店が終わってようやく解放された晶は誰もいなくなったフロアで今日も一人遅くまで残っていた。アフターがない日は、必ずしている日課をこなす為である。晶の手元には大学ノートが開かれ、小さな字でビッシリと何かが書き込まれている。
そのノートはかなり年季が入っており、鮮やかであったであろう表紙の緑色が掠れて白くなっている有様だった。
「晶、相変わらず熱心だな」
後ろからマネージャーの坂下が肩を叩く。坂下は『LISK DRUG』の内勤を統べるマネージャーで、晶達ホストの管理等もやっている。まだ晶が入店する以前からいるらしく、一番の古株である。最近ずっと付き合っていた女性と晴れて入籍し、年下の奥さんの話を幸せそうに話すのを晶も何度か聞いている。
坂下曰く自分が歳だから式は挙げないで入籍したと言っているが、本当は前妻との間の子供に気を使って派手な行事は控えているのではという噂がある。前妻の子供が成人して養育費を払う必要がなくなった今でも、何かと気にかけ子供を可愛がっているのを知っているので、多分噂は本当なのだと思う。そんな優しいマネージャーは晶の尊敬する先輩の一人である。
「マネージャー、まだいたんだ?早く帰んないと奥さんに叱られるんじゃないっすか?」
「大きなお世話だ」
笑って頭にげんこつを見舞われて晶は大げさに肩を竦めてみせた。
「それ客のデータかい?」
「あぁ、うん。そうっすよ。一応覚えた事書いとかないと俺、馬鹿だからさ。記憶力が悪いのをこれでカバー!みたいな」
「……馬鹿はそんな事も考えないさ」
「そうかな。お客様は大事っしょ。やっぱ」
「ホストの鏡だな、お前」
「何、褒めてくれんの?もっと言っていいっすよ」
「そうやってすぐ調子に乗る所がダメな所だけどな」
大きく笑い合った後、「じゃぁ、最後任せていいか?」と聞き、晶が返事を返すと坂下は「お疲れさん」と言い残して店を出ていった。
広い店内に一人になると、賑わっていたついさっきまでの店内を知っているだけにやけに寂しく感じる。晶は、自宅へ帰り一人になるのが嫌で、しょっちゅう出歩く癖があった。学生時代の友人を誘って飲みに行ったり、店の後輩を誘って連れ出したりと付き合ってくれる相手には事欠かないが、時々は疲れが勝ってそんな気力もなくなる日がある。丁度今夜がそんな気分の日だった。
晶のこの性格は子供の時からである。父親も母親も家業が忙しく兄弟もいないので、いつも夜中になるまで一人で過ごしている事が多かった。学校で友達が、「夜にテレビ見させてくれないんだ」と文句を言っているのを羨ましいとずっと思っていた。
テレビなんて見放題だったし、遅くまで起きていても誰も注意する人間もいない。九時になると必ず様子を聞きに母親が電話をかけてきて「早く寝なさいよ」と言って来るのにたいして、ぶっきらぼうに「わかってるよ」と電話を切っては寂しさを誤魔化していた。
優しい母親に「寂しい」なんて言えば困らせるのはわかっていたし、慣れていると言えばその通りで、もうそれが日常だったからだ。その頃から、一人で居る事が苦手なのである。
晶は書き終えたデータを何度か読み返すとノートを閉じる。自分で入れてあるボトルから酒を注いで一気に飲み干すと綺麗に磨かれたカウンターに突っ伏した。アルコールのせいもあって晶はうとうとと浅い眠りに入っていった。
* * *
晶が目を覚ましたのはそれから二時間後。店の外がやけに騒々しいのをおかしく思い、瞼をこすった後大きな欠伸をかみ殺す。眠気半分をひきづりながら店の扉をあけた途端、晶は盛大に咳き込んだ。焦げ臭い強烈な匂いが狭い階段に立ち込めており、ただ事ではない様子に一気に目が覚める。
煙を吸わないように袖で口元を覆い、階段近くの窓をあけて通りを見下ろしてみると、救急車や消防車が丁度けたたましくサイレンを鳴らして到着した所であった。
――え?火事!?マジで!?
深夜だというのにどこにそんなに居たのかと思うほどビルの前に人だかりができている。晶は急いで店に戻り、カウンターにそのまま放置されていたノートだけを手に取り店の入口へと戻る。何か他にも持ち出した方がいいとは思うものの頭が真っ白になって思い浮かばない。
どのくらいの規模の火災が何処で起きているのかわからない以上、とりあえず逃げた方がいいと言う事だけはわかった。
慌てて店のドアから走り出た所で、ちょうど上の店のおかまバーのホステス茜が階段を降りてきた。二段飛ばしで駆け下りてくる茜は晶を見つけると大声で叫ぶ。口調はいつもの調子だが、パニックになっているのか声が男のそれになっている。
「晶ちゃん!!何やってんの!早く逃げないと死んじゃうわよ」
強引に腕を掴まれ、茜と共に階段を駆け下りる。エレベーターはこういう時は止まっているだろうし、外に出るまでダッシュするしか方法はなさそうで晶も足を速める。
「茜姉さんっ!どこが 火元なんっすか?」
一緒に走りながら騒ぎに消されない大きな声で晶も話しかける。
「よくわからないけど、六階からって噂よ」
あまり信憑性のなさそうな情報に晶が苦笑した瞬間、突然の爆発音と共に上の階の階段にある窓ガラスが砕け散って、そのかけらが茜にふりかかろうとしていた。細かなガラスの欠片がサイレンで赤く染まる空間をキラキラしながら落ちてくるのがスローモーションで見えた時には、晶はもう茜の身体に腕を伸ばしていた。
「茜姉さんっ!危ないっ!!!!!」
「えっ!?!?」
晶は咄嗟に茜をかばって階段を転げるように落ちた。幸い踊り場までそんなに段数がなかったので転げ落ちた事による怪我はなかった。しかし…。
「晶ちゃん!!晶ちゃん!!ちょっと、やだ!!大丈夫!?!」
脱げたヒールが目の前で転がっているのを視界に入れたまま晶は茜を振り返る。
「……痛ってぇ……いや、平気っすよ。茜姉さんは?怪我とかしてないっすか?」
「私は平気!」
爆発はさっきの一回だけのようだが、これからまた何が起こるかは予想できない。茜のヒールはとても踵が高く、本来なら急いで駆け下りるのに問題があるが、硝子の散らばった階段を裸足で逃げるのも危険である。
かといって茜を抱き上げて駆け下りるのも体格的に厳しかった。晶は仕方無くヒールを拾って茜に差し出し履くように言いながら上階を見上げる。
「とりあえず、早くしないとやばそうっすね。急ぎましょう」
「う、うん。そうね」
心配そうにしている茜に手を借りて立ち上がり、再び階段を下りる。
平気とは言った物も茜が掴んだ晶の腕からは血が滲んでいてスーツを濡らしていた。
漸くビルから出た二人は野次馬やらビルの人間やらでごったがえしている中に入ってあがった息を整えた。いくらか煙を吸い込んだようで喉も痛いし目がチカチカする。少しして身の安全に胸をなでおろしたと同時に腕に激痛が走った。
さっき茜をかばって負った傷は案外酷いのかもしれなく晶は痛みに顔を顰めた。
「晶ちゃん、ねぇ。救急車の人に言ってくるからここで待ってて!!」
「あ、いやまって!」
そんなに大した怪我じゃない。そう続けようと思ったが、その前におろおろしながら茜が救急隊員を呼びに行ってしまった。すぐに担架をもった隊員を引き連れて茜が戻ってきた。さすがに担架で運ばれるような怪我ではない。
「あ……いや、担架はいらないかな。腕だけだし」
苦笑いして晶は担架を断り処置のために救急隊員に連れらてて救急車に乗り込む。
平気だからという晶の制止をきかず茜がどうしてもついていくというので茜も一緒に救急車にのった。止血されながら、すぐに救急車が発進しだす。生まれて初めて乗った救急車は狭くて息苦しい感じでどうも乗り心地が悪い。
狭い車内で揺られながら茜が涙まじりで心配そうに顔を覗き込んでくる。
「晶ちゃん……ごめんね。私を庇ってこんな怪我させちゃって……」
「あぁ……泣かないでよ。茜姉さん、マジたいした事ないって!ほら売り物の顔に傷ができたわけじゃないしさ」
冗談をいいながら晶は怪我をしていない方の腕でハンカチを差しだした。茜はハンカチを受け取ると化粧のくずれた顔をごしごしふいた。涙でとれたマスカラが真っ黒な影をのばしている。
晶は宥めるように茜の肩を抱いた。茜はおかまとはいえ元は男なわけで、しかもかなり大きい部類に入る。ヒールを履いているから尚更で、181cmある晶ともほぼ同じくらいの上背だった。
「晶ちゃんって……ほんと、優しいわよね…。私が女だったら彼女にしてほしいくらい」
ついに鼻までかんだハンカチを丸めて茜は晶の肩にもたれかかる。身体は男でも心は乙女なのだ。茜と知り合ってから、かなり年数が経つ。時々茜の務めているバーに玖珂と飲みに行くこともあるし、新米ホストだった頃にも色々と世話になった。人懐こい性格の晶を何かにつけて可愛がってくれる茜を晶も慕っているのだ。
「優しいのは俺の売りだからさ。それに女性をかばうのは男の役目っしょ」
「馬鹿ね、こんな時まで商売?」
「まさか、違うって」
鼻をぐずぐず言わせている茜の頭を撫でて、晶は笑顔を向ける。漸く泣き止んだ茜が少し恥ずかしそうに顔を隠した。
救急車の外では少し明るくなった空が何事も無かったかのように一日を始めようとしていた。
赤信号を無視し、通り過ぎる度に「救急車が通ります。ご注意下さい」という音声が響き、晶は心の中で「あ、いつも聞いてるやつの本物じゃん」等と他の事を考えていた。何か他の事を考えて紛らわせないと痛くて全神経が傷口に集中してしまう気がしたからだ。
救急車が受け入れ先の総合病院へと到着し、待合室へ通されるまでにかかった時間は二十分程度である。先に運ばれていたらしい何人かが晶と茜の隣で診察を待っていた。勿論、一般の救急患者も来ているわけで、待合室の人数は少なくない。深夜の病院に来たのは初めてで、その人数に驚いていた。とても朝の4時とは思えないほど込み合っている。
まさにテレビの特番でやっている「救急24時」その物だなんて暢気に思っていると、レントゲン室へと連れて行かれた。
金属の金具が付いている物を先に外して下さい。と言われ、晶は身につけていたアクセサリーを全て外す。まさかこんな事になるとも思っておらず営業スタイルのまま来ているので、外してみると相当な数のアクセサリーがじゃらじゃらと備え付けの籠に貯まっていく。全部を外し声をかけると、カーテンを開けた技師がそのアクセサリーの量に一瞬驚いた顔をしたのが可笑しくて、思わず笑いが漏れそうになるのを堪えるのに大変だった。
簡易的に固定されている腕の周りを、これでもかという程撮影され、何故か腰やら首まで撮影されてしまう。――痛いのは腕だけなんだけど……――忙しそうな技師に向け、心の中で呟く。どうやら診察の前にレントゲンだけを撮ったらしく、その後また待合室で待たされる。中々呼ばれないのを心配する茜と小声で話しながら腕時計を見ると、もう病院へ来てから1時間が過ぎようとしていた。
怪我がひどい人間から呼ばれているからなのか、晶が呼ばれる様子はない。その間に運び込まれた患者を見て、晶はびくっと身体を震わせた。今回の火事騒動の患者ではなさそうであるが、ストレッチャーに乗せられて通り過ぎたその患者は素人目に見てもかなりの重傷と思われたからだ。意識がないのかだらりと垂れ下がった腕に血が滴っている。
――おいおい……、マジやばい患者なんじゃないの!?
晶はその患者から目を背け俯く。背筋を悪寒のような物が走り抜け胃のあたりがぎゅっと痛くなる。実は、誰にも言ってないが、ホラー映画を含む血の出る映画や映像が大の苦手なのだ。作り物だとわかっているドラマ等でも手術シーンがアップになると直視出来ない。自分の怪我はまだしも、他人の怪我は見るだけで気分が悪くなりそうだった。
色々な職業を昔から夢見ていたが、医者だけにはなりたくないと心底思っていたし、医者って凄いなと心から尊敬する職業でもあった。さっきの重症患者は今から手術なのかもしれない。あの彼を元気な姿に戻せるのは医者だけなんだ。そう思うと、今夜は殊更医者という職業の凄さに感心せざるを得ない。少し落ち着き、深く深呼吸をした後顔を上げるともう待合室には晶達を含め数人しか残っていなかった。
間もなくして処置室が音もなく開き看護師の声が聞こえる。
「三上さんー、三上さんはいらっしゃいますか?」
名前を呼ばれて我に返った晶は椅子から立ち上がった。
「あ、三上は俺です」
「お待たせしました。診察室にどうぞ」
やっと順番が回ってきた。晶は振り向くと隣に座っていた茜に口を開く。
「茜姉さん、俺ちょっと行ってくるから。時間かかるようだったら帰っていいからさ。店も心配だろ?」
「ううん。晶ちゃんが出てくるまで待ってるわよ。気にしなくていいのよ」
「そう?んじゃ、ちょっと行って来るね」
晶は2番とかかれた診察室に入っていった。看護師に座って待ってて下さいと言われて腰掛けた座席で晶は視線を背後に感じていた。何気なく振り向くと、患者がひけて暇になった看護師が3人、晶を羨望の眼差しで見つめている。晶がにっこり微笑み返すと3人同時に顔を赤くして恥ずかしそうにはにかんだ。女性の視線には慣れているし、こういう事はよくある。
この病院可愛い子が多いんだな等と思いながら元の方向に向き直った。と、さっきまでいなかったのに、目の前にすでに医者が座っていた。
「うわ!ビックリした。いるなら声かけて下さいよ」
「あぁ、すまんな。驚かせるつもりはなかったんだが、君がどうやってうちの看護師をナンパするのかと思って見ていたんだ」
――え?何こいつ……めちゃくちゃ感じ悪い医者だな。
直球な皮肉に思わず呆然としたが、徐々に腹が立ってくる。散々待たされた挙げ句にこの言われよう。第一印象はこの上なく最悪だった。これがホストクラブだったら即指名替えされてもおかしくないレベルである。そっちがそういう態度なら、自分も別に気を遣う事も無いだろうと判断した晶が乱暴に言い返す。
「は?何で俺がナンパしなきゃなんねぇわけ?」
「何だ。ナンパじゃなかったのか。それは悪かったな」
馬鹿にしたように笑みを浮かべる目の前の男に晶はむっとした顔を隠しもしないで腕を突き出した。乱暴に動かしたせいでズキリと痛みが走ったがぐっと我慢する。
「早く処置しろよ。こっちは痛てぇんだからさ」
「言われなくてもするさ」
晶は男の顔を睨み付け、その姿を改めてマジマジと見る。欠点でも探して心の中で笑ってやる――つもりだったのだが……改めてみて見ると切れ長の鋭い目に、如何にもインテリを思わせるスクエア型の眼鏡がよく似合っている。晶が人の欠点をみつけるのが得意ではないというのを差し引いても、かなりの色男である事は間違いなかった。
――医者のくせに結構イケメンとか……。俺は認めないけど!
認めないと締めくくったのは認めているのも同然だと気付き、余計に悔しくなる。その矛先は、格好いいと思ってしまった自分にも向いていた。医者としてありなのかわからないが髪は背中の中頃まで長く、その髪をきっちりと後ろで束ねている。長い足を邪魔そうに机の下に押し込んでいるその男は、胸に「佐伯 要(さえき かなめ)」と名前の入ったネームをつけていた。
――ホストみたいな名前だし……。
晶はいつものくせで咄嗟に色々観察をしてしまっていた。性格は問題がありそうだが、きっとモテるんだろうなと思いつつ面白くない気分で視線を逸らす。そんな晶の視線に気付き、佐伯は身体をこちらにくるりとむけ、小さく笑った。
「そんなに俺を観察して何を考えている?今度は俺をナンパするつもりか?」
「なっ!誰が野郎に声かけんだよ。あんたこそ、やけに俺につっかかってくるじゃん。俺に惚れたんじゃねぇの?」
売り言葉に買い言葉でつい言ってしまった。初対面の相手にこんなに乱暴な物言いをする事等いつもはありえないのに。佐伯は晶の言った事には答えずに真顔で妙な間を開けた後、一度嘲笑し、何も言わず看護師に声をかけた。
「あぁ、君。4番処置室あいてる?」
――無視かよ!
「はい、準備してあります」
「じゃぁ、イソジンと摂子と綿球、用意しておいてくれ」
「はい」
向き直った佐伯は立ち上がって晶に処置室に移るように言うと、自分も裏から処置室に回り込んだ。晶が渋々処置室に行くと、佐伯が準備をしていた。座っていた時はわからなかったが、背も晶より高い。佐伯の白衣の背中を見て、さっき待合室で『医者って凄いなと心から尊敬する職業』と感心した事の末尾に『ただし、医者による』と心の中で付け加えておく。
佐伯はカルテと救急隊員から渡されたチェックシートのようなファイルを交互にチラチラと見ながら、アレルギーはなし、既往症も……とくにないな。等と独り言のように呟いている。全てを確認し終えたのかカルテを脇に置くと、薄いゴムの手袋をパチンと鳴らして装着した。晶に背を向けたままで指示を出してくる。
「救急隊員から君の腕にガラスが刺さっていると報告を受けている。今からそれを取り除くから腕を出して」
看護師に手伝ってもらい真っ赤に染まるシャツ、といっても応急処置の際に鋏で傷の部分を切られているので途中から袖は無いそれを脱ぐ。止血していたガーゼを取り去ると傷口が目に飛び込んできた。傷からは結構出血していたようで、未だ腕には血が滲んでいる。用意を済ませた佐伯が振り向き、腕を見て少し眉を寄せた。
「ほう、結構酷いじゃないか。よく我慢してたな」
酷いと言われると何となく痛みも増すような気がして晶は余計な事を言う佐伯を再び睨む。
「局所麻酔をした方がいいな……」
また独り言を呟いた後、続けて指示を出す「リドカインのアンプル、それと持針器をだして縫合の準備。糸は3-0」
独り言と看護師への指示が同じテンションで続くにも関わらず、すっかりそれに慣れているのか看護師達は至って自然に佐伯の指示通りに動いている。プロフェッショナルな空気を感じて晶は少し感心していた。
晶が睨んでいた事を微塵も気に止める事無く、佐伯は目の前に腰掛けた。
「はい。じゃぁ、腕をこの台において」
言われるままに腕を乗せると固定され、大量の消毒液をかけられる。キラリと光る注射針の先端を見て「うわ……長くて痛そう」と怯む暇も無く佐伯に麻酔を打たれた。一回目の麻酔は最初少し痛かったが、ゆっくりと注入されたせいかそこまででもなく、二回目の麻酔の時にはもう効いていたのか感覚がなくなっていた。暫くして麻酔が完全に効いているのを確認した後、何やら器用な手つきで細かい破片を摘出していく。麻酔のせいで痛みは感じなかったが、目の前の処置を直視するまでの勇気はなかった。
辺りに散らばる真っ赤に染まった物が多すぎる。しかもその赤い色はさっきまで自分の身体に流れていた物である。――俺の血、どれくらい減ったんだろう……―そう考えると、軽く頭がふわりとした。腕から取り出された血塗れの硝子の欠片がステンレス製の膿盆に軽い音を立てて転がっていくのを見ているだけで辛い。早く終わってくれと願う意識が勝手に目を閉じさせようとしてくる。
しかし、佐伯の前でだけは弱みを見せたくないと思っていた。こんな事でビビっていると知られれば、また何か言ってくるに違いない。晶は視線をなるべく遠くに固定して傷口を視界に入れないようにし、奥歯を噛みしめた。
「はい、これでおしまい。後は傷口を縫って終わりだ。さっき撮ったレントゲンをみるかぎりでは骨に異常はないみたいだからな」
「とっととやってくれよな……。俺、忙しいんだからさ」
「それは、失礼。ではお望み通りとっととやってしまおうか」
――何なのコイツ!?いちいち言ってくる事が腹がたつ。
そう思う物の、何だか緊張して身体に力を入れすぎていたせいか佐伯を睨む気力もなかった。ちらっと傷口に目をやると異物はすっかり取り除かれ、何個かの深い傷に向けて佐伯が縫合をする所だった。名前はよくわからないが、鋏のような形をした器具で糸を掴み鮮やかな手付きで傷口を縫っていく。真剣な表情で処置を行う佐伯は、集中しているのかほとんど瞬きもせず指先を動かしていた。眼鏡の奥のその真剣な眼差しに「腕だけは確かなのかも」と思い、佐伯もちゃんと医者なんだなと当然の事を改めて感じていた。
その後、全ての処置が終わり次の診察の予約をして診察室を出る。グルグルと巻かれた包帯がやけに痛々しい。診察室から出てきた晶に茜が駆け寄ってきた。
「晶ちゃん、どうだった?傷は平気なの?」
「あぁ。全然大丈夫っす。ちょっと縫っただけだし」
「そう……良かった……本当に良かった」
心底安心したように茜は張りつめていた肩を下ろした。晶は、会計を済ませて茜と共に一度店に戻る事にし、病院を後にした。
* * *
晶の処置を終えた佐伯が、残りの一人を診察し終えた頃にはすっかり朝になっていた。当直の時に突発的な事故等が起きるとあっという間に時間が過ぎる。暇な時は仮眠室で眠る事もあるが、今夜はそんな時間は一切なかった。
佐伯は疲れた身体を椅子の背もたれへと預けると、目を閉じる。忙しすぎて煙草も一度も吸えていないなと思い。後で中庭にある喫煙所へ行くか……と考えていると、ふいに小さく声をかけられた。
「あの……佐伯先生」
看護師に名を呼ばれ、目を開けると何やら困った様子でくたびれた大学ノートを差し出された。
「……ん?」
「これ、さっきの患者さんの物だと思うんですけど、待合室に置いてあったんです」
「さっきの?どの患者だ」
「あの、硝子の破片の摘出を行った方です」
「あぁ……彼か」
「どうしましょう?」
佐伯は少し考えた後、ノートへと手を伸ばした。
「……私が預かっておこう。今度診た時に渡しておくから」
「そうですか。じゃぁ、お願いします」
受け取ったノートはだいぶ使い古されている。先程の派手な身なりの男を思い浮かべ、佐伯がそのノートを手に取ろうとした瞬間、床へとノートがバサリと落下した。中を見るつもりはなかったが、拾い上げた際に最初のページが目に入った。誰かの名前が書いてあり、その人物の趣味や特徴、好みの食べ物に至るまで事細かに記載されている。パラパラとめくると、その詳細のようなものが延々と続いていた。
――何のノートだ?
観察日記のようなそれの持ち主である晶に興味が湧く。接客業……火災のあったビルからしてホストか何かの職なのだろうか。最初に見た瞬間、好みのタイプだったのでついからかってしまった事を思い出す。すぐに言い返して来る強気な態度も佐伯が気に入った部分である。何度か睨まれてしまったが、生意気な態度とは逆に、傷の処置をしている間こういう場面が苦手なのか時々我慢するように目を伏せるのを見て、可愛い部分もあるじゃないかと思った物だ。
――三上 晶、二十六歳か……。 閉じたノートの上にカルテを広げ、佐伯は一人何かを考えながら、眼鏡のリムを押し上げた。