俺の言い訳彼の理由8


 

 火曜日の仕事は予想通り多忙を極め、最終的なプレゼンの前に用意する資料が完全に揃った頃はもう9時を回っていた。特別に予定外の仕事が入ったわけでも ないので、これでも早めに片付いた方である。昼食を摂りそびれた事で、今頃になってさすがに空腹感を覚える。渋谷はフロアを出て少し先にある休憩所へと向 かっていた。
 休憩所には自動販売機と簡素なベンチが設置してある。持ってきた小銭をいれて栄養ドリンクを買うと目の前のベンチに腰掛け、一息ついた。書類は揃った。 配る分の資料も、プレゼンで使う予定のデータもPC内に準備してある。しかし、大きなプレゼンを控えると、それでもまだどこかに抜けがあるのではないかと 不安に駆られる。
 この不安は何処までやれば安心というものでもなく、性格による物だ。
 勿論、念には念を入れておくに越したことはないわけで、渋谷はもう一度あとで見直すつもりでいた。
 長時間パソコン画面を凝視していたせいで目が疲れているのか、目を閉じると奥の方が熱をもったように少し疼く。目薬がデスクの引き出しにあるので、戻ったらさそう。そんな事を考えながら眼鏡を外し、眉間を指で押すようにマッサージする。

「お疲れ様」

 ふいに声がかかり渋谷は見上げて眼鏡をかけ直す。さっきまで同じように忙しくしていた東谷が目の前で飲み物を買っている所であった。

「あぁ、お疲れ」

 東谷は自分も隣に腰掛けると、肩が凝ったのか首を幾度か傾けて音を鳴らし、その後フと息を吐いた。

「そっちは?もう片づいたのか?」
「あぁ、俺の分はもうこれで終わりかな。係長のほうは?」
「……あぁ、俺もほとんど終わりだけど……何度見直しても何だか落ち着かなくて」
「そんな、完璧にしなくても平気じゃないですか?見直すなら手伝いますけど」
「……悪いな、じゃ少し一緒に確認してもらおうかな」
「了解~」

 短い会話を終え、隣の東谷をチラリと見る。東谷が買って飲んでいるのはスポーツ飲料のペットボトルで、豪快に口をつけてごくごくと喉を鳴らしている。
歳は一つしか変わらないのに自分は栄養ドリンクを飲んでいる事で渋谷は体力の差を感じていた。大学の頃、映画研究会だった渋谷と違い、東谷はアウトドア同好会に入っていたというのを聞いた事がある。
 冬はスキー夏はサーフィン等のスポーツをしていたらしく、今でも休みにはよく海や山へ行ったという話を楽しそうにしている。そのせいか東谷は年中健康的な日焼けをした小麦色の肌をしており、色の白い渋谷と並ぶとその差は歴然としていた。

「東谷は体力あるな。3日くらい徹夜しても平気そうだ」
「そんな、人を人間じゃないみたいに言わないで下さいよ~。まぁ、体力だけは自信ありますけど」
「いい事じゃないか。仕事も他も、体力がなかったらやっていけないだろ」
「そうだろうけどさ」

 そう言ったあとで急に東谷が渋谷の方をまじまじと見つめる。不躾ともとれるその視線の意味がわからず、渋谷は飲みかけのドリンクを口からはずすと東谷を伺う。
 微かにだが東谷の汗のような男の匂いを感じ咄嗟に渋谷は視線を逸らした。緊張を覚えているのか口が乾き、目線を逸らした途端に全身に鳥肌が立ち背筋が寒 くなる。東谷の視線は別にそういう意味で向けられているわけではない。なのに、この前の後遺症なのだろうか。じっと見つめられるだけで胸が苦しいような感 覚がし、指先や舌が体温を失っていく。
 すぐ隣に座っている東谷の体温が自分を浸食してくるようで心臓が早鐘を打ち出す。恐怖。嫌悪。そういった言葉が脳裏に浮かび、渋谷の不安を掻き立てる。
――落ち着け……別に、どうってことないはずだ。
自分で言い聞かせるようにして誤魔化すがなかなか不快な感情は去ってくれない。

「……係長?どうかしましたか?」

 渋谷の様子が明らかにおかしい事に気付いた東谷が肩に軽く手を置く。
そう、軽く触れただけのはずだった。

「やめろっ!!俺に触るなっっっ!!!!」

 その瞬間、振れた腕をはたき落とすように渋谷の手が素早く動く。それは一瞬の出来事だった。
静かな空気にパシリと音が響く。渋谷の乱れた息づかいが辺りの空気を止めた。

「…………っ」

 突然声を荒げた渋谷に東谷はびくっとし、はたかれた腕を引いた。
咄嗟の事に驚いたにも関わらず、東谷はどこか楽しそうだった。満足気に歪んだ顔を俯いた渋谷へ向けている。渋谷はそれに気付くほど落ち着いてはいなかった が、ふと我に返り、自分の取った行動に唖然としていた。「……あ……あの…」誤魔化すように小さく呟き、渋谷は顔を上げると東谷に頭を下げる。

「…………す……すまない……ちょっと疲れているだけだから」
「別に大丈夫ですけど、ちょっと驚いただけだし」
「悪かった……ほんと、すまない」

 気まずい雰囲気が流れ渋谷はまだ少し残っているドリンクをそのままゴミ箱へといれると立ち上がった。
――何だったんだ。
自分の行動に理解が追いつかない。もう先程までのような不快感と恐怖は消え去っていた物の一度孕んだ嫌悪感は早々には拭い去る事が出来ない。
平静を装う渋谷の顔からは血の気が失せていた。

「……じゃ、じゃぁ、仕事に戻ろう。とりあえず最終チェックを終わらせないと……」
「あぁ、ですね」

 あんな不振な態度をとった渋谷を気にとめた様子もなく東谷も連れだって再び仕事に戻った。デスクに戻った後、東谷に半分の資料を渡し、また仕事に集中する。その間は東谷の顔をみる事も取りあえずはなかった。概ね確認を終え、漸く落ち着いた所で、ふと渋谷は考えていた。
 先週の件があった後、通勤ラッシュの電車へも乗ったし、そこで男に触れた事も当然ある。別に肩に触れられたからと言って、拒絶反応をしめすような事はなかったはずだ。それは昨日の玖珂との事でもそう感じていた。
 玖珂も男で、しかもあんなに近くに寄ったり、一緒に二人きりで食事までして、それこそ手くらいは触れたかもしれない。しかし、先程みたいな恐怖や不快感は全く感じなかった。
 どちらかといえば玖珂とはほぼ初対面に近しい状態で、それと比べると東谷とは長い付き合いになる。その東谷の視線に怯えた自分はどうしたというのだろう。すっきりしない思いのまま渋谷は書類を整えてデスクへそっと置き、東谷に聞こえない程度に押し殺した溜息をつく。

 何度も見直した資料はミスもなく、完全に明日に備えるだけの状態になった。傍らで同じくチェックをしてくれていた東谷の方も終わったらしく、渡した半分の資料を渋谷のそれへと重ねた。社内のデジタル時計を見ると10時半をまわった所であった。

「これで全部だな。漸く終わったか」
「あぁ、そうですね。あぁ~さすがに疲れたな~」
「本当にお疲れさま。でも、本番は明日だから。気を抜かないように」
「はいはい」

 帰り支度をしながら、すっかり忘れていた約束を思い出す。そういえば昨夜、仕事が終わったら飲む約束をしていたのではなかったか。本当はとてもそんな気 分ではない。早く帰宅して休みたいが、確認作業まで手伝ってもらった以上「じゃぁ、さよなら」というのも調子が良すぎる気がして渋谷は考え込んでいた。片 付けを終えた東谷は勿論約束を覚えていて、渋谷へと振り向くと声を掛けてくる。

「どうする?疲れてるんなら、今日はやめときますか?」
「あ……いや、一杯くらいなら付き合うよ。手伝って貰ったし、これで好きな物買ってきてくれ」

渋谷は財布から札を取り出し、東谷へと渡す。

「そう?じゃぁ、一杯だけ。俺、適当に下のコンビニで何か買ってきますね」
「あぁ、わかった」

 缶ビールを飲む程度なのだから、そんなに時間もかからないはずである。出て行く東谷の背中を見送り、渋谷は自分のデスクに戻ると明日に使うデータの入っ たROMの入れてある引き出しに手をかけた。鍵をかけておける最下部にあるこの引き出しは金庫代わりで、パソコン上に晒しておくのがまずい社外秘のデータ が仕舞われている。重要度の高い物が多いので処理が終わったら全ての履歴や形跡を消しUSBやROMに保存しておく事になっているのだ。

 書類や資料とは違い、そう何度も開け閉めをする場所ではないのでここ数日は引き出しには触れていない。鍵はセキュリティ上一つしかなく、係長の渋谷が肌 身離さず持っているのがそれにあたる。確認の意味もこめて、鞄の中にあるキーカードを取り出し、引き出しへの入り口へと差し込む。
すっと吸い込まれていったカードキーはすぐに逆戻りしてきた。
「……?」
 もう一度ゆっくりと差し込む。鍵が認証されるときに点滅するグリーンのランプも点かない。そして小さなモニターに表示される【Access error】という文字を見て渋谷は蒼白になった。

――そんな…馬鹿な……!

 その後何度試してみても結果は同じで鍵が押し戻されてくる。緊急アクセスの場合の長いワンタイムパスワードも手動で入力してみたが結果は変わらなかっ た。キーをなくしたわけではない。渋谷は自分の手に持つカードキーを裏返して確認してみるが、以前と何かが違う様子もなかった。考えられる事はひとつだっ た。
――鍵をすり替えられたのか。
 見た目は以前のものと変わらないが内蔵されているLOCKが書き換えられている可能性が高い。寄りによってこんな時まで気付かないで居た自分に怒りが湧いてくる。渋谷は何処でカードキーをすり替えられたのか考えを巡らせた。
今日の前にチェックをしたのが……確か、金曜日だったはずだ。社を出る前に確認し、施錠し鞄に入れた。
――……金曜日
小さく声に出してハッと気付く。あの時。金曜の夜にすり替えられたのだ。

 結び付いていくあの夜の出来事。思い出さないようにしていた渋谷は無理矢理記憶を呼び起こす。渋谷を襲った男達の会話があの時少し耳に入ったのだ。その 会話によると強姦をする事まではどうやら予定になかったらしい。それに関してはリーダー格の男の一存で行われたという事だ。
 だとしたら何が目的なのか。ずっと考えていたがこれで漸く謎が解けた。このカードキーをすり替えるためだったのだ。男達が何かを探すべく渋谷の鞄の中身 を路上にぶちまけていたのが思い出される。帰宅したあとなくなった物がないかとチェックした際には何かを取られた形跡はなかった。このカードも無事だった のも確認した。しかし、もうその時には既にこのカードはすり替えられた物になっていたのだろう。

――……どうしたらいい

 冷静に考えれば対処法があるはずだ。渋谷は目を閉じる。戻ってこないあの夜の事を考えていても先に進まない。明日のプレゼンは1時からだ。それまでに何とかしてカードキーをもう一度作ってもらう必要がある。
 渋谷は、営業時間外なのを承知でセキュリティーカードキーの会社へと連絡を入れようとアドレス帳を開いた。 引き出しが開かないことも問題だが、それよ り今も何処かで誰かが持って居るであろう本物のカードを使って、この中のデータが社外に漏れてしまう事は決してあってはならない。アドレス帳で調べた連絡 先はすぐにみつかり渋谷は受話器を持ち上げ急いで番号をプッシュする。
(ガチャン)
日に焼けた太い指が乱暴に伸びてきて、渋谷の目の前で電話をきった。驚いて渋谷は顔を上げる。

「……東……谷……?」

 随分早くコンビニから戻ってきたなと思い手元を見るが、コンビニの袋のような物を手に提げている様子がない。当たって欲しくない嫌な予感だけが現実の物となっていくのを感じていた。

「なに、やってんですか?」
「あ……いや……ちょっと問題があって……」

 東谷といえどもそう簡単にこの事を話すわけにはいかなかった。しかし、ニヤリとした東谷の次の言葉に渋谷は言葉を失い茫然とする。

「カードキー、やっと気付いてくれました?」

 そう言った東谷の顔はいつもの彼とはまるで別人で、整った野性的な面差しは歪んだ笑みを浮かべていた。

「今、何て……言った……」

 東谷は、動けなくなっている渋谷にそっと腕を伸ばすと人差し指で渋谷の頬をひとなでする。そのまま隣へと回り込むと張り付いた笑みのまま耳元に顔を近付 けた。今度はさっきより強く男の匂いがする。渋谷の手から握ったままになっていた受話器が卓上へと音をたてて転がり落ちた。生暖かい息が耳元にかかり、血 の気が足下にすっと落ちていくのがわかる。渋谷は息を呑んだ。

「係長、男に犯されるのってどんな気分でした?」
「…………」

 昨日の朝、少し東谷の様子がおかしかったのは気のせいではなかったのだ。少しずつ距離を縮めてくる東谷から後ずさるように椅子から立ち上がる。気を抜くと膝が震えてきそうになるのを必死で我慢し、徐々に窓際へと歩み寄った。
 これ以上後ろへ引けない所までいくと、東谷がまた差を縮める。じわじわと接近してくる東谷からもう逃げる場所がない。震える手で窓枠を掴む。

「……何で……そんな事を……」
「何でだって?そんな事もわからない?」

──何?……俺が何をしたっていうんだ。

 渋谷は自分の今までを振り返る。特に思い当たる節はないように思えるが、東谷がここまでの手段に出るだけの何かがあったはずだ。渋谷は詰め寄ってくる東谷が伸ばした腕を強く掴んで突き放した。

「カードキーを返してくれ……」
「はい、どうぞって渡すと思いますか?渡すわけないよね?そんな事もわからないんですか?」
「……俺に恨みがあるんだろう?だったら会社を巻き込むな。俺だけに嫌がらせをすればいいじゃないか」

 渋谷はいつのまにか恐怖心より仕事への責任への重大さから怒りを覚えて今度は自分から東谷に少し詰め寄った。予想と違う渋谷の態度に一瞬東谷は驚いた様子を見せたが、すぐにさっきよりもっと強い態度で威圧してくる。
 体格差では圧倒的に有利な東谷は、その体格差を存分に発揮するように渋谷の胸ぐらを軽々と掴む。渋谷は苦しさから逃れるように東谷を睨んだ。自分だって 男なのだから、いざとなったらどうにかなるはずだと思っていた。Yシャツの襟元がねじれて渋谷の顔に東谷の息がかかる。それでも怯むわけにはいかなかっ た。

「……あのプロジェクトの為に積んできた今までの労力を無駄にする気か。お前だって一緒に、やってきてたじゃないか」
「まぁ、そうですね」

 冷静にそう返してくる東谷はその後続けて口を開く。

「あのデータを見せてくれたら、取引しても良いって言ってくれてる会社があるんですよ。そこと契約とったらさー、俺、部長ぐらいにはなれるんじゃないかな?」

そう言って愉快そうに笑った後、すっと笑みを消す。

「係長だってやってるでしょ?人には言えないような手段で、取引先つかまえてますよね?」
「な……何の話し……」

 東谷が掴んだ手を緩め渋谷の唇を指でたどった。熱い指先が乾いた唇の上を滑り渋谷は口を堅く結んだ。おぞましい記憶が蘇りそうになるのを理性で抑え東谷を前に震える息を吐く。渋谷の目の前で東谷が胸ポケットから何枚かの写真を出す。
夜目で撮影したそれらはハッキリとは映ってはいないが渋谷のマンションであることは誰が見ても判明する。

──……!!

渋谷は驚きのあまり卓上に乱暴に投げられたそれらの写真を見て目を見開いた。

「…………東谷……おまえ……」
「仕事のためなら体でも何でも使うんだろう?噂になってますよ?係長は大人しそうに見えて、手段を選ばないってさ」
「…………嘘だ」
「嘘かホントかはまぁ、いいじゃないですか。でもこの写真社内にばらまいたらどうなるか。それはわかりますよね?嘘が本当になる瞬間、見たいなぁ」

 一枚目の写真に写っているのは渋谷のマンションの入り口に入っていく絹川の後ろ姿だった。絹川は一社提供の条件と引き替えに体の関係を求めてきてそれは 今も続いている事実である。一度許した淫らな関係は行き場も無く、今も絹川の言いなりになっている事を最近は反省し、明日の仕事が終わったらけじめをつけ ようと思っていた矢先だった。
二枚目は合い鍵を使って渋谷のマンションのエントランスを抜ける後ろ姿が写されていた。

──全て……知っている……。

 興信所にでも調べさせたのだろうか。東谷はいくつかの弱みを握り絶対に負けないという顔でこちらを見ていた。もうここまで調べられていたら誤魔化すことは不可能だろう。

「こんな……探偵まがいの事までして、俺に何を望んで……」
「望み……ね。そうだな~。ひとつだけありますね」
「……何」
「俺が見たいのは、あんたの墜ちていく無様な姿かな」

 渋谷は東谷の視線が突き刺すように自分を見ているのを感じて、先程の恐怖が再び体を支配しはじめるのを感じていた。
人を支配し、痛めつけることを快感とする獣の目だ。東谷はそんな目で渋谷を見ながら少しづつまわりをうろうろし始めた。次に何をしようとしているのか全くわからない。

「……藍子だっけ」
「!」

 一言だけ口にした東谷の言葉に渋谷は耳を疑う。

──まさか……藍子も東谷が……。

 今まで自分の周りにいた者全てが東谷の張り巡らせた蜘蛛の巣だったという事実に驚く。藍子と知り合ったのは丁度一年前だったはずだ。出世した渋谷の昇進会を東谷が幹事で行い、その飲み会の店で藍子と出会ったのだ。

──一年前から……こいつは……。

 渋谷は小刻みに震えてくるのをもう止められなかった。少しだけ笑っているような噛み殺したような声をだして東谷が呪文のようにぶつぶつ呟く。誰に向けてでもない。独り言のように繰り出されるその言葉に感情はこもっていなかった。

「あんた、藍子の自宅まで送っていったこともなかったんですか?一つ教えてあげます。藍子は本名じゃないですよ。自宅の表札を見ればすぐわかりますけどね、普通は。まぁ、もう関係ないですけど。
一年前の飲み会で係長が藍子を気に入ってくれなければ計画も進まなかったんで、お礼、言っておこうかな。有難うございます。彼女にまんまとだまされてくれ て。でもさー、もうちょっと優しくしてあげた方が良かったんじゃないかな~?あいつ最初あんたの事気に入ってて、もう普通に付き合いたいから計画降りると か言ってくるくらいマジ惚れだったんですよ。でもあんたは全然彼女の事大切にしてなかったでしょ?だから藍子も愛想尽かせたんですよ。あんたがいけないん ですよ。絹川ともやっちゃうし?大人しい顔して怖い人だな~」

 東谷はおかしい。おかしいけれど、言っている事は尤もで、渋谷は返す言葉が見つけられずにいた。渋谷は藍子の事を何も知らない。知ろうと思わなかったのは興味がなかったからだ。だから何も見抜けなかったのだ。
騙されていたとしても、それは自業自得というものなのかもしれない。今更どうあがいても一年前から静かに忍び寄っていた東谷の悪意に気付かなかったのは自分自身だった。

「…………東谷」

 さっきと同じ台詞だけを馬鹿みたいに呟くことしか出来ない自分を滑稽に思いながら、渋谷は震える拳を握りしめた。

「なんで……俺があんたより劣るんだっ!…… 何処が?何処が違う!!!くそっっっ!!!」

 急に激高した東谷の怒声に渋谷の体が強ばる。

「何を言って……」
「あんたは係長で俺はその部下だって?笑わせるなっ。俺はな……あんたさえいなければ、その椅子に座れるはずだったんだよ!」
「…………え……」

 今初めて東谷が、渋谷のせいでその立場を追われていた事を知った。現在は退社している元課長だった上司に、当時東谷は可愛がられていたのは知っている。 上司と同じ大学出身という事もあり、同時期に入社した渋谷より目を掛けられ、酒の席では東谷は昇進が早そうだ等と言う噂話も時々耳にしていた。何の根拠も ないただの噂話だと思っていたが、自分の知らない所で、昇進の話しが決まりつつあったのかもしれない。しかし、現実はそうはならなかったのだ。
 外資系の商社であるMARKS Trading Co. Ltdは完全な実力主義である。いくら上司と懇意にしていても、市場を先読みして提供していく先見の目がなければ実績は残せない。実績を残さなければ昇進 試験を受ける資格さえ与えられないのだ。運良く商品をヒットさせ、売り上げを伸ばした渋谷はその資格を獲得し、試験ではトップの成績を収めた。その結果が 現在の役職である。
 東谷へ何と言葉を返したらいいのかわからない。何を言っても、東谷の心は渋谷の言葉を受け入れることはもうないだろうと思った。一気に色々な事が起こりすぎて、頭の中は混乱を極めていた。

「どうして黙ってるんだよ……俺のこと惨めなやつだと笑いたいのか?なぁ!」
「そんな……そんな事は思っていない。本当だ……」

──同じだ……。

 目の前の東谷を見ていてそう思う。自分の辿ってきた運命を否定し、誰も信用していない目だった。今の自分は仕事に全てを捧げることで何とか自分を保っている。もし、今自分が仕事もなくしたら…。そう考えただけでも不安になってしまう。
 東谷のたまにみせる剣呑な雰囲気に、いまいち馴染めなかったのは自分と似ていたからなのだと渋谷は確信した。ひどく哀れで、拒絶しているくせに誰かにそ れに気付いて欲しい。そんな矛盾した感情が人を歪ませていく。誰のせいでもない過去の不運の責任を、自分で受け入れることが出来ず苦しんでいる。
 渋谷は東谷に近づくと真っ直ぐに目線を合わせた。ゆっくりと手を差し出し目の前に持っていく。今掛けるべきなのは謝罪の言葉でも同情の言葉でもないのだろう。

「東谷、カードキーを返すんだ、早く」
「…………全部ばらしてもいいんだな」

 さっきまでの威勢は影を顰め、東谷は視線を落としたまま小声で呟く。一回り小さく見える東谷の姿は、渋谷には哀れにうつった。

「好きにすればいい。絹川社長の件も全て上に報告するならしてもいい。ただ、明日のプレゼンだけは予定通り実行する。俺とお前の揉め事に会社を巻き込んでいいと思ってるのか?お前にまだ……仕事へのプライドがあるんだったら……」
「…………っ」

 視線を逸らさない渋谷に東谷が奥歯をぎりりと鳴らす。東谷もわかっているのだ。こんな事をしても、結局は何も残らないという事を。だけど、こうする事でしか自分を保てなかったのだろう。

「明日が終わって……引継がすんだら……」
「…………」
「……俺は……辞表を出すよ……」

 驚いたように東谷が渋谷を見返す。渋谷は黙って目を伏せた。絹川との写真が知れわたったら、もうこの会社にはいられない。例え降格処分で済んだとして も、関係の無い取引先からも、もう信用を取り戻すのは難しいだろう。会社全体に泥を塗る事になるくらいなら、自主退職をしてけじめをつけるしかない。その 後、東谷が社外秘のデータを使って取引先を取り込むとしてもそれは東谷自身が決めることなのだから。

 少しの間二人は何も言えず時間だけが過ぎていく。重い空気。外れた受話器から電子音が小さく漏れている。暫くして耐えかねるように東谷がカードキーをデスクに置いてそのまま鞄をとると部屋を出て行った。
 とても長い時間が経過したかに思えたが実際はそんなに経っていない。東谷の姿がみえなくなった後、渋谷は力無く自分の席へと座り込んだ。東谷が置いて 行った鍵を差し込むと、いつも通り引き出しは開いた。中身のROMを取り出し、PCでチェックする。データはそのままだった。もしかすると東谷はカード キーを手に入れた後、使うのを躊躇ったのかも知れない。彼にも迷いがあったのだ。ギリギリの所で止まってくれた可能性があった。
 渋谷はPCの電源を落とし、再びしっかりと引き出しへとしまい鍵を掛けるとカードキーをしまって肩を落とした。

──こんなにあっけなく失ってしまう物なのだ。何もかも。

 仕事が全てだった渋谷は、仕事の為なら何でもしてきた。犠牲をいくら払っても、それは自分だけが我慢すればいいのだと思ってきた。その陰で東谷が失脚していた事も知らなかったし、絹川との事も全て、今になって気付く。自分のやり方は間違っていたのだと。
 渋谷がデスクに伏せると、途端に疲れた体から一気に緊張の糸がほどけて重くなる。明日が終わったらもうここに座ることもないんだな……。ぼんやりと考える。

──本当にもう……何もない。

 時計の針が12時をまわっている。いつまでも机で伏しているわけにもいかない。重い身体を引きずるように、渋谷は帰り支度を整え会社を出た。
 
 
 
 
*            *              *
 
 
 
 
 ビルを出ると途端に夜とは思えない蒸し暑さが絡みついてくる。不快なその空気の重さは今の渋谷の気持ちを代返しているようであった。急がないと終電に間に合わなくなると言うのに階段を走る気も起こらない。ホームに着くとまだ電車は来ておらずかなりの人が待っていた。
 一番前の車両に乗るべく渋谷はホームの端にのろのろと歩を進める。疲れ切った頭が重くて前を向くことさえ億劫だった。足元ばかりを見ていた渋谷に酔っ払って騒いでいる男が勢いよくぶつかってきて、渋谷はよろめいて尻餅をついた。

「わ、すみません!大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」

 ぶつかってきた男が慌てて手を差し出し起こそうとするのを遠慮し、自分で立ち上がりスーツを軽く手で払う。その時、ヒラリと小さな紙切れが内ポケットか ら落下した。拾ってみてそれが玖珂が寄こした先日のメモである事に気付く。メモを眺めながら人混みを避けて線路側から遠ざかる。並ぶ数字の羅列をゆっくり と目で追う。この数字の先にいるのは玖珂なのだと思うと、心が激しく揺れ動く。

──彼なら……。

 渋谷は無意識に携帯を取り出すとメモに書かれていた携帯の番号を押していた。自分が玖珂に電話をして何を話そうというのか。何も考えてはいない。ただ、一人だという現実から少しでも目を背けたかったのだ。
 数回のコールが鳴っても玖珂は電話をとる事はなかった。コールが一回鳴るたびに孤独感に潰されそうになる。握りしめた携帯を耳から離そうとしたその時、 微かに玖珂の声が聞こえた。もう一度耳に当てると、会ったときより少し低く聞こえる玖珂の声が今度ははっきりと聞こえる。

『もしもし?』
「………………」

 何か声を出さないと不振に思われるとわかっているのに何の言葉も出てこない。玖珂には携帯の番号を教えていないので番号通知が渋谷だと証明する事は不可能である。雑踏の騒音だけが携帯越しに玖珂へと届く。

『……もしもし?誰かな?』

玖珂も外にいるのか周りに騒がしい音も混じっている。何か、何か言わなくては……。渋谷は結局何も思いつかず、嘘をついた。

「……あ……あの……間違いました……すみません」

 咄嗟についた嘘がばれる前に切ろうとした瞬間名前を呼ばれた。

『渋谷君?……渋谷君じゃないのか?』
「…………」
『そうなんだろう?』

すぐに見抜かれた事に安堵している自分が居る。

「…………すみません、夜分に急に」

玖珂が安心したように息を吐くのが耳に届く。

『それは構わないが、どうした?何か……あったのか?随分声が沈んでいるようだが……』

 心配そうに出されたその言葉は、渋谷の中へと響く。会った時に見せた玖珂の優しい表情と重なって思わず声に詰まる。終電の構内アナウンスがホームに流れ、周りの人間がホームの前方へと集まっていく中、渋谷はその場で立ち竦んでいた。

『今、どこかの駅にいるのか?』
「…………はい」
『電車には乗らないで、少し待っていられそう?』
「……え」
『今、ちょっと運転中でね。良かったら会ってから話を聞かせてくれないか』
「……いえ‥‥‥そんなもう遅いですし」
『……何か聞いて欲しいから俺に電話をかけてくれた。違う?』
「…………それは」
『それに……俺が君に会いたいんだ。会って、くれるかな?』
「…………玖珂さん……」
『今、どこの駅にいるの?』
「……品川のホームです」
『わかった。そんなに離れてないからそっちへ向かうよ。改札あたりで待っていてくれ』
「…………あの……」
『ん?』
「……すみません急にこんな電話して………勝手な事ばかり……」
『俺は、喜んでるんだがな。電話をかけてくれて、嬉しいってね。じゃぁ後で……』
「……はい」

 電話を切ったあと、すぐに電車がホームに入ってきた。我先にと乗車する人達を眺めながら発車して走り抜ける電車を目で追う。雑音が遠ざかる。構内アナウンスを背中でききながら、渋谷は流れとは逆に歩き出して改札へと向かった。