* * *
嵐では困るが、予想外に大雨になった事は、楠原にとっては幸いだった。
出来るだけ姿を隠したい人間にとって、雨の日は好都合である。
ホテルを出てから一度自宅へ戻り、部屋に手紙と数ヶ月分の家賃を置き、そのまますぐに自宅を出た。家を出てからは、ゆっくりと新宿まで歩いていく事にした。徒歩だと三十分と少し。通い慣れていればもう少し早く到着することも出来る。
普段なら磨いた靴に汚れが付くと困るので、新たなもう一足を用意していく所だが、もうそんな事も必要が無い。
気にせず水たまりに足を踏み入れ、子供じみた行為だなと思えばこんな時なのに思わず小さく笑いが漏れる。何十万もするブランドの革靴を濡らすと、スムースレザーの表面についた水滴がころころと転がった。
楠原は、深くさしかけた傘で顔を隠し、コートのポケットへと手を入れた。
悪天候の今日は、辺りが暗くなってくるのも早い。吐き出す息の白さから察するに、今夜も相当冷え込んでいるらしい。濡れて色を濃くしたアスファルトに視線を落としながら通り過ぎる人々の足下を見ていると、一匹の猫が濡れながらビルの隙間へ走り去るのが見えた。
その姿を見て、幼い頃の自分をフと思いだす。楠原は徐に立ち止まって、記憶を辿るように雨空を見上げた。
そういえば、子供の頃は、雨の日が苦手だった。
苦手になった理由は今思えば些細な事で……。
一度だけ学校の帰りに、どこまで遠くへ行けるか、自宅とは逆方向に歩けるだけ歩いてみた事があったのだ。
子供の足で歩けるだけといってもたかが知れている。だけど、当時は相当遠くへ来たと感じたし、知らない国へ迷い込んだみたいで、最初はその非日常感にワクワクすらしていた。
しかし、暫くして雨が降りだして来る頃にはその気持ちも一変していた。
傘は持っておらず、日も暮れてきて辺りは真っ暗になってくる。先程までの高揚感はすっかり消え失せ、残ったのは心細さと、こんな所まで来てしまった後悔と不安だけだった。
鳴りだした雷にビクビクしながら、自業自得とは言え置かれている状況に泣きたくなった。帰りの方向もわからなくなり、歩けば歩くほど現実の世界から離れている気がして怖くなりがむしゃらに走ってみる。
その途中、見つけたのだ。
自分と同じようにずぶ濡れになっていた捨てられた子猫を。グシャッと潰れたダンボールにかろうじて入っていた物の、子猫は死にかけていて、楠原が声を掛けても目も開けなかった。どうしてもその存在を無視できなくて、何度もその場を行ったり来たりした後、抱き上げて連れて帰ろうと決心した。
子猫は弱っていたが、抱いてみると温かくてちゃんと生きていた。その事に酷く安堵したのを覚えている。不思議と猫を拾ってからはそれまでの不安感がすっかり消えていくのを感じていた。
子供ながらに、自分がこの猫を助けなければと。そう、使命感のような物に駆られていたのかも知れない。自分の首に巻いていたマフラーを外して子猫を包み、胸に抱いてひたすら歩いた。すれ違う大人に、自宅の住所をつげて方向を教えて貰いながら、延々と歩く。本当はとても疲れていたけれど、それでも一時間ほど歩いて漸くいつもの街へと戻ってくることが出来たのだ。
見慣れた郵便局のある通りを歩き、無事に自宅へ到着する。
幼い頃から手のかからない子供だとよく言われていた。そんな自分が連絡もせずに突然遠くまで行き、帰宅がこんな時間になるなんて初めての事だ。汚い捨て猫を抱いていた事も、雨に濡れて酷い有様だった事も気にくわなかったのだろう。母親にはこっぴどく怒られた。
何処かへ子猫を捨ててくるまで、自宅には入れないと言われ、濡れて冷たくなった体を震わせながら仕方なく近くの公園へ行った。
そこにトンネル型の遊具があるのを思いだしたからだ。当時は体も小さかったので子猫を抱いたままその中へと入り、雨宿りすることが出来た。座り込んで腕の中の子猫をぎゅっと抱き締める。このまま子猫をここへ置き去りにすれば、自分は今すぐ自宅へ戻れて、清潔な衣服に着替え、温かい風呂で体を温める事が出来る。そう、理解していたはずなのに、どうしてもその子猫を置いて行けなかった。
別に特別動物が好きだったわけでもない。
だけど、この子猫が居たから帰ってくることが出来たのだ。
「よしよし、大丈夫だよ。僕は、君を置いていったりしないから」
子猫は、楠原が指先で額を撫でてやると、か細い声でミャーと鳴いた。自分の不安を消してくれたその小さな存在を守りたかった。
腹も減り、雨に濡れたままで居たせいで体がやけにだるく、いつのまにか自分は子猫を抱いたまま眠ってしまっていた。
数時間後、中々戻ってこない自分を心配して母親が探しに来て発見された。母親に無理矢理子猫を奪われ、楠原は取り返すように腕を伸ばした。母が猫を掴んで眉を顰める。
「この子、もう死んでるじゃないの」
「…………ぇ」
嘘だ……。
だって、さっきまではあんなに温かかったのに……。
そう言い返そうと思ったが、子猫を抱いていた胸の辺りを触ってみると、少しも温かくなんてなくて寧ろ冷え切っていた。自分がうとうとしている間に、死んでしまったのだ。
動物の死を間近で見るのは初めてだった。ぐったり目を閉じている子猫は、もう、撫でても鳴いてはくれなかった。
酷い熱を出していた自分は、そのあと母親に連れ戻され。どうしても墓を作ると言い張る自分についには母親が折れた。雨の中、自宅の広い庭の片隅にその子猫を埋めて墓を作った。
数日後熱も下がり、子猫を埋めた場所に、庭に咲いていた花をちぎってきて供えた。すぐに餌を与えていれば、すぐに病院へ連れて行けば、無力でしかない子供の自分はこうして花を供える以外出来ない。
多分初めて、その時、悔しさから涙が出た。
雨の日になると、一人で不安と恐怖に震えた事や、その子猫のことがどうしても頭に浮かび、それ以来雨の日が苦手になったのだ。
何故、今になってそんな昔のことを思いだしたのか……。
あの後暫くして引っ越してしまったので、もうあの広い庭にある猫の墓がどうなったかさえわからない。
今では、こうして雨が降っていても何も感じる事も無い。大人になったからと言っても未だに自分が無力である事は変わらないけれど、その事に慣れて麻痺してしまったのだろう。
楠原は、先程の猫が入っていったビルの隙間に顔を覗かせ、ポタポタと未だ雨を浴びている野良猫の上に、自分の傘を差しかけてそっと置き、そのまま通りへ戻った。
近くにある目的の花屋に立ち寄ると、白を基調とした小さな花束を作って貰う。雨の匂いに花々の香りが混ざり合い鼻腔をくすぐる。
「とても綺麗ですね」
受け取った花束にそう言って笑みを浮かべると、店員が「有難うございます」と礼を言う。店を出る際、用意していた黒いレインコートを着用する。
視界の部分が数センチ透明で、視野を確保出来るようになっている。丈はそう長くもなく。腰の下ぐらいまでだ。前を閉めれば、濡れずに済むのだろうが、構わないので前は閉めずにそのまま歩いて歩道橋へと向かった。
幸大が飛び降りた場所へと花を供え、今までも何度もそうしてきたように、しばし街を眺める。すっかり沈んだ夕陽の代わりに夜がやってくる。冬の長い夜は今始まったばかりだ。しかし、そんなに悠長にもしていられなかった。
店の開店前に何とかして見つからずに辞表を提出してこなくてはいけないからだ。店が始まってしまえば、どうしても人目に付く、あまり早く行っても今度は店には入れない。
楠原は花束に背を向けると再び歩き出す。LISKDRUGの入っているビルの脇で身を潜め様子を窺った。
最初に来たマネージャーが姿を消して三十分程すると、信二の姿が見えた。
数日その姿を見ていないだけだというのに、彼の姿を見つけただけで胸が苦しくなる。一瞬見えた信二の表情は沈んでいて、それが自分のせいである事が一層その苦しさを重い物にする。わざとその姿を追わず、視界にうつさないようにして時計を見る。
少しして、後輩達、最後に黄色のレインコートを着た康生が一気に到着し店内へと消えていった。
もうそろそろ、全員待機室へ入った頃だろう。
楠原は一度辺りを見渡し、裏口の階段を上る、激しい雨音が足音さえも消してくれるので、そう息を潜めずに済んだ。
重い鉄製の扉をそっとあけて中の様子を窺うと、廊下には誰も居なかった。そのまま慎重に入りオーナー室へと忍び込む。予め用意していた辞表をデスクに置く際ほんの僅かに指先が震えた。
――今ならまだ引き返せるのではないか。
そんな事が頭をよぎる往生際の悪い自分を馬鹿にするように口角が上がる。この数ヶ月で慣れ親しんだ店への愛着は想像以上だった。
辞表を置いてすぐに来た道を戻る際、待機室のドアの向こうから、信二や康生の声が聞こえると、足が止まりそうになる。
その輪の中に、自分がいられたのは僅かな間だったが、それでも幸せだった。「だった」と過去形にするのが悔やまれるほどに……。
楠原がそんな気持ちを振り切るように店を出ると、雨脚は少し弱まっていた。
レインコートのフードを深く被っていても、この雨のせいで誰も怪しいとは思わないだろう。行き交う人々の目に、多分、自分はうつっていない。
薬は先程飲んできたので少なくともあと数時間は持つだろう。予備で持ってきてある二錠の薬もポケットに入っている。
楠原はゆっくり歩を進め、何年もの間生きてきた新宿の街を目に焼き付ける。
初めて新宿の街で働き出した時は、騒がしくて品のないこの街が嫌いだった。しかし、いつしかその喧噪にも慣れていった。と同時に、華やかで、来る者全てを誘うように蠢くこの街が、その実酷く孤独に充ちていて、簡単には受け入れてくれないことにも気付く。
夢を叶えられるのも、夜の街に己を刻めるのも限られたほんの一握りの人間だけ。
そして自分は、その一握りになれないまま終わっていく。どこか、最初からその事をわかっていた気がする。
最後の目的地へ続く路地を曲がる頃には、薬を服用してきたにもかかわらずいつもの耳鳴りが激しくなってきていた。楠原は濡れて冷え切った手で自分の耳を塞ぎ、真っ暗なその場所で暫く立ち止まる。
「……っ」
意識して無理に指令を出さないと、足が竦んで動けなかった。
自分がしようとしていることは人として間違っているのだろう。
わかっていても、もう戻れない。
振り返ればすぐ目の前で崩れていく。そんな不安定な足下は、今だって立っているだけでいっぱいいっぱいで、少しでも後ずさろう物なら、自分の存在もろとも飲みこまれて二度と戻って来られないだろう。だから、一歩だって後ずされやしない。
少しずつ路地へと近づく度に、動悸が速くなる。
レインコートに落ちてくる雨音、緊張を表すように乱れる自分の心音、行き交う人々の話し声、それらが混ざり合ってぐるりと回転する。気分の悪さを宥めるように、楠原はポケットに忍ばせているロックバック式ナイフの柄を握り込んだ。
ステンレス製の冷たいその感触が現実に引き戻してくれる。一年前の自分ならば、迷いもなくこのナイフを突き出せたはずだ。寧ろその瞬間に笑みを浮かべることすら出来たと思う。
なのに今の自分はこんなにも怯えている。強張る頬は、寒さのせいだけではない。
――……怖い。
膝が震えそうになるのを必死で抑える。このナイフを人に向けようとしている事は、……信二。晶や玖珂、店の仲間達。自分を信じて受け入れてくれた彼らの優しさを、踏みにじり裏切る行為だ。先程から、契約時に交わした約束で持たされている携帯が鳴り止まない。
一度着信履歴を見て見たが、晶と信二の電話番号がスクロールが終わらないほどに表示されていた。
番号を知らないはずの信二の名前がある事で、もうとっくに自分が店からいなくなっているのに気付かれている事がわかる。
――何処かに捨ててくれば良かった。
もしくは、今すぐ電源を落とせばいい。
実際何度もそうしかけたのだ。だけど、どうしても出来なかった。胸ポケットでそれが振動する度に、迷う心が揺れる。
こんな時ですら、通りを信二に似た背格好の若者が通る度に思わず目で追ってしまう。彼と出会ってから数ヶ月の間に、それが癖になってしまった。復讐のためだけに生きてきた。そんな自分に、彼が『後悔』というあやまちを気付かせる。
信二につき通してきた嘘の数々、嘘で塗り固めなければ彼の前では笑うことすら出来なかった。本当の自分の全てを知って、彼が離れていくなら、嘘のままの自分でいいと思った。
最後にもう一度携帯の着信履歴を見る。信二からの着信は途絶えていて、晶の名前だけが残っていた。
もうとっくに店はオープンしている時間だ。今頃店で、彼は優しい笑顔を客に向け、甘い言葉を囁いているのだろう。
その笑顔が自分に向けられたものでなくてもいい。
許されるならば――最後にもう一度だけ信二に会いたかった……。
楠原は着信履歴を一度全部クリアして、再び胸ポケットへとしまい込んだ。
タイムリミットは刻々と迫り、否応なしに計画が進んでいく。
CUBEのあったビルの奥から姿を現した黒いスーツに身を包んだ二人。通りの向こうで待機している黒塗りの車両。長い時間を掛けて行動を調べていた楠原は、その行動を把握していた。土曜のこの時間には必ずここを通ることも。
男の一人は、幸大を死に追いやったCUBEの元オーナーだった男だ。
店が潰れた後、警察の手を逃れた彼は、今や広域指定暴力団【九王会】の傘下である坂口組の幹部の一人に上り詰めていた。元いた組の多くが移籍している坂口組とは当時から内通していたのかも知れない。狡猾な手段で、今までに何人もの若者の未来を踏みにじり、ゴミのように使い捨ててきた男だ。のうのうと生きているその姿を見るだけで虫唾が走る。
楠原はポケットから静かにナイフを取り出すと、指が白くなるほどに力を入れて柄を掴んだ。真っ黒なレインコートの内側でロックを外し狙いを定めるように切っ先を相手へ向ける。
ネオンを反射してナイフが紫色にきらりと光った。
「これで……終わる……」
自分の背後の地面が、ガラガラと音を立てて崩れていくのが聞こえた。
想い出も、裏切りも、温かさも、嘘も、憐れみも――真実も。全てがぼろぼろと崩れて壊れて失われていく。
無残なそれは、灰になって夜の街へと飛散した。
捨てたくないという想いと、信念に取り憑かれた心が、真っ二つに引き裂かれていく。
吐き気がするほどの頭痛のせいで目の前に眩しい点滅が起こる。楠原は息を止め、吸い寄せられるように路地からゆらりと姿を現す。
「いつまで降ってんだよ、このクソ雨は。うぜぇな。ったくよ……。いいスーツが台無しだぜ」
「ああ。集金も終わったし、早く他の店まわって事務所戻ろうぜ」
男二人の他愛もない会話は楠原の耳にはいっさい届いていなかった。
少し離れた場所を通り過ぎようとしている男。水滴が水たまりに落ちるのを合図に、瞳に宿った冷たい殺気に背中を押され、楠原は足を大きく踏み出した。
跳ね返るように響く胸内の慟哭。痺れる指先。
レインコートは吹き付けられた強い風で舞い、その瞬間フードがとれた。
散らばった楠原の髪が、雨の細やかな雫を孕んでふわりと舞う。
後もう少し……。
――………………。
手に感じる鈍い衝撃、――手応えは確かにあった。
酷く長い時間意識が無かったように感じる。
目の前が一気に暗闇に包まれ、楠原は闇の中で足を止めた。
静寂の中「ああ、自分は終わったのだな」と人ごとのように思った。ヤクザ相手に素人がこんな事をすれば返り討ちに遭うこともわかっている。相手は常に二人で行動していたし、自分がナイフで刺せば相手も当然反撃してくる。刺し違えて殺してくれれば、自死の手間も省けるので喜ばしいとさえ思っていた。
誰にも知られず、この街で存在が消える。
自分には相応しい死に様だ。
何処を刺されたのだろう。朦朧とした意識のせいでそれすらもわからない。何故か、信二の匂いがして、死ぬ間際にその匂いに包まれていることに例えようのない幸せを感じる。
「――あ、……いせ、ぱい」
信二の声まで聞こえるなんて。神様のサービスも随分と大盤振る舞いだなと……。そう思った瞬間、強く肩を掴まれる感触と共に、感覚が戻った。まず戻ったのは聴覚。そして視覚。
――……な、に。
一瞬理解が出来なかった。
雨は相変わらず降り続いていて、数歩先に自分が殺そうとしていた男が傷一つ無く立っている。
そして、ナイフを持つ楠原の手は、男に届いている所か。信二に強く掴まれ動かせなくなっていた。
おそるおそる視線を上げると、びしょ濡れの信二が自分を切なげな表情で見つめていた。どうしてそんな悲しげな目で自分を見ているのだろう。
いつもの優しげな信二の瞳はそこにはなかった。「蒼先輩」今度は目の前の信二がはっきりと自分の名を呼んだ。
信二の髪に滴る雨粒が、ぽたりと楠原の頬に落ちる。その瞬間、ようやく起こっている状況を理解した。
自分の復讐が信二によって止められたという事を……。
「……、どうして……貴方がここに、……こんな馬鹿なことをして……」
いるはずのない信二が目の前にいる。混乱する。震える唇でそう言う楠原の声に被せるようにして、信二は悲痛な面持ちで言葉を落とした。
「馬鹿は……どっちだよ」
「……」
初めて聞いた信二の抑えたような低い怒声。
背後で楠原達に気付いた男二人が声をかけてくる。
「お前ら、そこで何してやがる」
「おいおい、ここは二丁目じゃないぜ? 気色悪ぃな~。ホモかよ」
馬鹿にしたように笑う男の声が、楠原の顔を見た瞬間急に訝しげに変わる。
「……ん? 後ろの奴、てめぇどっかでみた面だな。……誰だ、てめぇ」
信二の背後から近づいてくる男から、楠原の顔を隠すように……、信二は自分の胸に楠原の頭を押しつけた。男二人が話す間、信二は硬直して動かせない楠原の指をナイフから強引に剥がして取り上げる。刃先をしまって、信二が自分のポケットへと素早く突っ込むまでにかかった時間は多分一分もない。
背中で気配を窺っている信二の胸の心音がやけに大きく耳に響いてくる。信二は一度大きく息を吸って吐くと、楠原の手に指を絡めた。
「走ります。絶対俺の手を離さないで」
「……え」
ちらっと背後の男に視線を送り、静かに、だけど有無を言わせぬ強めた口調でそう言うやいなや、信二は楠原の手を痛いほどの力で繋いだまま雨の降りしきる街を全速力で駆けだした。
「おい! てめぇら、待ちやがれ!!!」
ワンテンポ遅れて追いかけてきた二人組は、何度か通りの人混みにぶつかって罵声を喚き散らしている。信二の走るスピードは相当速く、楠原は何度か躓きそうになりながらもそのスピードについて行った。
どんどん離されていく男との距離。遠ざかる罵声。
信号が赤なら別の方向へ、こんな人の多い街を全速力で走るのは初めてだった。普段走り慣れていない身体はすぐに音を上げ、呼吸が乱れて苦しい。それでも信二は足を止めない。
このまま二人で世界の果てまで行こうとしているかのように、信二の足はひたすら前へ進む。信二が後ろを振り返ることは一度も無かった。
狭い歩道をより狭くしている、各店舗の電飾看板に時々ぶつかって進路がブレても、信二は構わず走り続けた。遮る物は全て排除するような力強い意思で……。歌舞伎町の込み入った路地が、二人を助けるようにその身を隠してくれる。
走って、走って、走って、走って。
どんなに苦しくなっても、信二に握られた手の温かさが幸せで。数分前まで闇に閉ざされていた世界は、こんなにも色があって、こんなにも煌びやかで。
滲む視界は雨のせいだけではなかった。眼鏡のレンズについた水滴がフレームに溜まって、涙のように零れ散る。
辺りに人が少なくなり、住所もわからないような場所まで辿り着くと、信二は漸くスピードを落とした。辺りを見渡し、近くの高架線の下に向かうと、繋いでいた手を静かに離す。
「もう、……っ、追ってきて、ない、っすよね」
警戒するように辺りを見渡した信二が、苦しげに柱へと寄りかかってずるずると腰を下ろす。楠原は何度も激しく咳き込み、返事も出来ぬ状態だった。
ぬかるむ水たまりを避け砂利のある場所へと手を突くと、ゼェゼェと肩で呼吸をしながら只管酸素を求めて息を吸う。
流れてくる汗が顎を伝うのを手の甲で拭って、楠原は信二の方へ顔を向けた。
今自分が見ているのは幻覚だろうかと疑ってしまう。だけど、先ほどまで握っていた手はちゃんと温かくて、何度瞬きをしても目の前の信二の姿が消えることは無かった。こんなにも嬉しいのに、信二を巻き込み、危うく共犯者にさせていたかもしれない事実が重くのしかかる。
暫く何も話せぬまま時間が過ぎ、呼吸も漸く落ち着いてきた。楠原は何度か唾を飲みこみ、渇いて張り付く喉から、掠れた声をだし口を開く。
「……信二君、何故、こんな真似を……。……僕がいる場所が、どうしてわかったんですか……」
信二は一度大きく息を吸うと、濡れて張り付く髪を払い優しげな笑みを浮かべた。
「何でって。俺、言ったでしょ。……迎えに行くって」
「ですが……、あんな……。危ない真似をして、一歩間違っていたら貴方も」
巻き添えになって、怪我を……、否、――死んでいたかも知れないのに。楠原は言葉を喉の奥で留め口を噤んだ。
自分のせいで信二が死んでしまうなんて、言葉だけでも口にするのが怖い。一瞬考えただけでも気が狂いそうになり、鳥肌が立った。だけど、本当にそうなっていた可能性もあるのだ。
信二は、泣きそうな顔で、それでも精一杯笑って楠原をじっと見つめた。その瞳は、ずっと今まで見てきた温かくて、穏やかな物で……。だけれど、その中にやるせないような悲しみの色が混ざって影を落としている。
「蒼先輩、……あいつ、殺して。自分も、死ぬつもりだったんですか」
改めて口にされれば、人を殺そうとしていた自分の行動が如何に狂気の沙汰だったのかを突きつけられた気分だった。
「…………」
「すみません。俺、全部知ってます。……歩道橋の花束の意味も、過去にあった事も……」
楠原が驚いた表情で言葉を失う。信二がそこまで調べているとは予想もしていなかったからだ。いつのまに……。青ざめた唇は、ただ震えるだけで何の言葉も紡ぐことが出来なかった。
「……、でも。あの男が誰で、どうして蒼先輩があの男にナイフを向けていたのかはわかりません。でも、そんな事は、どうでもいいっす」
信二の隣に座り込んだ楠原を引き寄せると、信二は楠原の肩に顔をうずめて、右手できつく抱き締めた。「間に合って、……良かった」耳元でそう囁く
信二の声が震えている。互いにずぶ濡れのまま、それでも互いの体温が伝わってきて胸を締め付ける。回された信二の右手は、楠原の存在を確かめるようにコートをぎゅっと掴んだ。
「もう、……終わりにしましょうよ……。蒼先輩の後輩がどんな人だったのか知りません。でも、……こんな事望んでないでしょ」
「……信二君」
「もし俺が、その後輩だったとしたら……。今の蒼先輩を見たら、すげぇ……、悲しいです。だから……。だから……、もう許してあげて下さい……、自分を……」
信二の声は、泣くのを堪えているように時々詰まって、楠原の奥深くを抉るように届いた。何も言えなかった。
全てを知っても尚、信二がこうして自分の傍に居てくれる事がまるで夢を見ているかのようで。ぎゅっと力強く抱き締められれば、もうその腕を振りほどく理由も見つけられず……。ただただ、愛しさだけがつのる。
降りしきる雨の音色さえ、優しい音に変わり、全てが包み込むように自分を撫でる。こんなにも温かくて、柔らかくて……、楠原の心の中で止まっていた時が、信二と重なりながらゆっくりと進み出す。
まだ間に合うというのだろうか。
信二の腕を振りほどけない自分に、この手を取る資格が残っているのか。その腕の温かさを自分から求める事の怖さがないわけではないけれど……。今だけは。
黙ったままその熱を享受していると、ふいに抱き締めている信二の右腕の力が緩んだ。信二が耳元で息を呑み、ギリッと歯を食いしばる。
走ってきた時からもうだいぶ時間が経っているのに、……気付けば信二の息は僅かに上がったままだった。
「……信二、くん?」
ハァハァと吐き出される息が苦しげに止まり、信二の短い呻きに一瞬すり変わる。
楠原が体を離して顔を覗き込むと、信二の額には雨ではなく玉のような汗が浮かんでいた。不吉な予感に促されるように視線を落とし、楠原は、目の前の事実に凍り付き、息を止めた。
信二の座り込む左側の水たまりが……真っ赤に染まっていた。
――……、どう、して……。
「……っ!?」
楠原の方から見えない位置で、隠すように左手を腰に当てている信二の手は、自らの流れ出した血で真っ赤に染まり、その指の間を濡らし続けている。シャツも、その下のズボンも血を吸って色を変えていた。