──RIFF 4 
 
 クリスの自宅へ向かう道すがら、ビールを買うためにコンビニへ寄る。冷蔵ケースに写り込むサングラス越しの自分の顔を見て、思わず「うわ……」と小さく漏らした。  
苛立ちがもろに表れている表情は柄の悪さを一層引き立て、声をかけてはいけない人物そのものである。  
 
――さすがにやべぇだろ……。  
 
 曲を聴かせる準備をして楽しみに待っているクリスに、合わせる顔じゃない。  
ニールはそのままちょっとだけ笑みを浮かべて表情をほぐした。楽しいわけではないので、無理に作る笑顔はどうしても引き攣った物になってしまう。冷蔵ケースの前で一人、笑顔の練習をする大男を見てしまった店員が急に目をそらす。  
 ニールが缶ビールを数本取り出して籠に入れ、店員の後ろを通ると、店員はビクッとして通路を開けるように素早く脇へと退いた。何だよそのあからさまな態度は、と舌打ちしたくなるのを我慢して通り過ぎる。  
 
レジには誰もいなかった。時間帯からして人が少ない時間なのだろう。仕方がないので先程の店員を呼ぶしか無い。ニールは商品の入ったカゴをレジの横へ置くと、先程の店員へ向かって行った。  
 
「な、なんでしょうか!? なにかお探しで……あの」  
 
慌てる店員に背後のレジを親指で指す。  
 
「いや、レジ。誰もいねぇんだけど」  
「ああ! す、すみません! 今行きます!」  
 
棚の補充をそのままに、店員は駆け足でレジへ向かって行く。  
 
「ありがとうございました!」  
 
 コンビニを出て少しするとすぐにクリスの自宅が見えてきた。クリスは数年前、祖母が亡くなるまで住んでいた平屋のタウンハウスをそのまま譲り受け、今ではそこに一人で住んでいる。  
隣の家との隣接部分がガレージなので騒音も気にしなくて良く、一人暮らしには十分な広さで本人曰く『快適』らしい。狭いアパートに住んでいる身としては羨ましい限りである。  
インターフォンを鳴らすと、まるで玄関で待っていたような早さでドアが開かれた。  
 
「おかえり、ニール」  
「お、おう……」  
 
 そこは「いらっしゃい」じゃないのかと思ったが、特に突っ込むところでもないので、ニールは持ってきたコンビニ袋をクリスへ渡して靴を脱いだ。  
 
「酒? うちにもあったのに、悪いな」  
「俺が飲んだら、一気に減っちまうだろ。補充だよ補充」  
「うん、サンキュー」  
 
 手に持っていた昼間に買ったフィギュアをどこに置いておこうか迷っていると、クリスは玄関脇の棚の上を指した。  
 
「そこの上に置いておいたら?」  
「いや、ダメだ。安定性が悪そうだし、落下したら今日が暗黒記念日になっちまうじゃねぇか」  
「地震でも無ければ、落下しないと思うけど……。じゃぁ部屋の隅にでも置いとく? 少なくとも、暗黒記念日は回避できると思うよ」  
「ああ、そうだな。そうするわ」  
 
 大切そうにそっと紙袋を部屋の隅へと置くニールの姿にクリスが背後で笑うのが聞こえた。  
 
「ホント、フィギュアのことになると雰囲気変わるよな、ニール」  
「うるせーな。ほっとけ」  
「ファンの子達にもフィギュアと同じくらいちゃんと優しくしてる? ニールは、ただでさえ怖いんだから」  
「して……る、つもり、って。おい。何の話だよ。怖くて悪かったな」 
 
 酷い言われようだが、クリスに言われても別に腹は立たない。それどころか、自分が来たことではしゃいだ様子のクリスを見ていると、胸の中の苛立ちがスッと消えていく気がした。  
先程コンビニで無理して笑顔の練習をする必要は全く無かったらしい。  
 ギターケースだけ担いだまま、クリスの後を着いていく。来る前にも練習していたのか、部屋にはクリスのギターと小型のアンプがもうセッティングされていた。時間も時間なので、アンプの音量つまみは最小だ。  
 
「練習してたのか?」  
 
 ケースを肩から下ろして立てかけると、ニールはアンプの前にどかっと腰を下ろした。  
 
「うん、少しだけ」  
 
 アンプの前に無造作に散らばっている譜面、何枚かは失敗なのか×印がつけられていたりする。それらを手に取って、ニールは真剣な顔で音を辿った。  
 
 弾いてみてはリズムを変え、余分な部分を消して音を追加する。作曲の作業は地道な物だ。消したり書いたりの痕跡があちこちに残っていた。最初から一度録音して聴きながら、納得いかない部分を変更していくという方法もあるが、クリスはいつも別のやり方をしている。完成しない限り、一曲通して録音や人に聴かせる事をしないタイプなのだ。 
 
「曲先だから、歌詞とかはまだないんだけど」  
「ああ、みたいだな」  
 
 クリスがキッチンの方から飲み物をトレイに載せて持ってきた。「はい、これ」というクリスに、てっきり酒だと思い、特に見もしないで手を伸ばして受け取る。  
ふにゃりとした薄いプラスチックの感触。思わず握りつぶすところだった。  
 
「おい、酒じゃねぇのかよ」  
 
 ミネラルウォーターと菓子が置かれているトレーに目を向ける。  
 
「酒はダメ。だって、ニール飲んだら寝ちゃうかもしれないだろ?」  
 
 そう言われてしまうと何も言えない。酒にはかなり強いと自分で言えるほどではあるが、一定の量を超すと眠くなってしまう。過去何度も飲みながらいつのまにか寝ていた事をクリスは言っているのだ。  
 
「わかったわかった。じゃぁ、まずは聴かせてみろよ」  
「ああ、うん。今聴かせる」  
 
 クリスはトレイを脇に置いて、早速ギターを手にすると幾つかのコードを鳴らした。馴染みのあるコードだが、同じように押さえても自分とは音が違う。  
クリスのギターから響く音は、僅かに柔らかさがあった。  
 
「今回の曲は、ちょっと今までのとは違うんだ。ブルースっぽい音を混ぜてるっていうかさ」  
「へぇ、珍しいな」  
 
 オープンGに調整を済ませたクリスは、薬指にスライドバーを嵌める。「じゃぁ、いくよ」一度深呼吸をして、弾き始めた。最初に言っていた通り曲はミドルテンポのブルース調で、若い頃のデュアン・オールマンを彷彿とさせる。  
サスティーンがいつもより伸びているのは、新しい弦に張り替えてあるのだろう。ニールは真新しい弦が蛍光灯に反射するのをちらっと横目で見た。  
 
 そのままギターから視線をあげクリスを見ると、時々目を閉じ、自らが作った曲に心底惚れているような表情をしている。ニールは、懐かしい気持ちになって自然に笑みを浮かべてその光景を見ていた。  
 自分には作曲の才能はあまりない。  
それでも昔は何曲か曲を作ったりしたこともあったのだ。世界で一曲しかないその曲に陶酔し、ギターの音に酔いしれ歌詞を作って口ずさんでは自己満足に浸っていた。  
 
 そんな純粋な気持ちなんて、最近ではすっかり感じる事もなくなった。  
好きで始めたはずの音楽が、人間関係や欲、メンバーとの軋轢、音楽性の違いによりずれていく道、それらによって、いつしか『好き』だけでいられなくなる瞬間が来る。  
 最初の気持ちが純粋であればあるほど、曇った硝子のようにもう完全に透明に戻ることは難しい。気付いたときにはすっかりスモークのかかった硝子になり下がっている。  
 
 クリスは、まだ透明なのだ。  
メンバーとは色々揉め事もあるようだが、そんな物で曇る事の無い。力強さを持ったどこまでも真っ直ぐな透明。そんなクリスが羨ましくもあり、傍にいる時だけは、自分も浄化されるような気がする。  
 
 ギターソロ部分の身を削るような骨太のフレーズ、反転して鎮まるサビの泣きのメロディ。静かに幕を閉じる曲から伸びた音が次第に消え、二人のいる部屋の空気は再び沈黙した。  
余韻のある、最高の曲だ。  
 この曲に歌詞がのれば……そして、その歌を歌うのが自分であるのなら……。ニールはそこまで考えて、ハッと我に返り頭を振った。未練がましい自分に心の中で悪態をつき諫める。ありもしない未来を素早く追い払うとクリスの方へ視線を向けた。  
 
「こんな感じなんだけど……。どうかな。はっきり言って欲しい」  
 
 クリスは少し照れたように顔を上げニールの様子を窺った。  
 
「良かったぜ。俺は凄く好きだ。まだ少し荒削りだけど、完成すれば格好いい曲になると思う。初めて聴いたはずなのに……、ちょっと懐かしいような気分になった」  
「本当? ニールにそう言って貰えるなんて、安心するよ。俺も、実際これで完璧って思ってるわけじゃないんだ。もう少し音の感じを変えてみたいんだけど、そこはどうしたらいいかわからなくて……」  
「音か……。……そうだな。クリス、ちょっと今はめてるスライドバーを見せてみな」  
「え? うん」  
 
 クリスが指から抜いて渡したスライドバーはステンレス製のよくある物だ。勿論物自体は良い物で、これでも十分いい音は出る。受け取ったスライドバーを眺め、掌の上で転がす。  
 ニールは暫く考えていたが、徐に自分のギターを取り出すと、クリスのスライドバーをはめてギターに滑らせた。  
そしてその後、自分のケースから別のスライドバーを取り出すと、それでもう一度同じ音を奏でた。  
 
「どうだ? 違いがわかるか?」  
 
 何かに気付いたようにクリスが顔を輝かせる。  
 
「……!? うん!! こうやって比べて聴くと、ニールが持ってる物の方が、俺が求めてる音に近いみたい。随分変わるもんなんだな」  
「そっか。んじゃぁこれ、お前にやるよ。ちょっと重いけどな、わざと厚みがあるのを使ってるから」  
 
 ニールは自分の指に嵌めていたスライドバーをクリスの掌へと乗せた。ずっしりとした深いエメラルド色のガラスが、クリスの掌の上で綺麗に輝く。  
 
「金属製よりガラス製の方が、今聴かせてもらった曲には合うんじゃねぇかな」  
 
 基本的には金属製の方が重みがあってサスティーンが伸びやすい物だが、ニールのは硝子製でもかなりの厚みがあり、柔らかい音と深みがうまく両立出来る。  
 
「そうかもしれないな……。スライドバーの違いなんて気付かなかった。あ……。でも、貰っちゃっていいのか?」  
「あぁ、別にいいぜ。俺は、他にも持ってるから」  
 
 クリスは大事そうにそれを指にはめるとギターを再び抱えていくつかの音を鳴らしてみる。先程の曲のギターソロ部分も再度弾いてみて、嬉しそうに何度も頷いた。  
 
「凄くいいな。この曲、ニールに貰ったスライドバーで最初から弾けば、印象も変わるかも知れない」  
「そっか、良かったな。理想の音が見つかって」  
 
 嬉しそうなクリスにニールも微笑みかける。  
 
「少し俺には重いけど、慣れるように、明日からこれで練習してみる。 聴いてくれてサンキュー」  
「いつでも聴くぜ? 俺も楽しみにしてたからな」  
「そ、そう言ってくれると助かる。こうやって作った曲を、聴いて欲しいって心から思えるのはニールだけだからさ」  
「おいおい、クリス酔ってんのか?お前、そりゃ、女口説く時の台詞だろ」  
 
 クリスが顔を赤くして慌てたように立ち上がる。こっちも冗談でからかったというのに、そう素直に受け取られると少し恥ずかしいという物だ。  
 
「何勘違いしてるんだよ。ニールの才能を尊敬しているって意味であって、そ、そういう変な意味じゃないに決まってるだろ」  
「わかったって、なんでそんなムキになるんだよ。ホンっト、可愛いやつ」  
「……」  
 
 立ち上がったまままだ反論しようとしているのかと思うと、クリスはくるりと背中を向けた。  
 
「俺、……酒……、そう!酒持ってくるよ」  
「やっとかよ。早くしてくれ、干からびちまう」  
 
 ニールは冗談を言ってクリスの背中を目で追った。  
 自分より若干指が細いクリスには確かに慣れるまでは弾きづらいかも知れないが、クリスならすぐに使いこなせるだろう。  
 ビールの缶を抱えてきたクリスから、ビールを受け取る。缶ごと口を付けごくごくと飲み干すと、ニールはふぅと息を吐いた。今日は疲れることが多かったので、いつもよりビールの旨さが身に沁みる。  
 
「そういえばさ」  
 
 ニールは缶ビールを一度傾け、口元に笑みを浮かべた。  
先程のクリスの言葉で思いだした話があるのだ。  
 
「まだ俺がガキだった頃、スライドギターに憧れてて」  
「うん」  
「ボトルネックって何の瓶でもいいって聞いてたし、当時家にあった酒の瓶を割ってスライドバーを作ったんだよ」  
「あー、たまに聞くよな。そういう話。俺も最初、姉貴の指輪こっそり借りて弾いてみたりしてたよ」  
「だろ? でも、あれ、処理しねぇで割ったままだと危ねぇんだよな」  
「……え? まさか……ニール……。割ってそのまま指にはめて弾いたの?」  
「馬鹿だよな。見りゃわかんだろって話。案の定弾いてる時にガラスが刺さってさ、痛ぇし血でてくるしで散々だったぜ」  
「なんというか、ニールらしいよな」  
「それ、どういう意味だよ」  
「大雑把って意味さ。普通はそんな危険な事しないし」  
「お前な……、結構最近なんとでも言うな。俺の事」  
「あ、ごめん。でもさ、いいんじゃないかな。失敗して人は学ぶって言うだろ」  
「まぁな、確かに学んだけどよ。しかもその割った酒、かなり高級だったみたいで、クソオヤジに散々怒鳴られたんだよ。あいつ、アルコールならなんでもいいくせに、安物の酒でも浴びてろって思ったね」  
 
 クリスがそれをきいて苦笑する。ニールの父親は、若い頃バンドマンだったらしい。だから子供の頃から家にはギターが何本もあったそうだ。今ではたまにこうして父親の話を笑って話すニールだけど、ニールの父親はまだ彼が学生だった頃からアル中で、それが原因で今はもう亡くなっている。  
 
「でもさ……」  
「うん?」  
「……すげぇ、いい音だったんだ」  
 
 ニールは当時を思い出すように天井を仰いだ。  
 
「そのガラス瓶のボトルネック?」  
「ああ。あの音が忘れらんなくてよ、今までもずっと、ガラス製のスライドバー探しまくって……。やっと見つけたのが、さっきお前に渡したやつ」  
「え、……そんな大切な物なら、やっぱり貰えないよ」  
「あー、違う違う。あれ一個じゃねぇから、同じの何個も持ってんだよ」  
「そうなのか? ならいいけど。大切にするよ」  
 
 もう一度先程ニールから貰った物を取り出してよく見てみると、確かに年季が入っていて、弦に当たる部分は細かな傷がついていた。  
ずっとニールが愛用していた物なのだと思うと、嬉しさもひとしおだった。クリスはそれを一度ティッシュにくるんでから、ギターの横へと置いた。  
 
 自分も持ってきた缶ビールにそのまま口を付け半分ほど飲み干す。つまみは家にあったポテトチップス激辛味だけだ。辛い上に味が濃いので、ビールがすすむ。  
ニールの大好物であるこれを常備するようになったのは、ニールがいつ来てもいいようにだ。本人には、「自分も好きだから」と言ってあるけれど。  
三枚ほど重ねたまま口に放り込むと、辛さで舌が痺れる。クリスは二本目のビールを流し込んで辛さをごまかすと、ニールへと振り向いた。  
 
「ニールさ」  
「……ん??」  
「何か、あった? 今日」  
「何かって、なんだよ」  
「うちにくるって電話してきた時から、ちょっと様子が違ったから。気になってて……。言いたくなければ聞かないけど」  
「……」  
 
――最初からじゃねぇか。  
 
ニールは思わず苦笑した。表には出さないように気をつけていたはずが、クリスの前ではすぐに見透かされてしまう。  
隠しても仕方がないし、バンドの助っ人の件もあるので、クリスには最初から頃合いを見て切り出すつもりだった。ニールは「鋭いな」と小さく笑って、取り出した煙草を一本咥えた。  
同じように煙草を咥えたクリスが自分の分と一緒に火を点けてくれる。  
ふぅと煙を吐き出すと苦々しい顔で話出した。  
 
「酒の肴にもなんねぇような、つまんねぇ話さ……。マットが、また薬に手を出してやがった」  
「……え?」  
 
 クリスが驚いたように目を丸くする。  
 
「嘘だろ? だって、前に揉めたとき、きっぱりやめたって……」  
「一時期はな、でも、またやってたんだ」  
「……今度も、ヘブンスだったのか?」  
「多分。俺も、やってる現場見てねぇから100%とは言い切れねぇけど」  
「証拠があったとか?」  
「あいつさ、今日もまた練習に来なくてよ。俺が家まで連れに行ったんだ。ヤツの家に入った瞬間、薬みてぇな匂いがして……。練習中に様子がおかしいから問い詰めて、腕みたら……案の定ヤクやった痕が残ってた」  
「……そんな」  
「冗談みてぇに、前と何もかも同じさ。あいつ、いつからあんなに馬鹿になったんだろうな。……ゴミ以下に成り下がりやがって……」  
 
 ニールはマットの静脈注射の痕を思い出して悔しげに息を吐いた。クリスは何と言葉を返したらいいかも分からず視線を落としていた。  
身近なメンバーがクスリに墜ちていくのはやりきれないものがあるのだろう。  
 
 ヘブンスとは隠語みたいなもので、ここ数年若者の間で流行っている合法ドラッグの一種である。捕まる事がないのをいいことに、その流行が今も続いていた。  
いくら合法ドラッグと言ってもその範囲はとんでもなく広く、ヘブンズはその中でもかなり黒に近いグレーゾーンだという話である。近々禁止令が出るという噂があるが、それが抑止力になっているとは到底思えないほどはびこっているのが現状だ。  
ヘブンスは名前の通り、天国にいるような気持ちの良さだというが、中毒になり度を過ぎれば当然本物の天国逝きである。 
 
「……ニール……、その……」  
 
 マットと長年の付き合いがあるニールを慰めようといくつか言葉を探すけれど、いい言葉が思い浮かばなかった。何度か話したことのある自分より、ずっとショックを受けているはずだ。  
クリスが言葉を続けようと口を開きかけた瞬間、ニールから思いも寄らぬ事を告げられた。