土曜日の夕方、そろそろ誕生日パーティーへ呼ばれている時間が迫る頃、洗面所で髪をセットしている澪の耳に、何処からかギシギシと家が軋むような音が聞こえてきた。一瞬地震かとも思ったが、別に家が揺れているわけではない。一端ドライヤーを置き、洗面所から顔を出して二階を見上げてみたが特に変わった様子もない。
しかし、ドアをあけるとその音はより一層大きく聞こえたのだ。
椎堂が何かしているのだろうか……。そう思って暫く聞き耳を立てていると何かが盛大に落下するようなドシンという音が鳴った。
――何!?
階段を上って椎堂の部屋の前で足を止めると、やはり物音の発生源は椎堂の部屋のようで中からガサガサと物音がした。
「誠二? 何かしてる?」
ノックをしながら声を掛けるとすぐに椎堂の声が返ってくる。
「澪、助けて……」
――え!?
思いもせぬ返事に驚いてドアを勢いよく開けようとすると、そのドアでさえ開ききる前に何かに邪魔されて開かない。ぐっと力を込めて強引に押し開けると、部屋の中はまるで空き巣にでも入られたかのような惨状になっていた。唖然として部屋をぐるりと見渡すと、そこらじゅうに衣類が散乱している。足下に気をつけながら中央に進むと、ベッドの脇で段ボール箱の雪崩の下敷きになっている椎堂を発見した。
溜め息が出そうになるのを堪えて、澪は腰に手を当てて椎堂を見下ろした。
箱自体は重くはないが、一つや二つではなく、よくみると中身が入ったままの物もあるようだ。
「で? ……。何でこんな状況になってるわけ……」
助けて、という椎堂の声を聞いた時は焦ったが、どうやら心配は無いらしい。呆れた声を滲ませつつ、椎堂の手を引いて衣類の山から引っ張り出すと、椎堂は頭にジャケットやズボンを乗せたままフラフラと膝を突いて、イタタと腰をさすっている。
「一番上の箱からシャツを出そうと思ったら、これ見て。全部落っこちてきたんだ」
「…………」
――一番上?
澪が椎堂の真上に当たる収納の棚をみあげると、扉は両方開いていて中身は空になっていた。当然である。中にあったダンボールの箱は全部椎堂の上に落ちてきているのだから。
「もう、……ホントびっくりしたよ」
「……それ、俺の台詞」
怪我はないか一応確認したが、どうやら腰を打っただけらしくひとまず安心する。衣類だったから良かった物の、中が重い物だったりしたら笑い事では済まされない。――運が良いのか悪いのか。
溜め息をつく澪の横で、椎堂が衣類の山をかきわて目的のシャツを発見して引っ張り出す。
「このシャツ、一回しか着たことないんだよね……」
普段着でいいとは言われた物の、やはりパーティーだから少しお洒落をしようと思って。と、椎堂が言い訳っぽく小声で付け加えた。
「間近になって用意するから、こういう事になるんだろ」
「ごめん。今度はもっと早くから用意するよ……」
澪が床に落ちている衣類を拾い、とりあえずベッドの上へ乗せていると、さすがに反省したのか落ち込んだ様子の椎堂が俯いている。まるで怒られた子供だ。「それで……?」とどれを着ていくのか澪が問うと椎堂が困ったように顔を上げた。
「えっと、これでいいかわからないけど、どう?」
椎堂がシャツとズボンを並べて澪に見せる。白いシャツにベージュのボトム。清潔感はあると思うがどちらも淡い色なので若干締まらない気もする。
「それでもいいと思うけど、下は濃い色の方がいいんじゃない」
「なるほど……。じゃぁ、そうする」
椎堂が再び衣類の山を掻き分けてズボンを探しだそうとし、しかし、急に手を止めて澪へと振り返った。
「澪のその髪型、初めて見たかも」
「ん?」
そういえば、セットしている途中だった事を思いだし、澪は自身の髪に徐に手をやった。いつも下ろしている髪のサイドを今日は後ろへ流して固めているのだ。
椎堂はにっこり笑うと「モデルさんみたい」と言って、その後「でも、少し心配だな」と表情を曇らせた。立ち上がって澪の周りを一周し、観察する。そんなにマジマジと見られると居心地が悪い。澪は壁により掛かかって腕を組み椎堂がもう一周するのを阻止すると口を開いた。
「心配って、何で?」
「だって……。パーティーに来てる誰かが、澪の事好きになったらちょっと困るなって……」
椎堂がそういって顔を赤らめる。まだそんな状況になったわけでもないのに架空の想像でヤキモチをやく椎堂に澪は苦笑いした。
「関係ないだろ」
「――どうして?」
「どうしてって。俺が、誠二以外好きにならないから」
「えっ……」
何を今更恥ずかしがるのか、椎堂はまるで初めての告白でもされたかのように視線を彷徨わせた。
「そ、それはそうだけど……いや、そう。なのかな? ……そうだといいなって思うけど」
しどろもどろになって何度か言い直し、椎堂は最後に澪の手を握って真っ直ぐ顔を見上げた。
「あの、……澪は、僕の恋人だからね? ……ずっと僕が予約だよ?」
どうやら本気で心配しているらしい。しかも「予約」という言葉は何処から出て来た? ――そう思ったが、真剣な表情で確認をしてくる椎堂を見ているとそこを突っ込む気も失せ、澪は椎堂の頭に手をぽんと置いた。
「余計な事心配してないで早く用意しろって」
「う、うん」
名残惜しそうに握っていた手を放す椎堂は、まだ少し不安なのか「約束だよ?」と言って澪を見上げた。こんなに真剣に……、かつ可愛くお願いされて、その約束を反故にできるやつがいるなら会ってみたい物だ。澪は心の中で――自分には無理だな。と、改めて思っていた。
椎堂を見ていると、寧ろ心配なのはこっちの方だと思えてくる。
クロエに関しても椎堂は先日の様子では気付いていないし、アンナに可愛いと言われてもわかっていない。それと……、ギャレットも。クロエの言っていた噂が真実なら、椎堂の事を恋愛対象として見ている可能性は十分あり得る。
そして、椎堂はその手の好意に鈍感な上に、人を疑わない性格で無防備である。
そう思うと、何だか本当に心配になってきて「今夜のパーティーには行くな」と言いたくなってくる。澪はそれを我慢して、途中になっているヘアスタイルを仕上げるために椎堂の部屋を後にした。
洗面所に戻り、ワックスで整えて最終仕上げをし、そのまま歯を磨くために歯ブラシを咥えた。何故今日は髪を固めたかというと、だいぶ長くなってきて邪魔だったからだ。
日本にいた頃は月に一度は美容院へ行っていたのに、退院して一度行ったきりもうずっと行っていない。長くなったサイドと襟足は縛れるほどの長さである。そろそろ美容院を探して行った方がいいかもしれない。
澪は、染めたことのないストレートの自分の前髪を引っ張って、蛍光灯の光にかざした。
一度部屋に戻って着替えをしていると、二階の自室の窓からロバート家の庭が見える。
すでに飾り付けてある庭はちょっとしたイベント会場のようになっている。パーティーが始まる頃にはすっかり陽も落ちて飾ったイルミネーションがより一層映えるだろう。
廊下に出て椎堂の部屋を開け、着替え終わっているのを確認して階下へ共に降りる。
「プレゼント持った?」
「ううん、プレゼントはね、まとめてギャレット先生が持ってくることになってるから」
「へぇ……そうなんだ」
同じ職場でロバートもアンナも交流があるのだからギャレットが呼ばれているのは当然なのだろうが、今夜はあまり会いたくない気分である。先日あんな場面を見てしまったからというのもあるし、どこかどうと問われれば答えられない程度ではあるが、どうも気があわない気がするのだ。
ちゃんとしたプレゼントは漫画であるが、昼に出かけた際に花束を買ってきたので手土産としてはそれを持っていくことにしている。花瓶はないので、とりあえずシンクに置いたコップに水を入れ、さしてあるそれをとりにキッチンへ入ると、庭に出て来ていたアンナの姿が窓から見えた。
アンナが着ているのは腰のラインが綺麗に出る裾の長い真っ赤なパーティードレスで、主役だからと言うのを差し引いてもどう考えても今自分達の着ている服装とは釣り合っていない。
――本当にこれでいいのか?
疑問に感じた澪は、花束をそのままにして玄関へと足を向けた。
「澪、どうしたの? 花束は??」
「ちょっと待って」
玄関を細くあけてロバートの家を見ると、遠方からきた招待客が丁度到着したようで、車から下車してくる所だった。澪はその様子を窺いながら椎堂を手招きする。
「え? なに?」
椎堂が小声で言いながら澪の背中から同じように様子を窺い、「……あ」と気付いたようで小さく声を上げた。二人して自分達の服装を見て思わず苦笑する。
ロバートは普通の服で良いとは言っていたらしいが、ドレスコードがないというだけで、やはりそれなりにきちんとした服装でなければいけないようだ。
「どうする?」
椎堂は困ったように眉を下げて澪に意見を求めた。
「俺は遊び着のスーツが何着かあるから、それに着替えるけど」
「僕、普通のスーツしか持ってないよ……」
「ビジネスタイじゃなければ、スーツは普通ので良いんじゃない」
「……ネクタイも普通のしか持ってないよ」
「じゃぁ、俺の貸してやるからそれしてけば?」
「あ、そうだね。有難う、そうさせてもらおうかな。よし! じゃぁ急いで着替えてこよう」
もう後十分ちょっとしか時間が無い。
急いで二階へ上がり、それぞれの部屋で再度着替えをすませ、澪は最後に何十本も並んでいるネクタイの前でどれにするかを選んでいた。
「着替えたよ」
椎堂がYシャツのボタンをしめながら部屋に入ってくる。スーツ等滅多に着ない椎堂が濃いグレーのスーツを着ているのはとても新鮮で、澪は思わずネクタイを探す手を止めて椎堂に視線を奪われていた。
「これでいいかな?」
「ああ、……うん。いいんじゃない」
三十過ぎの男に向かって大人っぽいも何もないが、普段と違いちゃんと大人に見えるのだからスーツは不思議な物である。
「ほら、ネクタイはこれにしろよ」
澪が濃いグレーに合わせて少し派手目のネクタイを椎堂へと渡す。柄は小さなドットであるが、地がシルバーなのでパーティー向けである。椎堂は澪の手からそれを受け取ると、「派手じゃないかな?」といって首元にそれをあててみせた。
「似合ってるよ。いつもより大人っぽい」
そういって澪が苦笑すると、椎堂は「僕はもう大人だよ? その言い方はおかしいんじゃないかな」と不満を漏らした。
澪は黒の細身のスーツに光沢のある茶褐色のネクタイ、Yシャツはグレーのカラーシャツである。スーツとネクタイはホスト時代にかなり揃えたので選び放題である。腰高で長身の澪には細身のスーツがよく似合っていた。
着替え終えて鏡の前でネクタイを結んでいる澪に見惚れていた椎堂がぽつりと呟く。
「――澪は、やっぱりホストだったんだね」
「何だよ、今更」
「いや、こういう格好の澪、間近で見たの初めてだから。かっこいいなって……、澪がお店に出てた時に出会ってたら僕も通っちゃうかもなって思って」
澪が腰を屈めて、うっとりと自分を見つめる椎堂の顔を覗き込む。
「じゃぁ、今夜は俺を指名する? 指名料はキス一回で」
ふざけてそう言うと、椎堂は「うん」といって背伸びをし、悪戯に一度だけ口付けをした。