一時間は優に経っただろうか、自分達より後に来た患者を何組も見送った。 
 
――渋谷は今、どうしているのか……。 
 
 痺れを切らして様子を見に行こうと腰を上げた時、看護師が歩いてくるのが見えた。どうやら自分を探していたようで、姿を見つけると真っ直ぐに近づいてくる。その表情はにこやかだ。 
 
「渋谷さんの付き添いの方ですよね?」 
「はい、そうです。容体は……」 
「今は薬で眠っていらっしゃいますけど、大丈夫ですよ。個室に移動されていますのでご案内します」 
 
 初めて来た病院なので処置室の扉がどこに繋がっているのかわからないが、渋谷はもう個室にいるらしい。大丈夫というという事は、深刻な状態ではないと思っていいのだろうか。 
 
「こちらです」 
「どうも、有難うございます」 
「先生が中にいらっしゃるので、説明は先生からお聞き下さい」 
「わかりました」 
 
 一度軽く「失礼します」と声をかけドアを引くと、看護師の言った通り医師が渋谷のベッド脇へと立って様子を見ていた。 
 澪が一度救急車で運ばれた際、駆けつけると数え切れないほどの機械に繋がれていたのでその覚悟をしていたが、渋谷は点滴をされているわけでもなく、特に機械に繋がれている様子もない。いつも見慣れている穏やかな寝顔だ。 
 
「先生、容体の方は……」 
「うん」 
 医師は微笑むと玖珂の肩をポンポンと叩いた。 
「安心していいですよ。頭も一応全部調べたけどね、異常は何もなかったから。多分事故のショックから来る精神的な物だろうね。脳貧血を起こしたのもそのせいだろう」 
「そう、ですか……。良かった。有難うございます」 
 
 おかしな言動も一時的な物で事故後の急性期にはよく見られる記憶の混乱で気にする必要は無いそうだ。処方する薬もなく、本人が元気なら帰宅後に気をつける事も特にないらしい。 
 ほっと胸をなで下ろしていると、医師が「貴方はご家族の方?」と玖珂の顔を見上げた。 
 
「ああ……、いえ……」 
 
 そういえばここへ到着してから渋谷の家族の人間だと思われているようだ。 
 その事まで気が回っていなかったが改めて問われると言葉に詰まる。 
 嘘をつくわけにもいかないので「同居している友人」という体で話を進めたが、どうやら聞きたいのは関係性ではなく一緒に生活しているかどうかだったらしい。 
 
「一緒に住んでいるなら、今夜は事故のことはあまり話題にしないようにしてあげてください。本人が平気なようでも頭は結構覚えていてショックを受けているんですよ。だからね、思い出すとまた症状が出ないとも限らない。もしそうなったらゆっくり休ませるだけで大丈夫だけど、一応ね」 
「わかりました、気をつけます」 
「なにか別の事でもして気を紛らわせてあげたほうがいいかもしれないね」 
「はい」 
 
 医師は目が覚めたらもう一度診るから診察室へ寄ってくれと言い残して病室を出て行った。 
 今の医師の言葉と自身のとった行動を考え、玖珂は腕を組んだ。確かに、帰宅してから事故のことを何度も聞いてしまったし、すぐに連れ出した事で渋谷を不安にさせていたのかも知れない。 
 よくない行動だったと反省しつつも、渋谷の無事が分かって漸く強張っていた全身の力が抜けた。 
 二人きりになった病室は静かで、浅く腰掛けたパイプイスが軋む音が響く。 
 
――……本当に良かった。 
 
 ベッドへ身体を寄せ、渋谷の額にかかる前髪をそっと指ではらってやる。玖珂は安堵の深い息をついた。 
 病院には似つかわしくないめかし込んだ自分の姿に苦笑いを浮かべ視線をベッドへと戻す。 
「祐一朗」 
 外では呼ぶことのない名前を側にいる渋谷にしか聞こえない小声で呼んで、ベッドの中に手を潜らせ渋谷の手を探して握る。温かいいつもの体温、愛しいそれが失われなかったことが堪らなく嬉しい。 
 
 暫く寝顔を見ていると、規則的な寝息が僅かに乱れ、握っていた手が動いた。 
 そのまま様子を窺っていると、渋谷はようやくゆっくりと瞼をあげた。 
 辺りを見渡し不安そうに表情を曇らせている。 
 目が覚めたら病院の個室にいるなど、不安になるのは当然である。しかし、すぐに玖珂を見つけるとその表情は一気に和らいだ。 
 何かを言いたそうに見つめる瞳に、安心できる柔らかな笑みを与える。 
 
「おはよう」 
 玖珂は握った手に少し力を入れて包み込んだ。 
「どんな夢を見てたんだ? 目覚めの気分はどうかな?」 
 いつもと変わらぬ口調でそう問うと、渋谷も安心したのかやっと笑みを浮かべた。 
「……玖珂さん、ずっとついていてくれたんですね……、俺、」 
「良かったな。特に所見はないそうだ。もう自宅へ戻っても良いって先生に太鼓判を押されたぞ。俺も安心したよ」 
「そうなんですか、ああ……。良かった」 
「どこか調子が悪いとか、痛むところはないか?」 
「はい、もう大丈夫そうです。気分が悪かったのも今はないし」 
「そうか、それは何よりだね」 
 
 渋谷はゆっくり体を起こし、枕元にあった眼鏡を掛けると、ベッドに腰掛けたまま深い溜め息をついた。 
 
「今夜は、本当にすみません……。予定していた店もドタキャンさせて、その上こんな迷惑まで掛けちゃって……」 
「迷惑だなんて思ってないよ。祐一朗が足の外傷以外に何もなくて心から良かったと思ってる。ほら、俯いていないでもう一度ちゃんと顔を見せてくれ」 
 
 玖珂は椅子ごと近づいて長い指先を伸ばし、渋谷の顔をあげさせる。眼鏡越しのその瞳を見つめれば濡れたような黒い瞳には、自分が映り込んでいた。 
 いつもの渋谷が目の前にいる。 
 今更になってそれが当然ではないことを思い知り、改めて失う事を怖いと思った。先程見てしまった無残な携帯を思い浮かべれば、あれが渋谷本人だったらと重ねてしまう。 
 喜びや安堵の上をうっすらと覆う恐怖は完全になくなってくれない。けれど、だからこそ隣にいられる幸せを実感出来るのだ。 
 
 シーツの真っ白な色 
 廊下の非常灯が反射する緑色 
 渋谷の漆黒のような髪色に透き通るような肌の色 
 淡く色付く薄い唇……。 
 ひとつひとつの色彩を目で追って現実を確かな物にする。 
 
「……玖珂さん?」 
 ゆっくりと戻った玖珂の視線は、渋谷に真っ直ぐに向けられた。 
「……君に何かあったら、俺の世界は全ての色を失ってしまう……」 
 
 思わず口をついた本音。そう言ったあとそっと抱き寄せ、伝わる鼓動を享受する。渋谷の存在を確かめたくて背を撫でた。 
 
「そうならずに済んで、本当に良かった」 
「……」 
 
 玖珂の大きな手のひらが、何度も背中を行き来する。それはとても温かく安心できて、愛おしかった。十分安心を手のひらにためたあと身体を離すと、今度は渋谷の手が名残惜しそうに伸びてきて玖珂の手に重ねられた。 
 
「……心配かけてごめんなさい。こんな時に言うのはおかしいかもしれないけど……。目が覚めた時、玖珂さんがそばにいてくれて、凄く安心したんですよ。一人じゃないんだなって思って」 
「当たり前だろう」 
 
 玖珂が嬉しそうに目を細める。 
 廊下や隣の部屋で看護師達が行き来する気配を感じる。玖珂は一度咳払いをするとコートを手にしてゆっくりと立ち上がった。 
 渋谷の靴を揃えてベッド下へ置いてやると、二人分の荷物を手に取る。 
 
「立って歩けるか?」 
「はい、もう大丈夫です」 
「もう少し祐一朗を眺めていたいんだが……、さっき『友人だ』と言ってしまったからね。色々とお預けだな」 
「え? 友人って……なんのことですか?」 
「こっちの話だよ」 
 
 玖珂は詳しく教えずなんだかおかしそうに笑っていた。 
 最後の診察が終わるのを廊下で待っていると、渋谷は診察を受けてすぐに部屋から出て来た。 
 その後共に受付で会計を済ませる。 
 並んで歩く渋谷を見るとすっかり顔色も良くなっていた。 
 
 
 
 外に出てみると降り続いていた雪は水分を多く含んだみぞれになっており、数時間後には雨に変わっていそうである。そのぶん風が強くなっていて、寒さは一層増していた。 
 無防備にさらされた耳がジンとするほどだ。 
 
「結構降ってますね。もう雨に近いみたいですけど」 
「そうだな、それにますます寒くなったな」 
「そうですね」 
 渋谷が空を見上げ寒そうに肩をすくめて足を踏み出そうとする。 
「祐一朗、ちょっと待ってくれ」 
「……?」 
 
 玖珂に腕を掴まれ、渋谷は足を止めた。急いでいたので渋谷のコートの下はYシャツ一枚という薄着である。この寒さでは風邪を引くかも知れない。 
 玖珂は自分のコートを脱ぐと、渋谷の肩へふわりとかけた。驚いたように渋谷が玖珂に顔を向ける。 
 
「えっ、大丈夫ですよ。すぐ車に乗るし」 
「いいから羽織って待っててくれ、車をここへつけるから」 
「すぐだから俺も走ります。……あ、いや……」 
「その足で走ったら、もう一度病院へ戻らないといけなくなるかもしれないぞ?」 
「ですね……ちょっと無理かも……」 
 
 言った後に気付いたのだろう。渋谷は足下を見て申し訳なさそうに苦笑し「じゃぁ、お願いします」と言い換えた。 
 玖珂は足早に屋根から出ると車へ向かっていき、すぐに車を移動させ渋谷の前で停めた。 
 駐車場に停めてある車は数えるほどしかなくてガランとしている。 
 ヘッドライトが照らす範囲だけみぞれが一層激しく降っているように見えた。 
 
 玖珂が暖房を強めにいれたせいで車内はすぐに暖かくなる。 
 借りたコートを丁寧に畳んで膝に置き、濡れた部分をハンカチで拭いていると、静かな車内にグゥと小さな音が響いた。 
 慌てて渋谷が腹に手を当て「あ、あの……聞こえちゃいました?」と口を開く。 
 曲もかかっていないので誤魔化せたとは思えない。 
 しかし、明らかに聞こえていたはずの玖珂は「いや?」と知らぬフリで予め入っていた音楽を小さく流した。 
 
 腹がすくほど元気になったのは喜ばしいことである。恥ずかしくて真っ赤になっている渋谷を横目で見て玖珂は笑みを浮かべた。 
 事故のことはなるべく触れないようにと言う医師の話を思いだし、なにか少しでも気晴らしになるような事をしてやれないかと今からの予定を考える。 
 
「どこかで夕飯でも食べてから帰ろうか? 祐一朗の体調が大丈夫そうなら……。それとも何かテイクアウトをして家で食べたほうがいいかな?」 
「もうなんともないです。実は今日、昼も食べそびれちゃって……だからかな。テイクアウトもいいけど、折角ですし俺はこのまま食べて帰っても大丈夫ですよ」 
「そう? 了解」 
 
 玖珂はゆっくりと車を発進させ大通りへ出る。交通量が多いので運転はスローペースである。少し走っては止まるの繰り返しだ。しかし、先程病院へ向かっていた時とは違い、急いでいるわけでもないのでそれで十分だった。 
 
「祐一朗は何か食べたい物があるのか?」 
「俺はどこでも。和食にしますか?」 
「俺に合わせなくてもいいぞ? 好きなところへ行こう。ああ、でも……そうだな。折角だからちょっと聞いてみるか」 
「え? 何をですか?」 
「ほら、前に二人で行った店があったの覚えてないか? 台場の、俺の友人がやってる店だよ。他の店は急に行っても入れない可能性があるからね」 
「勿論覚えています。フレンチをアレンジした和風創作料理の店でしたよね。でも今夜は難しいんじゃ……。もう時間も結構遅めだし」 
「かもしれないが……、一応連絡を入れてみよう。普通の店よりは多少の融通を利かせられると思うから」 
 玖珂はサイドミラーを確認して道路脇へ車を一度停めると携帯を取りだした。 
 
 会話を聞いていると、なんとか席を用意してくれる流れのようだ。 
 玖珂が途中で「それは困るな、じゃぁ、別の店にしようかな」等と冗談を言って笑っていたので、いったいどんな会話をしていたのか気になる。 
 携帯を切って再び車を出した玖珂は「一席空けておくようにお願いしたから、今から向かおう。持つべきものは友人だな」と笑みを浮かべる。 
 
「凄いですね、急に予約なしで通して貰えるなんて。こっちの都合で無理させたんじゃないですか? なにか言われませんでした?」 
「なにかって?」 
「いえ、ちょっと話が聞こえちゃって、別の店にするとかなんとか言ってたので」 
「ああ、その事か」 
 玖珂が可笑しそうに笑う。 
「いや、たいした事じゃないよ。コースを二人分今から頼めるかって聞いたら、バレンタインだからチョコレート尽くしのコースにしておくなんて言うから、それは困るって言ったんだ。俺が甘い物が苦手なのを知ってるからな……。わざとだよ」 
 今度は渋谷が苦笑する。 
「デザートに出されるなら歓迎ですけど、全てがチョコレート尽くしのコースだと、流石に俺もどうかなって思いますけど」 
「だろう? ……考えただけで怖いな」 
 
 玖珂は一瞬想像したのか眉間の皺を深くすると「ありえない」とでもいうように肩を竦めた。そんな仕草が可愛く見え、渋谷も釣られて笑みを浮かべる。 
 今居る場所からそう遠くはない。 
 色々あったが一緒に夕飯を食べられる店が見つかってひとまず安心である。 
 
 そういえば前に行った時は暑い季節で、出して貰った旬の岩牡蠣がとても美味しく随分酒が進んだ記憶がある。まだ付き合ってもいない頃の想い出だが、ついこの前のようだ。 
 あの日も雨が降っていた。陸橋の上で傘を差しだした玖珂とのやりとりを急に思い出し、渋谷は色褪せない想い出に穏やかな笑みを浮かべた。 
 
「また一緒に行けることになるなんて、思ってなかったです」 
「そうだね」 
「楽しみですね」 
「ああ」 
 
 細く全ての窓を開けて二人で煙草を吸いながら走っていると、開いた窓から滑り込んできた雨粒が時々手の甲を濡らす。それを指先で拭って、渋谷は横に居る玖珂を幸せそうに見つめた。 
 雨で滲むブレーキランプ。 
 車内で静かに流れているのは、バレンタインにピッタリのメロウなバラード達。 
 ブラック・コンテンポラリーの数々が外を流れる都会の夜景を余計に眩しく感じさせる。 
 
 
 
続く