2月は暦のうえでは春である。 
 バレンタインの14日ともなれば立春も過ぎ、目に見えぬ景色の隅では春の息吹が芽吹いているのだろう。 
 しかし、2/14日の今日、春は神隠しにでもあったかのように姿を消し、今年一番の冷え込みが都内を襲っている。 
 こころなしか、天気予報で表示された季節外れの雪だるまも困惑しているように見えた。 
 
「寒い中お越し下さり、有難うございます。お待ちしておりました」 
 
 某有名フレンチのグランメゾン。 
 フロア入り口から、寒さに身を縮こまらせてやってきた客を笑顔で迎え入れるギャルソンの声。 
 ビルの25階に入っているこの店は、バレンタイン当日は勿論、平日でさえ半年前から予約が埋まっているほどの人気店だ。 
 限られた客だけの贅沢を尽くしたディナーが売りでもあるが、中でも評判なのは一日一組限定の、プロポーズを前提としたメニューが組まれたコースである。 
 食事の最後に、日付を刻印した記念のカラーセレクトシャンパンがプレゼントされる。 
 
 そして、まことしやかに囁かれている噂があった……。 
 そのシャンパンを貰った二人は永遠に結ばれるというのだ。真実はともかく、そんなロマンチックな噂があるとくれば恋人達の人気が非常に高い事にも納得がいく。 
 
 玖珂は硝子張りの外の夜景に視線を向けた後、チラッと腕時計を傾けた。 
 手彫り装飾が施された文字盤、針が進むたびに上品な光が映り込んだ窓硝子の中で揺れる。時刻を確認し、今日何度目かの心配げな息を漏らした。 
 天気予報通り、すでに小雪がちらついている。くるりと軽やかに回転しながら落下する真っ白な雪、時々窓硝子へあたればすぐに水滴へと変わる。 
 そばにある本格的な暖炉にくべられた薪が小さくパチパチと音を立てるのを耳にしながら、玖珂は何も乗っていないテーブルへと手持ち無沙汰に腕を置いた。 
 
 何度か指先でテーブルを弾きながら、渋谷のことを考える。 
 待ち合わせの時間はとっくに過ぎているのに、渋谷から連絡が入らないのだ。 
 別に何時間待とうが構わないが、いつも待ち合わせ時間より早くに来る渋谷がこんなに遅刻してくるとは、彼の身に何かあったのではないかと思う。 
 昨夜ベッドで「明日が楽しみで寝付けそうにないです」なんて可愛い事を言っていた笑顔を思い浮かべれば尚更懸念が募る。 
 
 
 渋谷と一緒に暮らすようになって、外で待ち合わせをする回数は激減した。 
 デートに出掛ける時も一緒に自宅から行くし、仕事の時間帯が合わないので仕事帰りの待ち合わせも滅多にない。 
 バレンタインの今日は折角だからと二人で話し合い、外でのディナーをしようと決めたのだ。店自体は任せると渋谷が言うので、この店を予約したのは自分だ。 
 既に予約は無理だろうとは思っていたが、一組キャンセルが出たらしく運良く予約を入れて貰えた。 
 
――それにしても、遅いな……。 
 
 玖珂はもう一度腕時計を確認し、胸ポケットから携帯を取りだした。やはり渋谷からの連絡は入っていなかったが、見慣れない番号から一件着信が入っていた。こういう店ではサイレントにしているので今まで気付かなかったのだ。 
 携帯番号らしきその数字の列を見て、玖珂は一度席を立った。 
 ナプキンを畳んで机の上へと置くと、すぐにギャルソンが側にくる。 
 
「お客様、どうかなさいましたか?」 
「いや、少し連絡を取りたい相手がいるので席を外します」 
 
 メインの食事が開始していない今なら、離席もマナー違反ではないだろう。 
 
「そうですか。ごゆっくりどうぞ」 
 
 流石に指導が行き届いており、すぐにさがるギャルソンに感心する。 
 玖珂は足早に店を出ると、降りてくる客の邪魔にならぬようエレベーター前のフロアで足を止めた。毛足の長いふわりとした絨毯をふみしめ、壁へと寄りかかる。 
 携帯を取りだして先程の見慣れない番号へと掛けてみたが、相手は出なかった。 
 仕方なく再び席に戻ろうと携帯を胸ポケットに入れ直すと同時に一瞬着信を知らせる光が点滅した。慌てて取り出してみると、また同じ番号からの着信である。 
 玖珂はすぐに繋ぐと携帯を耳へとあてた。 
 
「もしもし?」 
「……珂、……ん」 
 
 相当に雑音が混ざっており、声が聞き取れない。かろうじて聞こえる声が渋谷に聞こえてしまうのは、自分がそう望んでいるからなのかも知れない。 
 
「見慣れない番号ですが……、どなたですか?」 
「俺、……谷です。――え、すか?」 
 今度こそはっきりと渋谷の声がする。 
「祐一朗、なのか? どうしたんだ? よく聞こえないんだが」 
「――ません。待っ……なおします」 
 
 何を言っているかわからぬまま電話は唐突に切れた。ただ事ではない様子に胸騒ぎを覚え暫くそのまま待っていると、十分ほどして今度は見慣れた番号からかかってきた。自宅の電話番号だ。 
 
「もしもし?」 
「ああ、玖珂さん。すみません。何度も」 
 
 急いで掛け直したのか渋谷の息が僅かに上がっている。 
 
「そんな事はいいんだが、この電話、……自宅からだろう? どうした? 何かあったのか?」 
「実は俺の携帯壊れちゃって。さっきのプリペイド式の携帯をコンビニで買ったんですけど何故か上手く繋がらなくて。帰宅途中だったので急いで自宅に戻ってかけ直したんです」 
「それは災難だったね、携帯が壊れたって、もしかして何かあったのか?」 
「それが……、ちょっと事故に遭っちゃって。あの、でも!! 俺は大丈夫なんですけど」 
 
 事故という言葉に頭の中が一瞬にして凍り付いた。 
 
「事故!? どこで? 怪我は? 怪我とかは、ないのか? 無事なんだな?」 
「俺は大丈夫です。店に向かう途中で巻き込まれて……、足を怪我したので病院へ運ばれてたんです。色々警察の方に事故の様子を聞かれたりしていたらこんな時間になってしまって。……玖珂さん、もうお店ですよね。すみません。着替えてすぐ行きますから」 
 
 すぐに向かうという渋谷に、いつもは相手の話を最後まで聞く玖珂が被せるように言葉を続けた。 
 
「いや、今日は予定を変えよう」 
「……え」 
「俺もすぐ戻るから」 
「でも……」 
「日を改めてまた来ればいいんだから、気にしなくていい。それより怪我というのは、足以外は本当に何でも無いのか?」 
 
 普段とは違う心配げな玖珂の声が受話口から聞こえ、渋谷は「大丈夫です」と小さく返した。 
 こんな日によりによって事故に巻き込まれるなど、折角二人で立てた計画が台無しである。 
 直接自分が事故に遭ったと言うよりは巻き込まれた形だったが、すぐ後ろで信号無視の自動車とバイクが衝突事故を起こした時は驚いて咄嗟に足が動かなくなった。 
 横転してアスファルトを滑るバイク……、自分の身体に当たって倒れた際も、恐怖で痛みも感じなかった。バイクを運転していた男が意識なく救急車で運ばれていったのをぼんやりと覚えてはいるが……。 
 もしかしたら、もうニュースで報道されているかも知れない。 
 しかし、玖珂に詳細を話せば驚いて心配するだけなのでひとまずは言わないでおこうと思っていた。 
 
「こちらの事は気にしなくていいから。ちゃんと安静にしているんだぞ。なるべく早く戻る」 
「はい……。すみません」 
 
 すぐに電話を切り店へ戻った玖珂は訳を話し、予約していた分の料金を支払ってから準備していた食事を無駄にした事を謝りすぐに店を後にした。 
 エレベーターが到着するのを待っていると慌てたように追いかけてきたギャルソンに声をかけられ、何やら店名の入った立派な紙袋を渡された。何が入っているのか分からないが今は確認している暇が無い。 
 礼だけを言って滑り込むようにエレベーターへと乗り込む。 
 
 渋谷の様子はいつもと変わらないように感じたし足の怪我だけで他は大丈夫だと言っていた。 
 その言葉を信じてもいいのだろうか。 
 25階から直通で1階へと急降下するエレベーターの浮遊感が、現実感を失わせる。 
 通りに出てみると視界にうつる街の景色はすっかり雪景色になっていた。乗り込んだタクシーの窓から見える非日常的な世界、しかし今はそれを楽しめる余裕もなかった。 
 とにかく一秒でも早く渋谷の無事をこの目で確認しないことには安心出来ない。 
 道は帰宅時間と重なったせいもあり混んでおり、普段よりかなり時間がかかってしまった。 
 
 タクシーを降り、急いでマンションのエレベーターに乗り込む。 
 早足はいつしか駆け足になり、玄関をあける鍵を差し込む時間ももどかしい。ガチャリとドアをあけると靴を揃えずそのままあがってすぐに渋谷の名前を呼んだ。 
 
「祐一朗!」 
 リビングのドアを勢いよく開ける。 
「玖珂さん、おかえりなさい。……ぁっ」 
 渋谷が完全に立ち上がる間もなくかけよって抱き締める。無事な姿を見た瞬間思わず腕が振るえた。 
「交通事故って……、本当に心配したぞ。どうしてこんな事に」 
「店に向かっていた途中で、でも俺は直接事故に遭ったわけじゃなくて巻き込まれただけなので、大丈夫ですよ。ただの打撲です」 
 咄嗟に強く抱き寄せてしまったが、すぐに渋谷が脚を怪我していると言っていた事に気付き、玖珂はそっと渋谷の身体を離した。 
「足は大丈夫か? どこを怪我したんだ?」 
 
 腕を解いた玖珂に、渋谷は屈んで裾をたくし上げた。左足の膝下に包帯が巻かれている。 
 それは渋谷の言葉から想像していた範囲よりずっと広かった。痛々しいそこにそっと指で触れ、玖珂は悲しげに眉を下げた。 
 
「痛そうだな……。骨は折れていないんだな? 医者は、何か他に言ってなかったのか?」 
「……ん……」 
「祐一朗?」 
「あ、……。すみません。玖珂さんの顔見たら、急に安心して気が抜けちゃって……」 
 まるで寝起きのように目をパチパチと瞬かせた渋谷の顔を、玖珂は怪訝な顔で覗き込んだ。 
「……大丈夫か?」 
 渋谷は気が抜けただけと言っているが心なしか様子がおかしい気がする。 
「今日……目の前でバイクと車が衝突事故を起こしたんですよ。バイクの人は意識が無くて……俺は、巻き込まれただけなので」 
 やはり気が動転しているのか。渋谷はつい先ほど説明したことをもう一度初めて言うように口にした。 
 
「そうか。怖かっただろう? もう大丈夫だ。今夜は家でゆっくりすればいい」 
「そうですね……。すみません。折角あんな立派なお店の予約が取れたのに……、俺も行きたかったです。怪我さえしなかったら」 
「怪我が治ったら、いつでも行けるさ。祐一朗が無事だった事だけで有難いと思わなくちゃな」 
「玖珂さん」 
「どうした?」 
 渋谷は急に力なくソファに腰を下ろすと、自身の足下をじっとみて呟いた。 
「この包帯……。家にあったんですか?」 
「……え?」 
「ああ、いえ。綺麗に巻かれているので、玖珂さんがしてくれたんですよね?」 
「……っ」 
 
 玖珂の顔から血の気がさっと引く。 
 玖珂はいつも通り笑みを浮かべると、渋谷の身体をゆっくり抱き寄せ、そのままソファへと寄りかからせた。 
「玖珂さん……?」 
 渋谷が「どうかしたのか?」とでも言うような表情で玖珂を見上げる。大きな瞳を改めてよく見てみると右目が充血している。 
――……これは。 
 
 よくない兆候なのかもしれないと瞬時に考え、玖珂はすぐにこの先取る行動を脳内で走らせた。自分でも驚く程気が急いているが、余裕の無さは相手に伝染し不安にさせてしまう。 
 玖珂は大きく息を吸うと渋谷の頬を一度優しく撫でて笑みを浮かべた。 
 
「少しそのまま横になっていてくれ。動くのは禁止だ、いいね……。すぐ戻るから」 
「……? はい」 
 
 玖珂は自室へ戻ると、救急センターへと電話を入れた。 
 最初はどこもおかしくないように見えたが、渋谷の言動が明らかにおかしい。頭を打っているとしたら治療を開始するまでのタイムリミットはそう長くない。 
 すぐに繋がった電話先に事情を説明し、近くで受け入れをしている病院を探す。何軒かメモを取り電話を切ると、すぐにメモの先の病院へと続けて掛けた。 
 救急車を呼ぶのと、直接連れて行くのとどちらがいいのか聞いてみたが、すぐ連れてこられるなら直接来て良いとのことだったので、渋谷の名前だけを伝えて電話を切った。 
 病院の住所が書いてあるメモをポケットに入れ、脱いだばかりのコートを羽織る。 
 渋谷の部屋にも入ってコートと保険証などが入っているであろういつも持っている鞄を手に持つと玖珂は渋谷を待たせている居間へと戻った。 
 
「祐一朗、今から病院へ行こう。着替えなくていいから、コートだけ上に羽織るんだ。ほら、これを着て」 
「えっ、……」 
 
 返事を待たず抱きかかえるようにして支えながらコートを着せる。事態が理解できぬままではあったが、渋谷は抵抗せず腕を通し玖珂を見上げた。 
 
「あの……病院って? 俺は別に」 
「念の為に診て貰うだけだから。俺が心配性なのは、よく知っているだろう? もう一度ちゃんと診て貰って医者から直接話を聞きたいんだ。いいね」 
 
 真剣な様子の玖珂に、渋谷は何も言えず今度は不安げに顔を曇らせる。 
 Yシャツの上にコートを羽織らされ急かされるように家を出る。 
 地下の駐車場で車へ乗り込むと、玖珂は急発進で車を発車させた。 
 事態が掴めないまま着いてきたが、玖珂の様子がいつもと違う事には気付いていた。 
 なにか傍目におかしな所でもあったのだろうか……、特に足以外で痛むところもないけれど……。渋谷は助手席で怪我をしていないか自身の全身をもう一度確認する。 
 さすがに動くとズキズキするが歩けないほどの痛みでは全く無い。 
 他は、やはりどこも怪我などしていないようだ。 
 
 唇を引き結んで運転する玖珂の横顔とその奥に見える真っ白な景色。 
 横断歩道を渡る人々を何気なく見ていると先程の事故を思い出し、渋谷はすぐに視線を逸らした。 
 何度か信号で止まる度に少しずつ気分が悪くなってくる。目眩と吐き気はあっというまに渋谷の体調を悪化させた。 
 助手席に座って揺られているせいで車酔いをしたのか、玖珂の運転には慣れているのに急になんで……。 
 自身でも戸惑いシートベルトを抑えるように寄りかかりながら回復を待ち、渋谷は小さく口を開いた。 
 
「玖珂さん」 
「ん。どうした?」 
「すみません、ちょっと車に酔ったみたいで……。窓、開けても良いですか?」 
「ああ、勿論構わないよ……、外はかなり冷えているが大丈夫か?」 
「……はい。少し風にあたりたいので」 
「すまない……、少し運転が荒かったのかもしれないな、気をつけるよ。気分が悪いならシートを倒して横になっているといい。出来るか?」 
「……」 
 
 酔ったなら本当は一度車を止めて介抱してやりたいが、一刻も早く病院へ行く方が優先だろう。 
「少し我慢してくれ、もうすぐ着くからな」 
 しかし、その返事はない。 
 赤信号で停車した際に隣に居る渋谷の顔を覗き込んで見ると、渋谷は真っ青な顔で目を閉じていた。窓から入ってくる風に吹かれてこんなに冷たいのに、額にはうっすらと汗が滲んでいるようだ。 
「祐一朗? 大丈夫か?」 
 片手で渋谷の額の汗を拭ってやる。 
 
 曲もラジオもかけていない車内には、渋谷の弱々しい息遣いと自身の跳ね上がった鼓動の音だけが耳の中で響く。 
 信号の先はすぐ病院である。玖珂は青になるのを見切り発車でアクセルを踏み込むと病院内の救急搬送口へと車を着けた。 
 すぐに降りて先程電話で話した患者である事と移動中に急に悪化した事を伝えるとすぐにストレッチャーが運ばれてきた。 
 
「祐一朗」 
 
 一度手を強く握ったが、渋谷は曖昧な反応しかせず「……玖珂さん」と唇が僅かに動いた後握っていた手から力が失われて落下した。 
「ご家族の方はこちらでお待ち下さい」 
 ついていきたい気持ちを抑え、指示に従って渋谷を見送る。診察室ではなく直接処置室へ入っていったのは一刻を争う症状だからなのだろうか。 
 
――渋谷にもし何かあったら……。 
 
 最悪の事態ばかりが悪戯に脳裏を埋めていく。 
 我に返ると廊下の真ん中で一人で立っている自分の姿が夜の窓硝子に映っていた。このまま立っているわけにもいかない。 
 静まりかえって照明を落とされた廊下を歩き、受付前のエントランスにあるベンチへ向かい腰を下ろした。 
 こんな大病院の人が居ないベンチで気を揉むのは、澪の入院時以来である。 
 病院は本当に苦手だ。病院なのだから当然だが、良い想い出はひとつもない。こうして待つ時間が腹立たしいほどに長く感じる事も、鼻に付く消毒の匂いも、全てが憂鬱になる要素しかない。 
 
 玖珂は長い時間を誤魔化すように、持ってきた渋谷の鞄をそっと開いてみた。勝手に中を探るのは気が引けるが、財布か何処かにある保険証を探しておいた方がいいだろう。なるべく他の部分は触れぬようにして、財布だけをそっと取り出す。 
 その時、鞄の中で指先が尖った物に触れた。チクッとした痛みに手を抜いて見ると案の定指先からぷくっと血が出ていた。 
「……っ」 
 中に何か鋭利な物でもあるのか? 
 指先をハンカチで拭って、鞄の中を再度覗いてみると底の方に機械のような物がある。取り出してみると、渋谷が普段使っている携帯である。ぐしゃりと潰されたそれは原型が分からぬほどで、画面を保護している硝子も粉々に砕けていた。 
 
――……。 
 
 こんなに酷い事故に巻き込まれたのか……。 
 見るも無惨なソレを目の前に、持つ手が小さく震えた。 
 玖珂は深く溜め息をついて壊れた携帯を元の場所へと戻し、天を仰ぐように目を閉じ待合室の硬いソファに背を預けた。 
 
 
 
 
続く