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「だから、送ってくれるだけでいいって」 
 
 澪は、いつもと同じ野菜ジュースを一口飲んでそっとテーブルへ置き、やんわりとした断りを入れた。週末の今日、椎堂も仕事が休みなのでいつもならまだ寝ている時間だが、今朝は澪の通院治療があるのでこうして一緒に起きているのだ。 
 向かい側ではなく隣に座った椎堂が、甘えるように澪のシャツを引っ張ってこれまた何度目かのお願いをする。 
 
「どうせ、僕も帰っても一人だし、一緒に行きたいな……。それに、途中で具合が悪くなるかもだし」 
「平気だと思うけど。もうそんなに熱もないし」 
 
 先程椎堂の目の前で測った体温は微熱で、そう高くもなかったが、かといって完全に平熱と言うには無理がある状態で……。急激に上がったのを解熱作用のある鎮痛剤で下げているので依然体調は低迷中である。心配してくれるのは有難いが、子供でもないのに通院への付き添いは流石に恥ずかしい物があった。 
 
 飲み物を水に変え、食後の薬を一気に口へと放り込む澪を、椎堂はつまらなそうにじっと見ていた。 
 最初の頃は一度に沢山の錠剤を飲み込めずに何度かにわけて飲んでいたが、今はもう慣れた物で粉薬と錠剤各種を一気に飲めるようになった。こんな事が得意になっても、何の自慢にもならないのが悲しいところではあるが……。 
 全ての薬を飲み終え、澪はオレンジ色の容器の蓋を閉めると思い出したように椎堂へ視線を向けた。 
 
「そういえば、本屋に行きたいって言ってなかった? 折角今日休みだし、俺送った後に行ってこいよ」 
 
 これで「それはいい案だね」と引き下がってくれると思った澪の予想に反して、椎堂は食卓の端に重ねてある読みかけの書籍に手を伸ばした。得意げに本を澪へ差し出し「先週もう買ってきたよ」とにっこり笑う。 
 中々に手強い。これ以上どう他の理由を見繕っても椎堂は耳を貸しそうにない。仕方がないので、澪は渋々本音をぶつけてみることにした。 
 
「いや……、恥ずかしいだろ。ガキじゃないんだから、保護者みたいに付き添いで来るとか……」 
 
 澪が困ったようにそう言うと、椎堂はハッと気付いたようで「……あ、そうだね。気付かなかった……じゃあ、大人しくしてる……」と納得したように俯いた。こんなにあっさり聞き入れてくれるなら、最初から本音を言えば良かったと思いつつも、心の片隅では――本当に納得してくれたのかどうか疑問が残っているのも事実だった。 
 
 
 
――この出来事が丁度四十分前。 
 
 
 
 病院へ到着し、送ってくれたことに礼を言って助手席から下りた澪がロビーに入ると、少し遅れて自動ドアが再び開いた。 
 
「……、……」 
 
 見なくても分かる。着いてきているのは多分椎堂だ。 
 納得して引きさがったものとばかり思っていたが、疑問はこんな要らない所で的中した。 
 椎堂の納得とは、ただ【澪の側には近寄らない】という事だったらしい。今の所気付いていないフリをしているので、椎堂も至近距離までは近づいてこない。本人はうまく尾行できていると思い込んでいるらしく、澪が受付を済ませる間は少し離れた椅子に腰掛け、素知らぬ顔で側にある新聞なんかをみていたりする。辺りは当然外人ばかりで日本人だと言うだけで目を引くのに、そこの所もわかっていないらしい。 
 
――……、……はぁ……。 
 
 聞こえない程度のやれやれとでも言いたげな息を吐き、受付を済ませた澪が椎堂の方へと歩いて行くと、椎堂は新聞を持ったまま不自然に九十度方向を変えた。あくまでも他人のフリを続けようとしているらしい。 
 
「何してんの、こんな所で」 
 
 溜め息交じりに澪がそう声をかけると、椎堂は新聞を眼鏡の下まで下げてばつが悪そうに顔を出した。 
 
「……み、澪……いつから気付いてたの?」 
「最初から」 
「えっ!」 
 
 椎堂はびっくりした様に目を丸くして澪を見上げた。気付かれていないと思っていた事にびっくりである。もうここまで来てしまったのだから「帰れ」というのも可哀想な気がして、澪は諦めたように手を差しだした。椎堂はその手に恥ずかしそうに掴まり腰を上げる。 
 
「まぁ、いいや。ほら、もう行くぞ」 
 
 手を放しさっさと診察室へ向かう澪に、椎堂は慌てて読んでいた新聞をラックへ片付けると小走りで澪の隣へと並んだ。 
 
「ごめん、怒ってる?」 
「……別に。ただ、診察室には入ってくんなよ、廊下で待ってて」 
「うん、わかってるよ」 
 診察室前の廊下で椎堂を座らせると、澪は「あ、そうだ」と振り返った。 
「これ、持ってて」 
「え? うん」 
 
 澪が鞄を渡そうとするのに軽く手を伸ばすと、その鞄の重さは予想外であり。椎堂は慌てて両手を添えて落とさないように引き寄せた。 
「何でこんなに重いの!?」 
 膝へとそれを置いて澪を見上げる。 
「ああ、参考書入ってるから。点滴長いし、その間見ようと思って」 
「そうなんだ?」 
 
 鞄を渡して、澪が手ぶらで診察室に入る背中を椎堂は目で追った。診察室には入ってくるなと言われたのでそこは大人しく待っているしかない。 
 特別な診察はないので、検温と簡単な問診、採血だけをしてすぐに戻ってきた澪と廊下の椅子で待っていると、暫くして病室へと移動するように言われた。高木は今日、休日で病院にはいないようだ。 
 
 移動する澪の後ろを椎堂もついて行って、病室へと一緒に入る。澪は視界の隅にいる椎堂をチラッと見て、ベッドへと近づいた。看護師には特に何も言われなかったが、どう見られているのかと思うと少し気になる。 
 昨日と同じようにベッドへ入って点滴がセットされる間、一緒に来ていた主治医に先程の採血の結果を教えられた。 
 治療の効果があったようで数値は一気に上がってきているらしい。このまま順調に上がれば後二日ほど通えば点滴治療は終了という事だった。今日の点滴は四時間で終わると告げたあと「ごゆっくり」と微笑まれ、医師と看護師が出て行って椎堂と二人きりになる。 病室の入り口で遠慮しているのか傍まで近づいてこない椎堂に澪は口を開いた。 
 
「こっちきて座れば?」 
「……うん」 
 
 椎堂は歩いて澪のベッドの傍へと腰掛けると、澪を見て少しだけはにかんだ。 
 
「何だか、澪が入院してた頃を思い出すね……」 
「まぁね……。もう、こんな状況にはならない予定だったけど……」 
「でも、あの時よりはずっといいよ。僕も、澪の傍にこうしてついていられるし」 
「……そうだな」 
 
 椎堂が窓の外へ目を向けるのと同じように澪も外を見る。高木と話していた際にも思ったが、椎堂も言う通り、本当にこの病室は入院していた敬愛会と似ている部分が多い。窓から見える中庭も、その中庭にある大きな木々も……。 
 病院なんてどこも似たような物なのかもしれないが、今日のように椎堂が傍にいると余計にその類似点が際立って感じる。 
 
 手術が終わって、順調に回復に向かっていた頃。車椅子で椎堂に連れられて行ったあの木陰で、トランプ占いをした。半信半疑ではあったが今思い返せば本当に当たる占いだったと思う。穏やかに吹く風に髪を緩く靡かせた椎堂が、澪へと向ける視線。子供みたいだな、とからかえば、椎堂は少し拗ねた様子を見せた。その表情まで、今すぐ思い出せる。 
 アメリカへ行くという椎堂についていく決心をしたのが、つい昨日の事のように思えた。 
 
 澪は窓から射し込む陽射しに眩しそうに目を細め、視線を部屋の中へと戻した。強い明るさに刺激された視界に銀色の粉がチラチラと浮かんで見え、暫くしてすっと消えた。 
 
 繋がれた透明な薬剤が、音もなく点滴から落下して体内へと少しずつ侵入してくる。経口で服用している薬もこうして直接体内へ送り込まれる薬剤も、目に見えているわけでは無いけれど、自分の体の中はもう薬漬けといっても過言ではないと思う。癌の再発を防ぐために服用する抗癌剤。その副作用でダメージを受けた体を治療する薬、そしてその薬の副作用の痛みを取る薬、その全ての薬を吐かないようにするための制吐剤。考えれば考えるほど連鎖が続いていて辟易する。 
 
――抗癌剤を『やめる』という選択肢がある。 
 
 あれからずっと澪の頭の中にある高木の言葉が思い出された。 
 連鎖を断ち切れる唯一残された方法、短い時間でも病気になる前の自分でいられる。何処も不調がないのが普通だった昔の生活はどんなだったのか。あの時、どんな事を考えて毎日を過ごしていたのかさえ思い出せないのは、あえて思い出さないように自分で閉じ込めているからなのだろうか。 
 患者と医者ではない立場で出会っていたら、椎堂とこんな場所で一緒に居ることもきっとなかった……。そんな事がとりとめもなく頭をよぎった。 
 
 変わらず外を見ている椎堂は、けだる気な表情である。昨夜の寝不足が影響しているのかもしれない。 
 それに仕事中でもないし、プライベートなのだから気を張らずにいられるせいもあるのだろう。ゆっくりと瞬きをするその横顔は穏やかで、見ているだけで気持ちが落ち着き、要らぬ考えに沈みそうになっていく自分をそっと掬い上げてくれる気がした。 
 
「なぁ……。誠二」 
 
 静まりかえっていた病室に、澪が椎堂を呼ぶ低い声が響く。 
 
「ん? なーに??」 
「もしも、だけど……」 
「うん?」 
 
 椎堂が顔だけを此方へ向けて眠そうに目を擦った。 
 
「――俺が、元気だったら、どこに行ってみたい? やりたい事とかでもいい、そういうの、あるだろ?」 
「え……。急に、どうしてそんな事聞くの?」 
「前から、一度聞いてみたかったから」 
「うーん……、そうだなぁ……」 
 
 椎堂は澪に体ごとしっかり向き直ると、考え込むように首を傾げ、視線を落としたまま呟いた。 
 
「……澪の、育った街が見たい。……かな」 
「え?」 
「澪が通った小学校とか、遊んでた公園とか。そういうの、僕も見てみたいなって……。僕の知らない澪が、存在した場所に立ってみたいんだ」 
「……普通に、何処にでもあるような学校だけど」 
「うん。それでもいいんだ。いつか、連れて行って欲しい」 
「……わかった。他は?」 
「後はね……、海に行きたい! 泳がなくても良いから、澪と一緒に海が見たいな」 
 
 椎堂はそう言って顔を上げた。 
 
「海、好きなの?」 
「えーっと。特別海が大好きって事も無いんだけどね。でも、恋人と海に沈む夕日を見たりとか。ロマンチックだと思わないかい?」 
「へぇ、意外とそういうの気にするんだ?」 
 
 澪が少し笑ってそう返すと、椎堂は恥ずかしそうに頬を染めた。 
 
「こんな歳になって、やっぱりおかしいかな……。でも僕、好きな人とデートらしい事あまりした事ないから……。憧れてるんだ。澪と行くところならどこでも嬉しいよ? 海じゃ無くても、ね。二人で色んな景色が見たい」 
 
 恋愛対象ですらない相手と何度も体の関係を持っても、その前に普通経験してくるはずの事を椎堂は知らない。誰とも繋がっていない想い出の先にある景色は、椎堂にとって映画かドラマのような画面の向こうの出来事でしかないのだ。どんな些細な事でも、澪が椎堂の初めてで。それが嬉しいと思うこともあるけれど、椎堂の過去を思うと、少し胸が痛くなった。 
 
 椎堂の腕をそっと掴んで近くに寄るように呼びかけると、椎堂は澪のベッドの端へと座り直して澪と視線を合わせた。 
 点滴をしていない方の腕を伸ばし、椎堂の頬を指で撫でる。くすぐったそうに肩を竦めた椎堂が嬉しそうに微笑んだ。 
 
「次の抗癌剤が始まる前に、……この治療が落ち着いて体調が良かったらだけど。海、見に行くか」 
「……澪? ……、別に急ぐ事ないよ? そう言う意味で言ったわけじゃないし。僕は、来年でも、再来年でも……、」 
「そんなに、……待ってらんないよ」 
「……え?」 
 
 椎堂が心配そうに眉を下げて澪を見つめ返す。その眼差しは真剣そのもので……。 
 
「……何かあったの? 僕に言えない事?」 
 
 澪は安心させるように首を振った。笑みを浮かべて椎堂の頭を撫でても椎堂は不安気な瞳の色を変えなかった。 
 
「別に何もないし。悲観的になってるとかじゃなくてさ。……そうだな、敢えて言えば。今は、一つで良いから……、確実な約束が欲しいだけ。色々考えて、決めたいことがあるんだ。早い内に……」 
「……そうなんだね。……うん、わかった」 
 
 椎堂は、澪の言葉の先をあえてそれ以上聞き出そうとはしなかった。それは多分椎堂の優しさで……、本当は何を思っているのか知りたいのだろう。じっと見つめてくる椎堂に澪は微笑み返す。 
 
「心配そうな顔するなって、ただのデートの誘いだろ」 
 
 わざと軽い調子で答える澪に、椎堂はほんの少しだけ切なそうに眉を下げた。 
 
「……、そう、だね。じゃぁ、体調が良かったらね。楽しみにしてる」 
「ああ」 
 
 今住んでいる場所からも車で二時間程走れば海岸へ出られる。宿を取って行かなくても日帰りで十分行って帰ってこられる距離である。澪は携帯のMAPアプリを開いて指で辿り、大凡の場所をピン止めしてそのままアプリを閉じた。 
 まだまだ時間はあるので、側に置いてある鞄から参考書を取り出すと、椎堂も持ってきていた本を手に取る。暖かな陽射しの中で互いに本へ視線を落としていると、暫くして澪の携帯が振動しだした。短い時間ですぐに鳴り止んだのでメールなのだろうと予想を付ける。 
 先程置いた携帯を手に取って確認すると、玖珂からのメールが一通届いていた。 
 
「メール?」 
「うん。兄貴から」 
 
 澪が画面に指を滑らせると、メール画面が開いた。先日、こちらへ来るという事は聞いていたが、詳細は決まってから連絡するという事だった。メールには来週の月曜日にこちらへ来る事、何か買ってきて欲しい物があれば用意するので連絡するようにという事等が記載されている。 
 澪はカレンダーに連動しているメール内の日付を確認して椎堂へと口を開いた。来週末は三連休で月曜日は祝日なのだ。 
 
「来週の月曜日にこっち来るって」 
「ほんと!? 日程決まったんだね! じゃぁ、お休みだし飛行場まで二人で迎えに行けるね!」 
「ああ」 
 
 本当ならもう少し元気な時に来て欲しいが、それがいつになるかもわからない上に玖珂も仕事の都合があるのだろうから、こればかりは仕方がない。だけど、久々に会えるのはやはり嬉しかった。到着時刻がわかったらまた連絡して欲しいという旨を書いてメールを返信する。すると入れ違いのように今度は椎堂の携帯が振動を伝えた。 
 確認してみると、椎堂の携帯へ届いたメールも玖珂からである。内容は、澪へ送ってきたのと同じ物だが、口調を変えて丁寧な文面で送られてきているそれに、澪は「相変わらずマメだな」と思い一人苦笑する。 
 椎堂は、部屋の掃除をした方がいいかなとか客間のベッドを片付けよう! だとか、弟の自分より嬉しそうである。まだ先の話なのにと澪が言えば、椎堂は「もう来週だよ!?」と慌てているようだ。 
 
 澪はそのままスケジュールを開いて、画面を眺めていた。先週はまともに行動できなかったので、先送りにした講義などが結構詰まっている。 
 明日の日曜と明後日の月曜までは通院があるから仕方がない。 
 しかし、火曜日からスクールに行くといえば椎堂からは反対されるのも想像がつく。反対されなくても先週の事も反省しているので少なくとも水曜くらいまでは大人しくしていた方が良いだろう。 
 
 澪はふと思い立ってもう一度メール画面を起動させた。 
 クロエからメールが届いていたのを思い出したからだ。夜に届いていたようだが、早くにベッドに入ってしまったのと高熱騒ぎで、クロエからのメールに気付いたのは朝になってからだった。先週の様子を知っているだけに心配をしてくれたのだろう。少し迷った後、具体的な事は伏せて体調が悪いから来週ももしかしたら大事を取って休むかも知れないという事、大丈夫だから心配しないでと最後にうってメールを送信する。 
 
 その様子を窺っていた椎堂は、口には出さずとも気になるというような顔で視線を向ける。別に隠すような事でも無いので、澪は自分から口を開いた。 
 
「昨日、クロエからメール来てたから。返信しといた」 
 椎堂が慌てたように視線を逸らした。 
「そ、そうなんだ。僕は別に何も気にしてないよ? なにも……言ってないでしょ」 
「俺も、何も言ってないけど?」 
「……、……う」 
 
 明らかに焼きもちを妬いていたのを隠そうとし、椎堂は口を引き結んでわざとそっけない態度を示してそっぽを向いた。 椎堂と付き合う前は、正直言うと焼きもちを妬かれるのが面倒だと思っていた時期もあった。自分は別にやましい気持ちがあるわけでもないのに、疑われているような気がして煩わしかったからだ。 
 
 しかし、椎堂を見ているとこういうのも悪くない。寧ろ、妬いて貰えてちょっと嬉しい気分でもある。気にしているくせに気にしていないフリをする椎堂が可愛く思えて、意地悪を言いたくなってしまう。 
 
「時間あるし、他の子にも返信しとくかな……」 
 
 独り言のようにそう呟いた澪の台詞に、椎堂は即座に反応した。 
 
「……え、他の……子って?」 
「ああ、パーティーで知り合った女の子数人とたまにメールしてる」 
「……ええ……、知らなかった……」 
 
 アンナの誕生パーティーで知り合った数人の女性からも時々メールが届くのは本当だ。また会いたいというメールには、それとなく都合がつかないと返しているが、そういうメールが届くことを椎堂に言ったのは今が初めてだった。 
 椎堂が妬くのが見たくて軽い気持ちで言ってみたわけだが、その効果は澪の想像以上だった。 
 怒るか、拗ねるか、そのどちらかだろうと思っていたが、椎堂はそのどちらでもなく……。がっくりと俯いたまま顔を上げなくなってしまった。真に受けた椎堂がボソッと呟く。 
 
「……僕の事は気にしなくていいよ……。内容とか聞かないし……平気だから」 
「そうなんだ?」 
「……うん」 
 
 澪は、一度小さく笑うと誰にもメールをする事も無く携帯を置いた。腕を伸ばして椎堂の耳を悪戯に触ると、俯いた椎堂がほんの少し視線を上げて澪をちらりと見つめる。 
 
「メール……しないの?」 
 
 窓から射す光は、椎堂の眼鏡に真っ直ぐに射し込み、レンズの奥にある長い睫を澪以外に見せるのを拒むように反射する。 
 
「しないよ。誠二が焼きもち妬くの、見たかっただけ」 
「澪……、時々……、意地悪だよね」 
「――今更?」 
 
 椎堂がちょっと怒ったように澪の手を強く握り、その後安心したように微笑んだ。 
 ここは病室で、しかもまだ昼間である。病室のドアは閉められていないし、すぐそこで人の行き交う気配もする。――だけど、どうしても我慢出来なかった。 
 
 寄りかかっていた背もたれから背を離し、椎堂の唇へ顔を寄せる。何度も瞬きをしている椎堂が「澪、ダメだよ……」と周囲を視線だけで見渡す。「早くしないと、誰か来るかもな」耳元でそう囁くと、椎堂は緊張した面持ちでそっと目を閉じた。 
 椎堂の顎を指で持ち上げ、澪はその唇に自身の唇を重ねた。柔らかく溶けるような口付けが互いの熱を一瞬だけ交わらせる。 
 
 目を閉じた椎堂を至近距離で眺め、その甘い匂いを吸い込みながら肌理の細かい頬を掌で覆う。指先で顎の輪郭を撫でれば、その感触に指を離せなくなりそうだった。角度を変えてもう一度口付けを落とすと、椎堂はほんの少し瞼を上げて睫を震わせ、切なげに吐息を漏らした。 
 
「……澪」 
 
 離れた唇の名残に椎堂は指を乗せて耳までを紅潮させている。力が抜けたように息を吐いて、椎堂は自身を宥めるように何度か深呼吸をした。 
 
「まだ、慣れないの?」 
「……キス……、の事?」 
「そう。相変わらず新鮮な反応だよな」 
「……だって、突然だから……。その。……ちゃんと予告してくれれば僕だって……」 
 
 しどろもどろになってそんな言い訳をする椎堂は、その言葉でさえ新鮮な反応に含まれていることには気付いていないらしい。視界の隅で、廊下を歩く看護師の姿が見える。後数分遅れてキスをしていたら本当に見られてしまったかも知れない。 
 
「今度は、予告しようか?」 
 
 澪がそう言って小さく笑うと、元の位置へと戻った椎堂は恥ずかしそうに頬を掻いて「……突然でも良いよ」と微かな声で呟いた。 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 点滴治療の副作用で出る高熱も初日ほどではなく、回を重ねるごとにその症状は治まってきていた。 
 通院で外へ出る以外は自宅で只管安静にして自宅療養。こんなにずっとパジャマ姿で過ごすのは入院して以来で曜日の感覚も鈍ってくる。しかし、その甲斐もあって他の症状はともかく吐き気にも苛まれず、先週に比べればだいぶ食事も摂れるようになってきていた。 
 それは、治療の成果でもあるし、椎堂のおかげでもある。 
 
 最近椎堂は、時間が出来ると必ずと言っていいほど栄養管理学の勉強を熱心にしている。先週欲しいと言っていた書籍もその関係の物である。 
 アメリカにおけるチーム医療での栄養管理学は非常に重要とされている事は澪も知っているが、終末医療に関する医師としての勉強でも手一杯なはずなのに、今そこに手を出すのは理由があるはずだ。 
 
 本人は職場で必要だから勉強していると言っているけれど……。 
 それが本当だとしても多分半分は澪の体調管理のためなのだろう。最近はずっと椎堂が食事の準備をしているのだが、その献立が澪の体調に合わせて計算し尽くされた物ばかりなのが、それを物語っている。 
 椎堂の愛情をそういう形で感じる度に、澪の胸の中は感謝の気持ちで温かくなると同時に、自分がこうしていられるのはそういう支えがあっての事なのだと改めて実感せざるを得ない。 
 
 QOLを最優先して難易度の高い術式で執刀してくれた佐伯、今の主治医や親身になって治療法や生き方を指南してくれる高木、離れていても常に心配をしてくれている玖珂、そしてクロエやスクールの仲間も。 
 その中で自分は生きているのだという事を、病気になってから痛いほどに感じていた。誰にも頼らなくても一人で生きていける、生きている、そう思っていた過去の自分は、ただ虚勢を張っていたに過ぎない事も……。 
 
 抗癌剤の再開は来週に決まっている。 
 高木の言うとおり、食事が出来るようになって体力は徐々に戻り、倦怠感で横になる回数も今はほとんどない。しかし、それと同時に自宅へ籠もりっきりで居る事への退屈感が増していた。 
 
 水曜の夕食後、クロエからPCのメールに送って貰ったレポートのPDFファイルを開いて、澪は画面を眺めていた。 
 今夜、椎堂はオンコールの担当日で帰ってこないので、自宅に一人である。日中と夕方に様子を聞くために電話を掛けてきた時に、夜にも一度電話をするからと言っていたが、忙しくしているのかまだ連絡は無い。鳴らない携帯を手に取って履歴を確認し、澪は再び携帯を脇へと避けた。 
 クロエが纏めて送ってくれたレポートの最後には、先週と来週の訪問先の日程が記載されている。順番に目を通し、澪は明日の木曜の欄で視線を止めた。 
 
――……あ、……。 
 
 そこには先日訪れた患者の名前があった。次に来た時に花の名前を教えてくれるといった彼の名前だ。 
 ボランティア研修中は、決まった訪問先というものはなく、何度も当たる事もあれば一度きりで終了してしまうケースもある。明日を逃すと、もう彼の自宅への訪問ケアに参加出来ない可能性は十分にあった。 
 体調もだいぶ落ち着いているし、もう熱もない。ちゃんとマスクをして体調の変化に気をつけていれば、そろそろスクールへ復帰しても大丈夫そうである。しかし、一つ澪を迷わせる要因がそこには書いてあった。 
 
 明日の実習の合同チーム。医師側のチームはギャレットのチームだという事だ。椎堂の話では、先週からはギャレットとはチームが別れて、椎堂は現在別のチームと行動しているらしい。 
 ギャレットとは出来る事なら会いたくないが、今後も何度もそういう機会はあるだろうし、その度に回避できるとは思えない。 
 
――どうするかな……。 
 
 澪は全部のファイルを閉じてPCの電源を落とし、長い溜め息をついた。