──RIFF 3 
 
 
 スタジオから出て裏通りに回り、マットの住むアパートメントまで歩いて二十分弱、そんなに遠くもない。メンバーと合わせる時間のロスは発生するが、一人欠けて練習するよりはマシなはずだ。 
 
 若者が多いこの周辺は自由、言い換えれば歯止めのきかない連中のたまり場にもなっている。見た目だけで言えば柄がいいとは言えないニールはともかく、他のメンバーやクリスがうろつけば、運が悪ければ財布の中身をすっかり抜かれてもおかしくない。 
 
 そんな通りを抜けてマットのアパートメントについたニールは、一度立ち止まって二階を見上げた。 
 マットの部屋には灯りが点いている。本人がいるかどうかは定かではないが。 
 
ブーツの踵で錆びた階段をコツコツと叩きながら、マットの部屋の前でニールはインターフォンを押さずにドアノブに手を掛けた。 
 抵抗なくあっさりとあくドア、鍵もかかっていない。 
 
「マット、いるんだろ。入るぜ」 
 
 入った後に一応声をかける。 
 安普請のドアは乱暴に閉めたら蝶番がイカれてしまいそうな脆さだ。少し埃臭い換気されていない部屋の空気、その匂いの中に感じるかすかな薬品の匂い。 
 
 空になった酒の缶やジャンクフードの食い残し、足下に転がっているのはそれだけではない。人間も、だ。 
 真っ白な身体を惜しげも無く晒している全裸の女数人と見知らぬ男。部屋の中で泥酔しており酒臭い息を吐いている。 
 ニールは女を大股で跨いでマットに近づき足先で腰をつついた。 
 
「おい、マット。起きろ」 
 
 頬を軽く叩いてようやく目を開けたマットの腕をひっぱって強引に立ち上がらせる。よろけたマットはまだ酔っているのか身体を支えるように窓硝子へ手を突いた。一瞬何故ニールがいるのか戸惑い、すぐに状況を把握したようだ。 
 
「ほら、行くぞ」 
「ニール、ちょっと待てよ。服くらい着てもいいだろ。こんな格好じゃかっこ悪くて外出れねぇよ」 
 
 そこらへんに脱ぎ捨ててある下着やらジーンズやらをかき集めながらマットは不機嫌そうに顔を顰めた。 
 
「こんだけ醜態さらしておいて、かっこ悪くて、だと?」 
 
 ニールは乾いた笑いを返す。 
 
「今更なに寝言言ってんだ。三分で用意しろ、外で待ってる」 
「……っ、くそ」 
 
 睨んでくるマットの視線に構わず、ニールは玄関まで移動すると外の手摺りにもたれ掛かった。待つ間、後ろポケットに入っていた煙草を取り出して一本咥える。顔の前にゆるりと煙を吐き出し、フッと息を吹きかける。 
 
 煙の流れていった先。中では、何人かが目を覚ましたのか話し声が聞こえてきた。会話の内容までは聞こえないが。 
 
 三分など、とうに過ぎた頃、シャツのボタンを閉めないままギターを担いだマットが部屋を出て来た。どうやら家の鍵は起きたオトモダチに任せたらしい。 
 最初から鍵なんて開いていたのだから、今更な話である。 
 
 行くぞという視線だけを向け、ニールは階段を下りた。 
 後ろからついてくるマットは、服のボタンをかけつつ幾つか言い訳を口にした後「おい、聞いてんのかよ」とつまらなそうに呟いた。 
 
 勿論全部聞いていた。その言い訳について問いただすのも面倒で返事しなかっただけだ。無言のまま暫く歩き、ニールはスタジオに着く前、徐に足を止めた。 
 
「……? ん? なんだよ」 
「女のケツおっかけるのもお前の自由だ。俺には関係ねぇ。だけど、練習にはちゃんとこい」 
 
 マットの女狂いは今に始まった事じゃない。そのたびにニールがこうして連れに来ているのだ。今日はまだ練習だからいいようなもので、ひどい時はライブの当日なんて事もある。 
 
 バンド歴が一番長いという理由でSADCRUEのリーダーを任されているが、別に人の世話をやくのが好きというわけでは無い。こんな事が続けば腹だって立つし、現状、相当我慢している。時々思うのだ。リーダーなんか辞めたっていいと。 
 
 だけどそうしない、出来ない理由があった。 
 マットとは一番長い付き合いというだけでなく、自分が一番悩んでいた時期に傍にいて、お前は才能があるからロックを捨てるなと言ってくれたのがマットだった。 
 音楽から足を洗ってもいいとさえ考えていた自分を、すんでの所でこの世界にとどまらせてくれたのだ。 
 今はすっかりだらしない奴に成り果てているが、それだってもしかしたら自分のあの件がきっかけなのかもしれない。 
 
 もうあの頃のマットはどこにもいない。 
 そう思うと、マットを切り捨てることも、他のメンバーに丸投げすることも出来るはずがなかった。 
 
「……ニール、まだ怒ってんのか? 今日はマジで忘れてたわけじゃなくて、つい寝過ごしただけだって」 
「別に、怒ってねぇよ。呆れてるだけだ」 
 
 気まずい雰囲気を払拭できないままスタジオへと到着する。 
 
 
 
 
 
 スタジオ内では四日後のライブで発表する新曲の最終合わせが行われていた。 
 ヘラヘラと笑いながら部屋に入ってきたマットにメンバーは顔を見合わせ目配せをしている。 
 
「遅くなって悪かったな。んじゃ、全員揃ったから頭から一度合わせるか」 
「そうだな、了解」 
 
 急いで準備を整えるマットを待って、マットがOKのサインを出すとリズム隊のベースとドラムがオープニングの一曲目のイントロを奏でる。 
 最初から三曲目までは既存の曲で、今までも何度となく練習してきて完璧である。三曲目が終わり、ニールのギターソロの後で続くはずのマットのソロに突入した部分で突然音が崩れた。 
 
「悪ぃ悪ぃ、あれ~? ちゃんとやってんだけどな」 
 
 マットは自分のミスで練習が進まないことに気づきながらも相変わらずだらしない顔でにやけていた。 
 
「もう一回、ニールのソロの最後からやり直すぞ」 
「OK」 
 
 二回目、三回目、四回目……。 
 何度やっても同じ場所で躓くどころか、回を重ねる度にマットのプレイは酷い物になっていく。メンバーの中でもしだいに苛立ちが募っていくのを感じ、ニールは「まずいな」と眉を顰めた。 
 
 かれこれ三十分近く集中的にその部分だけをやっているのに一度もスムーズに流れない事にドラムのトミーがついに切れた。 
 ドラムのスティックを床へ投げつけるとマットに向かって行き胸ぐらを掴む。 
 
「てめぇ、やる気がねぇなら今すぐ辞めろよ!! てめぇのせいで進まないんだろうがっ!!」 
「トミー落ち着けって」 
 
 他のメンバーの制止で殴るまではいかなかったが、マットの胸ぐらを放して突き飛ばすと、トミーは部屋を出て行ってしまった。もうこうなると士気はゼロに近く練習どころの雰囲気ではない。 
 他のメンバーもトミーに続き肩から楽器を下ろし喫煙所へと出て行った。 
 
 最悪な状態。その中でニールだけが黙ったままマットをじっと見ていた。 
 ストラップを外して思い詰めた表情でマットに詰め寄るニール。 
 マットは確かに練習はサボリ気味だ。しかし、ここまで調子を崩す事は滅多にない。 
 そのただならぬ静かな怒りに、マットは数歩後ずさってニールを見上げた。 
 
「……な、なんだよ」 
 
 ニールが壁際にマットをじりじりと追いつめる。もう後ろに引けなくなったマットの腕を掴むと、袖を一気にめくりあげた。 
 
――……くそっ、やっぱりか。 
 
 悔しげに顔を歪ませるニールの奥歯がギリッと音を鳴らす。マットの部屋に入った瞬間感じた匂い、嫌な予感はニールを嘲笑うかのように現実の物となった。 
 
 マットの腕には赤黒い痣が腫れたように連なっている。視線を泳がせているマットはもうすでに見られたというのに、隠すようにすぐに袖を伸ばした。 
 半年以上前にも同じ事があったのだ。あの時、あんなにもうしないと誓ったはずなのに……。 
 
「いつからだ。……いつから、手出した」 
 
 俯いたまま、絞り出すように低く吐き捨てるニールに、マットは上ずった声で返事をした。 
 
「……いつだって、いいだろ」 
「いいか悪いかはお前が決めることじゃない。俺は、いつから手を出したかってきいてるんだぜ?」 
 
 静かに問いつめるニールから逃れるようにしてマットは少し横へずれるとニールを睨み付け何度か咳き込んだ。 
 
「何だよ。俺がいなくても、充分SADCRUEはやっていけんだろ。だったら、さっさとクビにでも何でもすりゃいいじゃねぇか。いつまでも俺をメンバーにいれとくからこんな事になったんだろ。お前の保護者気取りには、もう、うんざりなんだよ!」 
 
 興奮した様子のマットは口端に唾を溜めて唇を戦慄かせた。その様子も普通じゃない。 
 
――我慢しろ。我慢しろ。我慢しろ。 
 
 何度も自分に言い聞かせる。ここで揉めたら、信じて着いてきてくれているメンバーにも、ライブを楽しみにしてくれているファンにも迷惑がかかる。 
 
 ニールは一度ゆっくりと息を吸った。胸の奥で中々鎮火しない怒りの炎の正体は、悲しさと裏切られた悔しさなのかも知れない。それが理解った所で、もう自分では消せない所まで来ていた。 
 
「そうだな。お前なんか要らねぇよ……」 
 
 ニールはそう言って背を向けた。 
 
「ニール……」 
「辞めていいぜ。ただな、四日後のライブで穴を開けることだけは許さねぇ。最後ぐらい、けじめつけろ」 
「……、……」 
 
 先程までの威勢は影を潜め、マットはショックを受けているようだった。何年も一緒にやってきて、揉め事しかないような仲だったけれど、それでも一度もニールが「辞めろ」と言ったことは無かったのだ。 
 
「……ああ、そうかよ。よくわかった。こんなクソバンド今すぐ辞めてやる。ライブもお前らで勝手にやってくれ。じゃぁな」 
 
 マットは捨て台詞を吐くと、電源を入れたままのアンプからシールドを強引に抜き取り自分のギターケースへ放り込んだ。そのままケースを担ぐと部屋を出て行く。 
 まだ今なら引き留められるのではないか。一瞬考えたが、ニールは振り向かなかった。 
 
 
 
 マットが出て行って暫くすると、メンバーが慌てて戻ってきた。ニール一人の部屋に大方予想はついたのだろう。誰も口を開かないまま、ドアが自然に閉まっていく音だけが部屋に響いた。 
 
「気にする事ねぇよ、ニール。マットの奴も、少し頭冷やしたら戻ってくるかも知れないし」 
「……アイツはもう、戻ってこねぇよ」 
「……え?」 
「またクスリに手出してやがったんだ……」 
 
 メンバーがざわめく。セックス・ドラッグ・ロックンロールなんて、大昔のかっこつけた夢物語なだけで、今はロックをやっていようがクスリなんて手を出す奴は滅多にいない。 
 子供の頃から、クスリが人を廃人にするという話は嫌と言うほど聞かされてきたからだ。 
 
「俺が「辞めろ」ってアイツに言った。だから、アイツはもう戻ってこない。勝手に決めたのは悪かった……」 
 
 突然のメンバーの脱退、それが厄介者のマットであったとしてもこの時期にそんな事が起きるなんて、誰も予想していなかった。 
 マットが先程までいたスペースに視線を送り、沈黙が続く。 
 
 そんな中、トミーだけがドラムの方へ向かって腰を下ろすと先程床へ投げ捨てたスティックを拾い上げ、声を上げた。 
 
「……ニール。俺はニールが決めたんならそれに賛成するぜ。アイツのことは、ニールが一番よく知ってる。だから、謝るのはナシだ」 
「そうだな、俺も賛成するよ」 
 
 昔の出来事を知らないメンバーがかけてくるその言葉が、自分を気遣う物だと理解している。今の自分に出来る事は四日後のライブを無事成功させることのみだ。ニールは思いを振り切るように再びギターを肩にかけた。 
 後で幾らだって考えればいい。今は練習に集中するしかない。 
 
「マットが抜けたパートは俺がカバーする。練習、続けるぞ」 
「OK」 
 
 どんなに動揺していても、ニールのギターはいつもと変わらない完璧な音を奏でた。本人だけが、納得のいかない音だと認識しただけだ。何とか時間まではセットリストをこなし、その日の練習は終わった。 
 
 練習が終わった後で、いつものミーティングに入る。ミーティングと言ってもそんなに形式張った物ではなく、一服しながら少し話す程度だ。 
 それぞれに直す所等を指摘しあったり、曲順の変更を話し合ったりとあっという間に過ぎていく。そろそろ解散するかと灰皿に煙草を投げ捨てると、トミーがニールの方へ振り向いた。 
 
「なぁ、ニール。マットのパート、自分がカバーするってさっき言ってたけどさ。クリスはダメか?」 
「クリス? おい、どうしてそこでアイツの名前が出てくるんだよ」 
「やっぱりここまで来て、ギター一本減ると音の厚みが変わると思うんだよ。曲のアレンジを変えるにも間に合わないし。時間がないから他を当たってる暇もないし。それに、ニール。クリスと親しいだろ? 今回だけ頼んでみる事はできないかな?」 
 
 確かにトミーの言うとおりだ。5ピースのバンドが4ピースになると音が変わる。曲の流れはニールがカバーできてもそういう部分は一人ではこなせないからだ。 
 
「……クリスか……」 
 
 歯切れの悪いニールの返事。 
 クリスを助っ人で呼ぶのはあまり乗り気がしなかった。とにかく急すぎるからだ。クリスは自分のバンドの練習があったとしても、ニールが言えば必ず「OK」と言ってくれるだろう。 
 だからこそ、頼るのを躊躇ってしまう。 
 無意識にもう一本煙草を取り出して咥え火を点ける。 
 
「アイツなら、前にも一度うちの助っ人入ってるし。腕も立つしさ……。ダメか?」 
 
 他のメンバーも「それがいい」と言わんばかりに頷いている。丁度というかなんというか、四日間だけで済むのは、ある意味クリスの時間の拘束もそこまでではないという事にもなる。 
 
「……そうだな。今夜会うから、一応、声は掛けてみる」 
 
 他の方法もなく、渋々ニールが話を着けるということで決まった。ミーティングが終わり、それぞれがスタジオを出て帰路につく。 
 
 ニールは暫く歩いてから、クリスに連絡を入れる。すぐに電話に出たクリスの明るい声が聞こえてくると、酷くホッとした。 
 
『ニール! 今終わったのか? お疲れ、今日大丈夫なんだよな?』 
「ああ、勿論。今そっち向かってる」 
『なんだか、ちょっと緊張してきたかも。聴かせるときに限って失敗したりするんだよな俺』 
「ばーか。なんで俺相手で緊張すんだよ」 
 
 クリスがそんな事を言って笑うものだから、釣られてニールも電話越しに笑みを浮かべた。最後に嬉しそうに「待ってる」といったクリスの声。今夜は一人になると色々考えてしまいそうなので、予定があって良かったと思う。 
 
 それが気の置けないクリスとの時間なら尚更だ。 
 肩に掛けているギターケースがほんの少し軽くなった気がした。