戀燈籠 第十幕


 

 朝になり御樹は一番仕立てのいい背廣を箪笥から出すと
いつもより寧入りに髮を結はき整へた
今日は咲坂を迎へに行く日である
それはどんな日よりも意味のある日に思へ
これからの生活を考へると自然と笑みが零れてきさうになつた
店に臨時休業の旨を書きしたためた紙を貼り出す
空を見上げるとまだ昇りきらない日差しが淡く地面を照らしてゐた
肌寒い季節の風が御樹のまはりを通りすぎていつたがそれさへも心地よいやうな氣分になる
御樹は店を出るとゆつくりと咲坂の待つ宵夢に向かつた
 
 
店が近づくに連れ御樹の胸は少しづつ早く鼓動を鳴らしだす
何度通つたかわからない通ひ路を歩きながら
御樹は出會つた頃からの自分逹の事を思ひ返してゐた

咲坂と出會う前も幸せだつた事には變わらない
日々、華美な色事はなかつたものの何も不自由はなく穩やかに毎日を過ごしてゐた
しかし、咲坂は違ふ
自分の過去を話して聞かせてくれた時の表情は決して樂だつた日常を映してはゐなかつた
寧ろ、感情を抑へるやうに仕向けなければ
耐へることさへ難しかつたであらう日常の生活が伺ひ知れた

──明日から……いや たつたいま咲坂を迎へにいつた瞬間から
──咲坂が少しでも幸せを感じてくれたら

御樹はさう思つた
辛かつたことも悲しかつた事も色褪せて代はりに自分との毎日で染めていけるやうに
御樹は自分の幸せを捨てても咲坂に幸せになつて慾しかつた
何が出來るわけでもない自分を信じてくれた咲坂の氣持ちを決して裏切らないやう
さう心に決めてまた一歩足を蹈み出した
 
 
朝の歡樂街はひつそりとしてをり
宵闇の他の店も人は誰も外へはでてゐなかつた
御樹は店のドアに手をかけると中へ入つた


「すみません どなたかいらつしやゐませんか?」


店の奧から返答が聞こえ少しすると店の旦那が歩いてきた
咲坂から話はいつてゐるので封筒に入れた金を御樹は手渡す
いやらしくも中身を確認した男は媚びた樣子で御樹にお辭儀をした
膨らむ封筒を早くしまつて慾しい
咲坂にあまり今の状況を見せたくない御樹は促すやうにひとつ咳拂いをした
店の旦那が懷へそれを入れたのをみてほつと安心する
そしてその後旦那が、部屋の奧へ聲をはりあげた


「青華 お迎へがきてるよ」


部屋の奧から 今行きます との咲坂の聲が聞こえ
御樹が待つてゐると咲坂が姿を現した
咲坂は手に僅かな荷物を持つてゐた
今まで生きてきた年月を考へると、その荷物はあまりに少なく
御樹は咲坂の今までの暮らしぶりを想像し心を痛めた
廊下を歩いてこちらへくる姿を改めて確認すると意外な咲坂の姿に
御樹はしばし見とれてしまつた
今まで見た事のない洋裝だつたのである
咲坂はいつも着物をきてをり背廣を來てゐるのは見た事がなかつた
じつと見てゐる御樹に咲坂が少し不思議さうな顏をし、御樹は我に返つた
にやにやしてゐる店の男が御樹と咲坂を交互に見やる
その視線は冷やかしのやうな笑ひを含んでをり御樹は少し嫌な氣持ちになつた


「何か?」
「いえいえ 青華の何處がよかつたのかと思ひましてね いやなに
 もつと若い子もうちにはゐるんでね」


咲坂を目の前に嫌みを云ふと嫌らしい笑みを浮かべる旦那に
御樹は呆れてゐた
まるで、性慾の爲に咲坂を身請けしたやうないいぶりには
穩やかな御樹も少し腹立たしく思つた
こんな人間に用はないと無言で拒絶をはかり
咲坂へと振り向くとそつと腕を廻した
 
 
「では 行きませうか 青人さん」
「ああ」
 
 
青華といふ源氏名はもう必要がないのだ
店の入り口まで行つた所で咲坂は一度振り向き深々と頭を下げた


「今までお世話になりました」


例へ、どのやうな場所であつたとしても咲坂が今までかうして生きてこれたのは
この店の御陰なのだ
名殘はないが少しだけ寂しい氣持ちも咲坂の中にないわけではなかつた
御樹との生活が不安なわけでは決してない
ただ自分がどのやうにこれから過ごしていくのかを考へると色々と思ふ事もあつたのだ
店の旦那が社交辭令で お幸せに と一言云つたのを最後にきいて
咲坂と御擬は通りへ歩き出した
 
 
「青人さん」
「ん?何だい?」
「少し驚きました」
「え?」
「青人さんが洋裝をしてゐるのを初めて見た物ですから」
「ああ……これね さうだつたね 着慣れない物をきるとどうも落ち着かないよ
 をかしくはないかい?」
「ええ とつてもお似合ひです」
「……さうかい」
 
 
咲坂は恥づかしさうに背廣の前を合はせた
英國の血がまじつてゐる咲坂は
周りの日本人よりも體型がすらりとしてをりとてもよく背廣が似合つてゐた
芝翫茶の髮が襟元で輕く風になびいて淡い光りを反射してゐる
朝の光がさう見せてゐるのか
瞳の深い緑色もいつもより鮮やかに見えるやうな氣もした
御樹はそんな咲坂の姿を目を細めて見つめた



途中通つて行く商店が朝の支度を濟ませ店先に物を竝べてゐるのを
御樹はちらりと見て足を止めた
綺麗な硝子で出來た湯飮みが珍しくて、そちらへ足を向けてみる
咲坂も後に附ゐていき御樹が目を向ける先を一緒に覗き込んだ


「どうかしたのかい?」
「ええ、とつても綺麗だなあと思つて 硝子の湯飮みなんて珍しいですね」
「ああ さうだね」


その湯飮みは厚手の硝子で作られてをり掴んだ下の方が淡い緑色をしてゐる
咲坂が手を伸ばして湯飮みを陽に透かしてみると虹色の影が靜かに色を落とした
それを見て御樹が呟く


「何だか 青人さんの瞳の色のやうです……」
「ん?さうかい?」
「同じ色をしてゐます 綺麗な緑色です」


嬉しさうに咲坂の瞳と同じ色だと云ふ御樹に
咲坂は二つそれを手に取つてみせた


「氣に入つたのなら 記念に二つ買つていかうか これは俺が鈴音に贈り物にするよ」
「いいのですか?」
「ああ これから一緒にこれを使へばいい」


御樹はにつこり笑ふともう一度湯飮みを手に取つた
これからはかうして一つづつ咲坂との思ひ出の品が増えていくのかと思ふと
とても幸せな氣分になれた
咲坂が店内で二つそれを買つて
また二人は歩き出した


これからも一緒にゐるといふのに二人は時間を惜しむやうに色々な會話をする
そして時々笑ひあいながら御樹の家まで辿り着いた
咲坂が感慨深げに御樹の店先をみあげる


「青人さん?どうかしましたか?」
「いや……何だか信じられない氣分だよ 
 今日からはここが歸る場所になるといふ事がね」


御樹も一緒に店先を眺める


「…………さうですね でも本當の事ですよ」


さう云ふと咲坂の手をそつと握り御樹は玄關へと歩いた
家の鍵をあけるともう一つ用意してあつた鍵を咲坂へと渡す
手のひらに乘せられたその鍵を咲坂はしばし眺めその後ぎゆつと握りしめた
初めてもつ自分專用の鍵は體温で暖かくなり咲坂の中へと滲透していつた


「今日から青人さんの家ですからね……」
「……ああ……さうだね」

立ち竦む咲坂を中へ入るやうに促すと御樹は上がりがまちに上がる
その時、御樹が柱に片手をつき急に咳き込んだ
咲坂が、大丈夫か?といふやうに覗き込む
御樹は靜かに微笑むと何でもないのだと笑つた

家へと上がると御樹は一番奧にある部屋へ、咲坂を連れて行く
御樹の家へは何度かきたことはあつたが
奧までは足を運んだことがなかつたので咲坂はその廣さに少し驚いた
中庭へと面したその部屋につくと荷物を降ろす


「ここが青人さんの部屋です 一應必要さうな物は用意しましたが
 何か足りなかつたらおつしやつて下さい」
「ああ すまないね」


咲坂は自分の部屋だといふこの部屋をぐるりと見渡す
ちやうど御樹の部屋の隣にあるこの部屋は明るい日差しが疊を照らしてをり
とても落ち着いた雰圍氣を釀し出してゐた


「こんなに素敵な部屋をもらつてもいいのかい?」
「私一人では使ひ切れないのです
 この部屋もきつと青人さんに使つて貰つて嬉しいと思ひます」
「……鈴音」

優しい言葉の一つ一つは僞りは何もなく
御樹の性格を綺麗に映し出してゐた
咲坂はふうとひとつ息を吐く
自由になつた自分の身は、慣れてゐないせいか何をすればいいのかさへわからない始末だ
そんな自分を情けなく思ひ一人苦笑した


「荷物を整理したら聲を掛けてください 私はあちらにゐますから」
「ああ さうさせてもらふよ」


部屋の襖をそつと閉めると御樹は部屋を出ていつた
咲坂は一人になつた部屋で眞ん中へと腰を降ろすと持つてきた荷物を開く
たいした物はなかつたが、一つだけ大事な物がある
小さな風呂敷の包みを出すとそつと開いてみた
中にあるのは澤山の手紙であつた
御樹が今まで咲坂と交はした手紙の數は相當な數に昇つてをりかうして
大切に持つてきたのであつた
用意されてゐた箪笥の引き出しをあけると一番奧へとそれをしまひこんだ

窮屈だつた服を脱いで着替へると衣紋掛けにかけてしまふ
そして咲坂は部屋を出ると、御樹が待つてゐる部屋へと向かつた

途中廊下の柱に一輪插しが飾られてをりどこかで咲いてゐた野の花を摘んできたのか
たつた一本小さな花が生けられてゐた
御樹らしい氣配りに暖かい氣持ちになる


それにしてもまるで屋敷のやうに廣い
日頃は使つてゐない部屋があるといふのもなるほど納得できた
こじんまりと整へられた中庭には一本木が生えてをり冬の今は葉はなかつたが
立派な枝を空へと力強く向けてゐる
咲坂はその枝の先に早くも芽が出てゐるのを見つけた

──葉が緑になる頃、鈴音と一緒にまた見ることが出來るといい

そんな先の風景を思ひ浮かべた
 
 
御樹が待つてゐる部屋の襖に手を掛けると中から何か音が鳴つてゐるやうだつた
蓄音器の音色のやうでもあり何處か懷かしいやうな音樂でもあつた
咲坂は靜かに襖をひく
中ではやはり御樹が蓄音器に音樂をかけてをり
靜かな曲がゆつくりと流れてゐた


「もう整理はついたよ といつても仕舞ふやうな物なんざ
 ないんだけどね」
「これから増やせばいいのですよ」


さう云つて御樹は微笑んだ
そして何やら興味深さうに咲坂を手招く


「さうさう青人さん ちよつとこれを見てみて下さい」
「ん?? どうかしたのかい?」


御樹は何か雜誌のやうなものを開いてそこに映つてゐる物を指さした
何かの道具なのか細い針金の棒のやうな物が二本伸びてゐる繪が描いてあつた
今まで見た事のない形をしたそれはいくつもボタンのやうな物がついてゐた


「何だい?これは……」
「これはラヂオといふのださうです」
「らじお?」
「ええ ここから音樂やお話がきけるんださうです 凄いですよね」
「…………といふと この道具は蓄音器のやうな物なのかい?」
「いえ 私もよくわからないのですが、空氣を傳つて何處にゐても聞こえるのださうです」
「え?空氣を傳つてかい? それはたまげたもんだ
 だとするとその途中にゐると音が聞こえるのかな……? 」
「さあ……どうでせう 今研究中なのださうです
 早く見てみたいです」


珍しいおもちやを發見したやうに目を輝かせて説明をする御樹は
まるで無邪氣な子供のやうであつた
咲坂はそんな御樹の意外な一面を見て微笑んだ


「鈴音」
「はい 何でせう?」
「鈴音は結構流行物が好きなんだね 知らなかつたよ」


目を細めて微笑む咲坂に御樹は少し恥づかしくなつて苦笑した


「まだ 子供なんでせうか私は。 困つたものですね」
「さあ そんな事はないんぢやないかな」


御樹の手に咲坂はそつと手を重ねると少しだけ力を入れた


「一緒にその ラヂオをきけるといいね 鈴音」
「ええ さうですね」


重ねた手を愛しさうに御樹はいつまでも見つめてゐた
 
 
 
 
*       *         *
 
 
 
 
二人の時間は何もしなくてもあつといふ間に過ぎていつた
穩やかな時間の流れで互いの中に、より深い想ひが募つていくにつれ
少しの時間も惜しむやうになる
何もない穩やかな毎日
それすら幸せに思へて二人は毎日を過ごしていつた


そして正月が過ぎ、時は大正十四年になつた


米國の文化にがむしやらに傾倒してゐた周りの日本文化も獨自のそれへと移行してゆく
「藝者買はうか女郎買はうか」
一晩三圓程度の金で遊べる遊郭はこの時代一番の盛り上がりを見せてゐた
華やかな技樓の裏での影が色を濃くする中
咲坂はいぜん生きてきたその世界を今は外から見る立場になつてゐた

御樹の差しだした手をとつたあの日から手に入れた自分の自由は今も咲坂の全てであつた
その自由の中での御樹との生活はかけがへのない物である

御樹が日記のやうに記してゐる戀燈籠のペイジも今ではすつかり増え
分厚いそれは二人の歩みを映し出してゐる
 
 
 
しかし、それさへも二人の行く末を教へてくれる事はなかつた
 
 
 
黒髮の

風にたなびく横顏に

我、願ひを懸けり

時の針よ

どうかこれ以上進まないでおくれ
 
 
 

咲坂の願ひを孕んだ風が御樹の髮を輕く梳いていく
御樹の影が一瞬搖らいだのは風の惡戲ではなかつた