勤? 話してて平気なの?」 
『ああ。急な手術が入っただけで夜勤というわけではない。後は帰るだけだ。それで? メッセージは見たぞ。その日は空いているが、どこか行きたい場所でもあるのか?』 
「あー、えっと。いや、行きたい場所ってわけじゃねぇんだけどさ」 
『じゃぁ、なんだ?』 
「最初に聞いておきたいんだけど、要の病院って私立大学の病院だよな? 副業とか禁止されてんの?」 
『別にそんな話は聞かんな。テレビにコメンテーターとしてよく出てる者や、本を出している者も他の医局にはいるし、問題はないだろう。何故そんな事を聞く』 
「いや、ちょっと。お願いがあるって言うか……」 
『ハッキリしない奴だな。聞いてみないと返事は出来ん。さっさと言え』 
「うん。一日だけ、新郎になってくれねぇかなって』 
 
 我ながら意味のわからない事を言っていると思うが、本当なのだから仕方がない。佐伯からの反応が返ってくるまでに数秒を要した。 
 
『……何の冗談だ??』 
 
 佐伯が馬鹿にしたように鼻で笑い、煙草の煙を吐き出す音が電話越しに聞こえる。 
 
「冗談じゃねぇの。だから、俺と一緒に、雑誌のモデルやってくんね? って話だよ」 
『断る』 
「おい! ハッキリ言っても秒速で断ってんじゃねぇか。少しは迷うフリとかしろよ」 
 
 案の定の展開すぎて驚きもない。佐伯が快くモデルを引き受けてくれるほうが逆に裏がありそうで怖いレベルなのだから。でも、ここで引き下がるわけにはいかなかった。 
 ここからが勝負である。 
 晶は一つ咳払いをし、話を続けた。まずは安全性をアピールからだ。 
 
「怪しいサイトとか雑誌のモデルじゃないぜ? ほら、よくテレビでやってる結婚情報誌のマリアージュってあんだろ? あれの新郎モデルなんだけどさ」 
『なんで俺がそんな雑誌のモデルをしなければならないんだ』 
「つか俺も成り行きでって感じで。もう一人捜して欲しいって頼まれてんだよ」 
 
 とりあえず、胡散臭い雑誌ではない事は理解してくれたようである。晶は続けて何故自分が誘われたかの理由をそのまま話した。 
 
『ほう。じゃぁ、もう一人もお前のホスト仲間を誘えばいいだろう。俺より余程適性があるはずだが?』 
「まぁ、……そうなんだけどさ。そうもいかねぇんだよ。今回のテーマがハロウィンなんだって。再来月の末にあんだろ。雑誌出るのがそれぐらいだから。で、その号の特集が『天使と悪魔のパーティーウエディング』なんだってさ」 
『……だからなんだ。俺には全く関係ないだろう』 
 
 確かに佐伯には全く関係がない。 
 しかしそこには、ちゃんとした理由があった。 
 
 先程聞かされた情報だと、天使側の花嫁役は晶の元客の女性だが、悪魔側の花嫁役が身長がかなり高くヒールを履くと180近くになるモデルらしいのだ。10 cmの差はどうしても欲しいと言われ、その時点で店のホスト達は全員候補から外れてしまった。 
 高身長でパッと思いついたのが玖珂と佐伯だが、玖珂は身長には問題がなくても、もう一つの点でどうしても候補に考えられなかった。 
 
 そう。今回の件で何よりも重要なポイントが一つあるのだ。 
 
――三上さんの友人で、身長が190近くて威圧感のある方いませんかね? 悪魔がテーマの衣装なので、ちょっと陰のある悪い感じの……。そんな雰囲気があう方を探しているんですよ。本当は別のモデルさんを手配する予定だったんですけど、コンセプトとして親しい友人同士のダブル結婚式を仮定しているので、三上さんが引き受けてくれるなら、もう一人も普段から親しくしている方の方が、自然な絵が撮れるんじゃないかなって思っていまして。 
 
 少し柔らかい言い方をしていたが、ようは晶と仲の良い『悪魔っぽい雰囲気の男』が希望なのだ。 
 これを聞いた瞬間、何の違和感もなく佐伯が思い浮かんでしまった。 
 愛嬌の無さは、間違いなく天使側ではないと保障するし。それに加え初対面の相手を怯ませる鋭い眼力も通常装備。高身長でスタイルが良いだけなら普通のモデルでも務まるだろうが、それを上回るほどの態度のでかさは、演技では中々出せないはずだ。 
 今回求められている本物の威圧感の演出には欠かせないだろう。 
 これはもう悪魔以外の何物でもない。人間でいる事の方が違和感がある。 
 いや、それは流石に言い過ぎだろうと、全部言い切った後で晶は心の中のもう一人の自分を窘めた。 
 
 まさか、そのままを伝えるわけにもいかず、オブラートにくるんで如何に佐伯が適任なのかを話して聞かせると、佐伯は明らかに嫌そうに電話口で溜め息をついた。 
 
『それで俺に、悪魔側のモデルをやれと?』 
「うん、まぁ。お願いできねぇかな~って。交通費も出るって言うし撮影終わったら飯奢るからさ、なんなら二人でどっか泊まってもいいし。要のタキシード姿俺も見たいし、頼むよ。悪魔役とか要の本領発揮だろ?」 
『……お前、本領発揮の意味をわかって言ってるんだろうな』 
「細かい事はいーんだよ。撮影日まだ先だけど、詳細決まったら速攻連絡すっからさ。な? いいだろ? 頼むよ~」 
『…………』 
 
 流石にモデルなどやった事もない佐伯の反応はすこぶる悪かった。渋々出された次の言葉は、まだなんとかして回避できないかを探るような言葉だ。 
 
『他に候補はいないのか?』 
「いねぇよ。だからこうしてお願いしてんじゃん。要とだったら俺も緊張しないでやれそうだし」 
『お前は、相手が俺じゃなくても緊張するようなやつじゃないと思うが?』 
「う……、まぁ、そう言うなって」 
 
 少し間が空いた後、佐伯から溜め息交じりの低い声が返される。 
 
『休日にわざわざ【悪魔役】をしにそっちまで出向いてやるんだ。其相応のメリットは、用意してあるんだろうな? 晶』 
 
 【悪魔役】を強調したその言い方が、晶にすごい重さの圧をかける。しかし晶は、新しい煙草を咥えると物ともせずに即答した。 
 
「何言っちゃってんの。そりゃ勿論、俺の新郎姿が見られる! って事がメリットなんじゃねぇの。見たいっしょ? 貴重な俺の晴れ姿」 
 
 笑ってそんな事を言う晶に、佐伯の圧はもう通用しないのだ。佐伯が降参したとでもいうように電話口で苦笑した。 
 
『……今回だけだぞ』 
「おぉ~! サンキュー! 当日楽しみにしてっから。んじゃ、俺から先方には連絡しとくわ」 
『ああ』 
 
 渋々引き受けてくれた佐伯に感謝しつつ、なんだか楽しみにもなってくる。 
 佐伯のタキシード姿が見たいといったのは、誘いをOKしてもらうためではなく本心だった。この先ずっと佐伯と付き合っていたとしても、男同士の関係で結婚は関係ない。 
 
 そうなると、佐伯が正装する場面もなくなるわけで……。こんな機会でもないとその姿を見ることが出来ないからだ。 
 佐伯のタキシード姿を想像して、晶は満足そうに口端から白い煙を吐き出した。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 撮影当日、日によって温度差は激しいが、今日はそこまでの暑さはない。野外の撮影と聞いていたので、本当に助かったと思う。 
 貸し切っている野外スタジオには既に本物と遜色ない式場のセットが組まれていた。 
 駅で待ち合わせをし、佐伯と二人でスタジオに着くと、遠くから佐藤が走ってくるのが見えた。 
 
「三上さーん!!」 
 息を切らして目の前までくると佐藤はにっこり笑って深々と頭を下げた。 
「今日はご多忙の所、モデルを引き受けて下さって有難うございます!」 
「いや、いーっていーって」 
「あっ! 大変失礼しました。初めまして。今回撮影を担当させて頂く佐藤です。急な依頼を引き受けて下さり本当に助かりました」 
 
 佐伯の方へくるりと振り向くと、佐藤は名刺を取り出して佐伯へと渡した。 
 
「どうも、今日は宜しくお願いします」 
「いやぁ、流石三上さんですね」 
 
 佐藤は何度も頷きながら、佐伯をじっくりみつめていた。 
「理想通りの方を連れて来て下さって。本職はモデルさんじゃないですよね? スタイルもいいし、このままモデル業界にスカウトされてもおかしくないですよ。普段どんなご職業を?」 
「大学病院で外科医をやっています」 
「えー!! お医者さんですか!? いやぁ~。ますますかっこいいですね」 
「いやいや、佐藤さん褒めすぎだって。でもまぁ、見た目はバッチリでしょ」 
 
 割って入った晶が得意げにそんな事を言うので、佐伯は呆れた目で見ていた。どういう立場という設定でいるのか、最初からもっと聞いておけば良かったと思う。 
 しかし、自分達にそんな時間はないようだ。 
 
「じゃぁ、早速ですけどメイク室で衣裳合わせをしながらだいたいの流れを説明しますので」 
「わかりました」 
 
 その後、晶と話す暇もなく担当メイクスタッフに連れられて早速控え室へ通された。佐伯の控え室は廊下の奥だった。 
 スタッフの後について入ると、目の前に例の衣装がかかっている。 
 まずは試着をするように促され袖を通してみると、先日事細かに寸法を聞かれただけはあって、佐伯にピッタリのサイズで出来上がっているようだ。 
 
 悪魔などと物騒なテーマなので、どんなおかしな衣装を着せられるのかと思っていたが、所謂黒を基調としたタキシードというだけで、そう変な趣向が凝らされているわけではなさそうである。結婚式は初めてではないが、美佐子と挙げた時は和装だったので、タキシードを着たことはない。 
 佐伯は、安心した息を吐くと一度衣装を脱ぎ、巨大な鏡の前に置かれた椅子に腰を下ろした。