下道の渋滞を抜けると首都高は案外空いており目的地にはかなり早く到着できた。 
 車で来たのは初めてである。 
 店の裏にある駐車場も意外に広いのだなと思いながら助手席から降りると、いつのまにか先回りしていた玖珂が濡れないように傘を差してくれていた。 
 こういうスマートな気遣いに未だに驚かされる。玖珂は「職業病だ」と言っているけれど、それだけではないように思う。もう一本の傘を受け取り、並んで店の表側にまわる。 
 
 この通りは洒落た飲食店が建ち並んでいるので人通りも多い。今夜はバレンタインなだけあり家族づれはほぼ見当たらず恋人同士ばかりだ。 
 懐かしさを覚えながら店へと足を踏み入れると、オーナーでもある玖珂の友人が丁度他の客を見送ったのかカウンター内へと残っていた。 
 
「今夜も相変わらず忙しそうだな」 
 玖珂が声をかけると柔和な笑みが玖珂達へ振り向く。 
「いらっしゃい。おかげさまで此の通り大忙しだよ」と返し、カウンターから出て来た。 
 渋谷も一歩下がって後ろから軽く会釈をする。 
「今日は急で悪かったね。でも、本当に助かった。感謝しているよ」 
 傘立てに傘を入れたあと、玖珂は肩についた水滴を軽く払って髪をかき上げた。 
 
「誰かさんが突然来るって言うから大慌てだったよ。でも折角来てくれたんだ。おもてなしは万全にさせて貰うよ」 
「本当にすまないな。どうしてもここの料理が食べたくてね。今度また埋め合わせをするから今日は大目に見てくれ」 
「なに、冗談だって。ちゃんと美味しい物を用意してるから堪能していってくれ」 
「ああ、有難う。そうさせてもらうよ」 
 
 ちらっと渋谷にも視線合わせ「それじゃ、ごゆっくり」と頭を下げ奥へ入っていった。 
「有難うございます」 
 忙しそうに奥へ戻ったオーナーの代わりに、別の店員が席へと案内してくれる。前とは別の部屋で、今回は座敷ではないようだ。 
「テーブル席の方が足に負担がかからないかと思ってそっちにしたんだが、それで良かったか?」 
「はい、有難うございます。テーブル席の方が楽です」 
「良かった。それじゃどうぞ」 
「はい」 
 玖珂に促されて個室内へ入ると、店員はおしぼりをセットして「すぐにお料理をお持ちしますね」と言って部屋を出て行った。 
 
 背後の壁にコートを掛け、一段落ついて玖珂の向かい側へと腰を下ろす。 
 用意された熱いおしぼりを開いて手を拭きながら渋谷はフと考えた。 
 玖珂は自分の事をどういう関係だと伝えているのだろう。バレンタインの夜に二人きりで食事しに来るなんて不思議に思うのではないか。先程の様子からして一切そんなそぶりはなかったように見えたけれど……。 
 
「玖珂さんは、オーナーに俺の事どう伝えてるんですか? 職場の仲間とか?」 
「ん? 祐一朗が恋人だって事は前に言った事があるから知ってるんじゃないかな。ここはよく来てるからな。いつ言ったのかまでは覚えていないが」 
「えぇ!? 言っちゃったんですか!? 俺達のこと」 
 
 驚く渋谷に玖珂が吸おうとして咥えていた煙草を唇から離す。 
 
「何をそんなに驚く事があるんだ。本当の事だろう?」 
「や、それはそうですけど……」 
「大丈夫だよ。彼も客商売をしている人間だ。プライベートで入り込んでいい場所の境界線はよく理解しているはずだし、他の人間にベラベラ喋るような男じゃないからね」 
「そ、……そうですか」 
 
 玖珂の人を見る目が確かなのはよく知っている。その玖珂が話してもいい相手だと判断し伝えたのだからなにも問題は無いのだろう。先程、さも職場の仲間ですという雰囲気を必死で出そうとしていた自分がなんだか恥ずかしくなってくる。 
 
「ん? まだ心配そうだな。内緒にしておいた方が良かったか?」 
「いえ、そういうわけじゃ。ただちょっと、後で顔を合わせる時にどんな顔をしていいか……」 
 
 渋谷の返事を聞いて玖珂が笑う。 
 
「祐一朗は、本当に真面目だな。別に堂々としていればいい。周りの恋人同士だってみんな普通にしているだろう? 俺達が特別ってわけじゃない。皆と一緒だよ」 
「そ、そうですよね……。堂々と……うん」 
 
 隠したいわけではないけれど、こういう事を公にするのはいまだに恥ずかしい。しかし、玖珂の言葉を聞くと不思議と「そうだよな」という気持ちになってくる。今はプライベートなんだし、悪いことをしているわけでもない。 
 それに関係を知られているなら、余計な気を回す必要も無いのだから良いことずくめではないか。 
 渋谷は自分の中で辿り着いた結論に一人頷いていた。 
 溜めた煙をゆっくりと吐き出した玖珂が、何故か数段声を落として渋谷を小さく手招きした。 
 
「安心できる要素をもうひとつ教えようか?」 
「なんですか?」 
 
 悪戯な笑みを浮かべている玖珂の方へ、渋谷も少し身を乗り出す。 
 
「プライベートでの秘密を知っているのは、なにも彼だけじゃないってことだ」 
「え? それって……?」 
「うん」 
「玖珂さんも……知ってるんですか?」 
「まぁ、そういうことだ。長い付き合いだからね。勿論今まで他の人間に他言したことはないし、これからも言うつもりはない。それは彼も一緒だと思うよ」 
 
 信頼をしている相手という前提の上で成り立つ、互いに秘密を握っている関係。 
 だから万が一はあり得ないという意味だろう。玖珂は紳士的でとても優しいけれど、そういう部分には隙が一切無くリスクマネジメントは徹底しているのが垣間見られる。 
 伊達にその若さで経営者として成功を収めているわけではないのだと渋谷は改めて実感していた。 
 
「玖珂さんだけは敵に回したくないですね」 
「ああ、そうした方が良いぞ。祐一朗の事は色々知っているからね」 
「気をつけなくちゃ」 
 
 冗談を言って笑い合っていると、コースの前菜が運ばれてきた。 
 玖珂は車を運転しているし、自分はもうすっかりよくなったとはいえ病み上がりのようなものだし今回は酒なしでの夕飯である。 
 前に来た時と同じく、旬の素材が使われた繊細な創作料理は見目にも美しい。 
 
「今日の料理も盛り付けから凝ってますね。美味しそうです」 
「そうだね。それじゃ、頂こうか」 
「はい」 
 
 ノンアルコールのビールで乾杯し箸を取る。 
 色鮮やかな菜の花の白和えは、和の風味の中にも薫り高いオリーブオイルのフルーティーさが感じられる。苦みのまだ少ない新鮮な菜の花、その器になっているのは人参である。神業のように薄く剥かれた人参が幾重にも重ねられ花の器になっている。 
 一品一品に感心しながら料理を口に運ぶ渋谷を、玖珂は愛しげな眼差しで見つめていた。 
 
「美味しい?」 
「はい。 とっても」 
「それは良かった。体調も、問題なさそうだな」 
「……おかげさまで、今はもうすっかり。玖珂さんは、食べないんですか?」 
「食べるよ。まずは、祐一朗という食前酒を味わっていただけだ」 
「ま、また……、そういう事言って」 
「いいだろう? 君しか聞いていないんだから」 
 
 照れる渋谷をよそに玖珂は満足そうに頷いて、自分も箸を進めた。 
 次々と運ばれてくる料理を食べながら玖珂と色々な話をする。今日に限らず、同棲しているのだから日々様々な事を話すけれど、それでも話は尽きない。 
 話題は天気のことから仕事のこと、最近の時事ネタなどなど、そしてそこに新たに加わった家の中の話。 
 
「そういえば、昨日洗濯したとき、柔軟剤の替えがもうラストでした」 
「もう? この前買ったばかりな気がするが……」 
 
 玖珂が減りの早さに驚いて目を丸くする。 
 家事の分担は特に決めていないのでやれる方が勝手にやっているが、洗濯は元々好きなので大体自分がしている。今まで全てクリーニングに出していた諸々も自宅で洗濯するようになったので、それも減りの早さの一因だ。 
 しかし、一番の理由は、よくシーツを洗うからである。シーツを頻繁に洗う理由なんて一つしか無いわけだが、それは言わないでおくことにした。 
 
「洗濯も二人分で二倍減るから結構すぐなくなっちゃうんですよ。明日帰りに買ってきます」 
「仕事帰りに大変じゃないか? ネットで買えばいい。ああ……でも祐一朗は今の香りがいいんだったか?」 
「はい、一番好きなんですよ、今の種類が。あれ、店舗でしか売ってないから。大丈夫です、俺が買ってきますよ」 
「そう? なら、お願いしようかな」 
「折角だからまとめて5本ぐらい買っておこうかな」 
「そうだね」 
 
 こんな日常の会話、だけど一緒に暮らしているからこそ増えた話題だ。こういう話を玖珂とする度に、一緒に生活をしているのだなと幸せな気分になる。 
 付き合っていただけでは知らなかった玖珂の色々な好み。 
 様々なことに関して必ずコレといった決まりはないけれど、それでも……、気に入っている歯磨き粉、好きな醤油のメーカー、いつも身につけている小物のブランド、必ず朝に飲むコーヒー豆の種類。 
 部屋で音楽を聴く際のスピーカーにも拘りがあってずっと同じ音響メーカーの物を使っているそうだ。そうやってひとつずつ知っていることが増えて、いつのまにか自分もそれが好きになっている。 
 
 共有する時間と共に二人共通の『好き』が増えていくのも嬉しい。 
 穏やかに過ぎていく毎日がこれからも永遠に続きますようにと毎晩眠る前に心の中で祈るのが日課になっていた。 
 もう付き合いだして長いが、恋人として愛しているというだけではなく、出会った時から玖珂はずっと憧れの存在でもあった。 
 つい幸せな物思いに耽って箸をとめていると、突然写真を撮るシャッター音が響いた。驚いて我に返ると向かい側の玖珂が撮った写真を確認していた。 
 
「今、写真撮りました?」 
「うん、撮ったよ。料理の写真でも投稿しようかなって思ってね」 
「見せて下さい」 
「いや、それは出来ないな」 
「料理の写真なんですよね?」 
 
 絶対に違うのが分かっているが、手のひらを玖珂へ向ける。玖珂はしぶしぶと渋谷の手へと携帯を乗せた。 
「…………あ! やっぱり」 
 渋谷の予想通り、写真には端に料理がかろうじて写っているだけで、メインは渋谷の姿である。何だかちょっとにやけていて我ながら怖い。 
 しかも……。 
 
「玖珂さん、インスタやってないですよね」 
「なんだ、知っていたのか。祐一朗には嘘はつけないね」 
「もう、これ、俺メインじゃないですか」 
「それはそうだろう。君を撮ったんだから。幸せそうだったからつい記念に残しておきたくなったんだ。どうしても嫌だって言うなら消そうか?」 
 
 がっかりした表情でそう言われてしまうと、何も言えない。それに別に嫌なわけではないのだ。 
 
「消さなくてもいいですけど……見るのは玖珂さんだけにして下さいよ?」 
「ああ、約束するよ」 
「うーん……なんかその写真の俺、変ですよね。にやけてるし……俺そんな顔してるんだ……恥ずかしい。もっと普通の時に撮ってくれればいいのに」 
「祐一朗を悪く言うのはやめてくれないか。こんなに幸せそうな笑顔を見せてくれてるんだぞ? 一日中でも見ていられるね」 
「祐一朗は俺ですよ」 
「知ってる。綺麗だよ、祐一朗」 
「また! そうやってからかって」 
 
 言葉遊びのような会話に思わず二人で苦笑する。二人きりの時に、時々写真を撮られることはあるけれど、自分も玖珂が寝ている時にこっそり撮った事もあるのでその気持ちは分かる。 
 中断していた食事を再開すると、ちょうど新しい料理が運ばれてきた。 
 器から湯気が立ち上っており、食べる前からいい香りがする。 
 穴子の白焼きに乗っている白子あんかけは刻み柚と三つ葉の色合いが実に春らしい。 
 箸で持てないほどに柔らかなそれを崩し、そえてあるワサビをのせ口に運ぶと、濃厚な白子の風味と香ばしく焼き上げた穴子の味が口に広がった。 
 
「穴子って寿司以外で滅多に食べる機会ないですけど、美味しいですね。白焼きは初めて食べました」 
「ああ。骨切りもしてあるし、臭みもないから食べやすいね」 
「骨切り?」 
「ハモなんかにも切り込みが入っているだろう? 口当たりが良いようにする仕込みの事だよ」 
「ああ、なるほど……。玖珂さん、ほんと詳しいですね」 
 
 感心してそう呟くと玖珂が苦笑して目の前の料理を指した。 
 
「白状すると、実は仕事絡みで先週も来たばかりでね。その時もこの料理が出て、説明をされたってわけだ。だから、今のはただの受け売りだよ」 
「あ、そうだったんですね」 
 「がっかりしたか?」と言いながら笑っている玖珂に、冗談で「ちょっとだけ」と言うと玖珂は大袈裟に落ち込んだふりをした。 
 
 全ての料理を食べ終えると最後のデザートと珈琲が運ばれてくる。 
 可愛らしい器の蓋を開けると、まりものようなまん丸の物が二つ並んでいる。色が緑なので抹茶なのかも知れない。 
 渋谷が竹製のカクテルフォークで一つを半分に割ってみると中はガナッシュのムースだった、周囲は抹茶味の求肥である。 
 
「バレンタインだからですかね? これ、中がチョコレートになってますよ」 
 
 口に運ぶと蕩けるような柔らかさでとても美味しい。口の中の熱であっというまに溶けてなくなってしまう。何個でも食べられそうである。 
 玖珂は珈琲に口を付けてから、自分の分も蓋を取って渋谷の方へ器を寄せた。 
 
「俺の分も食べて良いぞ」 
「え? 凄く美味しいですよ? そんなに甘くないし。玖珂さんも一つ食べてみて下さいよ」 
「じゃぁ、一つは頂こうかな。もう一個は祐一朗が食べてくれ」 
「お言葉に甘えて、ひとつは貰います」 
「どうぞ」 
 
 残った一つを口に運ぶと、確かに抹茶の苦みのせいで驚く程の甘さではない。しかし、玖珂にはそれでも十分甘かった。 
 
「どうですか? そんなに甘くないですよね?」 
「……いや、まぁ……。美味しいけどね、一つで十分だな」 
 玖珂が苦笑する。 
 
 
 遅くなって無理に予約を入れて貰ったので、少し前から他の客の気配があまりしない。そろそろ店を出た方が迷惑にもならないだろう。 
 珈琲を飲み干して一服した後腰を上げると、玖珂がコートを手渡してくれた。 
 
 この店の会計はまとめて後日に支払っていると玖珂が言うので今夜はご馳走になる事にした。思っていたとおり自分達が最後の客だったようで、個室を出るとリラックスした雰囲気の従業員達の雑談が聞こえる。 
 店のオーナーと玖珂が話し終わったのを見計らって渋谷も礼を言った。 
 
「今日は無理に予約を入れて頂いてすみません。今夜の料理も、とても美味しかったです。ご馳走様でした」 
「とんでもない。いつでも大歓迎ですよ。料理もお口に合ったようで良かった。また是非玖珂さんと食べに来て下さい」 
「はい、有難うございます」 
 
 挨拶をし二人で店を出て駐車場へ向かう。予想通り、いや予想以上なのか、みぞれすら止んでいて、傘を開く必要も無かった。 
 
 
 外はやはり寒かったけれど、暖かい店内いたせいかそれほど寒さを感じない。 
 助手席のシートベルトを締めながら渋谷がふと思い出して口を開いた。本当は食事の際に話すつもりだった事だ。 
 
「玖珂さん、そう言えば俺、プレゼント買ってあるんですよ」 
「ん? そうなのか? もしかして、バレンタインだから?」 
「一応、イベント的にそうなっちゃいましたが、そうじゃなくても渡すつもりで先日買っておいたんです」 
「それは楽しみだね。中身は……、貰うまでの秘密かな?」 
「大した物じゃないですけど、帰ってからのお楽しみってことで」 
「わかったよ。それじゃ、急いで帰ろうか」 
「はい」 
 
 時折混み合っている場所もあったが、概ねすいており高速に入ってから1時間もしないうちに車はマンションの地下駐車場へ到着した。 
 エレベーターに乗り込んで部屋の前に到着した時には既に11時をまわっていた。 
 
 玄関の鍵を開けて中に入ると、暖かな部屋の空気が冷たい外気に押し込まれて廊下へと逃げて行く。 
 
「あれ? 空調付けっぱなしで行っちゃったみたいですね……」 
「本当だ、あったかいな。出かける時は急いでいたから消し忘れたか」 
 
 余程焦っていたのか、空調を消すという事まで全く頭が回っていなかったようだ。ほんの数時間前の自分を思いだして、玖珂は一人自嘲的な笑みを浮かべた。 
 互いに自室で着替えてからリビングへ戻ると、先にいた渋谷がテーブルに置かれた紙袋を不思議そうに見ていた。 
 
「これ、なんですか?」 
「ん? ああ」 
 
 一瞬なんの事かわからなかったがすぐに思い出す。 
 予約していた店のギャルソンが手渡してきた紙袋である。 
 
「今日予約していた例の店を出る時に、渡されたんだよ。中はまだ見ていないから知らないが。祐一朗あけてみてくれ」 
「いいんですか?」 
「ああ」 
 
 渋谷が丁寧にシールを剥がして中身を取り出す。 
 中には長細い箱と一通の封筒が入っていたようだ。 
 
「これって……」 
「なんだったんだ?」 
 
 玖珂も近寄って箱の蓋を開けてみると、コースの最後に出るはずだったカラーセレクトシャンパンである。そして、同封の封筒には後日振り替えで予約を取れる招待券が2枚同封されていた。 
 料金はちゃんと支払ったとはいえ、その細やかな気遣いに感心するとともに、少しだけ申し訳なくも思う。勝手にキャンセルしたのはこちら側で店のミスではないのだから。 
 恐らくあの時の様子で何かあってのキャンセルだと読み取ったのだろう。 
 明日にでも連絡を入れて改めて礼を言っておこう。 
 玖珂はチケットを封筒にしまうと、渋谷から見えないうちにシャンパンの箱の上部を元通りに戻した。 
 
「良かったな。例の店、日を改めて予約を取れるようだよ。祐一朗の都合の良い時にでも二人で出直そうか」 
「ホントですか!? 凄いですね。嬉しいです」 
「ああ、さすがのアフターフォローだな。御礼の連絡は明日にでも俺が入れておくよ」 
「はい、お願いします」 
 
 あんなに行きたがっていた店にまた行けることになって嬉しそうな渋谷を見ていると、店側の気遣いに心から感謝する気持ちでいっぱいである。 
 
「あとこれは、はい」 
 
 シャンパンを手渡されて、渋谷は「え?」と不思議そうな表情をした。 
 店の概要は話してあったが、最後に贈られる特殊なこのシャンパン事までは教えていなかったので驚くのも無理はない。予約を入れた際、希望のカラーを決められるようになっていたのだ。 
 
「あけてごらん。俺からのバレンタインプレゼントだよ」 
 
 渋谷は嬉しそうに箱からシャンパンを取り出すと片手で持って目を丸くした。ミュズレの部分には店の刻印、そしてシャンパンと言って普通思い浮かべる物とはかなり色が違う。 
 手にしたシャンパンはくすみのない鮮やかな深紅の色をしていた。 
 
「とても綺麗な色ですね……。赤ワインでもないのに、こんな色のシャンパンあるんだ……。初めて見ました」 
「祐一朗の誕生日は7月だろう?」 
「はい。そうですけど」 
「7月の誕生石はルビーだそうだ。恋人へ贈るには、相応しい色だと思ってね。その色にして貰ったんだよ」 
「……俺の、ために」 
「それにしても、綺麗な色だな。深紅は情熱的な求愛の表現にはぴったりだね。受け取ってくれるかな?」 
「勿論。でも……、」 
「うん?」 
 
 ボトルを手にしたまま体を向けると、渋谷は少し背伸びをして玖珂の唇へと柔らかな自身の唇を重ねた。 
「求愛は、……一方通行じゃつまらないですよ」 
 ツと離れた至近距離で、渋谷が囁く。 
「俺だって、このシャンパンの情熱的な色に負けないくらい、玖珂さんのこと愛しています」 
 色気を乗せた瞳でそんな事を言われ、もう片手間のキスじゃ物足りなくなる。 
 
「じゃぁ……、対面通行、かな?」 
 玖珂が被せるように唇で渋谷の口を塞ぐ。口付けながら玖珂はボトルをテーブルへ置くと、両方の腕で二人の隙間を埋めるようにきつく抱き寄せた。 
 苦しいほどに甘い感情を惜しみなく注ぐように玖珂は何度も繰り返し口づける。 
 濡れていく唇が互いの上で滑るたびに卑猥な音が響く。 
 求めて舌を差し込めば、同じだけの熱量で返され、躯の芯がカッと熱くなるのを感じた。 
「……っ、大渋滞、ですね」 
 キスの合間に渋谷は笑みを浮かべ、玖珂の鼻先へ自身の鼻先をじゃれるようにあてた。 
「ああ、部外者には別の道を通って貰うしかないな」 
 玖珂が冗談で返して軽く唇を啄む。 
 漸く唇を離した途端、顔を見合わせ二人で小さく笑った。 
 
「玖珂さん、ちょっとは手加減して下さいよ」 
「祐一朗から仕掛けたのに、随分無理を言うね」 
「それは……、そうですけど」 
「大丈夫、続きは後にしよう。あまり立っていると足の怪我に響くといけないから」 
「あ、……。俺、すっかり今怪我してること忘れてました」 
「それなら、ずっとキスしていようか? そうしたらいつのまにか治るかも知れないぞ」 
「いいですね。今度の休みにでも是非お願いします」 
「楽しみにしているよ」 
 
 最近慣れてきたのか、冗談へ返す渋谷の言葉選びが随分変わったように思う。プレゼントを取りに自室へもどった渋谷がいなくなった後、玖珂は煙草を咥えソファへと移動した。 
 今日は色々あって目まぐるしかったが、こうして穏やかな気持ちで一日を終えられる事に感謝の気持ちしかない。 
 
 ゆっくりと紫煙を吐き出し、ポケットに入れていた携帯を取り出す。 
 写真の中にある先程撮った渋谷の写真、指でスクロールすると他にも今まで撮ってきた様々な表情の渋谷の写真があった。 
 困っている顔、拗ねた顔、恥ずかしそうな笑みを浮かべた顔、ゆっくりとスクロールが止まった最後には、付き合いだした頃撮った振り向きざまの笑顔があった。 
 眩しい陽射しがその笑顔を照らしている。 
 どの表情の渋谷も、誰にも見せたくない自分だけの宝物だ。 
 
「玖珂さん、お待たせしました」 
 渋谷が大きな箱を手にして戻ってくる。隣へ腰を下ろすと玖珂の携帯画面を覗き込んだ。 
「また写真見てたんですか?」 
「ああ、何だか懐かしくてね」 
 
 玖珂は携帯を閉じると、渋谷の手にしている箱を見て「随分大きな箱だな」と驚いたように渋谷の顔を見た。 
 
「俺の分も入っているんで。どうぞ俺からのプレゼントです」 
「祐一朗の分も? ……何だろうな。有難う、早速開けてみようか」 
 
 玖珂は一度深く座り直すと、膝の上の箱のリボンを指で解いた。深いブルーの箱に、シルバーのサテンリボン、結び目を解くとするりと箱の周囲に滑り落ちる。 
 蓋を開けるとベルベット生地で作られた容器の中に2脚のシャンパングラスが並べられていた。 
 王室や世界の要人を招く晩餐会などにも使用されているというブランドの物だ。シンプルな中にも、長い歴史で親しまれてきた気品さが漂う。 
 曇り一つ無いガラスは滑らかな曲線を描き照明を反射してキラリと輝いた。 
 
 シャンパングラスの贈り物は、絶えない幸せを願う、所謂Eternityを意味する。 
 たとえ渋谷がそれを知っていて選んだとしても、知らないとしても……。 
 絶えない幸せを願おうと思う。このグラスに誓って。 
 
「素敵なシャンパングラスだ。まるで芸術作品のようだな。有難う」 
 玖珂は嬉しそうに一脚をそっと取り出してその造形を眺めた。 
「最初は一脚にしようかと思ったんですけど、お揃いの方が一緒に使えるかなって思って」 
「そうだね、使うのが勿体ないぐらいだよ。何処かに飾っても良いが……」 
「折角だし、今度なにかお祝いの時にでも使いましょう。あ! そうだ。さっき玖珂さんがくれたシャンパンを開けるとき、このグラスで飲みませんか?」 
「いいね、そうしようか。近いうちに何でもない日を祝うパーティーをしないといけないね」 
「そうですね」 
 
 透明なグラスに注がれる深紅のシャンパン、小さな気泡が音を立てて弾ける様子が目に浮かぶようだった。 
 
「祐一朗」 
「はい」 
 
 名前を呼ばれて振り向くと、ふわりと唇が重なった。触れるだけのキスをして離れていく体温が名残惜しく感じる。 
 
「愛してる。このグラスも、君の笑顔も、曇らせないって誓うよ」 
「玖珂さん……」 
 
 渋谷は今日一番の幸せそうな笑みを浮かべ玖珂へ真っ直ぐ視線を向けた。もう一度だけ軽く触れ合うと、額を合わせ至近距離で微笑む。 
 この温もりが続く限りきっと大丈夫だと思えた。 
 そっと抱き寄せると、いつもの渋谷の匂いがする。 
 腕に抱いた渋谷の首筋にくすぐるような口付けを落とす。 
 渋谷は肩を竦め、甘い誘いを享受するように首筋を反らせた。 
 
 
 
 
 
End