俺の言い訳彼の理由10


 

水曜日 MARKS Trading Co. Ltd 12階
 会議室にはすでにプロジェクターがパソコンと繋がれ、何ページにもわたる資料が各座席の前に置かれている。この規模でのプロジェクトは年に数回しか行わ れない。社内は、いつもの朝より若干ざわつきを見せ、参加する取引先が、昼過ぎの現在、解放されている会議室へと集まりつつあった。
幾分張りつめたような空気が会議室を満たし、今からはじまるプレゼンの資料にそれぞれが徐に手を伸ばしページをめくる。

 会議室の壁は切り替え式のマジックミラーになっており、プレゼンが始まる前の今は、廊下からも中の様子を窺うことが出来る。渋谷はほぼ皆が揃いだしてい るのを廊下越しに確認すると、やや緊張の色を濃くした。特別にあがり症な訳ではないが、人前で話すことが得意と言うほどでもないので、やはりこういった場 はどうしても構えてしまう。廊下ですれ違う来客に軽く会釈しながら、化粧室へと足を向ける。

 掃除の行き届いた化粧室に足を踏み入れると中には誰もいなかった。用を足した後、洗面所で手を洗い目の前にある鏡に映る自分を見る。大きく開放的に作ら れた窓からは強い日差しが差し込んでおり鏡に映る渋谷の横顔を明るく照らす。手櫛で軽く髪を整えた後、ネクタイをぎゅっと上へと締め直し、そのまま洗面台 へと両手をついた。

――これが最後の仕事か……。

 心の中で呟く。朝から何度か東谷の姿を見たが、お互い忙しなく移動していたので今まで言葉を交わしていない。昨日の様子を見る限り、今日は出社してこない可能性を考えていたが、東谷はいつもと変わらない時刻には出社していたようだ。

 窓の外へ目を向ければ、雲ひとつない青空が近隣のビル群をより空へとより高く昇らせているように見える。社内からゆっくりと空を見上げた事の無かった渋 谷は、眩しさに目を眇めながら、その広さに何かを見つけるようにしばらく見続ける。昨晩玖珂と会った事で自分の中で滞っていた澱のような物が消え、今日は 朝から気分がすっきりしていた。もう何からも逃げずに現実を受け入れる覚悟は出来ている。気を引き締めるために、蛇口に手をかざし冷たい水で顔を洗う。取 り出したハンカチで顔を拭いていると背後に人の気配を感じ、渋谷は眼鏡をかけなおすと振り向いた。

「……東谷」

 東谷は渋谷へと目線を合わせないまま隣の洗面台の前へと立った。無言のまま鏡越しに視線が交差する。東谷のその視線からは、悪意は感じられず、憑き物が落ちたようなそんな印象を受けた。
 東谷の取った行動は許される物ではなく渋谷も勿論それを忘れたわけではない。だが、東谷を追い込んだ一端が自分にもあると認めている渋谷は、その責任も同時に感じていた。どうすればよかったのか、それは今もわからない。
それでも今、こうして東谷の隣に立っていても不思議と嫌悪を感じる事がないのは、自分自身の考え方が変化したからに他ならなかった。
 東谷が、絹川との写真を上に見せていない事は明らかだった。やろうと思えばあの後、朝になる前にFAXや社内メールで拡散する事も出来たはずである。渋 谷が辞める前に本気で落としいれたいなら時間は十分にあったはずだ。いくらでもあの写真を有効に使う事は出来たはずなのに、東谷はそれをしていない。
 それは彼の持つプライドが邪魔をしたのか、渋谷にはわからない。

「……係長」

 渋谷と呼ばなくなった東谷の聞き慣れた言葉。役職で呼ぶたびに東谷の中に積もっていったドロドロとした感情に渋谷は気付けなかった。どういう思いでそう呼び続けているのか、考えると東谷の言葉が胸に刺さる。
渋谷は同じように鏡越しに目線を合わせると薄く微笑んだ。

「二人の時は、渋谷でいいよ……昔みたいにそう呼んでくれ……」

 東谷は軽くため息をつくと自嘲気味に笑う。惨敗だとでも言うように胸ポケットから数枚の写真を取り出し渋谷の方へと黙ってそれを差し出した。その手には例の絹川の写真が握られている。驚いて渋谷は東谷へと振り向く。

「東谷……?」
「…………これは係…いや、渋谷。お前に返す」
「え……」
「もう要らないからさ」

 毒気の抜けた東谷の表情からは今まで感じていた剣呑な雰囲気さえも消えていた。写真を渡され、渋谷はもう一度その写真に視線を落とした後、二つに破るとポケットへしまう。
 東谷もまた一年間自分を責め続けていたのかもしれない。人間はやはり、弱い生き物なのだ、勿論自分も含めて……。だから迷った末、間違った道を選ぶこと もある。過去の修正は出来なくても明日からの道はまだいくらでも修正出来る。そして精一杯の虚勢をはって生きていくしかないのだから。
渋谷は東谷へ歩み寄ると、その肩へ触れた。

「プレゼン、東谷の事、頼りにしてるからな」
「……っ」

俯く東谷に背を向けて化粧室を出て行こうとする渋谷に東谷が振り返る。
「渋谷」
背中越しに名前を呼ばれて、渋谷はゆっくりと足を止めた。

「…………辞表、出すなよ」

渋谷は片手を挙げるとそのまま化粧室を後にした。
 
 
 
 
*          *            *
 
 
 
 
 一度デスクに戻り資料を揃えると会議室へと向かう。
会議室へ入ってすぐの所にあるスイッチを入れると今まで廊下から窺えた中の様子が一瞬にして遮断された。それを廊下側から確認しドアを開ける。渋谷が入り、続いて東谷も席へと着く。渋谷に皆の視線が集まった所で渋谷はマイクを握って軽くお辞儀をし、挨拶を始める。

「本日はお忙しい中弊社にお越し頂き誠に有難うございます。時間になりましたので始めさせて頂きます」

スクリーンの前へと立つと一度周りを見渡す。予定していた参加者が全員揃っているのを確認すると手元の進行表をめくる。

「本日進行及びプロジェクト責任者を勤めさせて頂きます、広告企画営業部 渋谷と申します。どうぞ宜しくお願いします」

 挨拶を済ませるといくらか緊張が解けてくる。進行表も全て覚えているので、渋谷は手元のそれを閉じるとデスクの脇へとよけ、スクリーンに映る画面を手元のパソコンで映し出していく。

「では早速、はじめさせて頂きます。お手元の資料3ページ目をご覧下さい」

 今回の企画は様々なブランドが蔓延る日本市場に新しい海外ブランドを導入するという物である。渋谷は何度か事前の下調べのため香港にある本社へ出向き、現地の社員と共にまだ新しい手つかずのブランドで、尚且つ日本市場で尤も売れそうなブランドと交渉し企画を進めてきた。

「今回日本市場に導入を考えているブランド【KG.natural】は現地の若手デザイナーが集まる集団を軸に産み出されており、決まったブランドイメー ジというものは存在しません。コンセプトは、若者の思想や生き方を形にして表現するという非常に斬新な物です。現在、日本市場にある各有名ブランドの既存 イメージとは別の、全く新しい形としての導入を弊社では考えております。商業主義的な物ではなくニーズに応えて柔軟に変化する形をこのブランドの形と捉え てもらうといいかと思います。資料にも書いておりますが【KG.natural】は服飾だけでなく生活用品に至るまでトータルで様々な分野へ展開しており ますので、ターゲット層も幅広く、広い範囲での集客が期待出来るのではと考えております」

 パラパラと資料をめくる音が会議室内へと響く。その後も渋谷は詳細をわかりやすいように説明し、顧客に与えるブランドのベネフィットについても述べ、順調にプレゼンは流れていった。
 質疑応答も、あらかじめ出るであろう質問とそう違えることはなかったので問題もなく、最後の課題、ターゲット・セグメンテーションまで辿り着いた。
ターゲット・セグメンテーションというのは自社が効果的な事業展開のできる最も魅力的な市場を絞り込み、販促効果を高めるにはどの顧客層にアピールしていくかを定める戦略のことである。この戦略は非常に重要な問題になるのだ。ここからは東谷の出番である。

「最後にターゲット・セグメンテーションについては東谷の方から説明があります」

 渋谷は隣へ座る東谷の方をちらりとみて一度頷いた。東谷がそれを受けて立ち上がる。挨拶の後、話し出す東谷を見ながら渋谷は参加者の表情を窺う。だいた い終盤になると場の空気でこのプレゼンが成功という形で終わるのかどうかの見当が付くのだ。渋谷の感じる限り、このプレゼンは成功だろうと確信が湧く。
 東谷からの説明が一通り終わりプレゼンが終了すると参加者から拍手が起こる。口々に今後の展開を語る取引先の言葉を耳にしながら暫く談笑に混じる。一息ついて皆が会議室を出て行った後、心地よい疲労感を感じつつ渋谷も会議室を後にした。
廊下に出た所で部長に肩を叩かれた渋谷はその場で足を止める。

「あ、部長、お疲れ様でした」
「あぁ、君もご苦労だったね。いい手応えだったんじゃないか?うまく纏まっていたぞ」
「有難うございます。反応も中々良かった様子で安心している所です」
「そうだな。このプロジェクトは君には少しまだ早いかなと思っていたが、渋谷に任せて正解だったな」
「いえ、そんな……私はやれる範囲でやったまでですから」
「相変わらず謙遜家だな、君は。今後も任せたよ」
「……はい」

――今後…。

 苦笑して肩を何度も叩く上司に渋谷も自然に笑みをこぼす。達成感を得る事が出来ているのは、ここまで積み重ねてきた努力があるからである。会議の前に東 谷からかけられた言葉を思い浮かべる。昨夜、自宅で用意してきた辞表が入っている内ポケットに手を当て、ぎゅっと掴む。どうやらまだ、これを提出する事は なさそうである。そう思いながら廊下を歩いた。
 会議室からデスクに戻り、先程の資料をファイルへ挟み込むと、渋谷はひとつ息をついた。今日は久しぶりに早く帰宅出来そうである。入社して以来定時で上がることは数える程しかないが今日はその数少ない一日になりそうだった。

「お疲れ様でした、係長」

 女子社員が汲んできたお茶がデスクへと置かれる。運んできた女子社員は会議の時にも準備などを率先して手伝ってくれていたので顔を覚えている。渋谷は置かれたカップに口を付け一口それを飲む。

「美味しいよ。有り難う、君もお疲れ様」

 渋谷に微笑んで礼を言われた女子社員は一瞬驚いた顔をし、そのあとにっこりと笑った。

「係長が嬉しそうにしているの初めてみました。プロジェクトうまく進行するといいですね」
「あ……あぁ、そうだな」
「じゃぁ、失礼します」

 自分では意識していたつもりはないが、周りから見るといつもと違って見えるらしい。渋谷は自然に柔らかい気持ちになっている自分に改めて気付く。こうし て自分の席から社内を見渡せば色々気付かなかった事が目に映る。今まで整然と揃えられている無機質な空間だとおもっていた場所にはちゃんと社員がいて、パ ソコン画面にむかう社員の目の前には今から立ち上げるのであろう新しい企画への希望と熱意がある。
煩わしいと感じていた周りのそういう空気も悪くない物だと今の渋谷は思っていた。
時刻が6時を指す。
 渋谷は周りを整理し自分の鞄を持つと席を立ち上がる。フロアを出るとき何人かの社員と挨拶を交わし、ビルの一階ロビーまで降りた。総硝子張りの吹き抜けの空間が夕日の橙に染まっている。
 同じビルへ入っている他の社の会社員が携帯で話しながら忙しなく早足で歩いては通り過ぎていく中、渋谷はビルをあとにした。まだ陽は高く夏の一日は長そうであった。
 
 
 
 
*          *            *
 
 
 
 
 あれから2週間が経ち、渋谷の進めているプロジェクトは市場への導入本番に向かい着々と準備を進めていた。辞表を出さずに済んだ東谷との件も多少の痼りは残した物の今は問題なくやっている。東谷は次の昇進試験の資格を得て現在はそれに向けて勉強中である。
 絹川との件は先日時間を作ってきちんと話し合った。得意先を失う覚悟で行ったが、結果はそうはならなかった。期待に応える事は今後出来ないとハッキリ告 げ、関係を元に戻したいという渋谷の提案を渋々と受け入れてくれた絹川は、たまには食事に付き合う事を条件に納得し鍵を返してくれた。
 最後に絹川が言った台詞。
「こんないい女を振って、知らないからね……」
その台詞はいつもの強気なそれではなく、寂しそうだった事に心が痛んだ。自分の身勝手な判断で、結果絹川を傷つけた事に深く反省し、二度と同じ事を繰り返さないと心に誓う。
 女だてらにあそこまで大会社の基盤を築いてきた絹川が下手な手段に踏み切るはずはなく、仕事上の関係は絹川のお陰でそのまま良好である。
 加えて、プロジェクトが始動し責任者として多忙になった渋谷に変わり、社内でのCS.アドバタイジングの担当は別の社員へと割り振られた。なので、自然に会う回数も減り、ここ最近は絹川からの連絡も無い状態が続いている。
 
 
 
 来週には香港にある本社への報告も兼ねて現地のデザイナーとの打ち合わせに出張の予定もある。その前に、玖珂にも礼を言いたかったので渋谷はなるべく早 くに仕事を終えられそうな日を見計らって玖珂へと連絡を入れた。玖珂も生憎忙しいらしく互いの都合が中々合わず、会う事になったのは、結局、月曜からの出 張を目前にした今週の土曜日となった。
 会う予定を決める際交換したメールアドレスには、玖珂とのやりとりが貯まっている。メールの時もあれば電話の時もあるが、頻繁に連絡をとっているせいで 一日の終わりになると、玖珂に連絡をするのが当たり前のようになっていた。たった一言の「おやすみ」だけでもそれは十分で……。

 特別に何かを話す訳でもないのに、玖珂の声を電話越しに聞いていると先日会った日の事が思い出された。一緒に見たあの夜の目映い夜景も、優しく回された 腕の感触を一度も忘れた事はない。携帯越しに耳元で聞こえる玖珂の声が、まるであの日のように側にいるように感じてしまう。
そして、その居心地の良い感覚は渋谷が今まで持ったことのないものであった。
 玖珂と自分との関係は、いったい何と説明をすればいいのか。友達とも違う、同僚でも無く、恋人でもない。何度も考え、行き着く先は本来ありえないはずの感情に近い物で、それに気付かされるたびに渋谷の中に戸惑いが溢れた。
 
 
 
 
 玖珂と会う約束をしている土曜日は、あいにくの曇り空だった。明後日からの出張に向けて休日出勤で会社に出ていた渋谷が夕方近くに窓の外を見るとすでに小雨がちらつきだしていた。
 この季節に雨が降るとその量によってはいくらか涼しくなることも考えられるが、今の感じだと涼しくなるのは期待できなそうだった。細かい霧雨が磨かれた社内の窓に霧吹きのように吹き付けている。
 じっとりとしたその湿気を感じさせる天候に渋谷は軽くため息をついた。

今日は玖珂との待ち合わせに十分間に合うように計画を立てているので仕事はそろそろ片づきそうである。そう思って腕時計をチラリと見た渋谷の目の前で外線電話のランプが点滅しだした。
 少し嫌な予感を感じながらも、声には出さないように受話器を取り上げる。予感は的中し、いつも話しが長くなかなか電話を切らないクライアントからの電話であった。案の定、予定は少しずつ狂っていき電話を切った頃には玖珂との待ち合わせの一時間前になっていた。

 渋谷は、用件を済ませると急ぎ足で会社を飛び出て品川駅へと向かい丁度ホームに着ていた電車に駆け込むように乗り込む。何とか間に合いそうな時間に、電車内でホッと一息つく。
 自分で誘っておいて遅刻するなど失礼な事をしたくないと思い、渋谷は、台場駅についてからは息が切れるほどに走った。スーツを着てこんなに全速力で駆け るのは久々で、すぐに息があがってしまう。日頃の運動不足がこんな所で足を引っ張るとは……。渋谷は途中数回立ち止まり、あがった呼吸を整える。

 玖珂とこうして会うのは何度目かになるが、今までで一番気負いなく会える気がしていた。心配していた雨も雨脚を強めることはなく、降り出した時と変わらぬ状態を保っているのが有難い。

 玖珂が待ち合わせに指定してきた店はすぐに見つかり、渋谷は店に入る前に上がった息を整え、走ってきたせいで額に浮かんだ汗を拭う。ウィンドウ越しに乱れた髪を軽く整え「よし」と小さく呟きドアへ手を掛ける。
 ドアを開いた途端に冷気に取り巻かれ、やっと少し落ち着いてきた。店内は土曜日だからなのか、すでにほとんどの席が埋まっている様子だ。しかし、全個室風に作られているのでこちらからはその人影しか確認する事が出来ないようになっていた。

「……あの、すみません」

入り口付近にいる店員に声をかけると穏やかな笑みを浮かべて渋谷へと振り向く。

「いらっしゃいませ。お待ち合わせでしょうか?」
「あぁ、はい。玖珂さんという方と待ち合わせで」
「あぁ、渋谷様ですね。どうぞこちらです」

 随分と高級そうな店内は如何にも都会の隠れ家といった趣で、揃えられている家具から内装、全てがダークブラウンで統一されているせいでとても落ち着いた雰囲気である。玖珂が選んだ店というだけはあると、渋谷は感心しながら店の奥へと進んだ。
 ちょうど一番奥の個室に通されると、そこにはすでに玖珂が座っており、渋谷を確認するといつものにこやかな表情で笑いかけた。

「すみません、遅くなってしまって。だいぶ待ちましたか?」
「いや、大丈夫。俺は少し店長に用があって先に来ただけだからね。待ち合わせ時間にはまだなってないしな」
「そうですか、良かった。走った甲斐がありました」
「駅から走ってきたのか?それは大変だったな」

そう言って吸っていた煙草を灰皿でもみ消すと、玖珂は「どうぞ」と席へと促す。

「随分洒落た店ですね」

渋谷は少し濡れてしまったスーツの上着を脱ぎ隣へと置くとネクタイを少し緩め席に着いた。

「ここは友人が経営していてね。たまに使ってやってるんだが、良かったかな?こっちで勝手に決めてしまって」
「ええ、勿論。俺はあまり気の利いた店を知らないので助かりました。でも、こんな一等地に店を構えるなんてそのご友人も凄いですね。店内も落ち着いた雰囲気で素敵です」

感じた感想をそのまま玖珂へと伝えると玖珂も嬉しそうに微笑む。

「伝えておくよ彼も喜ぶから。あぁ、それより今日の仕事はもう平気なのか?」
「ええ、大丈夫です。明日一日あれば出張の準備も出来ますし」
「香港……だったかな?出張先は」
「はい。本社が向こうにあるので……」
「そうか、忙しいのに時間を作らせて悪かったね」
「いえ、そんな。俺も、その……こうして玖珂さんと会えるの楽しみにしていましたから……あ、いや変な意味ではなくて……」 

 そう言った渋谷に玖珂は目を細める。予定を合わせるために何度か連絡をした際に出張のことは玖珂に話してあった。だから玖珂はこうして気遣った言葉をかけてくれているのだ。

「じゃぁ、とりあえず乾杯でもして、食事が来るまで飲んでようか」
「はい、そうですね。じゃぁ、乾杯」

 互いのグラスを軽く合わせ、よく冷えたビールを喉へ流し込む。暑い中を駆けてきたせいで乾いた喉に冷たいビールが心地よい。予め注文されていたのか間もなくすると料理が運ばれて来た。
 出された料理はフレンチを元にしている和風の創作料理らしく、土物の温もりのある器には、夏の花や見た目も涼しげな氷の飾りと共に食材が品よく盛りつけられていた。幾つか並べられたそれらを前に、渋谷は感心したように料理を眺める。

「牡蠣ですか?これ、夏に食べるのは初めてです」
「あぁ、岩牡蠣はこの時期が旬なんだ。今日は珍しく入荷したって彼が言ってたからね。タイミングが良かったな」
「そうなんですね。知らなかったです」

 渋谷はカクテルソースの掛かった殻付きの岩牡蠣を珍しそうに口に運ぶ。その味は濃厚で磯の香りが口に広がる。甘みのある牡蠣と爽やかなソースがとてもよく合っていた。

「あ、とても美味しいです」
「それは良かった。夏バテにも効果があるらしいぞ?」
「そうなんですか。玖珂さんは料理にも詳しいんですね」
「料理というか、まぁ、食べる専門だけどね」

男二人で食べるにはもったいないような数々の創作料理を味わいながら、ゆったりとした時間を過ごす。

「さっきの話しじゃないですけど、玖珂さんは料理はご自宅でされないんですか?上手そうかなと思ったんですけど……食べる専門って」
「残念ながら、俺は料理は苦手でね。ほとんど家では自炊はしないんだ」
「そうなんですか?器用そうですし、作ったら意外と上手に出来るんじゃ」
「うーん、それはないな……。きっと俺の手料理なんか食べたら、渋谷君も絶句すると思う」

 玖珂はそういって笑う。そこまで言うからには謙遜ではなく本当に得意ではないのだろう。

「渋谷君は?家では自分で?」
「俺は、まぁそれなりですけど一応自炊ですね。うまくはないですけど、一通り作れます」
「ほう、そうなのか。じゃぁ今度、渋谷君の手料理でも食べさせてもらうおうかな」
「あ、いや……そんな人に食べさせるようないいものは出来ませんよ?」

 慌てて言い直す渋谷に玖珂は微笑んだまま「冗談だよ」と返す。確かに男の手料理など食べたいはずはないと改めて渋谷も思い直し、真に受けてしまった自分が少し恥ずかしくなった。
 玖珂は時々、本気なのか冗談なのか迷うような事を言うので渋谷もついどう答えて良いか考えてしまうのだ。その大半が『本気』であったらいいなと思うような物ばかりなのも気になってしまう。
誤魔化すように玖珂がついでくれる酒を一気に空にするとほどよい酔いが回ってきた。

「料理は、昔はたまにしてたんだが、一向に上手にならなくてね。素質がないんだろうな。弟にもいつも馬鹿にされっぱなしなんだよ」
「玖珂さんは弟さんがいらっしゃるんですか?」
「あぁ、一人だけね」

 渋谷がその後色々と弟のことを聞くのにたいして、玖珂は嬉しそうにそれに答える。可愛くて仕方がないとでもいうように細められた玖珂の目は何故か少し寂しそうにも見え、渋谷は不思議に思い先を促した。

「弟さんは今もよく会われるんですか?」
「いや、今はアメリカに行ってるから、当分は会えないかな」
「あ……そうなんですか。寂しいですね……。でも、ほんと、玖珂さんみたいなお兄さんがいたら弟さんも幸せですね」
「さぁ、どうかな。世話を焼きすぎて一緒に住んでた頃はうざがられていた気もするが」
「子供のうちは仕方無いですよ」
「まぁ、そうだな。そう思っておくことにするか」

 メインディッシュが終わり、合間に取り出した煙草をくわえる。玖珂は何度目かの酒をつぎ足し思い出したように話題を振ってきた。珍しく少し言いづらそうに煙草に火を点けてゆっくりと吐き出す。
しかし渋谷には、その後に続いた言葉がどうして言い出しづらそうに出されたかまではわからなかった。

「……渋谷君のご両親は、元気?」
「はい。最近は連絡してないんですけど、多分、元気だと思いますよ」
「……そうか」
「あの……何か?」
「……あぁ、すまない。何でもないんだ」
「……そうですか?」

 玖珂は何でもないと言ったが何となく引っかかる物を渋谷は感じていた。弟の話をした流れで、家族の事を聞いて来ただけなのだろうか。それ以上、何も言ってこない玖珂に、気のせいかと思い直す。
 玖珂はそれ以上その話は引きずらず、話題を変えた。渋谷の仕事の話しを中心に色々な事を玖珂と話しながら、渋谷もさっき感じた違和感をすっかり忘れて玖珂との会話を楽しむ。
 外で酒を飲むのは久しぶりで、いつもよりだいぶ酒の量が多い。元々色の白い渋谷は、そう酔っていなくても顔に出るのが嫌なので普段はセーブしているのだ が、気付けば今日はだいぶ進んでいた。見ていないからわからないが、多分顔も赤くなっているに違いない。玖珂は酒に強いらしく、同じかそれ以上の量を飲ん でいるにも関わらず、普段と何一つ変わった様子が無かった。何となく頬が熱いような気がして自分の掌を頬に当てると、目の前の玖珂が少し心配そうに顔を覗 き込んでくる。

「大丈夫かい?」
「あ、平気です。ただ、俺すぐに顔に出るんで……いつもは外ではあまり飲まないようにしているんですけど、格好悪いから……」
「そういえば、ちょっと顔が赤いかもしれないな」
「……やっぱり」

 玖珂がそう言って顔をじっと見るので、渋谷は今度は羞恥で顔が赤くなるのを感じた。どうにか火照りを抑えたいと思い手で仰ぐ仕草をする。そんな渋谷を見て玖珂は追い打ちを掛けるような台詞を言って寄越した。

「じゃぁ、渋谷君のこんな姿が見られるのは、俺は運が良いって事になるのかな」
「……玖珂さん。俺の事からかってませんか?」
「あぁ、ごめんごめん。そういうわけじゃないんだ……でも、渋谷君」
「……はい…?」

玖珂は少し真面目に正した後、嬉しそうに言った。

「やはり、君は笑っていた方がいいな。笑顔が見られて……本当に良かった……」
「……玖珂さん…」

 自分の事で、こんなにも親身になってくれるのはどうしてなのだろうか。玖珂は誰に対してもきっと思い遣りのある性格なのは間違いない。だとしても、玖珂の眼差しはそれだけではない気もする。それは自分の気持ちがそう感じさせているのかそれとも……。渋谷の胸がざわめく。

「……あの」
「うん?」
「いえ……玖珂さんは……どうして俺にそんなに優しくしてくれるんですか?……」
「さぁ……どうしてだろうね……」

 玖珂はその問いには答えなかった。渋谷は少し期待をしていた自分を知る。もしかして、玖珂も自分と同じような感情があるのかもしれないと。しかし、その答えは濁されてしまい渋谷に与えられる事はなかった。

「さて、じゃぁ。そろそろ今日は帰ろうか」

 玖珂がそう言ったので、時計を見て渋谷は驚いた。時刻はとっくに10時半を回っており、あまりにあっという間に流れていた時間にその中身を重ねる。

「あ、もうこんな時間だったんですね。じゃぁ出ましょうか」

 置いてあったスーツの上着を手に取ると、店に来た時には少し湿っていたそれはすっかり乾いていた。
先に個室を出た玖珂が焦げ茶色の上着を羽織り靴を履いている。その背中を見ながら渋谷はもう少し一緒にいたかったと思っている自分に気付く。

 今日はお礼を兼ねて渋谷がご馳走することになっていた為、そのままレジへと向かう。会計を済ませて渋谷は玖珂がこの店を選んだ理由を改めて知った。どう 考えても一人分なのではないかと思ってしまう金額を提示され、思わず会計の店員に間違いではないかと聞き返してしまったくらいだ。
 玖珂は特に何も言わなかったが話しを予めつけていたのであろう事が容易に想像できる。
あからさまに奢られることを拒否すれば渋谷に角が立つので気を遣わないようにこのようにセッティングしたのだろう。渋谷はそんな玖珂の気遣いに感謝しつつ、心の中で礼を言う。

「今日はご馳走様」
「いえ、そんな。俺もこんな素敵な店で食事が出来て楽しかったです」
「渋谷君もまた気が向いたらこの店を使ってやってくれ」
「はい、是非」

 店の外へと出てみると雨は来た時より本格的に降っており、二人は互いに傘をさし歩き出した。

「雨、結構降って来ましたね……」
「あぁ、そうだな。渋谷君は電車で帰るのか?」
「ええ、そのつもりです」
「だったら、一緒にTAXIに乗って行くといい」
「え?でも方向が」
「俺は帰りに店に顔を出すんだが、先に渋谷君の自宅を回ってからでも大丈夫だから」
「いいんですか?」
「あぁ、勿論。今夜は少し酔ってるみたいだから心配だしね」
「それは平気ですけど……じゃぁ、お言葉に甘えて……」

 TAXI乗り場は目の前の長い歩道橋を渡って降りた場所にある。雨が降っている視界に広がる景色は、いつもと少し違った顔を見せ、華やかなネオンは濡れて長い光を伸ばしている。
 夜になって降り続いた雨で気温は下がったらしく、そう暑くもない。歩道橋の上には人影が無く、自分達しかいないようだ。並んで歩く玖珂と自分の足下には濡れて反射するアスファルトがうっすらと二人の影を映していた。

 渋谷は隣を歩く玖珂が足を止めた事で、自分もその足を止める。傘をさしたまま玖珂が渋谷へと振り向く。

「……玖珂さん?」
「……さっき……店で渋谷君は、何故俺が君に優しくするのか、聞いただろう」
「……え、……はい……」

 玖珂がゆっくりと渋谷のさしている傘を外し、変わりに自分の傘を二人の上へとかざす。一つの傘に収まるように近づいた玖珂が、渋谷の額に落ちた前髪に そっと指を絡めて後ろへと流す。うるさい程に傘へ落ちる雨音が渋谷の心音を掻き消す。渋谷は額に触れた玖珂の指のひんやりとした冷たさにドキリとした。

「……君が嫌だったら、このまま自分の傘をさしてくれ……」

 渋谷は玖珂の言う意味に気付き、益々早鐘を打ち出す心音をどうにか止めようと息を深く吸う。まっすぐに自分を射貫く玖珂の瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥った。
渋谷の指が一本ずつ自分の傘から離れていく。
そして、渋谷は静かに自分の傘をアスファルトへと落とした。

 倒れた傘に玖珂の影が重なり、二人にかざされていた傘が降ろされる。遮る物のなくなった雨が二人を静かに濡らす。胸が締め付けられて甘く疼き、渋谷の熱くなった頬には冷たい雨が雫を滑らせ顎へと伝った。
 渋谷のまっすぐな髪に伝う水滴を玖珂の指がなぞり、渋谷は目を閉じ長い睫を伏せる。  
 
 玖珂のつけているJSの香りが鼻孔をくすぐり雨の匂いと混ざって甘い誘惑へと移りゆく瞬間……。雨で濡れた渋谷の唇へ口付けが落とされる。重ねられた玖 珂の唇は雨の冷たさとは対照的に熱く、肉感的な感触は酷く情熱的でもある。重ねるだけの優しい口付けはすぐにとかれ渋谷は目の前に迫った玖珂の唇に視線を 止めた。

「ここから先は、渋谷君が受け入れる気になったらで構わない。俺に、待たせてくれないか」
「……玖珂……さん」

 玖珂は渋谷の足下に落ちた傘を拾い上げると広げて差し出す。今自分の指が離した傘と同じ想いを渋谷はもう一度握り直して玖珂を見上げた。

「今はこのままで……ゆっくりでいいから」

そう言った玖珂はいつもの笑みを浮かべて傘を握る渋谷の手に軽く手を重ねた。

「あまり濡れていたら風邪を引いてしまう。出張前にそんな事になったら大変だからな」  
 
 渋谷は自分の傘をさし、歩き出した玖珂と並んで歩く。何も言葉を返せなかった。玖珂が口付けた唇から熱がとれないように淡く疼き、それを確かめるように自分の唇に指を辿らせる。深くさした傘が渋谷の顔を隠す。
渋谷は今日が雨で良かったと心から思っていた。
 
 
ずっと想い続けていた妹の事。
玖珂に出会った事で意味のある生き方を見つけられそうな自分自身の想い。そして、何度も考えた自分の玖珂への感情。
 それらをすぐに形にする事は難しい。しかし、渋谷はこの時、自分が下ろし玖珂が差し出した傘を今度は自分でもう一度下ろす日が来るのだろうと思っていた。