千夜、刹那 第三話


 

 
 
 時間を巻き戻して拓也と何を話したかを一つ一つ思い浮かべる。 
 行きたいと言っていた屋台、見たがっていた場所、何か手がかりになるようなことを話さなかっただろうかと。頭の中で考えながら次の場所を探しに行こうと踵を返した晶の視線の先に、見慣れた小さな背中が飛び込んできた。 
 
――いた! 
 
 逸る気持ちのせいで足がもつれて転びそうになる。 
 ベンチから少し離れた木の間、辺りを何度も見渡している紺色の浴衣姿。 
 
「拓也ッ!!!!」 
 
 ハッとしたようにその小さい背中が晶の声の方へ振り向く。 
 晶の姿を見つけ、今にも泣き出しそうな顔をしている拓也に駆け寄って、晶はその身体を強く抱き締めた。拓也の匂いに安堵した瞬間、自分でも驚く程自然に目頭が熱くなった。「……拓也」勢いよく地面に両膝をついたせいで、晶の膝に小石が刺さる。その痛みも感じないほどに嬉しくて。 
 
 渇いた喉に唾を飲みこみ、何度も拓也の存在を確認するように背中を撫でた。今自分の腕の中に、本当に拓也がいる事が信じられない気分だった。 
 
「拓也、どこ行ってたんだよっ……。急にいなくなっちまうし」 
 こぼれ落ちそうになる涙を堪えて、無理矢理笑みを浮かべる。 
「すげぇ、心配したんだぞ」 
 頭をぐしゃぐしゃと撫でれば、指の間を拓也の柔らかな細い髪が通り抜ける。 
「ごめんなさい、ごめん、っい、お兄ちゃんっ」 
 
 安心した拓也がポロポロと涙をこぼし、その泣き声が次第に大きくなる。拓也がこんなにも泣きじゃくるのを初めて見た。ヒクヒクとしゃくりあげながらしがみつくように晶の背中に手を回す拓也は、一人でずっと待っていたのが怖かったようで小さく震えていた。 
 
 暫く安心させるように、静かに抱き締めたまま背中を摩り続ける。 
 周囲の目が時々「何かあったのか」とでも言うように向けられているのを感じたが、今は気にしていられなかった。 
 
「どっか怪我とかしてねぇか? 誰かに変な事されてねぇだろうな」 
 
 一度身体を離して拓也の全身をくまなくチェックすると、拓也は大丈夫という風に首を振った。 
 
「でも、っ。怖かったよ……お兄ちゃん、ぼくっ」 
 
 晶の手をギュッと握る拓也の手は、自分の手の半分にも満たなくて、力だってこんなにも弱い。いつ会えるのかわからないまま一人で待っていた時間が、どんなに不安だったか、心細かったか。大人の自分には想像もつかなかった。 
 
「よしよし、もう平気だからな。大丈夫大丈夫。怖くねぇから……」 
「……うん」 
「拓也、本当に良かったよ……無事に見つかって」 
 
 晶は自分の滲んできそうになる涙を堪え、ごまかすように拭ってから携帯を取り出す。 
 
「お父さんも、めちゃくちゃ心配して探してっから、連絡しとかねぇとな」 
 
 不安気に晶を見る拓也の意図を汲み取り、晶はニッと笑って見せた。 
 
「心配すんなって、お父さんも怒ったりしねぇから」 
 
 佐伯へ電話を入れ、拓也が見つかって今一緒にいると伝えると酷く安心した声が返ってきた。すぐにこちらへ向かうという佐伯との電話を切ると、近くにいたのか間もなくして息を切らした佐伯が現れた。 
 晶と拓也の姿を確認すると、ホッとしたように安堵の溜め息をつき髪をかき上げる。側に来た佐伯が晶の肩へと手を置いた。 
 
「……晶、お前が一緒に探してくれて助かった」 
「なんだよ、いいって」 
 
 まだグズグズと泣いている拓也の前にしゃがむと、佐伯はそっと拓也の身体を抱き寄せその頭を大きな掌で抱え込んだ。 
 
「拓也、すまなかった。さっきは、きつく言い過ぎたかもしれん」 
「……お父さ、」 
「……お前がいなくなって、本当に心配したぞ……」 
 
 そう言う佐伯は、晶から見ればちゃんと父親の顔で……。それが自分に向けられるのとは全く違う物である事が何だか嬉しくなる。拓也にもそれが感じられたのか、佐伯の胸に甘えるようにギュッと顔を押しつけていた。 
 
「……お父さん、ぼく、ごめんなさいっ」 
「もういい、大丈夫だ」 
 
 一度頭を撫でてやったあと、佐伯は指で拓也の涙を拭うと真っ直ぐに拓也に視線を合わせて肩に手を置いた。一度言葉を選ぶように視線を落とし、その後視線を戻すと諭すように続ける。 
 
「拓也」 
「……はい」 
「無事にこうして会えたから良いが……。でもひとつ、お前が悪かったことがある。わかるな?」 
「……」 
「どんな理由があったとしても、勝手な行動をして人に迷惑を掛けるのはいけないことだ。相手が友達でも、お母さんでも先生でもだ」 
「……ぅん、……はい」 
「お兄ちゃんは、お前を凄く心配してずっと探してくれていた。ちゃんと、謝ったのか?」 
「……はい」 
 
 拓也が晶の方へ視線を向ける。「さっき、ちゃんとごめんなさいしたもんな」晶はそう言って笑みを返した。 
 
「そうか、だったらいい」 
 佐伯が膝を払って腰を上げる。 
「ほら、もう泣くな。男だろう」 
 
 佐伯が困ったような、それでいて愛しそうな笑みを浮かべて拓也を見つめているのをみて、先程までの張り詰めた空気が解けていくのを感じた。 
 
「あの……これ」 
「ん?」 
 
 よく見ると拓也は逆の手に小さなビニール袋を下げていて、晶へとそれを大切そうに差し出した。ずっと握りしめていたせいか、持ち手の部分がくしゃくしゃになっている。 
 
「……拓也、……これ……」 
 
 渡されたビニール袋を受け取って覗き込むと、中には一箱だけ絆創膏が入っていた。 
 
「……っ、」 
 
 晶は、息が止まりそうなほど胸が痛くなった。袋は、駅からここに来る間に通ったコンビニの物だ。会ってすぐ拓也は、佐伯から小遣いを貰ったと嬉しそうに話していた。その金で買ったのだろう。 
 
――絆創膏かなにか、後でコンビニで買って貼った方が良いな 
――うんうん、そうする 
 
 佐伯が、晶とした会話を思いだしてやれやれと苦笑する。どうりでこの周辺にいなかったはずだ。まさか会場の外へ行っているとは想像もしなかった。 
 
「……お兄ちゃん、怪我してたから……。ぼく、ちゃんと一人でお買い物できるから。でも、……でも帰って来たら、もうお父さんもお兄ちゃんもいなくて」 
 
 必死で晶に訴える拓也に言葉を返せないまま涙腺が緩む。 
 
――なにこれ……俺、やばい……。 
 
 さっきはすんでの所で我慢したというのに、今度ばかりは堪えられそうにない。溢れてきた涙を隠すように、晶は目を手で覆うと「……参ったな」と呟き、拓也の前へ腰を落とした。 
 
「馬鹿だな……。平気だって、言っただろ。…………でも」 
 
 受け取った絆創膏を手にしたまま、晶がギュッと拓也を抱き締める。晶の頬を一筋涙が流れた。 
 
「ありがとな。お兄ちゃん、すげぇ嬉しいよ。一人で頑張って買い物できた拓也は、もう立派な大人だな」 
 
 えへへと照れたようにはにかむ拓也が愛しくて、抱き締める腕に力を込める。いつか、こうやって抱きしめる事が出来なくなってもいい。こんなにも優しい気持ちを持った拓也が、この先も元気で幸せに過ごしてくれれば、それだけで。 
 晶は手の甲で涙を拭い、照れたように鼻を擦ると、絆創膏を取り出した。 
 佐伯が巻いてくれたハンカチをとって、傷の上に絆創膏を二重に貼る。 
 
「痛いの、……とんでいきましたか?」 
 泣いたせいで晶と同じように鼻の先を赤くした拓也が、晶の顔を心配気に覗き込む。 
「おう、バッチリよ。拓也先生のおかげで、もう治ったし。お父さんも顔負けのお医者さんだな、拓也は」 
 
 嬉しそうに笑う拓也の笑顔を見ていると、探し回った疲れも一瞬にして吹き飛んだ。色を取り戻した花火が、視界の隅を掠める。 
「そろそろ、花火も終わりか……。混む前に行きたい所へ寄って、帰る準備をした方がいいかもしれんな」 
 佐伯が未だ混み合う通路へ視線を向ける。 
「だな……。拓也、おいで」 
 
 晶は拓也を抱き上げて、佐伯と共に空を見上げる。佐伯の言うとおり、時間からしてそろそろ祭りも終焉なのだろう。花火大会のフィナーレを彩るのは、滝のように流れ落ちるナイアガラだ。テレビの受け売りで知っていた。 
 祭りの終焉は寂しい物だ。そう今まで思って来たけれど、今夜は違った。夏の暑さよりもっと熱い胸の中の温かさ。腕の中の温もりと拓也の重み、無くなることのない記憶。 
 打ち上がる花火は、どんなに望んでも一瞬で消えてしまうけれど、消えない物もあるのだと。 
 
「……拓也」 
「はい」 
 
 晶は、抱いたまま拓也の柔らかな頬に自分の頬をそっと寄せた。 
 
「……忘れんなよ。俺と一緒に、……花火見たこと」 
 
 拓也は言葉のままを受け取って、嬉しそうに晶の頬に手を当てて笑った。 
 
「はい、ぼく、忘れないです。あのね、お兄ちゃん」 
「ん?」 
「また一緒に、お祭りに行きたいです」 
「うん。……そうだな。またお父さんに、連れてきて貰うか」 
「はい!」 
 
 皆考えることは同じのようで、早めに駅へ移動する人達がちらほら出始めている。 
 迷子センターに一応連絡を入れ、見つかった事を報告してから一度屋台の通りに戻り、拓也が欲しがったたこ焼きとフランクフルトを三人で食べた。最後にゼンマイで動くカブトムシの玩具を買ってやって、名残惜しさをそっと残したまま祭り会場を後にした。 
 
 
 
 晶の足を気遣って、帰り道は佐伯が拓也を背中におぶっている。今日は色々あって拓也も相当疲れたのだろう。 
 佐伯と話ながら歩いていると、拓也はその背中で気持ちよさそうに眠っていた。晶が寝ている拓也の顔を覗き込み、起こさぬよう静かに頭を撫でる。 
 
「拓也、寝ちゃってるみたいだな」 
「起こすなよ? また騒がれたらかなわんからな」 
「はいはい」 
「しかし、子供は体温が高いな……。湯たんぽを背負ってる気分だ」 
「いいんじゃね? あと数年したらそういうのも出来なくなるんだからさ。堪能しとけって」 
 
 佐伯が苦笑する。 
 
「拓也さ、すげぇ優しくて、マジいい子だよな。誰に似たんだか知らねぇけど」 
「誰って、俺に決まっているだろう。他に誰がいるんだ」 
「要だけはぜってぇない。母親似なんじゃねぇの」 
「……美佐子か。あいつも俺と似たような性格だがな」 
「どんなだよっ。拓也の将来が心配になるっつーの」 
 
 佐伯が出した名前に少しだけ胸が苦しくなる。 
 出会う前は相当自由奔放にやってきたみたいだが、佐伯の過去の恋愛の全ては知らない。たまに拓也の母親である美佐子という女性の名を口にするだけだ。焼きもちを妬いているわけではないが、美佐子に対しては恋愛感情とは別の感情がきっと佐伯の中にはあって、そこは自分が入ってはいけない領域なのだ。 
 
 ゆっくりと歩を進めながら、一度だけ歩いてきた道を振り返る。もう花火はあがっておらず、遠くに祭りの灯りがちらっと見えるだけだった。拓也が望むとおり、来年もまた来られたらいいなと思いつつ、進む方向へ視線を戻す。 
 
 拓也が買ってきてくれた絆創膏を重ねているせいで、今は歩けないほどには足も痛まない。 
 佐伯の話によると、拓也の自宅最寄り駅に母親が迎えに来る事になっていて、佐伯はそこまで見送るだけだという。 
 駅に着いて電車に乗っても、拓也は目を覚まさなかった。 
 車内の寒いぐらいの冷房にすっかり汗もひいた所で佐伯が徐に口を開く。 
 
「お前は改札まで来なくていい、近くで待ってろ。拓也を預けたら、すぐに戻る」 
「あぁ……うん。了解」 
 
 それはそうだろうと思う。 
 拓也と会う際、晶が同行している事は話していると以前言っていた。なので、存在は知られている。しかし、だからといって、美佐子という女性にどんな顔をして会えば良いのか、気まずい事には変わりがない。 
 少しして、目的の駅へとつき佐伯と共に電車を降りる。 
 今まで一度も降りたことの無い駅だった。 
 
 拓也が今住んでいる場所で……。自分の知らない佐伯が過去に過ごした場所なのだ。目の前の階段を降りきったらそこには佐伯の元妻が待っている。晶は僅かに緊張して、拳を握りしめた。 
 
 駅は小さな駅で、帰宅途中のサラリーマンが数人降りてくるだけだ。結局最後まで拓也が起きることはなく、お別れの言葉を交わすことも出来なかった。最後に佐伯が拓也を起こそうと言ったが、そのまま寝かせておいていいと自分で断ったからだ。 
 晶は、階段を降りきった所で離れた場所にある切符売り場の端に寄った。 
 
「じゃぁ、ちょっと行ってくる」 
「OK。俺の事は気にしなくて良いからさ。ごゆっくり」 
「すぐ戻る」 
 
 拓也を背負った佐伯が、先にある改札へ近づいていく。意識してこちらを見れば視界に入るだろうが、晶のいる所は少し離れているので普通は気付かないような場所だ。 
 遠くに見える佐伯に一人の女性が近寄るのが見えた。勝ち気そうな背の高い美しい女性だった。彼女が美佐子なのだ。小児科医だという彼女は、佐伯の隣に並ぶには相応しい女性に見えた。 
 
「……」 
 
 見ないようにしようと思い視線を逸らしたいのに、逸らせない自分がいる。向こうは全くこちらに気付いていない。少しの間何かを話していた佐伯が、背負っていた拓也を起こし美佐子へと渡す。その瞬間、拓也は寝ぼけた目を必死で擦り、晶のいる方へ振り向いた。 
 
――やばい。 
 
 咄嗟に近くにあった柱の陰に身を隠し息を潜める。もしかして気付かれたかもしれない。先程まで一緒にいた晶を探すように、拓也は辺りを見渡していた。 
 もっと早く隠れておくべきだった。そう後悔してきつく目を瞑った時、拓也の大きな声が届いた。 
 
「お兄ちゃん!! 今日はとってもたのしかったです。バイバイ」 
 
 見なくても、拓也が可愛い笑顔で手を振っているのが想像できる。本当は、手を振り返してやりたい。「お兄ちゃんも、拓也と遊べて楽しかったよ」と言って、それからもう一回抱き締めて……。 
 だけど、出来るはずがなかった。 
 冷たい柱に隠れたまま、小声で呟くことしか……。 
 
「俺も楽しかったよ。またな、拓也……バイバイ」 
 
 拓也が買ってきてくれた絆創膏はまだ沢山残っていて自分の手持ちの荷物の中にある。恋人との別れでもないのに、酷く切なくて、その感情に胸の内が激しく揺れた。 
 付き合いだして少しして、佐伯から子供が一人いると聞いた時は驚きはしたが、それ以上の感情は無かった。拓也と初めて会ってからだ。こんな気持ちを抱くようになったのは。 
 兄弟がいない自分に弟が出来たような、いや、それ以上に、全力でその笑顔を守ってやりたい存在なのだ。 
 父親になるってこんな感じなのかななんて、そんな事を思うほど、まだ知らない感情を初めて教えてくれた存在でもあった。目を閉じていた晶は、拓也の顔を瞼の裏に浮かべ静かに目を開ける。拓也と繋いでいた手には、まだその感触が残っていた。 
 
「晶、待たせたな」 
 
 いつのまにか隣に佐伯が戻ってきていて、晶は慌てて「おかえり」と笑みを浮かべた。先程まで美佐子がいた場所に視線を向けると、もうそこには誰も居なかった。 
 自動改札が蛍光灯の光を鈍く反射させているだけだ。 
 
 そのままホームへと戻り、先程とは逆の電車へ乗る。空いていたので座席に並んで腰を下ろす。口数の少ない晶の様子に、佐伯が小声で話しかけた。 
 
「あの騒動の後じゃさすがに疲れたか? 今日は本当に迷惑を掛けたな」 
「別に、全然疲れてねぇって。平気平気。ただ、さっきまでいた拓也がいねぇから、ちょっと寂しいだけ」 
「……そうか」 
「……あのさ」 
「なんだ」 
「ちょっとだけ、見ちゃった」 
「美佐子のことか?」 
「うん、ごめん。覗き見するつもりはなかったんだけど……。すげぇ綺麗な人じゃん。要にはもったいねぇぐらいのさ」 
「当たり前だ。俺が結婚してた相手だぞ」 
「はいはい、そー言うと思ったよ」 
 
 佐伯らしい言葉に、晶が小さく笑う。ここは普通ならば、謙遜して「そんな事はない」と言うか、もしくは晶に気を遣って「いい想い出じゃないから、その話は止めよう」だとか「今はお前が一番だから」とか言い出す男が圧倒的に多いはずだ。それも一つの優しさではあると思う。だけど、佐伯はそうは言わないだろうとも思っていた。 
 
 たとえもう終わった恋愛だとしても、自分が選んだ相手だ。過去を否定するような事を言うはずはない。自分と佐伯の性格は違うが、この点だけは晶も同じだった。それが佐伯らしいし、そんな佐伯だから惚れているのだ。 
 誤魔化しや気遣った嘘なんて佐伯からは聞きたくない。 
 
「拓也の「バイバイ」って声、聞こえてたよ……。返事できなかったけど、嬉しかった」 
「また今度会える。その時は付き合ってやってくれ」 
「うん、楽しみにしてるわ」 
 
 佐伯の自宅がある最寄り駅に着くまで四十分程。幾つもの駅を通り過ぎ、人の流れが入れ替わる。 
 佐伯は疲れたのか眠ってはいないが目を閉じていて、晶は、そんな佐伯が向かい側の窓に映り込んでいるのをずっと眺めていた。