千夜、刹那 第四話


 

 
 
 流石に会場から遠ざかると浴衣は目立つ。 
 チラチラと人の視線を感じつつ、駅からはタクシーに乗り込んで、佐伯のマンションへ辿り着いたのは暫くしてからだった。 
 空を見上げれば、花火の代わりに綺麗な月が見える。佐伯のマンションへ来るのも数ヶ月ぶりだ。その懐かしさに足を止めていると、佐伯がエントランスの入り口から晶を呼んだ。 
 
「どうした。歩けないほど痛むのか?」 
「あー、いや、そういうんじゃねぇけど」 
 
 晶は感慨深げに見上げていた空から視線を佐伯へと移動させた。 
 
「懐かしいなって思ってさ」 
 
 スロープの手摺りに掴まって呟く。このマンションのエントランスも、見上げる空も。そして、自分を見ている佐伯の仏頂面ですら懐かしいと感じるなんて、そんなに会ってない時間が長いわけでも無いというのにどうしてなのか。 
 歩けないほど痛くはない。それでも角度によっては時々ズキリとするその足を、晶はゆっくりと前へと踏み出した。 
 
「っていうか、歩けないほど痛ぇって言ったら、姫抱きでもしてくれんの?」 
 
 苦笑しながら佐伯の待つエントランスへ辿り着く。最後の段差に足を掛け、晶は悪戯な笑みを浮かべた。 
 
「大人しくしてるなら、抱き上げてやっても構わんが」 
「出来んのかよ。俺、これでも一応180以上あんだぜ? 腰やっちまうに決まってんだろ」 
 
 勿論冗談で言われているのはわかっているし、たとえどんなに痛かったとしても男に姫抱きされるぐらいなら自分で這って行った方がまだましだ。佐伯は「外科医の体力を甘く見るな」と笑って返してきた。 
 佐伯が溜まっていたダイレクトメールをポストから取り出している間。晶は壁により掛かって、エントランスに生けられている花を眺めていた。 
 夏らしい大ぶりで鮮やかな花で飾られたそれを見ていると、前にこのマンションの大家に会った事を思いだした。フラワーアレンジメントの会社に依頼しているのか、それともあの大家が生けているのか。フと気付くと佐伯は自動ドアを抜けてエレベーターの前へと移動していた。 
 閉まりかけた自動ドアに晶も慌てて滑り込む。油断も隙も、あったものじゃない。 
 
「おい、声掛けろって、あぶねーな。ドア閉まる所だったじゃねぇか」 
「閉まったら自分で開ければいいだろう。暗証番号、忘れたのか?」 
「そういう問題じゃねぇの! ちっとは待ってる優しさみせろって言ってんだよ」 
「俺の優しさは完売している。すまんな」 
 
 完売どころか、仕入れているのかも怪しい。 
 一番上の階で止まっていたエレベーターが徐々に下がってくる階数表示を見ながら、晶は相変わらずの佐伯に聞こえるよう、わざと溜め息をついた。当の佐伯は全く意にも介していないところが流石というかなんというか。そして、すぐにそんな事を気にしなくなる心の広すぎる自分もどうしようもない。晶は一人心の中でツッコミをいれてクスリと笑った。 
 
「なぁ、覚えてる?」 
「何がだ」 
「拓也と初めて会ったの、ここのエントランスでさ。大家さんまで来ちゃって。あん時はマジ驚いたよな。要、「おじさん」って呼ばれててさ。ぎこちねぇわ、拓也前にしてかたまってるわで、俺もどうしようかと思ったわ」 
「……フッ……そんな事もあったな」 
「良かったじゃん?」 
「ん?」 
 
 到着したエレベーターに乗り込むと、空調の吹き出し口からの直風で、襟足から冷たい風が入り込む。外の暑さとの温度差に、晶は肩を竦めた。 
 
「お父さんに昇格できてさ」 
「良かったのか悪かったのか、わからんがな」 
「相変わらず素直じゃねぇーな。そういう時は「嬉しかった」って言っていいんだぜ?」 
「そうだな。今後嬉しかった時は、遠慮なく言わせて貰う」 
 
 佐伯の言葉に晶は小さく笑った。 
 
「要も変わんねぇな」 
「お前もな」 
「うん、……そう、……なんだよな」 
「……?」 
 
 晶が足下に視線を落とす。下駄のつま先で壁を軽く蹴るとコツという音が響いた。 
 
「……俺達はさ、全然変わんねぇよ。……俺も要も、だけど拓也は違うだろ」 
「どういう意味だ」 
「拓也が大きくなって、俺達の関係に気付く日も遠くねぇなって話だよ」 
「ああ、そうだな」 
 
 佐伯に背を向けたまま一気に言葉を吐き捨てる。 
 
「言わなくていいから。……そん時が来ても、拓也には言わなくていい。俺の事は友人で通せよ。それぐらいの嘘、つけんだろ」 
「……」 
 
 目的の階に到着したエレベーターがスッとドアを開く。廊下に響く佐伯と自分の下駄の音。 
 佐伯の部屋の玄関前から見える夜景も、何も変わっていなかった。 
 
 
 
「お邪魔しまーす」 
 
 先に行ってしまった佐伯に聞こえたかはわからないが、一応挨拶をして上がり込む。下駄を脱ぐ際には、かなり痛んだが、絆創膏のおかげであれ以上は出血していないようだ。 
 
「すぐ風呂場へ行け。傷口をまず洗った方が良い」 
 
 佐伯が部屋から顔を出して、浴室を指さす。晶は「うん」と返すと、そのまま浴室へと向かった。脱衣所の床に座ってとりあえず絆創膏をはがす。 
 
「っ、いってぇ……」 
 
 粘着テープの部分まで傷があるので、剥がすのが一苦労だ。「うわ……」晶は裸足になった指先を見て、眉を寄せた。洗うのも痛そうで、少し腰が引ける。風呂場の方で、給湯器の電源が入った音がする。佐伯がキッチンで押してくれたのだろう。 
 そのまま浴衣を捲り上げて自分で浴室へ入り、空の湯船の縁に腰掛けてシャワーを手に取ると、浴室のドアが静かに開き佐伯が顔を出した。 
 
「なに?」 
「俺が洗ってやろう」 
 
 何故少し楽しそうなのか。嫌な予感をヒシヒシと抱く。 
 
「いや、いいって。その親切の裏が透けてるっつーの。自分で洗うし。マジ大丈夫!」 
「ダメだ。痛いからって少し水を掛けるだけで終わらせるつもりだろう」 
――読まれてる。 
 
 痛いのは苦手なので、そうするつもりだった。晶は悟られまいと不機嫌な顔をして佐伯を見上げた。 
 
「んな事ねぇよ。ちゃんと洗うって。マジで。ほら出てけって」 
「いいから、遠慮するな」 
 
 佐伯は痛がる様子が見たいのだ。というのは半分冗談で、本当は心配で……。その気持ちは嬉しかった。「ったく、仕方ねぇな」と小声で呟き。しぶしぶ足の指を少し開いて、佐伯にシャワーを渡す。 
 湯温を調節してぬるま湯にすると、佐伯は晶の足を手に取った。もっと強引にしてくると思ったのに、佐伯は意外にも優しくて、晶がなるべく痛みを感じぬよう自身の手でシャワーの勢いを一度落としてから傷口へと湯をかける。 
 足の裏で固まっていた血がとけて真っ白なタイルへと流れていくのを晶はじっと見ていた。 
 入り込んでいた砂のような汚れまで丁寧に洗い流すと、佐伯はシャワーを壁へと掛けた。 
 
「サンキュ。そんなに痛くなかっ、……んっ、」 
 
 不意打ちで佐伯に口を塞がれ、言葉尻を奪われる。普段ならキスごときで驚く事はないが、あまりに突然で、晶は濡れた浴室の床についた足をピクリと動かした。 
 長い口付けがとかれて、息を止めていたことに気付く。晶は大きく息を吸って佐伯を睨んだ。 
 
「ちょ、なっ……。急に、ビックリすんだろ……」 
「このままシャワーを浴びれば良い。お前も汗を掻いただろう」 
「そうだけど、そういう事じゃなくて」 
「途中で止めたのが不満か?」 
 
 佐伯がニヤリと口元を歪めてまくし上げた晶の浴衣の中に手を滑らせる。今の口付けだけで少し膨らんでいる下着の上から先をギュッと掴んだ。 
 
「今夜も、感度は良さそうだな」 
「言い方! オヤジかよ」 
 
 晶は佐伯を見上げると、仕返しのように腰を屈めている佐伯の首に腕を回し強く引き寄せた。そのまま佐伯の唇を逆に塞いで舌を差し入れる。口内を互いの舌で一通り味わってから唇を離した。自分から仕掛けた口付けのせいで、すっかり勃ってしまったのを隠すように濡れた浴衣を被せる。 
 
「シャワー……、浴びるから、待ってろよ」 
「ああ、お前があがったら俺も入る」 
 
 最後に一度軽く口付けて佐伯は浴室から出て行った。 
 佐伯のせいで浴衣にもシャワーがかかってずっしりと重い。晶はそのまま着ていた物を全部一気に脱ぐと浴室のドアからそれらを放った。 
 シャワーを手に取って立ち上がると、全身を映す鏡に勃ちあがった自分のそれがはっきりとうつる。 
 
――ああーぁ、どうすんだよコレ。 
 
 ここで一度抜いても良いが、後のことを考えると下手に体力を消耗しない方が賢明だ。佐伯と付き合ってから学習したことの一つである。晶は、なんとか宥めつつ無心でシャンプーを手に取った。 
 
 
 
   *   *   * 
 
 
 
 晶が風呂から上がってすぐ佐伯も続き、互いにさっぱりとしたところで漸く一息つくことが出来た。首にバスタオルを巻いたまま冷蔵庫を開けている佐伯が、居間のソファで一服している晶に振り向く。 
 
「もう一本飲むか?」 
「うん、貰おうかな」 
 
 先に風呂から上がってすぐ、あまりにも喉が渇いていたので一本目のビールに口を付けた。部屋は空調が効いていて、快適な室内で飲む風呂上がりのビールは格別だった。 
 渇いた喉に流し込めば、あっという間に体を冷やしてくれる。取り出した何本目かの煙草に火を点けゆっくりと肺に入れると、晶はソファの背もたれに深く沈んだ。 
 
 徐に側にあったリモコンでテレビを付けると、居酒屋を紹介する番組がやっている。他に面白い番組がないかチャンネルを変えてみたが、どうも観たいような物がない。 
 追加のビールを佐伯が持ってきたので、晶はそのままテレビを消した。 
 
「あれ? 要?」 
 
 隣に座るのかと思って横にずれてやったのに、佐伯はそのまま何かを探しに書斎へと向かう。戻ってきた佐伯が手にしていたのは救急箱だった。 
 ドカッとソファテーブルの上へ置かれたそれは、一般家庭の救急箱とは違いやけに大きい。 
 
「なにこれ、でかくね?」 
 
 晶は驚いたように箱を覗き込んだ。佐伯は自身の煙草に火を点けると、口に咥えたまま救急箱の蓋を開く。箱自体も大きいが、中をみて晶は目を瞠った。 
 これは救急箱などと呼んでいい代物ではない。そのまま手術が始まりそうな見た事も無い医療器具のセットだった。立てかけるように中へ入っている巨大かまぼこのような物が目につく。晶が手を伸ばして取り出すと、それはシリコン製でズッシリとした重さであり、定規で測ったように正確な間隔で何カ所か縫った跡が残っていた。 
 
「……これ、もしかして要が縫ったやつ?」 
「ああ、そうだ」 
「へぇ……。すげぇ器用だな、まぁ、外科医なら当然なのかもしれねぇけど」 
「指先の感覚だけは、イメージトレーニングだけじゃ補えないからな。オペがない日や休日に、指先が鈍らないよう練習している」 
 
 佐伯はそう言いながら、ガサガサと箱の奥へと手を入れた。 
 佐伯ほど腕が立つ外科医であっても、その腕の良さは才能だけではなくこうした日々の努力の積み重ねなのだと改めて実感する。たゆまぬ努力をひけらかすわけでもなく、さらっと言ってのける佐伯は男としてやはり格好良いと思う。 
 
「……、要も努力してんだ。やっぱり、患者のため?」 
 
 縫い跡に指を這わせながら感心したようにそう言う晶に、佐伯は「そうじゃない」と苦笑した。咥えた煙草を一度吸い込むと、長い指先で挟んでゆっくりと息を吐く。 
 
「自分の為だ。不安を取り除く為のルーチンワークといったところか」 
「え、……不安って……? 要が?」 
「ああ。常にベストを尽くせる状態を維持していないと、不安になる。余計な不安や後悔は外科医の腕を鈍らせる一番の要因だ。排除するのが当然だろう」 
 
 普段の付き合いの中で、佐伯が何かを不安だと言い切る場面は滅多に無い。自分の腕に自信がある佐伯がこんな風に思っていたなんて少し意外でもあった。 
 佐伯は、晶の手からそれを取り上げると元の場所へとしまい、代わりに消毒液を取り出した。 
 
「お前の傷はただ消毒するだけだ。そこにあるメスで切ったりはしないから、安心しろ」 
「別に、怖がってねぇよ」 
 
 佐伯は煙草をもみ消すと一度キッチンで手を洗い、晶の前の床に座り込み、傷のある方の足を自身の膝の上へと乗せた。たっぷり消毒液を染み込ませた綿球をピンセットでつかむと傷口へとあてる。 
 
「痛っ、痛いってもっとそっとやれよ。すげぇしみるんだけど!」 
「うるさい奴だな、少し我慢していろ」 
 
 拭い取るように傷口を弄られ、本当に痛くて思わず足に力が入る。あまりに痛いので耐えるように目をきつく瞑っていると痛みはふっと消えた。 
 
「これで大丈夫だ。数日は痛むかも知れないが、暫くはゆるい靴を履いておけば問題ない」 
 
 足下を見ると、もうガーゼのような物があてられていて佐伯がくるくると真っ白な包帯を巻き付けている途中だった。いつのまに……。 
 
「夏は化膿しやすいから、ガーゼを替えるときはちゃんと傷口を洗ってから消毒しろよ」 
「……消毒液とか家にねぇけど」 
 佐伯は箱の中から封を切っていない消毒液を一本取り出すと晶へと投げて寄こした。 
「これを持って帰れ」 
「うん……サンキュ」 
 
 晶の傷口を処置した物をゴミ箱へ捨てると、佐伯は救急箱の蓋を閉じた。と、すぐに立ち上がって救急箱をしまいにいき、再び箱のような物を手にして戻ってきた。まだ何か処置する必要があるのだろうか? 佐伯の手元に視線を送ると、佐伯はその箱を片手で晶へと渡すとようやくソファに腰を下ろした。ビールのプルトップをあけて口を付ける佐伯は、箱について何も言わず美味そうにごくごくとビールを飲むと、ふぅと息を吐いた。 
 
「え? 何この箱。新しい救急セットとか?」 
 
 先程の救急箱に比べてそんなには重くない。振ってみると中でカサカサと音がした。 
 
「違う。開けてみろ」 
「……? うん」 
 
 箱の包装紙を破って開けると、何も書いていない箱があった。一体何なのか想像もつかない。晶は恐る恐る箱の上蓋を外し和紙のような紙をひらいて中を覗き込んだ。 
 
「……下駄?」 
「ああ、他に何に見えるんだ」 
 
 いや、下駄以外の何物でも無い。だからといって、この下駄がどうかしたのか。 
 
「靴擦れしない保障はないが、お前の分だ。持って帰れ」 
「…………」 
 
 もしかして、プレゼントという事なのだろうか。いや、もしかしなくてもプレゼントだ。渡し方が適当すぎて、喜びがワンテンポ遅れる。しかも、よくみてみると箱の中の下駄は、今日佐伯が履いていた物と色違いのようだ。 
「えっと……これ、俺に買ってくれた……ってこと?」 
「ああ」 
 
 佐伯は目の前の缶ビールの残りをそのまま一気に飲み干すと、何故か少し機嫌の悪そうな顔で天井に向かって長く息を吐いた。 
 
「……俺の……為に……」 
 
 嬉しすぎて、しかもこの佐伯が自分と色違いの物を選んで寄こすとか、多分一生ないと思っていた。晶はそっと下駄を取り出してソファの足下に並べた。怪我をしていない方の足を通してみると、先程自分が履いていた物よりずっと履き心地が良くて肌に当たる部分も柔らかい。 
 
「……有難う。でも……どうして」 
 
 続く言葉に、佐伯が少し不機嫌な表情を浮かべた理由がわかった。 
 
「予定では、会場ではなく事前にうちで待ち合わせ、その下駄をお前に渡してから二人で花火大会へ行くつもりだった。拓也とはまた別の日を予定していたからな」 
「えっ!? そうだったんだ?」 
 
 驚く晶に佐伯がざっと説明する。佐伯は今日の為に、前から休みを調整していたらしい。しかし、拓也と行こうとしていた日が、どうしても休めなくなった上に、今日の午前中にも急な予定が入って都内のカンファレンスに参加したそうだ。その予定が決まったのが昨日で、今日の昼過ぎにこちらへ来るはずが急遽前日入りせざる終えなくなったらしい。休日なのに今朝も早朝に起きなくてはならなくなったと不満そうだった。  
 自分のスケジュールを乱されるのが嫌いな佐伯にとって、こういう事態は最も忌み嫌う物なのだろう。 
 
「あいつも楽しみにしていたからな。約束を破るわけにもいかんだろう? だが、もう休みはない。丁度拓也もお前に会いたがっていたし、そういうわけで一緒に連れて行くことにしたんだ」 
「……要」 
「タイミングの悪さは認める。今更渡されてもしょうがないだろうが、俺が持っていても意味が無いからな」 
 
 佐伯は苦笑いをして二本目のビールに口を付けた。 
 
「俺は気にしてねぇよ。つか、三人で行けたのもすげぇ楽しかったし。寧ろ重なって良かったよ」 
「そうか……。ならいいが」 
「今日何時起き? 相変わらず忙しそうだけどさ……あんま無理すんなよ?」 
「今朝は五時起きだ」 
「五時!? マジで? んじゃもう寝た方がよくね? 疲れてんだろ」 
「別に、立ちぱなしで行う長時間のオペと比べたらどうってことはない。それに、後でお前が疲れを癒やしてくれるんだろう?」 
「…………ま、まぁ、多分」 
「……フッ、楽しみにしているぞ」 
 
 去年の夏、しきりに夏祭りへ行きたいと言いまくっていたのは憶えている。 
 だけど、そんな事は日常茶飯事で、佐伯は聞き流しているし、その為に休みまで調整して予定をたてていたなど信じられない思いだった。予定が狂って前もって渡せなくなったとしても一言言ってくれれば良いのに、何も言わないとか……。最初から自分を喜ばせようと今日を空けていたのだろう。そんな事を考えながら目の前の下駄を眺めていると、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。 
 
「やべ、俺、すげえ……嬉しいかも」 
 
 晶はやっとの事でそれだけ呟くと、今包帯を巻かれた方の足もそっと下駄へとつっこんでみる。 
 
「おい、そっちの足はやめておけ。また痛くなるぞ」 
「……うん。わかってるって。ちょっとだけ」 
 
 ソファに座ったまま、片方は先を引っかけただけのまま足を上げる。シックな黒塗りの二枚歯下駄に、日に焼けていない晶の白い足が乗る。 
 
「どう? 似合ってんじゃね?」 
「下駄に似合うも似合わないもないと思うが」 
「あるだろ。ちゃんと言えよ」 
「いいんじゃないか。似合っている」 
 
 晶が嬉しそうに笑みを浮かべる。 
 
「マジ嬉しい……。下駄も嬉しいけど、……夏祭りに連れて行ってくれようとしてたって事も……全部。来年また行こうぜ! これ履いてくし!」 
「予定が合えばな」 
 
 晶は暫く足をブラブラさせて眺め、そのあと大切そうに元の箱へとしまった。 
 これが下駄なのが少し悔しいところである。普通の靴だったら、普段から履けるのにと。喜んでいる晶を見ていた佐伯が、晶との距離を詰め新しい煙草に火を点ける。ジジッと上ってくる灰に視線を落としたまま思いだしたように「ああ」と呟いた。 
 
「そういえば……お前、さっき『俺たちの関係を拓也に言わなくていい』と言っただろう」 
「え? ああ、うん。言ったけどそれが?」 
「俺は、隠すつもりは無いぞ」 
「は!?」 
 
 佐伯の言葉に驚いて、晶はその横顔をふりかえる。 
 
「何でだよ、そんなん拓也が驚くに決まってるし。要との関係にも影響出るに決まってんじゃん。俺たちの都合で、拓也が傷ついたらどうすんだっつーの」 
「何も今すぐにって話じゃない。拓也が疑問に思って聞いてきたら隠さず話すって意味だ。その事を聞くか聞かないかは、その時の本人に決めさせる」 
「でも……。聞きたいって言ったとしても……聞いたらきっとショック受けるぜ?」 
「そうかもしれんな。だが、永遠に嘘をついて隠し通さねばならないような事じゃないだろう」 
「…………それは……、そうかもしれねぇけど」 
 
 佐伯がそう決めているなら、何も言えない気もするが。それが正解なのかどうかわからない。簡単に答えを出せるような物でも無いし、父親でもない自分が佐伯を止めることも出来ない。晶も新しい煙草を取り出し、火を点ける。佐伯の思っている事の意味を知りたくてもう一度視線を向け、晶はハッとして視線を逸らした。 
 佐伯はゆっくりと息を吐くと静かに続ける。 
 
「お前とは遊びで付き合っているわけじゃない。この先拓也が大人になった時、強引に話して理解をさせるつもりも全く無い。ただ……。それまで、俺やお前と今日みたいに過ごした記憶が残っていれば、大切な人という意味が拓也にもわかるはずだ。俺は、そう信じてる。何も知らないという事が幸せなのかどうかは、お前が一番よくわかっているだろう」 
 
 何も言葉を返せなかった。そう言った佐伯は、拓也を思い浮かべていたのか柔らかな表情で……。 
 隠し通すのが拓也のためだと思っていたが、佐伯もまたちゃんと拓也のために考えて隠さないと言っているのだ。そして、佐伯がそう考えるようになったのは多分自分のせい。 
 
 佐伯と付き合ってから何度もしている喧嘩。その原因は小さな事から大事な事まで、何も教えてくれない佐伯にある事が多かった。最初のうちは、何故全てを話す必要があるのかと問われたこともある。その時に自分が言ったのだ。――大切な人のことは何でも知りたい。嘘をつかれたくない、と。 
 佐伯にとっては、晶だけでなく、当然拓也もその大切な人の一人なのだ。だから嘘はつけない。否、つかない。そう決めた上での答えなのだろう。 
 
 大切な人、自分の事を佐伯がそう言ってくれたのも今夜が初めてな気がする。変わっていないなんて互いに言ったばかりだけど……そうじゃない。佐伯は確かに出会った頃と変わった。この瞬間、そう思った。 
 
「……俺も、信じてみるよ。そんで、もしうまくいかなくても、ちゃんとわかってくれるように話す。俺にとっても、拓也は大切な存在だから」 
 
 佐伯がフッと笑みを浮かべる。 
 
「何だよ、何か言いたげじゃね? 言いたいことがあんなら言えよ」 
「別に言いたいことなどない」 
「嘘つけ」 
「嘘は言ってない。まぁ、そうだな……。強いて言えば一言あるか」 
「ほらー! あるんじゃん。なになに? お兄さんに言ってみろって」 
 
 佐伯の長い髪を悪戯に掴んで顔を覗きこむと、そのまま勢いよく身体をソファに沈められた。佐伯に見下ろされたまま視線を絡ませる。眼鏡の奥の目がすっと細められ、そのまま唇が重なった。佐伯の煙草の香り、感じる体温、それだけで身体が疼く。 
 
「晶、お前が、俺の相手でよかった」 
 
――今! なんて!? 
 
 二年以上付き合っていて、こんな台詞を佐伯が言うとは夢にも思っていなかった。意外すぎて頭が真っ白になってそのまま虹色になってわけがわからなくなりそうだった。 
 
「は、はぁ?? 馬鹿じゃねぇの。な、なに言っちゃってんの急に」 
 
 自分でも顔が紅潮しているのがわかる。精一杯茶化して返事をしてみたが、これで精一杯だ。たまには恋人らしく甘い言葉が欲しいなどと思った自分を殴ってやりたくなる。この衝撃は心臓に悪すぎる。 
 佐伯はクッと小さく笑って、「行くぞ」と手を差し出した。