「晶先輩、鍵どこっすか?そっちのポケット??」
タクシーから降りてどうにかマンションまで辿り着く事が出来た。先程の店での信二はいつもと違う気がして少し驚いたが、今隣にいる信二は普段通りである。体調はと言うと、晶自身が思っていたより実際はもっと悪化しており、店を出てからも信二がいなければ立っていられないほどになっていた。
脇に腕を差し入れ支えられている姿の時に、客に会わなかったのが不幸中の幸いとも言える。晶はそんな信二に支えられながら、隣り合う信二の肩に人肌の温もりを感じていた。細い体躯の信二は見かけによらず力があり、180を越す晶を難なく支えて平気な顔をしていて、額にかかる髪を時々邪魔そうに掻き上げながら晶のポケットから鍵を探している。
信二の指先が自分のポケット内の薄い布越しに鍵を探して動く。晶はそんな信二の腕に自分の手を添えると視線を落としたまま呟いた。
「鍵……自分であけっから……」
そう言って信二の届いていない指の奥にある鍵を取り出し鍵穴にさす。ここ連日、こんな事ばかり繰り返しているような気がする。それは、自分が無理をしているせいでもあり、自業自得なのだが、どうにも情けない気分になってしまう。何か行動する度に節々が軋みをあげ、晶を責め立てる。
「気分悪くないですか?大丈夫?」
「ああ……。何とか……」
一歩歩く度に、まるで性質の悪いメリーゴーランドに永遠に乗せられているような状態だが、それを口にした所でなにひとつ改善されないのもわかっている。
玄関を抜けて部屋へ上がると、信二にコートを預け晶は部屋の真ん中へへたりこんだ。自分の部屋に何とか戻って来れたことで緊張の糸が緩むのを感じ安堵のため息を漏らす。
信二が手近にあるハンガーへ晶のコートをかけながら、「コート、何処にかけておきます?」と聞くのに小さく場所を指定する。暖房の設定を急速にして、震えながらベッドに投げ捨ててあった部屋着に着替えを済ませると、肩にフワリと何かがかかった。
見覚えのない膝掛けのような物はいったいどこにあったのか。
「……何これ」
「何これって、コートかけた下に、ありましたよ?丁度良いかなと思って」
そういえば先月実家から届いた荷物の中に入っていたのを思いだす。膝掛けなど女がするような物を使うわけがないのにとその時は思ったが、捨てるのも悪い気がして、クローゼットの下に押し込んで放置していたのだ。膝掛けにくるまってじっとしていると、やっと幾らか震えが治まってくる。それでもまだ部屋が暖まっていないのでやけに寒い。晶は自分の体を抱くように腕を回すと蒼ざめた顔を上げ、少しだけ微笑んだ。
「……サンキュな……信二。迷惑掛けてわりぃ」
家に帰れば、また独りになってしまう。そうなるのが嫌で帰りたくなかったのだ。なので今、側にいる信二の存在が酷く有り難く思えた。
座り込んだまま礼を言うと、信二は照れくさいのか晶の言葉を遮るようにし、すぐに言葉を続けた。
「それはいいんですけど……、何か食うもんとかあるんっすか?ほら、薬だけだとまづいっすよね……」
信二が冷蔵庫を振り向き訊ねてくる。信二の言う通り、食欲がないからと言ってもさすがに何か食べないとまずい気もする。まともに食事をしたのは昨日の昼だけで、しかもその昼飯だってカップラーメンである。しかし、行く前に冷蔵庫を見た時、酒と水以外にはからっぽだったのを思い出した。
自分で買い出しに行くのは無理そうだし、出前をとるほどの食欲もない。晶は一瞬躊躇ったが、ここで「ない」と言えば信二がまた気にするだろうと思いとりあえず嘘を吐いた。
「……何か、あると思うから」
「……本当っすか?」
一拍間をおいてしまった事で鋭い信二の視線が疑いの眼差しを向けてくる。でも本当に何かはある。ただ冷蔵庫にないだけで……。レトルトのカレーかカップ麺が棚にあるはずだ。しかし、それを今から食べられるかと聞かれるととてもじゃないが無理である。考えただけで気分が悪くなりそうだった。
「開けますよ?冷蔵庫」
「あ、……いや……ちょっと」
言い淀んでいる晶に信二は「失礼します」と断りを入れて冷蔵庫を開く。晶の座る位置からも冷蔵庫の中身はよく見えたが、呆れるほどに見事にからっぽである。日頃自炊はもちろん、家で食事をすることなど滅多にないのだから当然の結果だ。冷蔵庫は買ってからその機能をフルに使った事が全くなかった。
信二は、「うわ、不健康そのもの」と苦笑し扉を閉めると立ち上がった。そして再び脱いだばかりのコートを手に取って晶へ振り向く。
「俺、ちょっとコンビニ行って何か食いもん買ってきますよ。隣のビルの一階、確かコンビニでしたよね」
「………ああ、うん。悪いな……。でもお前、折角今日休みなのに時間とか平気なのか?こんな事してて」
「晶先輩、俺が彼女いないの知ってるでしょ?」
信二はわざと口を尖らせて晶を軽く睨む。デート以外の可能性も含めて聞いた晶は信二の視線を笑いで誤魔化した。信二は2ヶ月ほど前に付き合っていた彼女と別れたばかりなのだ。何故別れたのか理由は教えてくれないので知らないが、交際期間もとても短かかったはずだ。相手から告白を受けたという話しだが、性格が合わなかったのか……。それとも何かあったのか……。晶に知る術はない。
時々好きな人が居るようなことは口にしているので何となく別れた理由を察しはするが、それからは浮いた話しは耳にしていない。
信二のプライベートで知っていることはそれくらいである。後輩に迷惑を掛けるのは本意ではないが、晶はもう少しだけ独りにならなくて済む事に安堵しながら、今回は素直に好意に甘えることにした。
「………じゃぁ、何か適当に買ってきてくれるか。軽く食べられそうな物」
「わかりました。ちょっと行ってきますね」
すぐに玄関へ向かい買い出しに行こうとする信二の背中に、晶は慌てて声を掛ける。
「あぁ、信二ちょっと。財布、俺の持ってけよ。ジャケットに入ってるからさ。鍵は玄関な」
「なに言ってるんすか。いいっすよ、そんなの。じゃ、鍵だけ持っていくんで外から閉めていきますね」
信二は晶の財布は持たずに鍵だけを持つと部屋を出て行った。重い玄関のドアがガチャリと音がして閉まる。その後、信二が鍵を閉める音がして足音が遠ざかった。
晶は這うようにして側にあるベッドまで行き、しかし、ベッドへは入らずそのまま凭れかかって枕元に置いてあった体温計を手に取る。口に咥えて音が鳴ったのを確認し取り出すと、予想通り熱は39度まであがっていた。どうりでフラつくはずである。独り暮らしを始めてから、記憶に残っている限りでこんなに高熱が出た事はないように思う。風呂の設定温度より高いという事実に驚き、徐々に不安になってくる。一応一度は風邪薬を飲んでいるのにこの有様。信二に発見されないように体温計をベッドの中に押し込んで、晶は咳と共に熱い息を吐いた。
信二が出て行った部屋はあまりに静かで、耳が聞こえなくなったのかと錯覚してしまうほどだった。今、独りなんだな。と改めて思えば、佐伯と付き合う前はいつもこうだったのに、何故かその時のことが思い出せなかった。
気を紛らわすために近くにあったリモコンでオーディオのスイッチを入れると、ディスクが小さく回転する音が聞こえ、静かに曲が流れ出す。その曲を聴いて晶は眉をきつく顰めた。よりによってこんな時に入れたままにしてあったアルバムは、一緒に買い物をした時にjazzが好きな佐伯が選んでくれたChet Bakerのアルバムだった。
最近はそれを晶も気に入っており、オーディオにはそのままディスクが入れっぱなしになっていたのだ。繊細そうなトランペットの音色が部屋の中を震わせる。
こんな時に聴くのは逆効果なのを十分わかっているのに、晶はリモコンを握りしめたまま曲を消せずにいた。様々な感情の行き場を持て余して、一気にボロボロになっている自分の惨めさを嫌というほど感じてしまう。
先程信二に支えられていた時、その体温がやけに優しく感じたのは、自分の気持ちが寂しさに負けているからだと思う。晶は膝の間に顔を埋めるようにして小さく咳き込む。
──最悪……俺……。
呟くように声に出し、その声までもが弱々しく掠れているのに自分で驚いて口を噤む。自分の吐き出す息がとても熱い。佐伯の言った事を無視したバチがあたっているような気がして思わず自嘲的な笑みが零れる。
うっかり気を抜くと伴奏のピアノの音色とシンクロしそうになる自分を誤魔化すために、晶は顔を上げ手を伸ばして煙草を抜き取る。――どうすればいい、このまま……この後――震える指に煙草を挟み込んでマッチをする。何故か中々火が点かず、燻った煙が独特の刺激臭を放つ。焦れた晶は、つかないマッチを指で折るとぎゅっと握りしめた。
「……くそっ、何で……点かねーんだよ」
苛立って灰皿に折れたマッチを投げ入れた時、自分の手の甲に透明な雫が零れているのが見えた。それが自分の流している涙なのだと気付くのには時間がかかった。煙草を指に挟んだまま見つめていると視界が滲んでいく。三本目でやっと火が灯ったマッチを煙草の先へと寄せる。ジリッっと音を立てて深紅の火が上ってくる。ズキズキと脈打つ頭痛のせいで頭の中までもがその熱で溶けているようで何も考えられなかった。
乱れて落ちてくる前髪がバサリと顔にかかり、視界を狭める。吐き出す熱い息よりもっと熱い目頭が、押さえきれない涙を鼻筋を通してポタリ、またポタリと落下させていく。俯いたまま指を伸ばし自分の目元をなぞるとはっきりと濡れた感触があった。
──俺……の……?
自分の事ではないようにそう感じてしまう。しかし、徐々にはっきりしてくる感覚が現実を示していた。……認めたくなかった。……知りたくも無かった。こんな弱い自分を。
唇を伝うその涙は塩辛い味がし、晶は悔しさに握った拳を噛む。すぐにそれを止めたいのに、感情がうまくコントロールできない。溢れた涙は次々に頬を濡らすばかりだ。
袖でごしごしと目をこすり、洟をすすっていると玄関のドアが開く音が聞こえてきてハッとする。
「戻りました~。どれがいいかわかんなかったんで、いっぱい買ってきましたよ」
信二がそう言いながら足早に部屋へと歩いてくる。
――……待って……ドアを開けるな……。
磨りガラスになっている部屋のドアにスーツ姿の信二がうつり、ドアノブがゆっくりと下ろされる。開ききったドアから姿を見せた信二の視線は晶に向いた後、ぴたっと止まった。
涙でぼやけた視界の先に立っている信二が、開いたドアノブから力なく腕を落とし、「……晶先輩」と一言だけ呟いた。
晶は慌ててもう一度目をこすり煙草をもみ消すとオーディオのスイッチを消す。再び音のなくなった部屋には、走って帰ってきたのか、信二の僅かに上がった息づかいが微かに響いていた。
信二の手には今買ってきたばかりのコンビニの袋が握られており、食べ物や飲み物が顔を覗かせている。泣いている所を見られた恥ずかしさに、晶は取り繕うようにすぐに口を開いた。
「あ、……し、信二……。戻ってきてたのか……。早かったな……、ありがとう。買い物」
信二の顔をまともに見る事が出来なかった。信二もまた、晶のその言葉に返事を返せずそのまま立ちつくしていた。
思い出す限り、明るい笑顔しか見た事がない晶が泣いていた。目の前のその現実は、信二からいくつもの言葉を奪う。
信二が持っていたコンビニの袋が床へと落ちる。袋の中のペットボトルが勢いよく飛び出て、音を立ててフローリングを転がった。落下したペットボトルの中身が小さな気泡をたてて揺れるのを晶は見ている事しか出来なかった。――そのお茶、俺がいつものんでるやつ。よく知ってたな――そんなどうでもいい言葉だけが、晶の頭に浮かんで消えていく。信二が側に駆け寄って、腕を伸ばして晶へと触れる。
それは一瞬の出来事だったはずなのに、まるでスローモーションのように見えた。「え?」と思う暇もなく回された腕……、晶は痛む喉に、唾を飲み込んだ。
自分の頬に外気で冷え切った信二の髪がサラリとあたる。
「……信二」
突然抱き締められた事で、晶は今自分の置かれている状況がうまくのみこめず、信二の腕が強く自分を抱きしめているのを遠巻きに見ている気分になっていた。それはまるで金縛りにでもあっているかのようで……。
──佐伯とは違う抱きしめ方
──佐伯とは違う匂い
──佐伯とは違う体温
その一つ一つを認識するのには時間がかかった。暫くそのまま茫然と抱かれていたが、晶は我に返り信二を離そうとする。しかし、回された腕は思ったよりも力が込められており身動きが取れない状況だった。
「……信二、おい……痛いって……離せよ……風邪うつるから……」
聞こえているはずの信二は晶の事を離そうとしない。それどころか、回された腕にギュッと力が追加されたのが分かる。信二の息づかいが耳元で響く。揺れ出す不安定な感情が綻んでいく。信二の体温が浸食してきておかしくなりそうだった。鼓動が早くなり、求めたくなる。
その体温を享受するのは簡単な事なのかもしれなかった。今手を伸ばせば寂しさが紛れて、何もかもが終わって、始まって、崩れて……。楽になれるのだろうか……。一瞬でもそう思った自分の弱さに嫌気がさす。
――だけど……。そうじゃねーだろ……。
晶は、自分を慕って信じてくれている優しい信二の腕にそっと自分の手を添えた。この腕は、自分の寂しさや不安を理由に縋って言い温もりじゃない。それはただの裏切りでしかないのだから。
「…………信二、手、離せ……」
腕の中で身を捩り低く呟いた晶は、息苦しさに激しく咳き込んだ。信二は漸く腕の力を抜き、辛そうに顔を歪めると大きな掌で晶の背中をなでた。労るようにそうされると、やりきれない気持ちになる。咳が治まっても信二は背中をさする手をとめなかった。
まるであやすように続くそれに、止まっていた涙が再び溢れそうになり、晶はそれを必死で堪えた。本当に今日の自分はどうかしている。
「……俺、誰にも言いませんから……」
「………っ…」
返事が出来ないまま晶は黙って背中をさする信二の手の感触だけを感じていた。誰にも言わないから……。こんなみっともない姿を晒している自分に向けられた言葉。まっすぐに届くその優しさに息が出来ないほど胸が痛くなる。呼吸が鎮まると、晶は浅く息を繰り返した後呟いた。
「……悪い、みっともない所見せて……」
「………」
信二がゆっくりと晶から腕を外す。二度ほど晶と視線を合わした後、信二は目の前に座り込むと徐にポケットから煙草を取り出し、火を点けた。自分を落ち着かせようとしているかのようなその素振りに、次にくる言葉を考え晶も一本煙草を取り出す。
手持ちぶさたに吸い続けた煙草が互いに3本目になった時、沈黙を破って話し出したのは信二だった。きちんと座り直すと、緊張気味に息を大きく吐き、ゆっくりと顔を上げる。真っ白なシャツの大きく開けた襟元に覗く信二の喉が、一度だけ上下に動いたのが見えた。
「……生意気な事、これから言います。気に障ったら……後で、何度でも謝ります。でも、今は言わせて下さい」
「…………」
「あの……、晶先輩は……どうしてそんなに、自分を押し殺すんですか……」
「………、信、二」
「晶先輩はいつも優しくて、すげぇ楽しいし。毎回助けて貰って、俺、ほんと頼りにしてて……、そういう所。めちゃくちゃ尊敬してます……」
「……、……」
「でも、……もっと我が儘になってもいいと思う……。こんなに体調悪くても、心配させないように笑ってて、俺にまで気遣って……どうしてですか……。辛いならそう言ったっていいじゃないっすか……。もっと自分の気持ちとか、そういうの大切にして欲しいです……」
ホスト業界は結構上下関係が厳しく、先輩に意見をするなどという事は滅多にない。思い切って口にした言葉とは裏腹に、信二の握っている拳はよく見ると小さく震えていた。毎日のように一緒にいる信二には、晶がただ風邪で参っているわけではないのが伝わったのだろうし、だからこそこうして心配してくれているのだ。それに加え泣いている所も見られたのだから尚更とも言える。
佐伯との事を知らないはずだというのに信二の言った台詞はあまりにも的を射ていて、晶は逡巡すると共に自分の中で目を背けていた事実に気付かされていた。
それっきり信二は俯いてしまい、その表情を窺う事が出来ない。晶は膝におかれた信二の握りしめた拳に自分の手を伸ばしてそっと重ねた。
「信二……、顔、あげろよ」
信二は晶のその言葉に少し顔をあげる。しかし視線は以前として落としたままだった。
「ほら、信二……ん?」
優しく訊ねるように名前を呼ぶと、信二は漸く視線をあげた。いつからこんなにいい男になったのだろうか。信二の澄んだ茶色の瞳が心配げに揺れ動く。整ったその顔が辛そうに歪められるのを見て、晶は息を呑んだ。
「晶先輩……すみません。俺……、生意気な事言って……怒ってます……よね」
「何、謝ってんだ……。さっきの威勢はどうしたよ……」
「でも……俺」
「――信二、………お前の、言う通りだから」
「……………」
晶はフと息を吐くと困ったように頬を掻いて、睫を伏せた。
「……俺さ、自分が我慢する事で、何でもうまく物事が運べばそれでいいかなって思ってて……。自分の感情を直球でぶつけるのが怖いっつーか……。別に我慢が大好きってわけでもねぇんだけどな……いつもそうなんだ。誰かに迷惑掛けたくないからなんて、本当はただの綺麗事でしかなくて……自分が犠牲になることで、見たくない自分から逃げてるだけなんだ……」
「……………」
「…………お前に今言われて。それが誰のためにもならないんだって、改めてわかったよ……ほんと、馬鹿だよな……」
「……晶先輩」
晶はそう言うと照れ笑いをし、天井に向かって「あぁーあ」と呟く。二人の間の空気が一瞬にしていつもの通りに戻り、信二も緊張したように固まっていた体から力を抜いて少しだけ笑みを浮かべた。
「何だよ信二~。お前ばっか格好良くて。俺、立つ瀬ねぇじゃん……どうしてくれんのよ」
信二に向かってわざと冗談を言う晶に、信二は安堵したように眉を下げる。その笑顔の奥にほんの少しの切なさを隠したまま……。
「……晶先輩は格好いいっすよ……。今でも……マジ、俺の憧れです」
「ばーか、恥ずかしい事面と向かって言うなっつーの。これだからホストは嫌なんだよな」
「何言ってんっすか、晶先輩もホストのくせに」
「俺はいーの」
晶は笑って信二の膝を軽くはたいた。本当に信二の言う通りなのだ。遠慮をして一歩引くことばかりが愛情ではないのかもしれない。自分がこれからするべき事はたった一つしか無くて、酷く簡単な答えだった。そして、それは終わった所か何もまだ始まっていないことを知る。晶は独り言のように呟いた。
「……風邪が治ったら……。行ってみるかな」
「――え?どこにっすか?」
「ナ・イ・シ・ョ」
「ひどいなぁ。教えてくれたっていいじゃないっすか」
「ダメだって。あ、そうそう、さっき思ったんだけどさ。……信二お前好きなやついるんだよな?誰なの?」
突然出された質問に、信二は何処に行くかの追求をピタリと止めわざとらしく咳払いする。今はまだ、このままでいたかった。隣に並んで肩を並べられる男になる為に、やらなければいけない事は沢山ある。だけど、ほんの少し……、目の前にいる、自分の事になると途端に鈍い先輩にヒントくらいあげてもいいかなと思っていた。
「教えて欲しいっすか?」
「なに、俺の知ってる子?あ!まさか……この前同窓会で会ったって言ってた子か?初恋の相手だったんだろ?」
「あー、まぁ、たまに遊んでますけど、違います」
「えーっと、じゃぁ……」
「ヒントだけ教えてあげましょうか。同業者の……、女の子……かな」
あえて嘘を入れて信二は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「うわ、マジ?お前やめとけってそれ……。同業は落とすの大変だぞ?で、誰?」
「ヒント2、気配り上手で可愛くてかっこいい人です……まぁ、でも、すげー鈍いんですけどね……。そんな所がまた堪んないっていうか……」
信二が照れたようにそう言うのをみて、晶は怪訝な顔をする。
「何それ……同業なのに鈍いとか……、この業界でやっていけんの?……」
「まぁ、普段はめっちゃ鋭い人なんで平気なんじゃないっすかね。ヒントはこれで終わりっす」
「……全然わかんねーわ……」
「そのうち教えますよ」
信二はそう言って笑っていた。晶は、信二の客の女性の顔を次々に思い浮かべたがどれも違う気がする。そして、肝心な事に気付かないままでいた。自分も信二にとっては同業……だということに。
信二はもうその質問に対しては答える気はないらしく、膝を払って立ち上がると、先程自分が床に落としたコンビニの袋から、飲み物や食べ物を取り出して冷蔵庫へそれらを詰めていった。どれだけ買ってきたのか冷蔵庫はあっという間に食べ物や飲み物でいっぱいになっている。食卓の上にはお湯を注ぐだけで食べられるフリーズドライの粥やスープ等が並べられていた。
ありとあらゆる果物のヨーグルトで埋め尽くされている冷蔵庫の上段はコンビニの棚さながらである。「賞味期限の近い物から手前に並べたので順番に食べて下さいね」と、まるで店員のようにそんな注意を促す信二がさっと近づいてきて、優しい笑みを浮かべて晶の前へしゃがみこんだ。そっと伸ばされた腕に前髪を掻き分けられ、額に手を置かれる。
冷たい信二の手が熱い額に心地よく感じた。
「んー、39度はありますね……」
「……え」
晶は隠していた体温計を信二がいつの間にか見たのかと思ったが、体温計はベッドの中のはずで、信二は勿論ベッドには近づいていない。
「お前の手、体温計標準装備なの?すげーな……」
「慣れ、ですかね。俺、下に3人弟がいるんですよ。小さい頃から弟達が風邪引くとこうやって体温測ってたんで触るだけでだいたいわかるんっすよね」
「そっか、……いいお兄ちゃん、ってわけだ」
「いいかどうかは、わかんないっすけどね。俺は、兄貴が欲しかったっす」
信二は苦笑して晶の方を見る。
「さてと……。俺いると、先輩気遣って寝てくれなそうだから、そろそろ帰りますね……。早く治して店に出て貰わないと……寂しいから……あ、えっとお客さんとかが」
「……そう、だな」
信二は心の中で「俺も」と付け加える。帰り支度を整えコートを着た信二が、晶にベッドに入るようにと言ってくるのを聞かずに晶はゆっくりと腰を上げた。
「玄関まで送るから」
「寝てていいって言ってるのに」
「お前が帰ったらちゃんと寝るから、心配すんなって」
強引に着いて行って見送るために玄関先まで来た晶は、壁により掛かって腕を組んだ。靴を履いている信二の背中に小さく声を掛ける。
「色々ありがとな……信二。お前が居てくれて、マジで……良かった」
靴を履き終えた信二が立ち上がり、晶に背を向けたままドアノブに手を掛け、少し躊躇った後いつもの調子で明るい笑顔で振り向いた。
「んじゃ、帰りますね。ちゃんと大人しく寝てて下さいよ?外出は禁止。薬は多めに飲んでも効果ないので規定量で。飲む前には何か食って。今日は風呂も禁止です」
「はいはい」
「……汗掻いたらパジャマ着替えて……それから、……それから……、寂しくなったら、俺に電話して下さい。子守歌歌ってあげるんで」
晶は苦笑して言葉を返す。
「要らねーよ、余計眠れねーだろ。まー、わかった。サンキュ」
「……晶先輩」
「――んー?」
「俺、いつでも傍にいますから……。1番になれなくても」
「……?」
「じゃぁ、お大事に!!!店で待ってます!」
「おう、気をつけて帰れよ、またな」
信二が出て行った後鍵を閉め部屋へと戻る。
折角色々買ってきて貰ったことだし、何か食べてみるかと薬缶を火に掛け、その間にテーブルの上の様々な物を手に取ってみる。どれも自分では買った事が無い物ばかりである。どれにするか迷っていると、少ししてインターフォンが鳴った。何か忘れ物でもして信二が戻ってきたのだと思い、画面を見るとうつっているのは宅配業者である。――何か届くような物買ったっけ……。そう思いながら受話器を取り上げてみる。
「はい」
「バイク便でーす。佐伯様からお荷物です」
――要から……?
晶がエントランスのロックを外し暫くすると玄関のドアのチャイムがなる。そんなに大きくない封筒を受け取って再び部屋へ戻り開けてみると、中から出てきたのは受け取らなかった3日分の薬だった。都内のバイク便をつかえば、3時間程で23区内全域に配送される。休み時間に手配して送ってくれたのだろう。
薬を取り出した封筒を逆さにして何度か振ってみるが他には何も入っていなかった。メモも何も入っていない代わりに、薬の詳細が書いてあるひとつひとつの封筒に、赤いペンで『食後』やら『頓服(38度以上時一錠)』やらと佐伯の字で書いてある。印刷にも同じ事が小さく書いてはあるが、見逃さないように佐伯が新たに書き足したらしい。晶は、薬を受け取った事と礼をメールで打つ。伝えたい事は直接言いたかったので、それ以上は何も書かずに送信ボタンを押した。
「……要」
きっと何があったのか気にしているはずだが、晶のとった勝手な行動を問いただしてくるわけでもなく黙って薬を送ってくる佐伯の気持ちが今は有難かった。自分の中できちんと気持ちを整理して……、今度は逃げずに佐伯と向き合う。それには、とにかく体調を戻さねばならない。
先程かけていた薬缶が沸騰し、晶はキッチンへ足を向ける。カップの粥に湯を注いでかき混ぜ、テーブルへと座って食べてみる。カップの粥など初めて食べたが、意外に美味しいことに驚きつつ完食する。
その後、佐伯が送ってくれた薬を飲み、最後に茜からもらった生姜蜂蜜を湯でとかして飲んだ。飲む時にかなり喉に染みたが、茜の言っていた通り、飲み終えると少し体が温まってくる。
多分それは効能なだけではなく、皆の気持ちが詰まっているからなのだ。佐伯や信二、茜の顔が脳裏に浮かぶ。
――早く治さねーとな……。
今度目が覚めたらだいぶ良くなっているはず。そう願いつつ晶はベッドへ向かう。目覚ましを一つもかけずに布団へ潜り込むと、そっと目を閉じた。